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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



昨日の母は、普段よりやや饒舌だった。本人いわく、
「ごっつぅ調子がええいうこともないけど、
まあ、どこも、悪いいうほどのとこも無いわね。」

「ここの(某サ高住の)様子も、だんだんわかるようになってきて、
トイレがあそこにあるいうのは、わかってんねん」
と廊下の先を指して母は言った。
「先に男子用があって、奥に女子用があるのやろと思うねんけど、
行ってみぃひんことには、よう、わからへん」
「ほうなんか。ほな、あとで行ってみよか。
でもまあ、自分の部屋にもトイレは付いとぉから
普段、特に不自由なことは、無いやろ?」
と私は言ったが、それは関心が無いらしく黙殺された(^_^;。

そんなこんなで、しばらく心許ない会話をしていたら、
やがて、夕食の時間になったと呼ばれた。
仕切り直しになり、私としては助かった(^_^;。
母はスタッフさんに車椅子を押して貰いながら食堂に行き、
後ろから私もついて行った。
食堂には、家族も自由に入って良いことになっている。
席順は決まっていて、以前は母の向かい側に父の席があったのだが、
昨日、私が母と話している間には、誰もそこには来なかった。
空けてあるのか、たまたま来られなかっただけか。

母の席より窓際寄りの少し離れたところには、別のテーブルがあり、
男性が二人、こちらに背を向ける位置に着席されているのが見えた。
出されたお茶を飲みながら、母は唐突に言った。
「あそこにおる人ら、言うたらあの人らは、エライさんやねんけど。
あの人らは、私から見たら雲の上の人らで、全然、話すこともないねんけど、
そらまあ、特に親しいに付き合おという訳でもないねやけど、
顔みたら『ああ』てわかるくらいには、もうちょっと覚えられたら
ええなあと思うねん。」
意味不明であった(逃)。
同じフロアの入居者さんで、普段話したことがないのは本当だろうが、
なぜ、特別に地位の高い方々?だということになっているのか??
そういえば、かつて転姑ばーちゃんが今治で、介護型病棟に入院していた頃、
近くの部屋の入院患者の男性が車椅子で通って行くのを指して、
「あの人は、有名な作曲家の先生なんじゃけどね、犯罪を犯してね」
と、とんでもないことを教えてくれたことがあった。

と、そのとき、くだんの男性二人のうち、右側の方が、
テーブルの上にあった木製の孫の手を取り(マイ孫の手なんだろうか?)
自分で背中をしばらく掻いてから、それを元通りに置かれたのが見えた。
「あの人、今、背中、掻いてはったん!?」
と母も見ていたらしく、私に尋ねた。
「そのようやな(^_^;」
「背中、掻いて悪いいうことはないけども、背中いうもんは、
普通、そうそう、家で掻いたりせんもんやと思わへん?」
と母は真面目に私に言った。

背中とは、家では、みだりに掻かないものである!?
そこで同意を求められてもだな(^_^;!
私がウケまくったので、母も曖昧に笑った。
バスの中で掻くのはどうだろうかという場面もあるけどもよ。)

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母94歳がどうしているかというと。

昨日、某サ高住に面会に行ったときには、夕食前だったので、
母は食堂のテーブルについていて、お茶を出され、雑誌をめくっていた。
台湾の旅行記事だったが、母は特に関心があるということもなく、
ただ、カラフルな写真を眺めるともなく眺めていただけで、
「もう、目ぇも、よう見えへんさかいに…」
と、機嫌は悪くないもののテンション低めであった。更に、
「耳も、よぅ聞こえへんし」
と言い、事実、私が話しかけても反応しないことが多かった。
発語に関しては十分に声量があり、歯が良いせいか、発音もしっかりしていた。

母の、日々の体調は、特段、変わったところはないが、
12月28日と、2月1日と5日に、それぞれ38度ほどの発熱があった。
階下の病院を受診し、尿検査して貰うと、
毎回、微妙に尿路感染症と言えなくもない程度の数値が出ていて、
解熱剤でスッキリしないときは、抗生剤の点滴をして貰うことで、
今のところ、その都度なんとかなっている。

主治医の先生のお話では、培養の結果、
抗生剤の効きにくいタイプの菌が出ているそうで、
と言って明らかな炎症の反応があるというほどでもなく、
発熱の原因として決め手を欠くが、
抗生剤を試してみる以外、どうしようもないとのことだった。
私としては、何度も言うようだが母が94歳なので、
母の心身が辛くなければ、もう、どのようでも良いのです(汗)。
原因がはっきりしなくても、対症療法が奏功するならばOKで、
できるだけ楽に過ごさせてやって貰えれば。
落ち着いた日常の中で、適度な医療を受けて過ごせるのは、
それだけで本当に有り難いことだと思っている。

つまるところ、母の今の毎日は、大変楽しいとは言えないが、
さりとて、以前のように腹立たしいこともなく、
総じて、感情の振れ幅は小さくなった感じがする。
熱さえなければ、どこがどう悪いという自覚症状もないし、
食欲も十分あり、食事は自力摂取できている。
父が居なくなったことは、日々の暮らしの中では思い出さないようだ。
私の顔は、(マスク着用でも)即座にわかって笑顔になるが、
父の葬儀や正月の神社労働などで、何週間も会いに行かなかったあとでも、
母は私を見て、久しぶりだというような、特別な反応は示さなかった。

私に関して、どういう設定でいるのかは謎だ。
私の夫が誰で、娘がどうしているか等の情報は、
おそらく母の頭の中からは、とうに抜け落ちているだろう。
主人や娘に、実際に会えば思い出すかな。
私が現れるのは、学校から帰ってきたからだと思っているのか、
新卒のときの公務員の仕事をしていると思っているのか。
ただ、とりあえず違和感は無さそうで、
顔を合わせれば「ああ」と笑顔になる。しかしそれだけであって、
「あんた、一体なんで来たん?今日は、どないしたん?」
「もう帰るん?まだ居ってぇな」
みたいな反応は、今まで一度もない。
私が居るのは、自然なことだと感じており、
目の前から居なくなっても、特にどうとも思っていないようだ。

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母94歳はこの頃、なんだか活力がある(爆)。
あんなトシでも、未亡人になるとイキイキするものなのか(爆爆)。
よく言うではないか、配偶者を亡くすと男性は途端に弱るが、
逆に女性は、ひとりになって解放され、ノビノビ元気になる、と。

母は最近は、自分の部屋よりも、デイルームで過ごすようになり、
同じ入居者さんたちと、お喋りしたり、
お饅頭を分け合ったりして交流している。
もとより食欲もあるし、歯が丈夫なので何でも食べられる。
某有料老人ホームにいた頃でも、母はすぐ同じフロアにお友達ができ、
下のレストランで昼食後に話し込んだりしていて、
それを父がやや不愉快そうに眺めている、ということが結構あった。
やはり女性は、ソーシャルネットワークを築くことに長けているのか。

先週は、母は一度、熱を出したのだが、そのときも、
母本人の事態への対処の仕方は、極めて能動的かつ的確であった。
朝昼と食事を完食したのち、午後になってスタッフさんに、
「どうも怠い。体が動かないから、内科の先生に診て貰いたい」
と自分から訴えたので、サ高住の看護師さんが検温して下さったところ、
確かに37度7分の熱があり、すぐに階下の病院を受診することになった。
コロナとインフルは抗原マイナスで、SpO2も問題なく、
血液検査の結果はCRPが軽度上昇、尿検査も少し反応があり、
「尿路感染症が考えられる」
と診断され、内服の抗生剤を処方された。
すると効果てきめんで、数日もせず熱は下がり、母はまた元気になった。
自分で自分の状態を把握しているし、受診のタイミングも適切で、
母の言うことは信用できるのであった(汗)。

また、きょうは、母は自分でベッドから降り、
ベッドサイドで転んでいるところをスタッフさんに発見された。
ずっと車椅子生活で、母が自力でベッドから出るなど、
久しくなかったことだったのに、
どうも、なんだか歩けそうな気がしたらしかった(汗)。
スタッフさんは即座に私に電話して来られ、平謝りしてくださったが、
母のこのような行動はスタッフさん方にとっても
全く意外なことだったに違いないので、私は不満等は全くなく、
ただただ驚いたり感心したりであった。
とりあえず、ベッドの横にマットを置いて対処して頂くことになった。

ここに来て、ちょっと予想外な展開である。
じーちゃんが居らん、と言って母は気落ちするとばかり思っていたが。
慣れると案外なんともない、というか、これも良いものなのかね(爆爆)。

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父の保険証と原爆手帳の返却 done 12/6
「忍び草」追加となった二箇所手配 done 11/29
某家宛て、「忍び草」として送る商品券購入 done 11/29
両親の携帯電話解約 done 12/9
実家の固定電話を社務所へ譲渡&移設の件 done 11/30
納骨祭のお供物準備 done 12/2
納骨祭の御礼手配(某宮司さん・総代長・石屋さん) done 11/29
送金(運送会社・石屋さん) done 11/29
支払(父診断書代・母歯科治療代) done 11/29
実家電気・水道 名義変更と口座登録申し込み done 11/29
実家 下水道 名義変更と口座登録申し込み done 12/4
遺産分割協議書作成 done 5/25
金融機関4箇所 相続手続←諸手続の予約or書類送付完了 11/30
準確定申告 done 2/17
土地の登記 done 5/25
神宮大麻支払(神社社務所会計) done 12/3
正月授与品確認&取り置き分の確保 done 12/28
正月神社駐車場警備会社連絡 done 12/17
書類仕事3件 done 11/28
耳鼻科受診(花粉症内服薬&点鼻スプレー) done 11/29

……ほかに何かあったかね(^_^;

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葬祭関連費用の支払いは、終わった。
五十日祭後に発送予定の「忍び草」の手配も、できた。

11月5日に、某サ高住の母の部屋を整頓して
父の荷物をまとめ、チェストひとつをカラにしてきたので、
一昨日、某運送会社さんに連絡を取り、それらを運び出す日を決めた。
某サ高住の相談室に電話をして上記の日取りを伝え、
室料とテレビその他のレンタル料を、母の口座から落とすように
変更したい旨も連絡した。

これで、父の荷物が搬出された後からは、
1人部屋が確保されれば母はただちに移れるし、
その移動は施設のスタッフさんがやって下さることもわかった。
もし1人部屋が良いタイミングで空かずに
しばらくこのまま母が2人部屋に留まることになっても、
荷物の運び出しの日が父の書類上の退去日となり、以後は
母は一人分の支払で2人部屋を使うことが可能であることも確認できた。

年金保険関連手続は、実家で長年お世話になっているJAの担当の方が、
かなり動いて下さっているので、進行中である。
以前の『果てしない物語』のときとは異なり、
私が相続人本人であり権利者なので、今回はかなり早く進んでいる。
例の、「生まれてから死ぬまで」の謄本を何通も取らなくとも、
法務局で「法定相続情報一覧図」を作成して貰えば良い、というのも学んだ。
準確定申告や相続手続については、神社でお世話になっている税理士さんに
御指導戴く予定なので、多分大丈夫だろう。

また、発注してあった喪中葉書が届き、いつでも発送できる状態になった。
仕事用と私用と、宛名印刷までやって貰ったので、既に準備OKだ。
これの御蔭で、今年は年賀状の用意が要らない。
年末仕事がひとつ減った。

更に、先月末にインフルエンザの予防接種は済ませたし、
コロナワクチンの予約も、首尾良く年末某日を取ることができた。
インフルは現在流行中であり、コロナもピークアウトはしたが終わっておらず、
更に次の波は、この冬に来ることが予想される。
どう頑張っても100%逃れる方法はないが、せめて、
「ワクチンを打ったので罹ってもマシ」でありたいと願っている。
私は目下、ほぼ常に、穴を空けられない立場に居るので、
打てる手はすべて打つのが鉄則だ。
状況に応じてマスク着用も継続し、KF94やFFP3も積極的に使用する。
そこまでやった上でなお無理な事態が生じたのであれば、
「これ以上どうしようもなかった」が対外的にも通るし、
自分としても諦められるというものだ。

――という次第で、私は、できることをほぼすべて済ませた自分に、
このあたりで褒美を取らせることにした。
すなわち、歌舞伎座に、『マハーバーラタ戦記』を観に行ってやる!
東京まで行くのは2月の鷹之資以来か。
再演を待ちかねていた印度伝、旦那さん(菊五郎)の出演も叶い、
これを逃すテは無いであろう。
来週後半の二等席を取り、定宿を押さえ、新幹線の手配を済ませた。
理屈を言えば、旅行も観劇もしないほうがより安全ではあろうが、
こういうリスクを自分に課すとしたら、
秋祭と七五三が一段落ついたタイミング、ここしかない。

ついでに、1月のポゴ氏の大阪・豊田公演のところの宿泊予約もした。
何気なしに目的のホテルの状況を覗いてみたら、1月のこの時期あたりは、
週末のせいか、思いのほか満室に近くなっていたのだ。
それで、キャンセルは2日前まで無料で可能なホテルなので、
とりあえず素泊まりで部屋だけは取った。

1月27日のポゴ氏の東京公演は、行くかどうか未定だ。
節分前で、神社の厄祓いが立て込む時期に、
二週続けて土日を留守にするのは、いかがなものか。
と言いつつ、実は既にチケットは持っているのだ。
父の容態がどうなるかわからなかった頃に買った券だ。
母だっていつどうなってもおかしくないトシだし、
発表されている3公演すべて、取るだけ取って、
行ければ行く、行けないものであれば御布施(汗)。

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父の死去→神葬祭から、村の神社の祭に雪崩れ込み、
記録的なほど忙しかった、今年の10月後半~11月第一週であったorz
10月19日以来、私はきょう初めて、「全く何もない1日」を手に入れた。
半日休ではない。きょうは、まる一日、どこへも行かなくて良い(滂沱)。

昨日は午前中から七五三が入っていたので、村の神社の拝殿を開けに行き、
授与所で御朱印対応などをし、とっ散らかっていた社務所を片付け、
このあと更に続く七五三や厄除け、初参りなどの授与品の支度をした。
午後からは地域の三社で月次祭があることになっていたので、
準備と清掃に行ったが、どこの社殿も老朽化していて、
三社が三社とも扉の開閉がひどくやりにくくなっていて、まいった。
しかも三社目の拝殿の引き戸を開けようとしたとき、
思いっきりカメムシを握ってしまった(爆)。
カメムシは絶命し、ニオイが充満し、私の左手のヒラに黄色いシミがつき、
社殿に上がっていたのに舞い戻って入念に手水をするという本末転倒になった。

実家に戻って手を石鹸で3回洗って、どうにか黄色いシミが落ちたところで、
夕方前に、実家にタクシーを呼び、母のいる某サ高住に行った。
私が部屋に行くと、母はベッドに寝てテレビを眺めていたが、
「きょうは、誰と誰が、臨終になったんやったかいね。
ちょっと書いとこうと思うのに、すぐ忘れてしもて」
と、そこはかとなくキショク悪いことを言った。
先月なら貴女の夫が臨終だったですが(爆)、今日は、知らないですね。

「ちょっと体を起こして」「靴下脱がして」
等と母は私に頼み、その通りにすると
今度はベッドから降りようとしたので、それは押しとどめた。
「ほうやね、転んだりして、ごじゃ(=問題)起こしたりしたら、あかんね」
と母は案外素直に言った。

母は近いうちに一人部屋に移動せねばならないことがわかっているので、
私は昨日、サ高住に行くのに、実家から段ボールを持ち込んでいた。
父の衣類や、母がもう使わないと思われるものをそれらに詰め込み、
段ボール6箱と、紙袋ふたつ、チェストひとつ、椅子一脚、
を運び出す目処がだいたいついたので、
このあとは前にお世話になった運送会社さんに連絡を取るだけだった。
案外、荷造りは簡単だった。良かった(^_^;。

「ほんじゃ、また来るね」
と言ったら、母は、何か家にいるときのような気分でいたらしく
「またこれから、どっか行って来るん?」
と言うので、私も逆らわず、
「うん。出て来るわ、ちょっと。すぐ帰る」
と答えたら、母はどこへ行くか等とは問わず、微笑んで、
「ほな、気ぃつけて」
と懐かしいイントネーションで言った。
私が実家に居た頃、日常的に繰り返されたやりとりだった。
断片的な、ささやかな思い出のあれこれが一気に押し寄せ、
父が死んで以来、私は初めて涙が出そうになったので、
そのまま振り返らずに、母の部屋を出た。

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十日ぶり?もっとか?で今日は半日お休み。
こんなまとまった休息時間は久しぶりだ。

詰め詰めの仕事の隙間に、狙いを定めて別の用事をはめこむという、
テトリスのような毎日だ。
昨日は神社での七五三行事のあと、夕方6時からの巫女舞稽古まで
1時間45分、空いていたので、母のいる某サ高住にタクシーで往復した。
呼んでも直ちには来ない田舎のタクシーだから、
時間を逆算して、行事の合間に早めに手配の電話をしておいた。
こうして綿密に予定を組んで動いているときに、
いつでも良いような用事で訪ねて来る人が居たりすると、
邪魔じゃ!と内心で噴火し、作り笑顔をしつつも私の口調はキツくなる。

昨日は幸い、誰も来ず電話も入らず、
5分も無駄にせずサ高住への往復が叶った。
ピースはピタリとはまり、片付いたのである。
こういう離れ業も、実家からサ高住への近距離往復だから可能だった。
きょうの半日の休日をこれに充てていたら、
中区の自宅マンション発着では、サ高住まで片道1時間半かかって、
私の貴重な半日の休暇がすべて消費されてしまうところだった。

幸い、母は元気にしていた。
夕食時間前で、既に食堂に来てテーブルについており、
機嫌も良く、穏やかで、父が居なくなったことは理解していなかった。
これまで2人で生活していた自室は、父のベッドが消え、がらんとしていて、
私はつい先日までそこに居た父を思い、さすがに胸をつかれたが、
母はそれを気に病んでいる様子もなかった(^_^;。
父が居なくなったことはわかっている筈なのだが、
「さっきまで体操しとってんけど(=例の誰もやらないテレビ体操か)、
飽きたし、そろそろ御飯やなと思ぅて、ここ(食堂)に来とぉねん」
というのが母の報告であった。
不安や悲しみが続かず、認知症って随分良いものだなと思った(^_^;。

施設の職員さんのお話では、母はいずれ1人部屋に移動することになるのだが、
ついては、今の部屋に残っている父の衣類や持ち物、それに、
2つ買って搬入したチェストのうちの1つを、引き取って貰いたい、
とのことであった。
1人部屋は今より狭いので、入りきらないのだった。
その事情はよく理解できるのだが、さて、
このあと、秋祭→七五三→年越祭→正月行事→節分、と続く神社の繁忙期に、
続々・果てしない物語』が開幕しようとしているのに、
それらと並行して一体全体どの暇に、私はその作業をやれば良いというのか。

「部屋代が払えるなら節分が終わるまで2人部屋に居てもいいですか」
と私は施設に訊きましたね(^_^;。恥も外聞もないが、更に時間がないので。
そのための費用が惜しくない訳ではないが、
むこう半年分の2人部屋料金くらいは、私でも用立てることができる。
施設関連の引き落とし口座は、母名義のものにいずれ変更されるのだし。
タクシーもそうだが、今の私は「時間を金で買う」。
究極的に、過労死するか金を払うかと問われれば、
迷わず後者ですよ、預金が底をつくまでは。
それくらい、私の毎日は逼迫しているのだ。

施設側の答えは、有り難いことに、基本的には「OK」であった。
「でも2人部屋の必要な入居者さんが、新たに来られるかもしれませんよね」
と私が言ったら、もしも、それまでに施設側としてそういう事態が生じたら、
職員さんたちの手で、今ある荷物は入る限り新しい1人部屋に移し、
はみ出た分は一時保管、あるいは着払いで私のところに送付する、
等々の方法が採れるそうだ。
すみません、最悪、そうなるかも(爆)。

前にも書いたが、私はこういうとき、
自分のクローンというか、コピー・ロボット的なものが欲しい(^_^;。
マスクしてれば不用意に鼻を押されることも少ないだろうし、
コピー・ロボット@『パーマン』も、この際結構、良いんじゃね(^_^;?
私が神社仕事から離れられないこれからの季節に、

・母の部屋に行って、衣類その他仕分けし、段ボールに詰める
・前にもお世話になった○○運送に電話をして日取りを決める
・サ高住の職員さんの御都合もお伺いする
・突発的に何かあっても対処できるように、
  その日は自分の時間をゆとりを持って確保しておく
・当日は、早めにサ高住に行って待機する
・運び出しに立ち会い、終わったら先回りして実家に行く
・到着した荷物を実家で受け取り、指示して旧台所などに搬入して戴く
・受け取った荷物を、あらかた、整理し収納しておく
・期日までに支払あるいは振込をする

これらの仕事について、他人に対して必要な程度の愛想をもちつつ対処し、
私の決定したことだけを遂行して貰いたいのだ。
よけいな工夫や気遣いは一切無用なんで、私の命じたことだけ(^_^;。
身内が行かないことには、原則的に私物に手出しできないし、
実家の鍵も開けられないから、とにかく現場に居て、代理で動いて欲しい。

自分なりに思考したり、私と異なる意見を言うような、
能力のある(爆)きょうだい等は必要ない。
自分は犠牲だけ払って、万事、私の事情を最優先にして
動いてくれるきょうだいなどある訳がないのだから、きょうだいなど居たら、
話し合いや意見調整が要るぶんだけ、よけいに時間がかかり、仕事が増える。
そうでなく、私に一切逆らわず、私の決めたとおりにやってくれる、
私本人のコピーに居てほしい。
完コピでなくても務まるから、少々なら劣化版OK(^_^;。
何か問題が起こったときは、全部、私が悪いということで全然構わないので、
こちらが自分の仕事をやっているときに、同時進行で、
私の決めたことを果たしてくれる存在が欲しいものであるよ(^_^;。

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父93歳が21日(土)の昼に亡くなった。

前夜、見舞ったとき、呼吸が途切れがちになっていたが、
その都度、呼吸再開していたので、一旦、私は帰宅した。
表情は穏やかで、なんの痛苦も無さそうだった。
翌21日の昼前だったか、看護師さんから電話がかかってきて
「呼吸停止している様子です」とのことだったので、
タクシーで某サ高住に主人とふたりで向かい、
部屋に入ってみると、父の顔は、昼寝のときと変わらない長閑さだったが、
体全体の印象が、一目で「これは死んでる」とわかるもので(爆)、
あのまま眠りながら逝ったんだなと、私は深く納得した。

母94歳は、ここ数日、さすがに父の様子を心配はしていて、
「点滴しとぅねん。ずっと寝とぉし、なおらへんな」
等と、一応の理解はしていたのだが、
不思議なことに、この日は取り乱していなかった。
私が到着したときも、母はロビーに出てテレビを観ており、
「なんも面白い番組が無いねん」
と、いつもの台詞で苦笑いをしていた。
スタッフさん方も、父が亡くなったことを今、母に理解させる努力は、
積極的にはされなかったので、私ももう、そのままにすることにした。
母はそれから入浴の時間が来て、ロビーから直接に車椅子で連れて行かれ、
お風呂が終わって部屋に戻ってきたときも、父のベッドには目もくれず、
介助されて自分のベッドに戻り、疲れたらしく、そのまま寝入った。

私は二人のいる部屋で、総代長に電話をかけて報告をし、
葬儀屋さんを紹介して貰い、自宅への搬送に始まる今後の段取りを話し、
神葬祭の斎主になってくださる神主さんにも電話をかけて
日程の打ち合わせをし、葬祭場を押さえ、等々と
事務手続を進めていたのだが、母は寝入っているのか、何の反応もしなかった。
葬儀屋さんが来られて父を搬出するときも、母はむこうを向いていた。
眠っているのだろうかなと思ったが、私も敢えて、声はかけなかった。
あの「気づかなさ」加減こそは、長生きのご褒美なのだろうかなと思った。
怖いことも不安なことも、何も深く考えることなく居られるというのは……。

そこからはもう、怒濤であったorz
実家に戻って座敷に父を寝かせたあとは、
通夜祭・遷霊祭・葬場祭の打ち合わせと、
親類縁者や御近所等々への連絡その他で、
私の2台のスマホは鳴りっぱなしになった。
葬儀屋さん等のプロフェッショナル以外は、
「葬式に慣れている」人間など普通居ないとは思うが、
とにかく、感覚的に全然わからず見当もつかない事柄を、
次々とカンだけで即座に決定せねばならず、忙し過ぎてマイった。
しかも一人娘で本家の直系であるため、私が喪主なのであった。
父は立場上、挨拶の要る方面が多かったので家族葬には出来ず、
一般葬になったため、尚更おおごとであった。

しかし、結果として、本当に大勢の方々が、
父に別れを告げるために集まってくださり、
久しく行き来の途絶えていた親族とも久しぶりに会うことができ、
故人の力というのは大きなものだなと有り難く思ったりもした。
娘も東京から来たので、家族揃って父を見送ることも叶った。
御近所の方々や総代会の面々にも大いに力になって戴いたし、
神葬祭を務めてくださった神主さん方にも大変にお世話になった。

父はこのような高齢になるまで、とりたてて病気もせず、
最期は典型的な老衰の経過を辿って、ほぼ覚悟した通りになったので、
家族としての私には、全く動揺は無かった。
嘆き悲しむような段階はとうに解脱していたという感じがする(^_^;。
むしろ「本当に良かったねえ」というのが今の私の、父への気持ちだ。
自称「晴れ男」の父に相応しく、
通夜祭の日も葬場祭の日も抜けるような秋晴れであった。
20日に死んだらポゴ氏の誕生日やな(殴)、
と思っていたが、それも一日ズレた(爆)。
……結局覚えやすくて、良かったかもしれぬ(^_^;。

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その後、父に関して、事態は大きくは動いていない。
父は、目覚めることがなくなり、尿量も減りつつある。
SpO2は90を切ることが増えて来たし、
無呼吸の時間も出てきたので、状況だけを見れば呼吸不全だが、
本人が仰向けに寝ていて、表情も穏やかなので、酸素吸入はしていない。
大変ゆっくりな速度での、点滴だけは継続して貰っているが、
手足のむくみもあるので、最低限という感じだ。
口を開けていることが多いので、覗いてみたが、
痰は絡んでおらず、口内は乾き気味だろうが色は悪くなかった。

経管栄養も人工呼吸も希望しないことは、再三、伝えてある。
「痛くないのがいちばんいい。ほかのことは寿命に任せる」
というのが、父本人の以前からの希望でもあった。
食べなくなり、目覚めなくなり、呼吸が間遠になり、排泄が途絶えがちになり、
……ひとつひとつ、体が終わりを迎えようとしている。
「見回りのタイミングでないときに、呼吸停止になられるかもしれませんが――」
と看護師さんは心配されていたが、それならそれで構わないと私は返答した。
隣のベッドには、65年連れ添ってきた愛妻(爆)も居るのだ。
93歳が、老妻のそばで、静かに、眠りながら逝ければ、このうえないことであろうよ。

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父93歳の具合が、このところかなり、よろしくないので、
このあとの展開によっては、私はしばらく消えるかもしれません。
失礼の段、どうかお許しくださいませ。

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