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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



「どぞ」
と数日前、主人が貸してくれた本が、コレだった。
同期生  「りぼん」が生んだ漫画家三人が語る45年
(一条ゆかり・もりたじゅん・弓月光)

1967(昭和42)年に、集英社「第一回りぼん新人漫画賞」で
一条ゆかり・もりたじゅん・弓月光が、同時に入賞、デビューした。
この本では、その三人が、きょうまでの45年間、
それぞれ独自の道を歩み、印象的な作品を数多く生み出したことが、
ご本人の証言をもとに語られているのだが、
私自身、リアルタイムでこうした作品に触れた世代なので、
作家自身から明かされるデビューの経緯や、当時の逸話は、
初めて知ることも多く、大変興味深く読むことができた。

昭和40年代には私は小学生で、田舎で地味な暮らしをしていたので、
漫画雑誌もたまにしか買って貰っていなかった。
そもそも、私が中学校に入る頃までずっと、
うちの村には書店というものが存在していなくて、
電気屋さんのおじさんが、月に幾度か、バイクで村じゅうをまわり、
前回注文のあった雑誌や書籍を配達する、
という謎な(笑)仕組みになっていたのだった。
それで連休などに、両親と一緒に自家用車で町まで買い物に出たとき、
本屋に寄ると、巧い具合に漫画を買って貰えることがあって、私は、
「りぼん」か「なかよし」か、店頭で懸命に吟味して選んだものだった。
とは言っても、こうした雑誌は付録つきで、いつもヒモがかかっており、
中身を開いて立ち読みすることは無理だったから、
表紙に出ている作家名とタイトル、イラストを穴の空くほど見て、
どちらの雑誌が面白そうか、考えて選んでいたのだった。

そこで最初に出会ったのが弓月光『出発シンコー!』(1974年)で、
それまでの少女漫画で見たこともない下品な(笑)設定と、
テンポの良いギャグ、それに綺麗な絵とに、私は強烈に惹きつけられた。
主人公の久作くんのイボ痔が悪化して尻尾になった、
という仰天ものの話で、一体この物語はどう決着するのかと目が離せず、
自分が買って貰えなかった号は友達を頼って見せて貰った。
また、ヒロインの乙女ちゃんが本当に可愛くて気に入ってしまい、
自由帳に一生懸命真似をして描いたりもした。

その次に衝撃を受けたのは、一条ゆかり『デザイナー』(1974年)で
これは連載第二回目(りぼん74年3月号)を友人の家で読み、
あまりにハマってしまったので、5月の連休に親と出かけたとき、
頼み込んで「りぼん」を買って貰い、数ヶ月ぶりに続きを知り(笑)、
その次は夏休みに買い物に行ったときに、また数ヶ月ぶりに読み、
最後は、年末に母が町の美容室に行ったとき、ついていったら、
たまたま「りぼん」が置いてあったので、待ち時間に食らいついて読んだ。
この作品の結末は、小学生だった私には強烈過ぎ、
その日は結局、正月用のパーマが仕上がり華やいだ母と、
『デザイナー』に打ちのめされて廃人のようになった小学生の私、
という組み合わせで、家に帰った(爆)。
この『デザイナー』は、その十年後、大学生になってから、
りぼんマスコットコミックスを自分で買って、
初めて通して読むことができた。

この両名に較べると、もりたじゅんには私はやや接点が少なく、
同期なのになぜだろうと思っていたら、
もりた氏はデビューは「りぼん」だったけれども、
上記『出発シンコー!』『デザイナー』連載の時期には、
活躍の場が「週刊マーガレット」に移っていたことが、
今回『同期生』を読んでいてわかった。
「週刊マーガレット」は、『ベルサイユのばら』『エースをねらえ!』
の連載当時には、そろばん塾の帰りに八百屋さんで立ち読みしていたので、
72~73年頃ならば私はある程度馴染みだったのだが、その当時にはまだ、
もりた氏は「りぼん」の作家で、74年以降、私が「りぼん」に移行した時には、
今度はもりた氏は「週刊マーガレット」で活躍なさっており、
ちょうど、入れ違いになっていたのだった。
その後、80年代半ばになってから、私が下宿での一人暮らしを始めた頃、
近所のスーパーで、レディコミ黎明期の雑誌「YOU」を立ち読みするようになり、
そこでもりたじゅんと、久々の再会をするのだったが(汗)。

弓月氏は、その後もずっとコメディを主体として話題作を次々と描かれ、
『エリート狂走曲』(77年)には私も特に熱中した
(80年に高校生になってから、友人にコミックスを借りて読んだのだが)。
その後は青年誌で描かれることが増えて、
私は直接読む機会が減ってしまったのだが、
『甘い生活』(90年~)はそんな私でもちゃんと知っているので、
弓月氏の人気と影響力を、この本を読みながら、改めて感じた。

一条氏にも、『有閑倶楽部』(81年~)で再びハマり、
そのまま、テンションと人気が何年も何年も続くので、
息の長い作家さんだなという印象が、この時点で既にあったのだが、
21世紀になっても、新たに『プライド』の大ヒットがあり、
更にその『有閑倶楽部』がテレビドラマになり、うちの娘が観ていたりして、
このように長期間、少女漫画の第一線で活躍されているというのは、
大変なセンスとバイタリティの持ち主なのだなと、圧倒されたものだった。
「この作者は、おかーちゃんが小学校低学年の頃から大人気だったんだよ~」
と言ったら、娘が本気で驚いていた。
娘世代にとっても、一条ゆかりは流行作家の筆頭だったのだから。
かの『デザイナー』は、一条氏にとっても大きな転換点となった作品だと、
今回の本で知り、私はそのような作品と連載当時に出会えていたことを
改めてとても嬉しく思った。

もりた氏が引退なさっていたことは、この本で私は初めて知った。
夫君の本宮ひろ志氏のプロダクションでは、お仕事を継続されているが
「もりたじゅん」名義では、完全引退を表明なさっており、
この6年ほどはもう、作品は描かれていないとのことだった。
お話の内容に関しては、私自身は、もりた氏に共感するところが最も多く、
「りぼん」の「おとめちっく」路線が理解できなかったことや、
昨今の少女漫画に衰退を感じることなど、本当に同感だった。
また、もりた氏は、漫画家としてお忙しかった頃すでに、主婦であり母であり、
生活や育児に関する述懐も、私が日々持っている実感に通じるものがあった。

どの作家さんについても、この本で改めて話題に出されていたことで、
この機会に読み直してみたいと思った作品が、いろいろあったし、
一方では私がこれまで知らなかった作品もまだまだたくさんあり、
その中には新鮮な興味を感じたものもいくつもあった。
かつては、まったく同時にスタートした三人だったが、
その後45年の漫画家人生では、それぞれの道をみつけ、
ひとりひとり、目指したものを各自のかたちで実現して来られたわけで、
皆、ご自身のお仕事を果たし続けて、今日があるのだと思った。
その軌跡を、今になってこうして振り、
その時代の真っ直中に、自分もまた一緒にいて、
様々な漫画を通して、読者として同じ時間を共有していたのだと考えると、
実に実に、感慨深いことだった。

……それにしても、私の思い出はこうして見ると、
「立ち読みした」「借りて読んだ」が多過ぎる(^_^;。
それだけつましい暮らしだったし、小学生には何も自由にならなかったのだ。
その罪滅ぼしというわけではないが、大人になってからの私は、
大切だと思う漫画は、ちゃんと新品で買って、手元に置いている。
数々の、懐かしい昭和の作品も、愛蔵本や文庫本で探して買った。
そうした蔵書を、今や娘が読んで、更にお友達に貸し出したりしており、
漫画は読み継がれ、いつかまた「子供の頃、家にあった」とか、
「友達から借りて読んだ」等々と、思い出され、愛されるようになるものも、
この中にたくさんあるのではないかな、と思ったりした。

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天気が落ち着いているようだったので、朝から洗濯して掃除して、
それから支度をして家を出、舅姑のお墓に向かった。
途中の西広島バイパスの気温表示を見ると、27℃となっていたが、
墓所に着いてみると、山ではツクツクボウシがたくさん鳴いており、
相変わらず残暑の雰囲気だった。
ドライフラワーに成りはてたモノを生花と交換し、
お灯明をつけてお線香をあげて、お参りした。
きょうのように、お盆やお彼岸でない平日では、
私のほかに誰も来ていなかった。

さて、それで市街地に戻って来たら、ちょうど11時だったので、
この際だから、映画『ジェーン・エア』を観ることにした。
(なぜこの映画に目を留めることになったかの経緯は、こちら)。
こんな地味な映画を、平日の昼前から観る人は居るだろうか、
と考えた私は大いに誤っていて、行ってみたらかなり込んでいた。
『ジェーン・エア』という作品の位置づけに関して、
私は認識を改めなければならないかもしれない、と反省した(^_^;。

************

映画『ジェーン・エア』公式サイト

私の、遙かな記憶にあった通りの物語だった。
これまで私は映像化された『ジェーン・エア』を観たことはなかったが、
空の色も、お屋敷の暗さも、ジェーンの表情も、
ほとんど何もかもが、私のこれまでの想像とぴったり重なっていて、
原作の空気に対し忠実に、映画化された作品なのだろうという気がした。

同時に、観ながら私は、自分が中学生の頃にはあまり重視していなかった、
19世紀のイギリスと、そこに生きたジェーンの姿を、改めて感じた。
家庭教師としてのジェーンが、生徒のアデルに地球儀を見せながら、
大英帝国は海の向こうまで征服していると教える場面があるのだが、
そのように華々しい時代にあって、ジェーンはこの段階でなお、
狭く閉ざされた世界でしか、生きることを許されていなかった。
社会の中で、女性の居場所は極めて限られており、
ジェーンの境遇では、生涯、男性と触れ合う機会すらない、
ということも、大いにあり得たほどだった(と彼女は台詞で言っている)。

彼女の雇い主であるロチェスターは、初めて彼女の挨拶を受けた晩に、
『家庭教師には不幸な身の上の女が多い』という意味のことを言うのだが、
あの時代、職業を持って働く女性というのは、ほぼ例外なく、
父親や夫の庇護のもとに暮らすことのできなかった、
「不幸な」人ばかりだったというわけだ。
ジェーンは自立した女性であり、このあとのロチェスターの求愛に対しても、
魂と魂は対等であると、臆することなく述べていて、
時代背景を考えるならば、ジェーンが破格の存在だったことが伺える。
彼女は、「幸福な」女には決してできないことを、
自分の手で掴み取ろうとしていた、能動的で新しい女性像だったのだ。

そして、そのロチェスターの所有するソーンフィールド館は、
広大な敷地にそびえ立つ、由緒正しく荘厳な邸宅であったが、
そうした上流階級でさえも、現代の基準から言えば、
電気もガスもない、原始的で粗末な暮らししか出来なかった。
当時の人々はそれしか知らなかったのだから、
主観的には格別な不足感はなかっただろうとは思うが、
一方で、そうした環境の中で健康を損なわれることも多かったはずだ。

日が暮れれば誰もが蝋燭を灯し、燭台を片手に手探りで歩き、
風の吹き荒れる夜には、暖炉の炎で温まる以外には暖を取る方法がなく、
それはおよそ、心身ともに頑健でなければ耐えられない生活ぶりだった。
冷え冷えとした風景と、灰色の空、満たされることの少ない暮らし、
じっと耐えることでしか日々を過ごすすべもない年月、
こうした設定は、19世紀当時のイギリスでの、
ジェーンとロチェスターの前半生を象徴している。

そのような人生だからこそ、彼らがたったひとつ追い求めたのは、
人の温かさや、手のぬくもりだったということなのだろうと思う。
ジェーンは、自分の心を初めて温めてくれた男性として、
ロチェスターを深く愛し、最後に彼の元に戻ることを自ら選ぶのだし、
再会の日には既に変わり果て、盲目となっていたロチェスターもまた、
無言で触れて来た相手の手を握り、頬に触れるだけで、
それがジェーンの温かさだということを瞬時に理解するのだ。
彼らが互いに抱く愛情は、現代の私達が想像するよりももっと、
切実で純粋なものだったのではないか、という気がした。

************

……というわけで、私が、昔読んだ訳本の思い出をなぞるようにして
映像の世界を堪能し、時代の流れというものにも思いを巡らしているうちに、
やがて原作の記憶に近いタイミングで本編が終わり、
エンドロールが流れ始めた。
いや~、悪かないけど、しかしやっぱり重苦しい話だったよなぁ……、
と思いつつ、ふと視界の片隅で動くものがあったのでそのほうを見たら、
なんと、私の隣の女性が、静かに涙をぬぐっているのだった。
そして、外に出てみると、廊下には次の上映を待つ人達が、
既に大勢詰めかけており、切符売り場にも次々と人の列ができていた。
うむ。やはり、『ジェーン・エア』という作品の位置づけに関して、
私は大いに認識を改めなければならないようだ、
……と、再度、思った(^_^;。

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やっと観に行くことが出来た(^_^;。
映画『ヘルタースケルター』公式サイト

原作を知っていたことと、寺島しのぶちゃんが出るということで、
制作が決まったときから注目していた映画だったのだが、
実際に観たら、もう沢尻エリカが綺麗で綺麗で感動モノだった。
「りりこ」があれほど圧倒的に美しいからこそ、
この映画に説得力が出るのだし、破滅に向かう迫力も増すのだ。
「ママ(=多田寛子)」は原作よりずっと美人だったが(笑)
桃井かおりの独特のムードと声音で、これまた決定版だと思った。
細かいエピソードは端折られていたが、ほぼ原作通りの展開だったし、
クドくて豪華絢爛な撮り方も蜷川実花氏ならではで、ぴったりだった。

しのぶちゃんは、トップスターりりこ(沢尻エリカ)のマネジャーの
羽田美知子の役だったのだが、これがあの舞台『私生活』
美女アマンダを演っていた人と同一人物だとは、到底思えない、
物凄いハマり方で、ほとほと感心してしまった。
美知子は、容姿も性格もおとなしい女で、
りりこに憧れ、彼女の言うなりになっているように見えるのだが、
恋人の伸ちゃん(綾野剛)や検事の麻田(大森南朋)に
『りりこさんは私が居ないと何もできない』
と嬉しそうに繰り返す彼女は、不気味なほどの独占欲を見せている、
と私には思われた。

いつも思うことなのだが、しのぶちゃんは声が意外と(笑)可愛いので、
毒のある台詞を言っても、空恐ろしい本性を覗かせる演技をしても、
それが即座にはエグくならない、という面白さがある。
そのぶん、じんわり効いてきて、結構長く後を引くのだ。
今回の美知子も表面的には、りりこに巻き込まれて狂わされた、
被害者か犠牲者のように描かれているのだが、
その実、りりこを自分ひとりのものにしたいと強く願った、
美知子自身さえ直視しなかった本音が、
観る者にだけ、深いところで了解できるようになっていたと思う。

しのぶちゃんと、かつて映画『ヴァイブレータ』で共演した大森南朋が
今回は、りりこと彼女の主治医・和智久子(原田美枝子)とを追う、
麻田検事という重要な役で出演していたことも、感慨深いものがあった。
『ヴァイブレータ』は2003年だったから、もうあれから十年近くになるのだ。
麻田検事は絶えず詩的で哲学的な言葉を呟いていて(笑)、
劇画ならともかく、実写にすると浮きがちな設定のキャラクターだと思うが、
大森南朋の持ち味は、絶妙なバランスで合っていたと感じた。
ああいう非現実的な語彙の台詞の中で、麻田という男の人間味を出すのは、
非常に難しかったのではないかと想像しているのだが、どうだろうか。

思い出深いといえば、挿入歌のひとつに、
戸川純の歌う『蛹化(ムシ)の女』が出てきたことにも、ちょっと感動した。
愛らしく孤独で、ふらふらで(笑)、そしてひどく退廃的なあの歌が、
不思議なほどこの映画に寄り添っていて、
原作の書かれた当時のバブリーな時代感覚と、2012年現在とを繋ぐ、
魔法のような旋律として、私には感じられた。

(PV)戸川純 蛹化の女 (YouTube)

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できることならヒロインと結ばれてほしかったアニメ・コミックの男性キャラクターランキング(ZAKZAK)
『アニメやコミックにおいて登場人物の恋愛模様は作品を盛り上げるための重要なスパイス。多くの場合、物語の最後には主役とヒロインが無事結ばれるものですが、彼らの幸せの陰には、思いが報われる事なく舞台を去ったキャラクターがいるのを忘れてはいけません。そんな悲しい思いをしたキャラクターの中でも、特に思い入れが強いキャラクターを一人あげろといわれたら、あなたは誰を思い浮かべますか?』

……ということで、1位が『タッチ』の上杉和也。
先日奇しくも家で話題にしたのだが、もし和也が事故に遭わず、
あのまま順調に高校生活を送ったとして、将来、南と結婚しただろうか?
主人の意見では、それは無かったのではないか、とのことだった。
和也と南の間柄は、得がたい友人同士ではあったけれども、
恋愛や結婚にまで発展するほどの、激しいものがあったとは思えなかった、
やはり南には男性としては達也しかなかったであろう、
……と、なぜか主人は熱く語るのであった(汗)。
いや私は、そのへんのことには、とりたてて反論があるわけではないのだが。
それより、いつぞやネットで見た台詞の、
『きたない顔してるだろ 嘘みたいだろ 生きてるんだぜ それで』
というのが、私にはどうも忘れられません(逃)。

私にとっては、『タッチ』より萌えるのは『北斗の拳』のほうだが、
この『ヒロインと結ばれて欲しかった男性キャラ』のランキングで、
主人公のケンシロウが5位に、南斗水鳥拳のレイが6位に入っている。
確かに、北斗の結末は恋人達のハッピーエンドではなかった。
だが、「ちょっと待って欲しい」。
ここで言う、ケンシロウが結ばれて欲しかった相手というのはユリア、
レイが結ばれて欲しかった相手はマミヤ、だと私は思うのだが、
ユリアとマミヤ、この際どっちもヒロインってことで、いいのかね?
それと結局、ユリアは最後だけはケンシロウのもとで死んだ筈なのだが、
あれは『結ばれた』とは言ってあげられないものなのか。
それとも、その後ラオウの息子が登場するに及んで、つまりどうもユリアは、
どこかの段階で、ラオウとどうとかこうとかなって息子までなしていた、
と判断せざるを得ないから、問題があるということなのかね。

8位のテリュース・G・グランチェスタ-、……Gは何の略だったっけ。
そういえば、聖ポール学院のシスター・グレーは、
いつも彼のことをこうやってミドルネームの頭文字をつけて呼んでいたな。
まあ、成人後の演技者としてのテリィのことを思えば、
キャンディと結ばれなかったのは、むしろ良かったかもしれない。
あれで演技の幅が広がったというか、男として深くなったというか。
それにしても、『なかよし』連載当時、私はこの作品の、実に熱心な読者だった。
私は小学生だった頃、既にアルバートさんが誰であるかを見抜いており、
キャンディ連載何周年記念か何かの懸賞があったときに、
自分の予想を葉書に書いて講談社に送ったら、ばちが当たった、
……じゃない、バッジが当たった、という過去がある。
私が話の行く末を見事に言い当てていたこととは関係なく、
単に、抽選で、何等だかのバッジに当選しただけなんだろうなとは思うのだが、
いずれにしてもあの一件で、私が、自分の一生分の運とひらめきを
ほぼ使い果たしたことは間違いなかった(爆)。

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今朝は5時に起こされた。
主人が、例の「休載」告知の載っている少年ジャンプを買いに
まだ日も昇りきらぬうちにコンビニに出かけたからだ。
主人は決して、そんなことを理由に私を起こしたのではないのだが、
うちの玄関ドアは、解錠のボタンを押すと「ピピーッッ!」と、
大変に大きな高い音がするので、十分に目覚ましの効果があるのだ。
しかも、帰宅した人が外から暗証番号を入れて解錠するときには、
また「ピピピ!ピピーッッ!!」が家じゅうに鳴り響く。
娘は、家に救急車が来ても気づかず爆睡できるヒトだから構わないが、
私は元来寝起きが良い人間なので、あれほどの音がすれば必ず目が覚める。

『HUNTER×HUNTER』が連載再開されてから約一年間、
毎週月曜朝6時前後の「ピピーッッ!!」を私は我慢し続けてきたが、
きょうはいつもより1時間近く、早かった。
最初、主人の出かける「ピピーッッ!!」で起こされたとき、
私は朦朧として、あまりにしんどかったので、そのまま布団の中にいたのだが、
やっとうとうとしかけたとき、帰宅の「「ピピピ!ピピーッッ!!」で
再度、強引に眠りの淵から引っぺがされた。
時計を見たら、5時25分だった。
悪いことに、いつもなら私は日曜の夜10時半頃には就寝しているのだが、
昨夜は忙しくて午前1時に寝たので、睡眠時間4時間半になってしまった。
つらい。本気でつらいぞ(>_<)。

しかし、こんなことも、きょうでしばらく終わりだ。
この月曜朝の無残な目覚ましが、来週からはなくなる。
そう思うと私は本当に本当に嬉しい。
頼むから、『HUNTER×HUNTER』には、できるだけ長く休載していて欲しい。
きょうみたいに、わかりきっている休載告知でも、彼は朝5時に出て行くのだ。
次に連載再開されるような話になろうものなら、期待のあまり朝3時に起床、
4時にはコンビニで足踏みして待っているだろう。
ああ勘弁してくれ。
ころもんが隠居する頃まで、もう連載再開しなくていいからね(爆)。

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昨日の朝7時頃、主人は出勤前になにやら落ち着かない様子で
廊下を行ったり来たりしており、
『なんで早く仕事に行かんのかな』
と私が内心、罰当たりなことを思っていたら、
主人はとうとう我慢しきれなくなったという様子で、言った。
「みーこは、まだ起きんのんか。」

娘は、学校が近いので朝7時半頃まで寝坊することがよくあって、
昨日も、前夜遅かったらしく、朝寝をしていた。
しかし主人がどうも娘のことを気にしているようだったので、
なんぞ用事でもあるのかなと思い、私が気を利かして、
娘の部屋のドアを開けて、声をかけた。
「みーちゃん。そろそろ朝だよ~~」。

娘が反応を見せたのを確認して、主人が娘の部屋に入っていった。
そして、何を言うかと思ったら。
「おい。HUNTER×HUNTER、ついに休載じゃ

主人はそれを、朝方、ネットの情報で知ったらしかった。
『HUNTER×HUNTER』は冨樫義博による、少年ジャンプ連載の人気漫画で、
テレビアニメにもなっており、劇場版映画化も決定したばかりだ。
主人も娘も以前から熱心な読者で、うちにはコミックスも揃っている。
ただ過去にも休載は多く、掲載されてもラフ画そのものの状態だったこともあり、
何かと不安の多い(^_^;作品でもあったのだった。

娘は勿論、飛び起きた。

 転娘「おおっ!とうとう休載か~!ヤバい雰囲気だったもんね!」
 転夫「冨樫としちゃ、一年間よう頑張ったちゅうことやろ」
 転娘「掲載順も下がっとったしねえ」
 転夫「新章突入らしい」
 転娘「映画も忙しいんだろ。オリジナルストーリーらしいし」
 転妻「ほんじゃ、映画の話を新しく冨樫義博が作らにゃならんってこと?」
 転夫「いや、多分違うじゃろ。だいたいこういうのは、作者本人は、やらんことが多い。
  それに冨樫に任せとったら、途中で休むとか言い出して、映画が出来んかもしれん。
  まあ、監修はするんじゃろうけど」

ともあれ、私にはたったひとつわかったことがあった。
それは、今度から主人はしばらく、少年ジャンプを買わなくなるだろう、
ということだった。
主人と娘は、『HUNTER×HUNTER』のためにジャンプを読み続けてきた。
それはもう、発売日の朝6時にコンビニに(主人が)買いに行く熱心さだったのだ。
『あんには(=あいつは)、まだマンガ読みよんか!』
と、かつて舅が主人のテイタラクに呆れていたが、
これで卒業できそうですワ、お舅様。
多分、「卒業」は、しばらくの間ですけど。
さあて、数ヶ月になるか一年になるか。

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土曜日に田村響を聴きに大阪に行ったときに、
主人が途中で、「ガラスの仮面48巻、買ってきて」とメールして来た。
発売日だというのに、広島の市街地にはまだ出ていなかったのだ。
それで私が、JR新大阪駅で平積みされていたガラかめ48巻を、買った。

相変わらず、女優生命を賭けて亜弓は紅天女の試演に打ち込んでいるのだが、
少なくとも稽古風景に関する限り、『紅天女』がさほど面白い芝居とは
どうも思われず、私はだんだん、
『亜弓くん、目を覚ませ!』
と言いたい心境になってきた。
ほかにも良い舞台はたくさんあるだろうに、これにかかりきりだなんて。
少なくとも『紅天女』は、あんな大勢でやらなくてもいいのではないか。
鼓が打てて全幕暗記している男優がひとりいれば
(つまり源三さんが居れば)、あとはマヤか亜弓かが紅天女をやるだけでよく、
帝とか十市とか村人とか、全然要らないんじゃないかと思えるのだが……。

一方、相手役の赤目慶は、亜弓と母・歌子の秘密の稽古場に案内されて、
いつもとは別人のような亜弓の雰囲気に、引き込まれつつ芝居をするのだが、
一緒に来ていた演出家の小野寺が、それを見ながら、
『驚いた…!あの赤目慶が本気になっている…!』
と汗を流して驚いており、私も本当にビックリしてしまった。
なんと、これまで赤目は本気にならず、テキトーにやっていたらしい。
主演女優の亜弓に「赤目、駄目」と言われたら彼はオシマイなのに、
こりゃまた全然、身の程をわかっていませんでしたね
(ちなみに赤目さんってば、今までいつも和服だったからわかんなかったけど、
洋服だとすごーーく足が長くて、カルく十頭身はあるんですね)。

しかし今回、何より困ったのは、紫織さんの使っている化粧用コンパクトが、
私には、完全に携帯電話にしか見えなかったことだ。
速水から婚約解消を切り出され、紫織嬢はショックで泣きじゃくるのだが、
そのあと化粧室で一人になって、そっとコンパクトを取り出し、
……私はそれを、てっきり携帯電話だと思い込んだ。
『ひどい顔… 真澄さまに嫌われてもしかたないわね…』
嫌われたのは絶対に顔のせいではないブラック紫織だが、それよりも、
私は彼女がここでなぜ、携帯電話を覗き込んで自分の顔を確認するのか、
最初は全然わからなかった。それから漠然と、
もしかして最近の上等な携帯は、待ち受け画面が鏡にもなるのか~、
と感心したりした。

そして、更に彼女は、その携帯の画面を洗面台の水栓に叩きつけて割り、
破片で自分の手首を切って自殺しようとするのだが、
「へえ~、携帯ってこんなことができるんだ……」
と私はここでもまだ、携帯の用途の多様さのほうに目を奪われており、
「いや、じゃけ、コンパクトじゃろ、それ(^_^;」
と主人に言われるまで、全く気がつかなかった。

……とまあ、この程度にわかっていない私の言うことなので、アレなのだが、
亜弓さんとハミルは、それで結局、くっつくことになるのでしょうか。
亜弓さんは、お蝶夫人のごとく、恋などに揺らぐことのない孤高の存在でも、
良いのではないかと私は思うのだが、やはりマヤと速水さんのがまとまるなら、
亜弓さんにも誰かが必要、という作者の思いがあるのだろうか。
亜弓×ハミルは、マヤ×速水ほどには、読者から祝福されていない、
と私には思われるのだが、違いますか(^_^;。
それにしても、ハミルさんは世界的な写真家と言われる割には暇そうです。
『エースをねらえ!』の千葉ちゃん程度にフリーです。

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娘の机の上に漫画『あさきゆめみし』(大和和紀)の9・10巻が
重ねて置いてあったので、失敬して読んだ。
古典の授業で『源氏物語』をやったので、お友達から借りたと
確か先日、言っていたはずだ。
私が高校1年生の冬には、これの1巻と2巻しか出ていなくて、
残りの巻は、高校を卒業してから出るたびに買って読んだので、
今も実家の土蔵を探せば出てくると思うのだが、
娘たちは最初から、完本を手に入れることができるわけで、
隔世の感があった(笑)。

1000年も前に、既にこういう長編小説が成立していたとは素晴らしいことで、
現代の感覚で読んでも、先の展開から目が離せない、見事な筋立てだと思う。
『更級日記』には、十代の頃に作者が『源氏物語』を手に入れて喜ぶ場面があり、
「きさきの位も何にかはせむ」
と、寝食を忘れて朝から晩まで読みふけっていたら、
しまいに、夢に凄い美形のお坊さんが出てきて、
「ちゃんと勉強せんか!」
と叱った、……みたいな電波系の話が、確か書いてあったと思うのだが、
21世紀の今、幾多の娯楽小説を経験済みの私が読んでも、
光源氏の女性遍歴物語はそれなりに面白いのだから、
最初からいきなりこのような大河小説に触れた、平安時代のヲタ少女たちが、
どれだけ大変な衝撃を受けたかは、想像に難くない。

しかし私が『面白い』と思うのは、厳密には大和和紀の漫画に対してであって、
源氏を原文で全巻読み通すような素養も根性も、私は持ち合わせていないから
本体そのものを味わって、なお『面白い』と言えるかどうかは自信がない(汗)。
私は、高校の古文の教科書に取り上げられていた箇所を知っている程度で、
残りの知識は、ほぼ全部『あさきゆめみし』から得たものだ
(上で触れた『更級日記』も、高校の教科書で採られていた箇所だ)。

その範囲で言うと、晩年に紫の上を失った光源氏が、
「なぜ、私という人間は、しあわせになれなかったのだろう……」
と述懐する場面に対してだけは、今も昔も、私はやはり、
「おまえのせいや」
としか、言いようが無い。
登場人物のうち、源氏の女君たちの大半はそれぞれ自己を確立し、
話の後半にさしかかるに従って、見事に輝くようになるのだが、
ひとり光源氏だけは、やたら涙もろくなっただけで、
根本のところで、結局なんにもなおってないじゃないか、
……と私は思えてならない(笑)。

ちなみに、源氏の愛を受けた女性たちのうち、誰が魅力的だと思うか、
というのは、現代の我々にとってもなかなか楽しい話題なのではないだろうか。
登場する男たちは、頭中将以外は、内に籠もるメソメソしたキャラが多いが、
女性陣は、さすがに源氏に目を付けられるだけあった、ということなのか、
皆、ほかの人にはないチャームポイントを持っていて、鮮やかだ。
私は昔から、ひときわ自己主張の明確な、朧月夜の君が好きだったが、
今の高校生が読むと、どうなのだろうか。

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主人が昨日、CSで『トリプルファイター』の一括放映を見つけ、録画した。
私がまだ全くテレビ嫌いでなかった、……どころかテレビが大好きだった、
小学校2年生の頃に、月曜日~金曜日の夕方に毎日10分ずつ放映されていた、
ウルトラマンと仮面ライダーを足して5で割った感じの特撮ヒーローものだ。
当時から、「なんか品質の良くない番組よね(^_^;」と子供心に思っていたが、
今になって見直す機会に恵まれ、そのチープさに改めて腹がよじれた。

ウルトラマン系のように大規模な都市破壊のセットは組めないため、
撮影は常に、誰も居ない野原とかビルの屋上で行われており、
しかも、仮面ライダーほどには乗り物に凝ることができなかったらしく、
敵のデーモン一味は、手軽な軽自動車を連ねて出撃している
(スバル360を黒く塗ったようなもので、一応、お揃い)。
昭和40年代初めのことで、舗装されている道も多くはないので、
デーモンカーは、ガタゴトと走行していてそれだけでドアが取れそうだ。

話の大半は、ファイターに変身する前の哲夫・勇二・ユリの三兄妹が、
デーモンの戦闘員たちを殴ったり蹴ったり絞めたりしていて、
どうして、腰に下げている飛び道具を使用しないのか、
なんで変身しないままで闘い続けているのか、さっぱりわからない。
尤も、戦闘員たちも刃物を持っているふうなのに、使う気配がなく、お互い様だ。
彼らは際限なく湧いてきて、三兄妹にやられてもせいぜい千鳥足になる程度で、
またすぐ立ち直って襲って来るので、この部分にはかなりの時間が費やされる。
そして親玉(第1週目はダークマン)が登場して、ちょっと暴れたのち、
黒覆面スバル360もどきのボンネットによじ登り、
ルーフ部分に腰掛けるという無理な体勢のまま発車、
空き地まで逃げ延びて言うことには。

 ダークマン「頭の良いヤツらだ。罠に気づきやがった。爆破しろ!」
 戦闘員「デビラー!!」
   ………ズトーーーーン!!
 哲夫・勇二・ユリ「罠だったのか」

……というあたり、吉本新喜劇だったらデーモン全員でコケるとこやぞ(^_^;。
どんだけ凄い脚本やねん、と今更ビックリだ(逃)。

哲夫・勇二・ユリはそれぞれ、グリーンファイター、レッドファイター、
オレンジファイターに変身することができるのだが、
考えてみると、変身したからと言っても、若干、殺陣の切れ味が良くなる程度で、
戦闘能力が特に上がったようではないので、変身のメリットはよくわからない。
このシリーズでは、三人は金曜日になると合体してトリプルファイターになり、
その合体のメリットも、またもやあまり明らかにされていないのだが、
ともあれ、三人が一人になってその週の怪人をやっつけることに決まっている。
私は小学校低学年だった頃、ついに登場したトリプルファイターの顔を見ると、
「いやん♪明日は土曜日ね♪」
と毎回、嬉しさがこみ上げたものだった。

物語そのものは、ヒーローものとして特に悪いわけではない。
敵のデーモン一味は昔、三兄妹のルーツであるM星という惑星を、
巨大ミサイルをぶちこむことで木っ端微塵にした悪の軍団で、
今度は地球を滅ぼそうとしており、
それをM星人の末裔である三兄弟が迎え撃つ、というのが最初の設定だ。
と言っても、三兄妹自身も最初は自分たちの出自を知らなかったらしく(爆)
哲夫が作成したコンピューターロボによって
そのことを教えられ、目がマジになっていた。

それにしてもデーモンは、惑星ひとつ消滅させる科学力を誇っているなら、
あれこれ作戦など立てずとも、地球だって吹っ飛ばすだけで良かったのに。
それを、なぜか毎週、ファイターたちと素手で組み合っていて、
あまりの正々堂々スポーツマンシップに、見てていらいらします(--#)。

三兄妹の基地には、アツシという少年が自由自在に出入りしているのだが、
この子がまた、どういう家庭の子で、三兄妹とどういう関係があるのか、
全く説明されないまま、話は進展する。
小学生なのにアツシはデーモンの戦闘員と取っ組み合いの闘いをしたりして、
結構強い、……というか、デーモンが弱すぎる(^_^;。
しかしいくら腕に覚えがあったとしても、義務教育中の子供が、
デーモンと闘うことには、やはり問題があるだろう。
三兄妹は、アツシを褒めたり可愛がったりしている場合ではなく、
きちんと親に言って、基地に勝手に来ないように指導監督して貰うべきである。

しかしそれはともかくとして、主題歌はなかなか優れていると思った。
♪コロナの果て 緑の城 僕らのふるさと~
♪トリオでー へんしん トリプルファイター
は、この先しばらく、私の台所の鼻歌になることであろう。
今となってはテレビ嫌いの私が、この先、第二週目以降を観るかどうかわからないが、
主人は見続けるだろうから、主人の部屋に行けばやはり今後しばらくは
トリプルファイターが流れ続けていることだろう(^_^;。

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みんなが音楽で清志郎を語ってくれて
しかも誰も過去形ではなく現在進行形で。
とても鮮明に清志郎を感じることのできる映画だった。
清志郎ひとりのステージを記録するより
このほうが様々な角度から、とても立体的に
清志郎を表現することができたのだと思う。

それにしてもチャボは本当に特別な人だったのだと改めて感じた。
いつも、ステージの清志郎とチャボの間柄というのは、
変な意味でなく(笑)恋人同士か何かのように、
お互いが無くてはならない存在に見えていたのだが、
名曲「夜の散歩をしないかね」は、こうして聴くと、
まさに清志郎とチャボが二人で歩く歌だったんだなあ……。
チャボが、今も清志郎のことを楽しく優しく言葉にしてくれて、
とても微笑ましく、嬉しく、切なく思った。

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