魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

兄弟関係 2

2007年06月22日 | 兄弟関係

三匹の小ブタ」の、馬鹿な兄と賢い末っ子のパターンは、世界中の伝説や物語に共通してみられる。(兄弟関係1)
いじめられていた末っ子が最終的に勝者となる。大国主命もそうだし、海幸山幸、聖書、千夜一夜やシンデレラもそうだ。世界の民話にも多く見られるから、人類の共通認識としてあるのだろう。
では、長子というものはそんなに貪欲で間抜けな甚六なのだろうか。
なんでこういう話しが生まれたのか、原点から考えよう。

まず、誰によって語られたのか。
親が語った場合
親は未熟で手の焼ける末っ子を最も気にかけて可愛がる。子供をかわいいと思うのは、自分が居てやらなければという自分の存在理由となるからだ。同時に自分の敵にはならない安心感もある。上の子はすでに自活し、時には自分に対抗してくる。親にとって末っ子は永遠の赤ちゃんであり、度が過ぎれば、成長した子供に殺されることさえある。
そんな親が、物語を語った相手は末っ子だ。なぜなら、すでに上の子が存在する話しであり、手本がなく試行錯誤で成長する上の子が失敗を繰り返すのに対し、下の子は常に賢い選択をする。親は末っ子を「小さいのに賢い」と思っているし、可愛いから元気づけたい。
もちろん、親によっては冷静に判断し、上の子の試行錯誤と努力を認める親もいる。それは親自身が長子の場合だ。
しかし、人類史的に長子と下の子の比率は圧倒的に長子が少ない。
つまり、社会心理は常に長子的になるわけだ。

小ブタが語った場合
小ブタが大人になって昔話をしたとしよう
長男ブタは兄弟との比較話はしない。レンガの家に到達するまでの試行錯誤のプロセスと、その感動話をするだろう。
次男ブタは兄に協力し、最後に成功したのは自分のアイデアがあったからだと言うだろう。
そして、例の「三匹の小ブタ」の主人公、末っ子ブタの話しだけが残る。兄達はみな死んでしまったからだ。

実際はどうであったか、ブタではないから知らない。
それに、本当のブタ兄弟は同時に生まれるから上下などない。

しかし、なぜ、末っ子ブタは突然レンガという建材を持って来られたのだろう。つまり、この話しに欠けているのは前段階のプロセスだ。こういう「先人のお陰」を意に介さないところも、末っ子的視野のストーリーと言える。

こういう話しが、長く多く語り続けられるのも、それが喜ばれるからであり、人間社会そのものが、長子的な考えで成り立っているからだ。

長子は初めから親と同じ存在になろうとする。偉くなりたいのではない、ただ大人であろうとする。自己循環の独立独歩で生きる。
下の子は親や長子を、保護者であり抑圧者であると受け止めるから、早く自分もその力を持ちたい偉くなりたいと思うが、それは表面的な憧れで、親や長子の孤独については思い至らない。(ついでに言うと、長子は孤独を感じない)

当たり前の存在
この関係は、ちょうど自然と人間の関係に似ている。
自然は何の意図もなく、それ自身の営みのために存在しているが、自然の中で生まれた人間は、自然の恵みに依存しながら、自然の営みによる災害を恐れ、自然を克服の対象と考え挑み、自然からのしっぺ返しを嘆く。

自然と人間の関係は人間次第だ。人間が勝手な自然改造や搾取だけ考えれば自然に反撃されるが、恵みに感謝して付き合えば惜しみなく与えてくれる。
人間がこうもノーテンキに自然攻撃ができるのは、実際に叱られるまで突っ走る次三男魂こそが、人類の基本思考だからだろう。
行き詰まると、昼行灯の甚六の出番になるが、苦しい時の神頼み。味の悪い薬は用が済めばまた兄ブタになる。