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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



きょうは一日、何の予定も入っていなかったので、
ようやっと、総合福祉センターまで出かけ、
父の後期高齢者医療保険被保険者証・介護保険被保険者証、
介護保険負担限度額認定証、それに原爆被爆者健康手帳を、返した。
窓口では特に待たされることもなく、手続はスムーズだった。

返却のための書類と葬祭費請求の書類を書き、そのついでに、
準確定申告のときに必要になる社会保険料の支払総額について
後期高齢者医療保険・介護保険それぞれの納付額を表にしたものを
特にお願いして、出して戴いた。
後期分が11月に登録口座から引き落としされなかったので、
その分だけは反映されておらず、家族宛に請求が来ている筈だと言われ、
帰宅後に確認したら、既に私は払っており11月23日付けの領収証があった。
もう、いろいろなものが次々と来るので、右から左に処理していて、
何をいつどうしたか、個々の記憶がろくに無いのだった(^_^;。

ときに、原爆手帳については、最初の頁に「返還処理済」の印が押され、
「お形見に、また二世の証明に」
と、そのまま私のほうに返された。

 法第1条による区分 第1号
 被爆時の年齢 満14歳 
 被爆の場所 広島市段原町 爆心地から1.6キロメートル
 手帳交付年月日 昭和41年10月29日

検索してみると、制度としての手帳交付は昭和32年に始まったとあるので、
父がこの手帳を受けたのは、それから10年近く経ってからのことだ。
初めて原爆手帳を受け取った日、父は、どんな思いであっただろう。
……と改めて考えたが、あの頃、父の世代の広島市民で、
被爆者でない人のほうが珍しかっただろうから、
手帳を持つのは特別なことでないどころか、
貰えないとしたらそのほうがよほど問題だっただろう。
無事に交付が受けられて良かった、とむしろ安堵したかもしれない。
手帳交付のためには、罹災証明や、証人2名が必要、とある。
父の被爆は、どのようなかたちで認定されたのだろうか。
そのあたりについて、父から話を聞いたことは一度も無かった。
父は、語り部になることを拒否し、原爆資料館には生涯、足を踏み入れなかった。

父は、被爆直後こそ、頭部の火傷と放射線障害性心膜炎で寝込んだが、
回復してから後は、極めて健康に過ごすことができ、93歳の長寿を全うした。
多くの幸運と、篤い支援に恵まれた御蔭であったと思う。
有り難いことであった。
このあと、父の名は、原爆死没者名簿に記帳・登載されることになる。

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11月1日、父が死んで10日・葬儀から1週間あまり経った日に、
いつもお世話になっているJAの地元支店の人に実家に来て戴き、
年金関係停止その他の手続をしたのだが、本日、税理士さんから、
「準確定申告に源泉徴収票は間に合いそうですか」
という内容のメールが来て思い出し(爆)、改めてJAに確認してみた。
すると、年金の源泉徴収票の送付までには通常、時間がかかり、
準確定申告に間に合わない可能性が結構ある、とわかった。

そもそも、年金の源泉徴収票は、年金受給を停止する手続きをしても、
送付されるまでに2~3ヶ月ほどはかかるものだそうで、
しかも父は、学校の先生だったことがあるので、
日本年金機構のみならず、公立学校共済組合との二本立てとなっており、
それぞれで手続完了される必要があった。
JA年金センターから勿論その両方に連絡し書類も出して貰っていたが、
まだ1ヶ月では、さすがに完全に手続完了することは期待できなかった。
念のため公立学校共済組合本部にも、直接電話で尋ねてみたが、
「書類手続が終わるまで源泉徴収票は発行しません」
と、とりつく島もなかった。

JA年金センターと税理士さん各々に状況を話して尋ねてみたところ、
死後4ヶ月の期限に間に合わない場合、まずは昨年度の源泉徴収票をもとに
ひととおりの準確定申告を行い、そのあと正式な源泉徴収票が到着してから、
改めて修正申告をする、という順序でも出来るとのことではあった。
そのほかの、給与所得の源泉徴収票や、生命保険料控除証明書は家にあるし、
後期高齢者医療保険、介護保険関係の資料についても、
恐らく区役所に尋ねればなんとかなるだろう。…なって欲しい(^_^;。
公的な書類手続の話で、数字が曖昧になることはない、というのが救いだ。

いやはや、人がひとり死んだ後始末は、やはりラクではないなorz


追記:12月7日、JA年金センターのほうから、手続書類の提出は既に完了し、
あとは日本年金機構と公立学校共済組合の、各々の処理スピード次第、
という主旨の連絡があった。
それでも、遅くとも1月中旬には、いずれの源泉徴収票も送付されて来る見込みで、
2月21日が期限の準確定申告には間に合う筈、とのことであった。

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亡き父の銀行口座をいつまでも放置しておけないので、
相続手続を開始したい旨、各々金融機関に連絡した。
既に口座は凍結されて光熱費等の引き落としが止まっているのに、
このままでは私は怒濤の年末年始行事に突入して
ヘタをすると節分まで身動きできなくなってしまう。
私が提出できる書類等の部分だけでも、今のうちに早く済ませたかった。

この件の、そもそも始まりは本日ではなく、先週金曜日の午後だった。
たまたま、出先で、地元では最も大きな地方銀行Aの支店を見かけ、
手続のとき必要な書類だけでも先に貰えないかな、
と思って入って行った、
――のだが、今にして思うと、これはちょっと失敗だったのでした(^_^;。

これの前の日、私は事前に各々の銀行のサイトで、
相続手続がどうなっているか、どのような書類が必要か、調べてあった。
できるだけ用意しておきたかったし、予め記入できる書類は仕上げて、
手続の日に持参して、なるたけ一度で終わるようにしたかった。
謄本類や印鑑証明は既に取ってあったので、
「相続手続依頼書」及び「残高証明発行依頼書」という、
銀行独自の書面について、事前に受け取って帰り、家で記入して来れば、
実際の手続がスピーディーになるのではと考えたのだった。

そうしたら、そこからいきなり相続手続が始まってしまった。
私はそもそも、入口ドアを入って最初の受付の箇所で、
「口座名義人だった父が先日、亡くなりまして。口座は既に凍結されています。
きょう相続手続をするつもりはなく、ただ、事前に戴ける書類があるなら、
家で記入して、後日改めて手続に来たいと考えて来たのですが、
『相続手続依頼書』と『残高証明発行依頼書』というのは、貰えますか?」
と言ったのだが、言い方が間違っていたのだろうか(汗)。
故人の名前や生年月日、親族関係などを記入するよう紙を渡され、
「いや、この場で相続手続を開始するために来たのではないのですが」
と再度、言ったのだが、
「ええ、それ、書いて貰うだけですから、とりあえず、それだけですから!」
と言われて、書かされることになった。

記入が終わると、待つように言われ、これがまた結構な時間がかかり、
シマッタことをした、来なければ良かったな、
と思い始めた頃、呼ばれて、奥の衝立の陰の椅子に案内された。
そこでまた、別の係員の男性が登場し、相続手続についての説明を始めた。
そういうことはサイトで読んで来たのだが、と思ったが頑張って拝聴した。

この件に関係ないが、この方はノーマスクだった。
私のほうはマスク着用していたので、私から何かをこの方にうつす心配は、
とりあえずしなくて良かったが、毎日どんな人が来るか分からないのに、
こんな狭い空間で鼻突き合わせているのって、気にならないのだろうか。
インフルだって今まさに警報発令中なのだが……。
――などということは、しかし、私はおくびにも出さなかった。
「この状況だと、できればマスク着用なさったほうが…?」
などという意味のないお節介は私は言わない。
ただただ内心の自由はあるから、心で思っているだけだ(^_^;。

で、その日私は、法務局で「法定相続情報一覧図」の作成を申し込むつもりで、
父の除籍謄本類や住民票除票など一式をたまたま持って来ていたので、
それがあるならコピーを取らせてくださいとその係員さんに言われ、
拒否する理由もないので従ったら、またまた20分くらい待たされることになった。

「お待たせしました」
とようやく彼が戻ってきたので、私は再度、
「きょう手続をするつもりはなく、事前に戴ける書類があるなら、
家で記入してから改めて手続を開始したいと考えて来ただけと、
さきほども申しましたのですが。
『相続手続依頼書』と『残高証明発行依頼書』の紙を戴いて帰り、
自宅で必要な箇所を記入して、後日あらためて、
自宅最寄りの支店に出向く、というのは駄目なんでしょうか」
と尋ねた。

「そういうことだったんですか!」
と彼は初めて聞いたらしく、急いで奥へ引っ込み、
私の言う2種類の書類を携えて戻って来た。
そして、これらを記入し、印鑑証明や実印、通帳などを揃えて、
手続に行く支店には事前に必ず電話をして日時を予約し、
改めて行ってください、と言った。
どこの支店に行く予定かとも尋ねられたので、
自宅の最寄り支店を答えたら、彼は、
「では、きょう戴いたコピーは、そこへ送っておきます!」
とも言った。
それは有り難いことだった。
少なくとも、戸籍謄本類提出はこれで済んだことになるだろう。

――という出来事があったうえで、私は今日改めて、
自分が近日中に出向こうと思っているA銀行某支店に電話をかけた。
大きな銀行なので致し方ないが、
電話が繋がるまで結構待たされ、上記のいきさつを簡単に話したら、
「ウェブでも来店予約はできるんですよ?」
と言われ(必ず電話しろと言われたから、それに従って電話したんだがよ)、
書類が来ているかどうか調べて、折り返し電話すると言われてまた待つことになり、
10分くらいして、確かにコピーが届いていた由、連絡があった。
そして、相続手続のためにはこれから二度、店頭に出向く必要がある
ということがわかった。
二度もか!とガックリ来たが、その場でその二度をいつにするか予約を取った。
私が動ける日など限られているのだ。

ちなみに、第二地方銀行Bと信用金庫C(イニシャルにする意味なし)は、
電話してみたところ、希望すれば郵送だけですべての手続ができるとわかった。
望外の有り難さであった(涙)。
私の休日が消費されないし、母の自筆署名も私の都合だけで取りに行ける。
その他、父の口座はJAとゆうちょ銀行とがあるが、
JAは係の方が、実家でも私の自宅でも来てくださるので超簡単、
ゆうちょ銀行は事前の予約が要らないので、
私の時間ができたとき、突然行っても大丈夫なことがわかった。
更に、ゆうちょ銀行はサイトに、銀行独自の書類もアップされており、
貰いに行かなくてもダウンロードして準備して行くことができる。

相続人は母と私しか居ないし、全部母の口座に移して貰っても構わないので、
今わたしが知りたいのは、どうすれば最も簡単に終わらせられるかだけだ。
折しも、法務局が予定より遙かに早く「相続情報一覧図」を完成させてくれたので、
きょうの夕方、所用で出たついでに受け取ってきた。
法務局は、これの作成を受け付けたとき、その場で戸籍と照合したうえで、
「これでも違うところとか訂正箇所があったら、こっちでなおしときますね」
「2週間以内にお渡しできる予定ですが、早くできたら電話します」
ととても現実的なことを言った。
数ある役所に手続に行ったが、法務局では嫌な思いをさせられたことが無い。
話が一発で通じるし、言ったことが忘れられず、かつ仕事が早いので、
私は広島法務局だけは高く評価している(何サマ)。

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マジで忙しい。
神社仕事が年末に向けて加速度的に増えているところに
今年は、父親死後の始末が重なっているので、心身がキツい。
そんなときに東京に行ったりしているから更に時間がなくなったのだが、
『マハーバーラタ戦記』は何を犠牲にしてもどうしても!観たかったので、
お前が悪いと言われれば、はい、一言もございません(^_^;。

きょうは午前中1時間半ほど自由時間が取れたので、
徒歩圏内にある市役所サービスコーナーまで行って、
父の「住民票の除票」を取って来た。
これがないと法定相続情報一覧図の作成ができないのだ(汗)。
戸籍謄本や印鑑証明は、年金関係の手続のときに取ったのだが、
住民票除票だけがまだだった。
ようやくこれで、書類が揃った。
このあと法務局で法定相続情報一覧図を交付して貰うための、
申出書と法定相続情報に必要事項の記入は、既に昨夜、終えてあった。

……のだがそれを持って法務局に行く時間は、残らなかった。
行くだけなら帰り道に寄れるから片道10分くらいだが、
まさか行って5分で交付される訳ではない。
現地での、用件そのものの所要時間に加え、
家まで帰る時間+昼食時間も確保しておかねばならないし。
午後から村のえびす祭があって社務所に行かねばならないので、
ケツは決まっており、延長不可能だ。
仕方ないから、河岸を変えて某銀行のATMの用事を済ませることにした。
こっちのほうが短時間で完了できることがわかっていたからだ。
母の通帳の記載欄がいっぱいになっていたので、
葬儀後に届いた香典(玉串料)を入金しがてら、通帳更新をしてきた。

私は今、父の死後処理の多くの事柄について、
「どうしたらよいかわからない」ということは無い。
何を解決せねばらないか、そのために何が必要で、
どこに連絡し、どこで手続したら良いか、等々、
手順や段取りは、すぐに幾通りかのオプションが頭の中に浮かぶし、
不明な点は誰に・どこに問い合わせれば良いかも、おおよそ見当がつく。
ただ、それらを実行に移し、やり遂げるまでの十分な時間が無いのだ。
百万回書いたことだが、10分の隙間時間が10回あっても意味がない。
まとまった一時間なり一時間半なりが確保されない限り、
着手しようのない仕事というのは多いのだ。
私にとっては、そのことが日々、ストレスになっている。
わかりきっているのに時間が貰えず、用事の積み残しが解決せず、
刻一刻と締切ばかりが迫る、という(大汗)。

……昼食をとりながらこの文章を打ち込む間にも、電話が3回入った。
内容は、新年安全祈願の予約と七五三の申し込み。
決定した祭典や行事は、スケジュール管理アプリに入れておく。
例えば明日は新嘗祭のほか、外祭2件、社頭祈願3件で、神職2名出勤だ。
行事や祭典の内容や必要な授与品、外祭の場合は現地住所、
その他、依頼者・施主さま等の連絡先も入力してあり、
これらを、神職・総代会幹部らの登録メンバーは誰でも見られるので、
急遽の変更や欠勤などがあった場合も、残りの者で対処できる。
こういう工夫だって、私が始めたのである(自画自賛!)。

ひとり居なくなったら他の誰もかわりができないような状態は、
組織として駄目だ。
既に村の神社は5年前とは違う。
日々、祭典があり、年間行事の規模が大きくなり、全く人手が足りない。
来年は神職ほか職員の増員、総代会の拡大を図らなければ、
もはや回らぬ(大汗)。
電話番もこの際、正式に雇って欲しいわ。
私の片手間ではもう無理。何をしていても電話が鳴る。

ということで、それではこれからいっちょ、実家の村まで行ってきます(T_T)。

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実家父が10月21日に亡くなったのだが、
折しも村の神社の祭と時期的にカチ合い、シぬほど忙しかったので、
私は今回、相続関係を某税理士さん&司法書士さんに、
年金関係を某JA窓口に、丸投げした。
相続は、きょうだいがいない分、基礎控除の少ないのがいけないが、
揉める余地はゼロで、手順どおりの、極めて単純な話だ。
年金は、共済組合と日本年金機構には私が電話連絡して話をつけたので、
ここからあとは、書類手続だけという状態だ。
世帯主変更は、実家には母しか残っていないので問題ないだろう。
生命保険等は以前から私が指定代理人になっているので、請求を進めている。
故人の銀行口座の凍結は既にされている。

しかしこれらに含まれていない、健康保険証や原爆手帳は、
私が返却に行かねばならないのだよな?と思い至り、
本日、自分が休みで時間がとれたので、某区役所に電話をかけた。
このテのものは、役所民間問わず、出かける前に、とにかく電話だ。
果たして、後期高齢者の保険証や、被爆者関連手続は、
区役所でなく、総合福祉センターの管轄だとわかった。
建物も場所も全然違う。
いきなり出かけなくて良かった(^_^;。

後期高齢者医療保険者証・介護保険被保険者証・介護保険負担割合証
これらの返却の際に持参するものは、
・火葬許可証
・喪主の普通預金口座通帳

被爆者健康手帳
通称「原爆手帳」、舅も姑も原爆手帳は持っていなかったので、
これの手続をするのは、考えてみると今回が初めてだった。
原爆の担当は上記の保険証類とは別の課で、返却の際には
火葬許可証の申請者として名前の記載のある者(喪主の私)が出向く必要があり、
持参するのは、
・火葬許可証
・死亡診断書(←コピーは十分にとってある。過去の経験から私は学習したのだ)
・喪主の普通預金口座通帳
父は健康管理手当は貰っていなかったので、返却は手帳のみ。

というのが、本日判明した事柄であった。
これら保険証や原爆手帳の返却に、死後○日以内に等の期限はないそうだが、
一般的に葬祭費の請求は葬式から2年が過ぎると無効になる筈で、
その範囲で手続すれば大丈夫そうだった。
今週来週等と焦りまくる必要まではないとわかり、安堵した。

余談だが、この役所の電話の、保留音として流れる音楽が、
私の卒業した高校の校歌に激似で、笑えた。
細部は異なるので、もちろん違う曲なのだが、あれは一体、何の歌なのか。
もしかして、作曲者が同じなのかもしれないが、
校歌の節回しと同じ音程の旋律が、随所に出て来るので、
全体的にそっくりで、聞きながら歌い出しそうになった(^_^;。

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齢85を過ぎた実家両親を見ていて最近つくづく思うのは、
人間、高齢になると思考力だけでなく、行動力や実行力がなくなる、
ということだ。
我が両親は、人生の終末(だろう、常識的に考えて・汗)にあたり、
家の処理や土地の問題や相続関係その他、片付けておくべきだったことが
まだ結構残っていたにも関わらず、もはや、
それらを自分たちの力でどうにかすることが不可能になっている。
寝たきりどころか、認知症でもない(一応)と言える健康老人なのだが、
それでも、新しいことを決定して関係各所に連絡を取って実現させる、
ということは、もうできなくなってしまった。

困っている、と電話して来るので、
私が出向いて話し合って、何かを提案しても、
「そうなんやろか」「ようわからん」「どうしたらええかいね」
の堂々巡りから両親は一歩も出ることができず、行動を起こさないまま、
「困った」「また考えようか」「このままでは死ぬに死なれん」
等々の台詞に終始している。
七十代くらいの頃、二人は、
「まだしばらくは人生があるやろ。いよいよになったら片付ける」
と言って、ややこしい後片付けには着手せず、日常に追われていた。
元気だったときには多忙な生活があったのだから、
それは一方的に責められるべきものではないと思うが、
しかし、いざ本当に最晩年にさしかかったときには、
もう後片付けをする力が、心身ともに、残っていなかった。

そのため、最近は私が代理でそうした様々な雑用処理に乗り出している。
きょうだいの無いのが幸いして、私は相談せねばならない身内は居ないし、
あとで文句を言って来る親族も皆無なので、両親さえ異存なければ、
私は何でも、自分の都合の良いときに一人で決定することができる。
親の世代まではうちは本家と見なされ、やたらと親戚が多かったが、
父の長生きのほうが勝り、ウルサかった親戚は誰も彼も先に死に(爆)
今は大変静かになった(殴)。ありがたいことだ(逃)。
その下の世代は、日頃は顔を合わせることもない遠い親戚か、
私とあまり年代の変わらないイトコたちくらいだ。
私が何をどのように決定しようとも、彼らは多分、何も思わないだろうし、
思ったところで、私を退けて代わりに本家をどうにかしに来る、
などという発想はないだろう。
世の中不景気だし、暇にあかして遊んでいる人など皆無で、
親戚だって皆、自分の人生が転ばないようにするだけで手一杯なのだ。
村は閉鎖的だから、少しでも変化があれば噂でいろいろ悪く言われるだろうが、
私は常日頃、実家に住んでいないし、聞こえて来ないからこれは無視できる(^_^;。

それにしても先日母が、
「おばあさん(=パンスーの祖母)の式年祭(実家は神道)を最近やってないねん」
と電話してきたのには呆れた。
「この頃は、家でせんでも、ホテルなんかでできると聞いたんやけど」
どうでもいいじゃないか、そんなこと今更!(--#)
おばーさん死んで何年経つと思って!?四半世紀近いよ?
だいたい、誰が出席してくれるというのだ?
例えば、親戚筋の、顔も定かでなくなったおばーさんの二十三回忌、
などと言ってホテルに呼ばれて、孫だか曾孫だか、集まりますか普通!?
休日つぶしてまで。しかも手ぶらで来るわけにも行かないのに。
悪いが、さすがに母の頭もユルくなっていると私は思った。

母「おばあさんには酷い目に遭わされたけど(→昔風の姑だったから)
 ほんでも、やっぱり式年祭はちゃんとせんとと思うて」
私「誰を呼ぶねん。親戚に会いたいんか?」
母「いや、今更、来る人言うても○○と△△んとこくらいやろし、
 私が誰かに会いたいこともない」
私「神主さんに祝詞はあげて貰うとるんやろ」
母「それは毎年しとる」
私「そやったらホテル(?葬祭場?)で改めてする必要ないやん」
母「おじいさんの二十年祭もしとらんし」
私「したってば、それは!」(←1987年4月だった)
母「ほんま?」
私「間違いない、私が就職した年だから覚えとる。
 親戚が座敷に勢揃いして、物凄い大変やったから、間違いないって!」

パンスーの祖母が夢枕にでも立ったのだろうか?
一体どうしてそのようなことを思いついたのか、意味不明だった。
しかも、ちゃんと二十年祭を盛大にやった祖父の件まで、
いつの間にか母の中では「なかったこと」になってしまっている(汗)。
何にしても、今年の祖母の命日までもう一ヶ月もないし、
それなら、ちょうど来年が祖父の五十年祭にあたるから、
おばあさんも前倒しで二十五年祭を一緒にやったらええやんか、手配しとこか?
と言ってみたが、母はあまり嬉しそうではなかった。
今、やりたかったのだろう(爆)。

いや、心情的にはわからないことはない。
90歳近い年齢では、『来年』と言われても自信が持てず、
できるなら今年、というかすぐにでも、
やるべきことはやっておきたい、と思うのだろう。
行動力の減退に反比例して、焦りが募るという……(^_^;。
しかしそういう主観的満足のために、「二十二年祭」(爆)などという、
中途半端なものを突然企画されても、親戚も困惑するワケですよ。

後日記:来年、五十年祭は両親と私とで実家で行うということで決着。
理由は、両親の気力体力が衰えていることに加えて、集まる顔ぶれを考えると、
百発百中で父VS叔父の兄弟げんかが勃発→決裂で終わると思われるので、
人生最後(多分)に親戚一同で集まった挙げ句がそれでは、
「不愉快極まる」by父、「あまりに情けない」by母、とのこと。)

……ともあれ、来月は土地の問題の解決のため、
税理士さんに実家まで来て頂くことになっているので、
それまでに一通りの書類を揃えておかなくてはならない。
5年前だったら、多分まだ父が自分で役所に出向いて取って来ることができただろうが、
今はもう無理で、そんな日頃行かない場所へなど行ったら、
窓口の前で、何をしに来たのかわからなくなったりするだろうから、
私が行くしかないのだ。
…ってことで、これから法務局へ、いてくる(^_^;。
法務局は、ご本人様に限るとか委任状が要るとか一切言わないから好きだね。
登記簿謄本は法務局だよね?合ってる?
固定資産課税台帳は、市役所?区役所??

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法務局廿日市支局から、主人宛の、
「本人限定受取」の郵便の通知が来た。

これで手続き完了なったか!?
主人がきょう郵便局で受けとると言っていたので、
今夜には結果が出るだろう。


追記:主人が郵便局で受けとってきた「本人限定受取」郵便には、
「登録完了証」「登記識別情報通知」と返却書類一式が同封されていた。
ついに、舅宅の相続登記が完了したのだ(感涙)。長かった。

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法務局の廿日市支局から電話がかかってきた。

げっ、これ以上まだ何かあるのかっ、
と思いっきり構えた声音になってしまったが、
こちらから送付した書類を受けとったことと、
返却書類についての確認のお話だけだった。

姑および主人関係の戸籍・除籍謄本は返却できる予定で、
一方、主人の住民票と姑の除票は返却不可となっているが、
それで問題はないか、と訊ねられた。
別に何も異存は無かった。

書類不備や計算間違い等の話は出ず、
「では、このまま手続きのほう、進めて行きます」
とのことだったので、おそらくこれで相続登記は完了するのだろう。
・・・するんですよね!???

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不動産の相続登記は郵送でできる――。
んな簡単なことなら、はよ言わんか!

と文句を言いたかったが、言って行く先もない。
それで昨日の夜、廿日市支局で注意された箇所を主人に説明して、
登記申請書を書き直して貰い、平成22年度の課税通知書のコピーを取って、
私は、きょうの昼、提出前の点検を受けるため、広島法務局本局に出向いた。

行ってみたら、法務局の入っている合同庁舎は何やら工事中だった。
建物の外側全体が工事用の白い専用壁で覆われ、玄関前には、
『1号館・3号館へは通り抜けできます→』
『2号館への通り抜けはできません。こちら→』
『4号館への通り抜けはできません。こちら→』
というような、通行案内や迂回路が大きく表示されていた。

しかし、私は、自分の用事のある法務局が果たして何号館なのか、
全然知らないのだから、この案内は意味がなかった。
また、この合同庁舎の外には、どの係が何号館に入っているか、
などという見取り図も案内図も全く出ていなかった。
つまりこれは、自分が○号館へ行くべきか予めよく調べてきた、
あるいは最初から知っている、という、
用意の良い人および身内だけを相手にした表示なのだった。

仕方がないから、目の前の正面玄関と思しき入り口から入った。
入って右手の壁に館内見取り図があったので、見たら、
この建物は1号館であり、国税局が入っていることはわかったが、
私の行きたい法務局は何号館なのか、やはり、不明だった。
そのへんのデパートのフロア案内なら、
本館別館の売り場が全部書いてあって、遙かにわかりやすいのだがな。
合同庁舎では、国税局が法務局の案内をするのは望ましくない、
横の連絡を取るのは最低限にする、みたいな不文律でもあるのだろうか。
それで、総合案内と思われる場所にいた女性に訊いたら、
法務局は3号館にあり、それは今いる1号館を抜けて、
渡り廊下と階段を通り、向かいに見える白い建物に行けば良いとわかった。

法務局の登記部門は、その3号館の二階だった。
ここまで来て私はようやく、なんだか見覚えのある場所に出た。
舅のときの登記手続きで、確かに幾度か来たのことのある部屋だった。
しかし『登記相談コーナー』の利用は初めてだった。
案内の人に訊くと、正面の番号札を取って、
呼ばれるまで長椅子にかけて、待っていろとのことだった。
銀行でよくある『ただいまお待ちの人数○人』と出る、アレだ。

だが銀行と違うのは、呼ばれるのは番号機に隣接している正面窓口、
ではなく、意表を突いた、背後からだったことだ。
後ろから「○番のかた、○番のかた」と声をかけられ、
粗相でもあったかと振り向くと「こちらへどうぞ」というのだった。
道理で、目の前に誰一人並んでいず、係員も暇そうなのに、
『お待ちの人数 2人』だったワケだ、後ろでやっとったのだ(汗)。

衝立のむこうに『登記相談コーナー』は、あった。
簡単に経緯を話し、廿日市支局提出前の指導を受けに来たと言うと、
係の男性が一枚一枚、提出書類を点検してくれた。
一箇所、書き加えるところがあったが、それは私の自筆で良いと言われ
(主人からの委任状も持参していたので)、
「そいじゃ送ってみて下さい。なんかあればまた言って来るでしょう」
と、案外スムーズにOKが出た。
ここまで紆余曲折あったが、相談コーナーだけはとても順調に終わった。
ありがとうございました、お世話になりました。

あとは、登録免許税額の金額の収入印紙を買って台紙に貼るだけだった。
法務局内の証紙・印紙は、普通に『証紙・印紙購入窓口』で売っていた。
私は、運転免許センターの『証紙売りさばき所』というフレーズが
以前から結構好きなのだが、法務局は売りさばかないものなのか~~。

そんなこんなで、書類一式に返信用封筒を添え、
郵便局で書留料金を調べて貰うと620円だというので、
同額の切手を買ってこれも同封し、改めて書留扱いにして
広島法務局廿日市支局宛に、発送した。


オワター♪
なんか足りないとか計算違うとか、言って来なければね

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まだやっていたのだ。凄すぎでございましょ?
年末からしばらく私の目眩の再発・再々発があり、
年明けからは実家の母のヘルニア騒動、
春になったらポゴレリチ来日関係、といろいろあって、
市外まで遠征しないと出来ない手続きが、たったひとつ、滞っていたのだ。
相続手続き関連で残っているのは、この一件だけになっていたのだが。

そう、それは舅宅の相続登記。
これだけは広島市内でカタがつかないのだ。
だから簡単に手を付けることができなかった。
舅宅は広島市佐伯区でありながら、市内中区の法務局では駄目で、
な・ぜ・か、隣の市、廿日市市の法務局廿日市支局でないといけないのだ。
路面電車で50分、さもなきゃJRで出て五日市か廿日市で広電乗り換え。
意味わかんな過ぎ。
どうして広島市のことを隣の市まで行って手続きするのか???

舅が亡くなったときは、準確定申告の手続きもあったので、
主人が一日年休を取り、法務局と税務署をハシゴした
だが、きょうは代理人の私しかいなかった。
イヤな予感がした。

果たして、朝からさんざん電車に乗って
暑い中、地図を頼りにたどりついた廿日市法務局で、
不動産登記の係の人に会うと、彼は私の持参した書類を見るなり、
「遺産分割協議書、原本はお持ちじゃないんですよね?」
と訊いてきた。
原本と相違ない、という署名捺印はあったが、コピーしかなかった。

それから、登記申請書の不動産の表示のところで、
価格が一円の桁まで書かれていない
(主人は何を思ったか勝手に千円の桁までで切り捨てていた)、
従って、課税価格の千円の桁の数字が違って来る、と指摘された。
私は脱力した。
そこを直そうが直すまいが、結論のところの、
登録免許税の価格は全く違わないのに~~(泣)。

しかしそのようなことは、まだ序の口だった。
遺産分割協議書は舅死亡時のもののコピーで、
その時点で姑と主人しか相続人が居なかったことを示すものであり、
今回は主人以外の相続人はいないのだから、結局、無しでも良かった。
また、私は主人の実印を持参していたので、イザとなれば、
小さい数字がどうのこうの、はその場で訂正を書き入れることが可能だった。

そんなことより。
もっと決定的な失敗が、きょうはあったのだ。

それは。
私が持ってきた固定資産課税台帳登録事項証明書が
平成21年度のものだったことだ。
区役所に行ったのは3月だったのでうっかりしていたが、これはもはや無効だった。
平成22年4月をまたいでしまった今、年度は平成22年度になっているので、
固定資産税も平成22年4月1日付の、
新しい数字が記載されているものでなければ、受け付けられなかったのだ。
ヤられた。それは完全に抜けていた(涙)。

教訓:法務局での相続登記において、謄本類に有効期限は無いが、
固定資産課税台帳登録事項証明書に限り、年度内のみ有効である。
申請する年度の、4月1日付の金額を証明する書類が必要である。


つまり、きょうの廿日市遠足はほぼ完全な無駄足として終わった。

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ただ、きょうはふたつばかり、廿日市法務局は良いことを教えてくれた。
一点目は、固定資産税に関しては、台帳の写しを取らなくとも、
「平成22年度固定資産税・都市計画税 納税通知書」
が手元にあれば、年度と金額がわかるところのコピーで代用できる、
ということだった。
舅のときからきょうまでやってきて、私は初めて聞いたぞ、そんなこと。
よもや、廿日市だけのローカル・ルールじゃあるまいね?

二点目は、最近になって規則が変わり、
相続登記の手続きがすべて郵送でできるようになった、ということだった。
以前は管轄法務局への直接持参しか認めなかったのだが、最近になって、
書留郵便の扱いにすれば、こちらからの書類提出や手続申請、
そして法務局からの登記識別情報の通知および関係書類の返却は、
すべて郵便だけで可能になったそうだ(申請時に返送用封筒・切手も同封)。
早く、そうして欲しかったな。そして、早く私にそれを言ってくれていれば。
徒歩で行ける法務局本局の相談コーナーで書類を完成させて、
家の前の郵便局から出せばコト足りたのに。
それだけで済むのなら、3月どころか、昨年のうちに出来たのよ。

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