魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

マネーよりマナー

2007年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

おまえが言うな
CMは変容宮でも触れたが、「マネーよりマナー」は笑えないギャグだ。泥棒に「ウソは泥棒の始まりだぞ」と説教されているようで、無性に腹立たしい。
洪水のような金貸しのCMが問題視されると、「正義の仮面」で現れた。これを「偽善」と言う。
しかし、あれだけ大声で毎日、茶の間で連呼すると、世間への影響力は大きい。近頃、「マナー」云々の話題や、TV番組が増えてきた。

マナーの心意気
マナーや、作法は「形骸」であり、水瓶座の得意とするところだが、崩壊直前の作法はむしろ魚座だ。
mannerは作法と訳されているが、「一人前の大人らしい」と言う意味だろう。社会構成員として従うべき心得ということだろうが、いつも「形」だけで理解されている。
だいたい、何でもそうだが、形式や体面を言い出す時は、すでに中身は腐っている。
企業、官僚、国家・・・世の中全体が活力に満ち、前向きに変化している時は「形」を作ることができない。成長が止まると過去の財産に食らいつく連中が支配権を握り、形式維持を仕事にする。もともと、役所や大企業に就職しようという動機に開拓精神はない。
組織が完成すると、そこに安定志向の人種が集まり、その連中が実権を握る10~20年後に腐り始める。
90年代の大組織の醜態は、歴代中国の宦官や賄賂による内部崩壊と同じだ。社会保険庁も腐ったスイカを今更どう始末するかという話しだ。

良い状態を形で維持しようとする、マナーや作法は、その中身の活力や心がけを学ぶことが目的であり、時に、その形すら破壊する力を持たなければならない。
安定志向の形式主義で、かつ「優秀」な人間がマナーや作法を行うと、見事な形はできるが、弊害をもたらす「うるさい形」を取り除くことができなくなる。
優秀」な人材がアリのように集まる大組織とは、決して、自ら弊害を取り除くことのできない組織なのだ。

このたび、裏千家家元があぐらの「座礼式」を提唱しているそうだ。これは家元だからできることであり、官僚組織のお客さんのような大臣には不可能なことだろう。
今こそ、本当に、議会制民主主義など、国家の形そのものを根底から立て直す維新の時が来ている。そして、さらに大局を見れば、国家の放棄ということから考え直さなければならない時なのだろう。