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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



きょうの母(95歳)@サ高住、は、よく喋った。
Me gusta一本槍だった日などと較べたら、
そのスピーチ量においては雲泥の差だった。

(午後の入浴の順番を待ちながら、ロビーにて)
母「あんた、忙しいんやね」
私「まあな」
母「御蔭さんで私も、これでようやくここが片付いて
 一仕事終わることができて、ほっとしとんのやけど。
 もう、あとはここ、しもたら(=仕舞ったら)終わりや」
私「ほうなんか(^_^;」

母「人間いうもんな、ひとつ大仕事が終わって、片付けて、
 さあこれで皆済んだ、綺麗んなった思うて、最後に皆で写真撮ったら、
 まあ、写真いうもんな正直なもんで、意外なもんが残っとったりして
 それが写ってしまうもんなんやね。
 あれもこれも、皆、ちゃーんと片付けた思うとったら、
 乳母車がひとつ、写真に写っとったりして、あとで気付いても、
 写真やから、もう消すわけいかんし」
私「………(乳母車スか)……(^_^;?」

母「みな片付けて、最後の最後いうときんなって、
 まあ、人間いうもんな、疲れてだんだん気がつかへんようになるんかね、
 ちゃーんと、全部しもうて、最後に写真撮ったら、思いもかけん、
 乳母車が写ってしもて、気ぃもつかへんもんや。
 言うたら、『一将、功成りて、万骨枯る』いうこっちゃ」
私「……(なんの話)……(^_^;??」

母「うちら、小さい子ぉがおったことないから、そんなこともないけど、
 よう、会社なんかね、皆で最後まで片付けて、もう何にも残ってへん、
 綺麗になった思うて、最後に写真撮ったら、まあ、乳母車なんかが
 写ってしもて、これ何?乳母車や、しもた、こんなん残っとったんや、
 てなもんで、『一将、功成りて、万骨枯る』いうことで、もう台無しや」

ふぅむ。
この場合、残った乳母車が『一将』、……に、なるんかね………????
よくはわからんが、とても頑張って完璧に仕上げて行ったのに、
最後の最後で抜けていて、がっかり、
的な展開であれば、むしろ、




『百日の説法、屁ひとつ』




って感じ、かねぇ……(逃
いや知らんけど

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実家に行ったら、母のベッドの置いてある部屋が
なんだか散らかっていて、
「なんで(^_^;?また動物とか?」
と思ったら、パネル状の天井材が一部、剥がれて落下し、
ベッドの上に積んであったクッションや書類を蹴散らしたかたちで、
床に散乱していたのであった(大汗)。
なんでこういうことになるかね?
多分、天井裏が雨漏りしているんだろうよね??

玄関の天井をなおして、まだ2か月経ってないというのに。
あっちもこっちも、次々と。
前からわかっている天窓の雨漏り箇所も年々悪化し、
今では洗面器4つ並べて置いても足りず、周辺まで濡れる有様だ。
平成になってから増築した箇所はともかくとして、
昭和から手つかずの部屋たちは、時間の問題なのではなかろうか。
この家は、本当に、もう駄目だな(^_^;。
さすが築100年超のことはある。
早く売却しよう。そうしよう。

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思えば昨日6月7日は、転姑ばーちゃんの命日だった。早あれから15年。
きょうは、舅宅に某業者さんに来て戴き、転姑ばーちゃんの和服を中心に、
貴金属や切手などに関して、出張査定&買取をお願いした。
姑は仕事が美容師さんだったのと、趣味が新舞踊だったのとで、
着物に詳しく、街着から晴れ着、果てはステージ用まで結構持っていた。
正絹もあれば、ウールやポリエステルもあった。

姑は考え方が合理的だったので、長襦袢はほとんど用いず、
半襦袢に半襟をつけて使っており、帯も作り帯が各種あった。
付下げや留袖等は私が活用できれば姑孝行になっただろう、
とは思ったのだが、私は和箪笥を元々持っていないくらいで、
和服を着る習慣など皆無であり、つまり猫にコンバンワ状態であった。
申し訳ありません(^_^;。

そもそも今回、転夫まーくんは初め、舅宅を始末するにあたり、
衣類はもう要らないから全部廃棄する、と言ったのだが、
ゼロ円で捨てるどころか、どうかすると処分料金をこちらが払ってまで
業者さんに家の中のものを持って行って貰う、というのであれば、
その前に、仮に二束三文だろうと、値段のつくものはつけて貰って、
専門のところに買い取って貰ったほうが良いのではないか、
と私が提案し、本日の査定と出張買取、と相成ったのであった。

……という発想だったので、ついた価格には全く不満はなかった。
品物の価値を分かって欲しいとか、できるだけ高値で引き取って貰いたい、
等々の考えは、最初から全然なかったし、むしろ、
こんな古い着物でも某か値段はつくものなのだなと感心したくらいだった。
また、貴金属は、色石のカジュアルなネックレスでも、
プラチナの留め具の部分が査定対象になったりしたし、
中には14金・18金の指輪があったりもして、
それらには各々で値段がつき、大変有り難いことであった。

ひとつ、帯の中に私の気に入ったものがあったので(写真)、
その一枚だけは手放さず、自宅マンションに持って帰ることにした。
幅がテーブルランナーにちょうど良いので、
業者さんに出して、リメイクして両端にタッセルをつけて貰おう、
と思いついたのである。
うちの六畳間のサイドボードの上に敷けば、よく似合うのではなかろうか
我が家の和室と居間には舅宅から持ち帰った仏像が何体もあることだし、
形見というのも大仰だが、姑の帯がインテリアの中で蘇るのであれば、
私としても嬉しいし、なかなか良いのではないかと思っている。

ただ、残念というか申し訳ないのは、私が少々記憶の糸を辿ってみても
姑がこれを身につけた場面を、全く思い出せないことである(^_^;。
愛用の品だっただろうか?そうだと良いのだが、全然覚えていない。
すみません(^_^;。

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実家の土蔵の外に、へんな物置があることに
私は3年くらい前には既に気付いていたのだが
鍵が見当たらないので、手を下すことができずにいた。
何十年も開けていないと思われる物置など、
このまま破壊して始末しても、何ひとつ困ることはない筈であったが、
しかし、家の持ち主の一人として、私にもやはり一通りの責任はあるし
一度は開けて中身を確認するべきだろうと、かねがね思っていた。

それで、きょう、神社の用事で実家に行ったついでに、
父の字で「かぎ」と書いてある箱をあけて、
どの鍵がこの物置のものか、探してみることにした。
――と書けば簡単に聞こえるだろうが、「かぎ」の箱には何十本もの鍵が
放り込まれていて、容易なことではなかった。

どれがどこの鍵であるかについては、記載のないものもあったが、
「奥」「戸」「物入れ」「倉庫」「蔵」「扉」「階段下」「ガレージ上」
等と、キーホルダーに書き込みされているものも多かった。
しかし、そんな暗号みたいな言葉が具体的に何を意味するのか、
鍵をつけた当事者でない私にわかる筈もなかった。
「奥」とはどこの「奥」なのか、「戸」も「扉」も到底一箇所ではないし、
「物入れ」と「倉庫」の区別は何なのか、
母の字で書かれた「台所ドア」と父の字で書かれた「キッチン扉」の違いは、
ありや、なしや。

手当たり次第にやるには数が多すぎるので、私は吟味を重ね、
「物入れ」「倉庫」「物置」「外の倉庫」「庭の物置」「裏」
あたりの鍵が怪しいと見当を付け、それらを持って、裏庭に行った。
うちの裏庭は、表玄関側から行くと遠回りになり過ぎるので、
家の者だからこそ知っている、裏の竹藪から入る道から行った。

そうして、………もういい、結論だけ言おう。
鍵は、あった(有った・合った)のであった。あな めでたや。
それもなぜか、向かって右の扉の鍵だけ。
左は同じ鍵では開けることができなかったし、ほかの鍵も合わなかった。
しかし、右側が開いただけでも、ひとつの大きな解決であった。
内部は一続きになっているので、片側だけでも開けば全体が見られる。
私は、一片の期待も持たずに、物置の扉を開けた。
大量のムシロ、鋤、鍬、その他の農機具、私の三輪車、私の食事椅子、
玉乗りの獅子、カビた仕上げ馬、サビついたハシゴ、
……等々が、半世紀を超える眠りから覚めた瞬間であった。

 

庭にこのような物置を建て、鍵をかけてまで、とっておいたモノが、これ。
嗚呼、なぜ、捨てなかったのか、父よ!母よ!
いつ、どんなふうに、これらが再び必要になると思ったの!?

私は無言で扉を閉め、元通り鍵をかけた。
思った通り、見ないで捨てても全くなんともない中身であった。
それが確かめられたことが、本日の、進歩であり収穫であった。

――完――

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きょうの母は、あまり喋らなかった。
私が某サ高住の母の居住フロアに到着したとき、
母は昼食を終えて食堂から部屋に戻ってきたところで、
スタッフさんの助けを借りて、車椅子からベッドに移ろうとしていたが、
その時点から、聞こえていたのはスタッフさんの声だけだった。

部屋に入るときも、私はちゃんと挨拶したのだが、
答えてくださったのはスタッフさんだけで、母には黙殺された(^_^;。
「ご飯はよくお上がりになったんですが、おかずがあまりお口に合わなくて」
「お野菜などは、なかなか進みませんでしたね。ちょっと固かったですかね」
「皆さんそれぞれ、お好みでないものもありますよね」
等々と、スタッフさんが私に話してくださっていると、
母は無表情に、しかしはっきりと、
「魚は、嫌い」
と言った。続けて、
「お肉は、好き」
「そうでしたね。お肉の献立が多くなくて、ごめんなさいね。
あとは、デザートに羊羹お出ししたら、それは喜んでくださいましたね」
「甘いものは、好き」

それなら今度来るときには、水ようかんとかプリンとか、
日持ちのしそうな甘いものを買って来よう。
私がそう言ったら、スタッフさんが、
「良かったですね~(^^)!」
と母に言ってくださったが、母は無言だった。
少し前に私の差し入れた一口羊羹の箱が冷蔵庫の上にあり、
見るとあと3個残っていたが、これだとすぐに食べ終わってしまうだろう。
さっそく買ってこなければ……。

スタッフさんが出て行かれると、母は静かに側臥位になっていた。
私のいる側に背中を向けており、
私が居ることに気付いているのかいないのか不明だったので、
近づいて、肩をぽんぽんして、一瞬マスクを外して顔を見せて
「わたし」
と言ったら、
「ああ(^^)」
とすぐ笑顔になったが、特に挨拶やコメントは、なかった。

「今度来るとき、ほんなら、何かお菓子、持って来るね」
「甘いものは、好き」
「うんうん。わかった。柔らかいものがええね」
「――――」
「プリンが、ええかい?」
「――――」
「羊羹あと3個やんな。そろそろ暑ぅなるし、水ようかんにしよか」
「――――」
「ヨーグルトは、あんまり食べへんかな」
「――――」

そこからは何を話しかけても返答は無かった。
私は話の接ぎ穂がなくなり、母が気に入っているぬいぐるみの猫を見せて
「ほら、猫。ええ子やな」
と言ったら、母は微笑んで、
「猫は、好き」
「そうやな。うちにも、ずっと猫、おったなあ」
「――――」
「ミーコちゃんとか、チー子とか」
「――――」

またしても黙殺であった(汗)。
母がきょう言ったのは、~~が好き、~~が嫌い、だけであった。
スペイン語の、Me gusta/gustan~、No me gusta/gustan~構文だけ(爆)。

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昨日は舅宅の片付けに、主人と二人で行った。
よく片付いた家だったので、これで、あらかた作業は終わった。

20年あまり前、姑の体が不自由になってきた頃に、
舅は自力で、自宅の大整理を成し遂げていた。
姑はその頃既に判断力も心許なく、周囲にすべてを任せきりだったので、
家の整頓についても、万事、舅の主導で行われた。
「えっと(=たくさん)買うとってんじゃけ。
女子(おなご)のもんばっかりよ(^_^;」
と苦笑しつつ、舅は古い衣類を適宜まとめては、定期的に資源ゴミに出し、
着られるものは舅用・姑用に分けて洋服ダンスに吊し、
肌着や靴下ストッキングなどは品目ごとに分類しフィッツケースに入れ、
要らない家具は庭で自分で解体して可燃ゴミに出したりして、
数ヶ月をかけて、家の中をタイトに片付けた。
当時、訪ねるたびに舅宅が綺麗になっていて、感心したものだった。

御蔭で、私達は今回、引き出しを開けるだけで、
「ここには何と何が入っているのだな」
とわかり、作業が大変やりやすかった。
実家の広大な田舎家とは違い、舅宅は洗練された建売住宅で、
二階建て4LDK、それと裏庭に小さい倉庫が2つ。
倉庫のほうには、余分な食器や花瓶、椅子程度の小さい家具、
古くなった家電、などが入っていた。
舅がいかに合理的で有能な人であったかを、改めて感じた。
じーちゃん、ありがとうございました(T_T)。

4月30日に一階と倉庫を、昨日5月3日に二階を点検し、
昔のアルバムなど捨てるに忍びないものだけ選り分け、
新品の肌着でサイズ的に使えそうなものに限り持ち帰ることにして、
我々の作業はアっという間に終わった。
食器だとか寝具だとか、「まだ使えそう」という理由で残していると、
せっかく綺麗にした我が家の自宅マンションが崩壊するので、
今要らないものは全部、潔く捨てるということで、
ころもん氏も私も迷いは無かった。

舅から主人が相続した南区の小さな店舗用土地もあったのだが、
そちらは昨年末から既に売却の話が進んでいるし、
併せて、同じ業者さんに任せ佐伯区の舅宅も処分が決まりそうなので、
主人の側はこの半年ほどで急にテンポの良い展開となり、
このほど、「親の家」問題がほぼ終結するところまで来た。
娘を煩わせないためにも、大変好ましいことであった。

やはり、残るは、うちの実家オバケ屋敷だけだよ……(汗)。

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昨日の母は、なんだか元気だった(汗)。
ベッドに寝ていたが、滑舌よく喋る喋る(大汗)。
歯が全部自前なので、咀嚼にも発語にも母は全く問題がないのだった。

母「ま~、あんた久しぶりやね!」
私「先週も来てんけど、そんときお母さん昼寝中やったからな」
母「ほうかいね。道理で。私も御蔭様でこないして90になって、
 もうトシに不足は無いねんけど、
 ほいでも明日でもう死んでもええですか言われたら、
 それはやっぱりちょっとまだ待って貰いたいと思うねん」
私「そらそうや。生きとる者の本能て、そういうもんや」
母「せやろ。はや90やから、あと5年くらいかなとは思うねんけど」
私「(いや既に今が95やで(^_^;。もう、しまいでええんかい(^_^;)」

母「御蔭様で大きな病気もせんと、こないして90まで生かしてもろて、
 そらもう、有り難いことやと思うてんねんけど、
 そいでもこないして生きとったら、あんたにも会えるし、
 あんたや、身近な人等と、いつまでも会うていたいと思うし、
 最後は死んで焼かれんなん訳やけど、焼かれるときも皆で一緒がええと思うし」
私「なんやそれ。なんぼなんでも、一緒に焼かれたら困るやろ。
 お母さんが焼かれるときは私が生きとらな、
 私が焼かれるときは、みーちゃんが生きとらな、
 皆いっぺんにおらへんよんなったら、後始末どないすんねん」
母「そうやったね(笑)。順番でないと困るか(笑)」

あの世に全員道連れにしようというホラーな母であった(^_^;。
ちなみに、『あんたや、身近な人等』と言いつつ、
母の話の中では一貫して、父への言及が全く無かった。
どういう設定なのか、相変わらずわからなかったが、
私を除くと、母の言う『身近な人等』が誰であるかそもそも不明であった。

私は話題に困り、例によってスマホにある娘の愛犬の写真を見せた。
既に何十回も見せているのだが、母には日々新たなのであった。

母「これは?いぬ?」
私「ほうや。みーちゃんの、犬」
母「みーちゃん、犬飼うてんのかいね。大きな犬やね」(←そうでもない)
私「可愛いやろ」
母「ああ、ええ子、ええ子や。何という種類の犬?」
私「柴犬や」
母「え?」(←耳が遠い)
私「し・ば・い・ぬ」
母「え?」
私「し!ば!」
母「い、ば?」
私「……(^_^;」
母「ま、なんでもええわ、こういうもんがおったら、毎日が楽しいわいねえ。
 うちにもよう猫が長いことおったけど、こういう、『いば』たら言うもんでも
 一匹おったら、そら毎日が楽しいわいねえ。
 動物いうもんな、ちゃんと人間のことよう見とって、仲良う暮らせるし
 大昔からそういうことがわかっとぉから、世の中の人は皆、ペットを飼うんやね」

喋りながら母は咽せて、けほ、けほ、と咳をした。
興奮してまた誤嚥性肺炎が始まるのではないかと私は心配になった。
そのあともしばらくとりとめのない話をしたが、
あまり疲れさせてもいけないかと思い、適当なところで私は帰ることにした。

私「ほんなら、そろそろ帰るわ。また来る」
母「あんた、今どこに住んどぉん?」
私「どこ、って。中区の、マンションや」
母「え?」
私「まあ、そんなに遠くでもないわ」
母「誰と住んどん?」(←同棲かよ(^_^;)
私「そら私かて結婚しとんねやから、夫と二人で住んどぉねん」
母「さよか(笑)」

父もよく「あんたの家はどこね」「子供はどうしよるん」等と尋ねたものだったが、
このあたりの設定は、どうしても老親の頭の中で定着しないものらしかった。

母(自称90歳)は、そういうことで、本人比において元気で活力があった。
話は微妙におかしかったし、耳も遠かったが、
私が誰であるかは認識しており、現状についても不満は無さそうだった。
私を焼き場まで連れて行きたいと願っているらしいこともわかった。
昔から根本のところでイマイチ子離れできていない人ではあったが、
娘が還暦を迎えようとしているのに、まだこういうことを言うかと感心した。
何が『娘』や、既にええ加減、私がババアやがな(^_^;。
私自身は自分の娘については、もはや手放した感じになって久しいのだが、
母は私とはかなり性格が異なるということを、改めて感じた。

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先日、どっかのイタチが(知らんけど)踏み抜いた玄関天井板
きょう、地元の○○電興のお父さんに修繕して貰った。
今や、末永くここに私が暮らすという前提は全くなく、
とりあえず天井の穴を閉じて欲しいというのが希望で、
板の素材や色味など一切問わないと私は言ったのだが、
とても丁寧にピッタリとなおしてくださった。

  ←修繕前  修繕後→

更に、作業で判明したのは、もともと天井板そのものが、
単に「乗せただけ」的ないい加減さだったということで、
親切な○○電興のお父さんは、
「『ヒモ』を渡して固定しよう」
と仰り、細く加工した木材を天井の端から端まで渡して、
天井板を補強してくださった。
もとの状態では、どの板も端が浮いていて、
天井裏の動物が前足で簡単にずらせそうな状態だったのだ。

  ←修繕前 修繕後→

これまで何度掃除しても、玄関に砂ぼこりが積もっていて、
天井裏が怪しいのではないかと、前々から思っていたのだが、
これだけ天井板がボロくなっていては、
いろいろ動物も出たり入ったり自由自在であったことだろう。
今回のことがあって、天井を修理して貰うことになったのは、
良いタイミングだったし、必要なことだったのだなと思った。
○○電興のお父さん(笑)、本当にありがとうございました!
綺麗になりました~~!!


………しかし、考えてみると、猫だかイタチだかが出入りしていた御蔭で、
このところ、家の中でネズミを見なかったのかな(^_^;。
だがこの穴は、ネズミらの出入り口にもなり得た訳で、……うぅむ。

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今朝、神社の用事があって実家に行ったら、
表玄関の片隅の天井が破壊されていて、
下駄箱の上に割れた天井板が散らばり、
玄関から「中の間」、座敷にかけて、黒い毛が点々と落ちていた。

      

実は、前回20日(土)に来たとき、私が父の寝室にいると、えらく近くで、
……なおぉん、なおぉん、
とサカリのついた猫みたいな声が幾度も聞こえていて、
勝手に入ってきてるのか?と玄関のほうまで見に行ったりしたのだが、
特に誰も居るようではなく、外かな、とその段階では思っていたのだ。
少なくとも、父の寝室側の天井裏を何かが歩いて行くような音は、
そのときは全くしていなかった。

今朝の状況から言って多分、20日のあのときか、或いはその後に、
何かがまず家の側面のどこかから天井裏に侵入し、
のしのしと歩いて移動していた最中に、玄関の上を通りかかり、
ヨワヨワになっていた板を不覚にも踏み抜いて、落ちた、
……のではないかと思われた(汗)。
黒い毛は触ってみるとフワフワととてもやわらかかったので、
猫か、イタチか、テンか。
そいつは下駄箱の上に落下し、座敷まで歩いたらしいことが、
足跡ならぬ毛跡でわかったが、そこからどうしたのかは謎であった(汗)。

家のどこかに潜んでいる可能性もゼロではなかったが、
何しろ面積だけは広すぎる田舎家で、家じゅう見てまわるのは
限りなく面倒であるうえキショク悪かった。
ただ、私がうろうろしても、何の気配もしなかったので、
おそらく今は、家の中には何も居ないだろうという感触は、あった。
物陰でひっそり死んでいるのでなければ(爆)。
もと来た道を戻り、下駄箱を踏み台にして屋根裏に飛び上がって、
帰った、のであって欲しいものだと思った(^_^;。

ということで、いつも家の各所修繕でお世話になっている、
地元の○○電興のお父さんに電話し、早速に現場を見に来て戴いたところ、
やはり私の想像と同様のことをこの方も仰った。
「とりあえず、中から板でも打って、出入りできんようにするしかないね」
と言われ、それしかないと私も同意し、近々、修繕して貰うことになった。
ちょうど今朝も、近所の某家の仕事で来てらしたところだったので、
近日中に、ついでにやって戴けそうな感じだった(^_^;。

ったく、築100年超のオバケ屋敷には困ったものだ。
カメムシやカニが入って来るのは仕方ないと思っていたし、
ヘビと遭遇することもあり得ると、知っては、いた。
何年前だったか、ネズ公と対決した夏もあった。
今年は、この、黒い毛のはえたヤツかよ。

きょうも雨なので、この黒いヤツは乾いた寝床を求めて、また来るかもしれない。
とりあえず、玄関と「中の間」の境のふすまを、きょうは全部閉めてきた。
前回は開けっぱなしだったので、こいつに座敷まで入られたのだ。
それから念のため、父の寝室のほうに通じる引き戸も、台所へのドアも
ぴったりと閉じておいた。
また同様に天井から落下する格好で室内に入るヤツがいたとしても、
きょうからはもう、玄関の六畳間よりほかに行くところは無い筈だ。

……しかし、天井に板を張っても、家の外側のどこかから天井裏に侵入する穴は、
多分、空いたままになっている訳で、それがどこであるかを突きとめなければ
猫であれイタチであれ、天井裏に入ることは、これからも可能ということだよな。
かなり以前に、まだ両親が住んでいた頃にイタチに入られたことがあって
怪しいと思われる箇所に外から金網を張って貰った、という一件があったのだが、
それももう、劣化しているだろうよね。

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本日4月1日は母の誕生日であった。95歳になった。
母も私同様、花が好きな人なので、
4月の誕生花アルストロメリアのアレンジメントを贈るよう手配し、
私自身も夕方、神社の仕事の帰りに、母のいるサ高住に寄った。

母は昼寝から起きてロビーに出てきたところで、
スタッフさんから、カップに入れたお茶を貰っていた。
私を見て「誰?」と言うので、マスクを外して「よしこ!」と言ったら
「ああ(^^)」とすぐわかってくれた。良かった(^_^;。

私「きょう、誕生日やろ」
母「ほんまあ?」
私「ハッピー・バースデーや。おめでとう」
母「ありがとう(^^)」
私「いくつになったか、覚えとぉ?」
母「さぁてねぇ」
私「95や」
母「95!そんなんなるかいねえ。90になったんは覚えとってんけど」
私「ほうなんか」
母「90んなってからの1年1年は、あっという間やったねぇ。
 このぶんやと、すぐ100になるわ」
私「ほうやな(^_^;」
母「長いこと生きてきたねぇ。いろんなことがあった……」

と母は笑顔でしみじみしていた。
しかし、その『いろんなこと』の大半は、
父とともに過ごしてきた事柄の筈だったが、
母はどういう訳か、「お父さん、どないしとぉ?」とは全く尋ねなかった。

母「子供がおって、良かったわぁ」
私「ほうか(^_^;」
母「あんたがおりゃこそ、こんなこともしてくれる。
 ほかに誰が来てくれようかいね」
私「……(おとーさんは、どこ(^_^;)」

今、母の誕生日を祝うこの場に、母と私だけが居る、
というのを、母自身はどういう設定として理解しているのか。
もし、父について何か訊かれたら、
「お父さんは、去年の秋に、あの世へ行きはったやろ?」
と言おうと思っていたのだが、全く質問は無かった(^_^;。

ともあれ、特に体がどうこうもなく、心が波立つこともないようで、
母が穏やかに過ごしているのがわかり、有り難く思った。
母は、認知症がごく軽度だった間は、常に何かを心配し、
些細なことも不満に思い、他人の不行き届きをたびたび責めていたが、
ここ数年はホド良くボケて(汗)、ふんわりと機嫌の良い人になった。
先行きを思い煩うことが皆無ではないかもしれないが、
どのような思いも、今の母には、長く続くことがない。
長生きのご褒美というものだろうか。感謝すべきことであった。


追記(4月3日):いい感じだと褒めた途端に、母、2日の夜に発熱(汗)。
解熱剤で3日朝、下がりはしたが、誤嚥性肺炎や尿路感染症の既往があるので
早速にサ高住の階下の病院を3日午前中に受診。
コロナとインフルは陰性とのことで、抗生剤の点滴で様子を見ることに。
高齢ゆえにいつ何があってもおかしくないが、
蘇生措置等は希望しないと前々から申し出てある件、担当医から確認。
家族として「本人が最もラクに過ごせることを最優先に」と再度、お願いした。
検査や治療を特に頑張らなくても、本人が辛くなく過ごせているならそれで良いし、
年齢的に何も不足はないので、一日でも長く、などとも望んでいない。

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