転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



漢詩の会に通い始めて、頼山陽のマザコン三部作を知ったわけだが(笑)
その後も、山陽の漢詩を先生がいろいろと取り上げて下さっていて、
次回もまた、彼の作品を続けて読むことになっている。
それで、こういうつながりが、せっかく持てたのだから、と思って、
先日、見延典子氏の歴史小説『頼山陽』(上)(下)を買ってみた。
今、ちょうど上巻を読み終わったところなのだが、
大変読みやすい文体で、しかも非常に詳細に調べて書かれていて、
漢詩の会で取り上げられた詩のうち、いくつかについては背景もよくわかり、
今の私にとっては、まさに『出会い』の本だった、と大変感謝している。

頼山陽は母方の実家のある大阪で生まれ、後に京都で活躍した人ではあるが、
幼少時から青年期の初めまで広島城下で育ち、父方の生家は竹原市にあり、
広島県内には、彼の関連のある場所が今でもたくさん残っている。
運良く、今私は広島市内に住んでいるので、
そのうち時間のあるときに、いくつか見て回りたいと思ったりしている。

さしあたり、天気の良い平日に気軽に行ってみられそうなのは、これ↓だ。
頼山陽を知るなら、ここから始めるべきだろう。
頼山陽 史跡資料館
ちょうどこの秋には、頼山陽の「書」が多数、展示されているそうで、
日によっては学芸員さんの解説を聴くこともできるようだ。
……「学芸員」に憧れる娘を誘って、行ってみようか(^_^;)。

頼山陽の父親の生家は今の竹原市にあって、紺屋を営んでいたそうで、
今も、その一部は史跡として見学できるようになっている。
安芸の小京都 きてみんさい竹原(竹原観光案内)
頼惟清旧宅
重要文化財 「春風館」
「復古館」頼家住宅

また、頼山陽が若い頃に身を寄せた、菅茶山の邸宅が
福山の神辺にあって、こちらも見学可能となっている。
菅茶山の詩も、漢詩の会では既に数多く取り上げているので、
こちらはこちらで、頼山陽とはまた別に興味深い漢詩人でもある。
郷土の誇り 菅茶山(神辺町観光協会)
廉塾ならびに菅茶山旧宅
菅茶山の墓

頼家の墓は、広島市内南区比治山の多聞院にあり、
山陽の両親や叔父・長男などの墓がある。
戦後に再建された山陽文徳殿も多聞院に隣接した敷地にある。
比治山多聞院

ほか、山陽の父・頼春水が、浅野長晟(ながあきら)の命により、
『縮景園』の園内名勝に、漢籍の素養をもとに様々な名をつけたことが、
今も記録されているので、これらももう一度、味わう機会が欲しいと思っている。

縮景園
縮景園造園の際、藩主・浅野長晟は、
文化元年(1804) 頼春水らに園内名勝三十四景の名称を付けさせる。
文化3年(1806) 頼春水に「縮景園記」の執筆を命じる。
文化4年(1807) 頼春水「題縮景園詩五首」を詠ず。

広島市内にはこのほか、至るところに頼家由来の史跡があり、
また宮島や鞆の浦など、山陽の立ち寄った場所として知られたところも、
今後、訪ねる機会が得られたら、今までとは違う感慨を持って、
その風景を眺めることができるのではないかという気がしている。
特に、仙酔島と海の風景を、できれば時刻を変えて眺め、
その色彩の変化を楽しみ、山陽の詩の世界に心合わせてみたいものだ。

鞆の浦・仙酔島(福山市)

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頼山陽は、最初から、三都(江戸・京・大坂)のいずれかに出て
文筆で名を上げたい、という夢を持っていて、
若い頃には命がけの脱藩を企て、それを実現しようとしたほどだった。
大風呂敷を広げると、しばしば非難された山陽だったが、
どれほど周囲の不興を買おうとも、彼はまた有言実行の人物でもあって、
彼はやがて京都に居を構えて『山紫水明處』と名付け、
歴史書『日本外史』を世に送り出すことになった。
京都観光の中心と言えるような史跡とは違うが、
山陽の書斎のあったこの家にも、私はいつか行ってみたいと思っている。

山紫水明處
京都市上京区東三本木の山陽の書斎。

頼山陽の墓所は、本人の遺言により京都東山の長楽寺にある。
京都東山 黄台山長楽寺

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