スカーレットは、その人生の途上に何が起きても、
自身はいかほども傷つかず、常に破格のバイタリティを持って生きている。
『明日になれば』というソロナンバーに象徴されるように、
彼女は過去を省みてくよくよすることも、
思い出を温めて自分を慰めることも好まず、
日々新たに、前だけを見つめて暮らす力を、生来、与えられている女だ。
そんな彼女の愛した男がふたりいて、
ひとりは夢の中の貴公子であるアシュレ・ウィルクス、
もうひとりが、彼女が最後にその価値に気づいた風雲児のレット・バトラー。
このふたりは、外見的には、正反対の存在として描かれているが、
その実、本質的なところでは、同じ人物の表裏と言っていいくらい、
同質の部分をしっかりと共有している。
スカーレットがこのふたりに惹かれ、
ふたりともを失うのは至極当然のことなのだ。
・・・ということが、今回の宙組公演『風と共に去りぬ』を観ていて、
よくわかった。
レット・バトラー(和央ようか)が、ほとんど終わりのほうの場面になって、
スカーレットに別れを告げるところで、
『自分は、壊れたかけらを辛抱強く拾い集めて糊でつぎ合わせてしまえば、
新しいものと同じだと考える人間ではない。
むしろ、新しかったときのことを思い出しながら、
壊れた様子を眺めていたいのだ』
という意味のことを言ったとき、一挙に、私の目の前で、
ここまでのいくつかの場面が一貫した大きなひとつの流れになった。
レットの、この台詞こそ、物語の様々な場面で、何人もの登場人物が、
さりげなく語った、この作品のテーマに他ならなかったからだ。
例えば、敗戦後の再建時代の南部を見て嘆く仲間に、ルネ(悠未ひろ)が、
『もう嘆くのはよそう。目を閉じてご覧。
僕には見えるんだ。昔のままの南部が』
等と言ったこと。
また、あるいは、ケネディ雑貨店を訪れたスカーレットに、アシュレが、
『覚えているかい?』
と囁いて、もはや戻ることのない輝かしい青春時代や、
永遠に失われた、幸福に満ちた南部の光景を語った(歌った)こと。
これらはすべて、結末のところで、レットの別れの台詞に繋がるのだ。
「思い出の中でしか生きられない」「過去を振り返ってばかり」
とスカーレットが軽蔑して来た、古い世代の南部人たちの想いを、
よりによってレット・バトラーが、
最後の最後になって体現して見せたのだ。
実は原作を丹念に読めば、この流れは詳述されている。
スカーレットの本性を面白がり、彼女と同じ目で世の中を眺め、
南部人の貧乏をせせら笑って暮らしてきたレットが、
本当は、伝統的な南部の上流階級で育まれた男そのものであったこと。
また、南部の紳士として高い教養を身につけたアシュレが、
その枠から大きく外れている筈のスカーレットに心惹かれ、
彼女の本質的な美点を見抜き、絶えず賛美したことは、
レットの言動と、ある意味で常に表裏であったこと。
更に、このような人間たちは、
古き良き時代の南部と訣別しては生きていけないこと。
そして、それはスカーレットのような女には共有できない、
独特の世界観であるということ。
和央ようかが、あの限られた出番と制限付きの台詞の中で、
このテーマを鮮やかにすくい取って見せたことには、
今回本当に驚嘆したし、
そこにつなぐように演じた、初風緑や悠未ひろ等の力量にも感服した。
特に、今回は、アシュレと表裏一体であることの面白さの中に、
バトラーの存在の妙味があったように思われてならない。
そう見えたのは、和央ようかと初風緑が、「巧かったから」、
と言う以外に、今、私には良い言葉が浮かんで来ないのだが、
ほとんど同じ場面に出ていないのに、
あのふたりの呼吸の合わせ方は絶妙だったと思う。
外見は反対でも、実はバトラーとアシュレがよく似ているからこそ、
ふたりともスカーレットに惹かれ、スカーレットもまた、
このふたりの男を愛するのだ、という説得力が非常にあった。
あの名作と誉れ高い映画版でさえ、なかなか、
このような切り口を堪能させてくれるほどの出来映えには
なっていないのではないかと私は個人的に思う。
世間的には「風共」の面白さはスカーレットのキャラクターに有り、
南北戦争前後の南部の風景や南部人の誇りの話などは単なる背景、
と思っている人のほうが、多いのではないだろうか。
あの世界を成立させて見せてくれた和央ようかには完全に脱帽だ。
イタいファンと笑いたければ笑って下さい(^^ゞ。
多分、大劇場主演歴4年の彼女だから、出来たのだ。
どんなにルネが名演でも、アシュレが絶品でも、
最後にバトラーがそれを受けて立たなかったたら、
「風共」は単なる男女の悲恋もので終わるところだったのだから。
巧い、巧すぎる。
やはり、今回の感想は、これに尽きる。
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