魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

名前の品格

2007年06月07日 | 占いばなし

名は体を表す
「名前の力が実態を生む」という姓名判断は信用しない。
しかし、「実態と名前は一致する」ことは、かなり信用する。これはマンダン占星術、観天望気、共時性に通じる考え方で、世相史観の基となる。
名前は色々な思いでつけられるが、結果は「現れるべくして現れた」名前になる。つまり、誰しも無自覚のうちに星に支配されて名前をつけているわけだ。(表面が違っても星の意味は同じ)

一方で、表面的には異なる個々の名前には、命名者の本音や品格が現れる。
なぜ、車の名前はカタカナなのか。
戦後の工業製品名はたいていカタカナだった。舶来 コンプレックスと、輸出手段としての姑息さや、現実の厳しさを知ることができる。
経済や技術に自信ができると、かなり和名が現れるようになったが、いまだに車の名前に「雷電」や「紫電」「隼」などは現れない。もしかすると、国産飛行機用に温存しているのかも知れない。だとしても、高級車に「大和」や「桜花」でも良いではないか。「シーマ」と言われると「せん」と続けて言いたくなるし、「レクサス」にaをつけて「あれ、くさす」。

日本人が、外国風カタカナに迎合しているうちに、外では「トヨタ」や「ホンダ」の方が主流になった。世界では単純明解な信念がものを言う。日本語でいいのだ。

菊とカタカナ
だから、企業名にカタカナやアルファベットが増えたことを国際化とは喜べない。車のカタカナ名に姑息や卑屈があるように、カタカナ会社や役職には「ごまかし」が込められている。

会話でも、カタカナ語を乱発する人は、自分自身が感覚的にしか理解していない。実態を理解していれば簡単に日本語に置き換えられるはずだ。
カタカナ語は、自他ともにごまかしの薄め液として作用する。
しかし、実は漢字にもその要素はあって、戦前の言葉が漢語的であったことと、今のカタカナ語的世相とは通じ合う。
つまり、いずれも観念的、サイバー的な理解の中で暮らしているわけだ。

日本人が、本音のところで理解するのはやっぱり「和語」だが、近頃は歌のせりふにも漢語が多い。英語は言うまでもない。
「すき」や「ほれた」より「愛してる」が主流だ。「アイシテル」が「アイラブユウ」に似ているからかも知れない。
ただ、いささか疲れてきたのだろう、方言が見直されている。方言は意外と漢語起源が多いが、古語や古音を残しているので、あぜ道のように癒される。
どんなに外来語が入ろうと、底流には日本語が流れている。日本語は元来、混血語で、雑草のような強さがあり、外来語を飲み込んでしまう。
近頃、「欧米か!」が受けていることに、日本文化の自信が甦っていることを喜ぶ反面、ナショナリズムの反映かとも思い複雑だ。

話が脱線したが、そんな背景を考えながら、名前を見ていると、会社の名前は実態を表しているとしか思えない。

グッドウィルのコムスン
初めて聞いた時、直感的に「インチキ会社だ!」と思った。
後で知ったことだが、グッドウィルとは世界的な公益企業の名前で、それをちゃっかり利用した「豊田商事」方式だ。
また、コムスンの創始者はどう思っていたか知らないが、サムスンを連想させる。福岡だから潜在意識が皆無とも言えまい。「ミニ寸」を連想させる、なんともセコい響きだ。
(サムスンやトムスン、ハドソンのように、固有名詞を連想させない)

グッドウィルの折口氏と、豊田商事の永野一夫はともに三碧だ。
実態の全くない豊田商事とは比べられないが、実業より、世相に波乗りする点では共通して三碧だ。

介護のコムスンを知った時。「これがまさに天王星、魚座時代の泡沫会社だ」と思った。かつ消えかつ結ぶ