転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



寺島しのぶちゃんは、巧過ぎだった。
「巧い」というのは究極的にはこういうことなんだと
彼女の舞台を観ていると痛感させられた。
芝居があまりにも巧いので空恐ろしい気分になった、
というのは私には最近ちょっと無かったことだった。

なんで忍ちゃんが男じゃなかったんだと
音羽屋ファン同志で嘆いたのは既に昔のことだ。
今や世の中が彼女を「寺島しのぶ」として認識している。
彼女が歌舞伎俳優だったらとてつもないことになっていたのでは
と今でもついつい想像してしまうと同時に、
寺島しのぶという女優が出現しなかったら、と考えてみると、
いやそれはやはりあまりにも大きな損失だったろうと思う。
私は、もう、とっくに、尾上菊五郎とは全く関係なく、
寺島しのぶ本人を観たいがために観ている。
彼女の芝居は本当に凄いと思う。

月影センセイではないが、彼女は「千の仮面」を持っている。
素顔のしのぶちゃんは、決して絶世の美女などではないのに、
アマンダは女の私が見ても惚れ惚れするような美人だった。
美しくて、溌剌としていて、聡明で、直情的で、素直で、
カっとなったら取っ組み合いの喧嘩だってやってしまう、
そんなアマンダは、私にとって、完全に初めて見る人だった。
表情も、しぐさも、声の出し方も、着こなしも、すべてが新鮮だった。

一幕は、可愛い部屋着のあとシックな黒のドレス、
二幕はカジュアルなパジャマ姿、
三幕は華やかなファーのコート、
どれを取っても、しのぶちゃんは見事に綺麗に洗練されていた。
もっと若い頃や幼い頃も覚えている私にしてみれば、
昨今のしのぶちゃんがどんなに自分を磨いたか、どれほど努力したか
とてもよくわかった。

しのぶちゃんの歌を堪能させて貰った、
という意味でも、この舞台は面白かった。
このレベルの女優さんとなると、もう何をやっても巧いのだなあと。
アパルトマンのセットになったとき後ろにグランドピアノがあったので、
二幕目の最初から私は音が出るのを楽しみにしていたのだが、
内野聖陽の弾き語りと、しのぶちゃんの歌とで、
あれほどたっぷり聞かせて貰えるなんて予想以上で、嬉しい驚きだった。

芝居としての設定や展開は公式サイトで説明されている通りだが、
見ながら、人は根本的には変わらないものだなと微笑ましく思った。
エリオットとアマンダは、似た者同士で惹かれ合い、別れ、
また巡り会って共鳴してしまい、再びの大喧嘩と修羅場、
・・・と性懲りもない関係に陥っているのだが、
ふたりがそれぞれ再婚相手に選んだ人(ヴィクター、シビル)が、
表面的には前とは全く違う新しい相手のようでいて、
その実、結局やっぱり同じような性格の人間だった。

それは一幕の初めから明らかだ。
一見、女らしく慎ましく見えるシビルだが、
エリオットがいくら、アマンダの話はやめようと言っても言い続けるし、
急遽このホテルを出ようと彼が言っても、シビルは全く聞き入れない。
生半可なことでは譲らない・納得できない限りテコでも動かない、
という点では、外見がしとやかそうでも、シビルはアマンダと同類なのだ。

それはヴィクターも同じで、見たところ大らかで穏やかそうだが、
そんなものは実は表面だけのことだ。
彼は、アマンダがエリオットを見たのだと言っても、
キミの勘違いだと言うばかりで、全く耳を貸さないし、
パリへ行こうという彼女の懇願にも一切譲歩の態度を見せない。
少々口の利き方がマイルドだというところを除けば、
これまた根本のところではエリオットとそっくりで、
決してアマンダの言う通りになるような男性ではないのだ。

人は、学習しないというか、学習しようもない、というか。
巡り巡って、やっぱり最初から好きだったものがいつまでも好きで、
でも自分では案外、それに気づいていなくて、
・・・そんなことを思って、多少我が身も振り返ったりして、
内心で苦笑してしまう、とても味わいのある舞台だった。

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