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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



清志郎のステージ衣装が何着も展示されているコーナーがあったのだが
こんなに細い小柄な人だったんだと
目の当たりにして改めて驚き、胸が詰まった。
ライブの清志郎は数え切れないほど観たし、
運良く至近距離だったことも何度かあったのに
ステージでの清志郎はいつも大きくて鮮烈だった。
凄いパワーの燃焼だったのだと今更ながら知った。

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パルコ東館のタワレコで忌野清志郎トリビュートを見て
パルコ西館のギャラリーで清志郎の個展を見て。

本当にもう清志郎は居ないんだろうか。
こんなにいっぱい、強烈に、
いつもの清志郎を感じることが出来るのに。


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川村カオリさん死去、38歳がん闘病の末(Nikkansports)

ちょうど3年前に私は彼女のことを日記に書いたのだが
(2006年7月23日『川村カオリ』)、
私は、彼女が本名の「川村かおり」でデビューした88年から、
ずっと、一方的にではあるが、彼女を見てきた。
私にとっての、彼女の魅力は、その存在感だった。
巧い歌い手や、顔の綺麗な女優さんは、世の中に多かったが、
彼女の放つ雰囲気やカリスマ性は、それまで見たことのないものだった。

川村かおり『ZOO』1988年(YouTube)

この曲を、エコーズ(辻仁成)のカバーだと思っている人たちが
結構いるようなのだが、最初に歌ったのは川村かおりだ。
今聴いても、決して巧い歌ではなかったと思うが、
『ZOO』に不思議な魅力を加味し、支持を得たのは、
やはり、オリジナルの川村かおりの力だったと私は思っている。

十代の彼女は、すらりとした、ボーイッシュな女の子だったが、
そのパワーは強烈だった。
デビュー翌々年の1990年、『笑っていいとも!』の
テレフォンショッキングに呼ばれて、出てきた彼女は、
「イギリスの日本人学校に行ったんだけど、それが仏教系の学校
(英国四天王寺学園)だったから、毎日アーメンじゃなくて
ハンニャーハーラーで、しかも本校は大阪だったから、
英語覚えないで大阪弁だけ上達して・・・」
などと、お人形のように綺麗な顔には不似合いなほどの
勢いの良い話しぶりで会場の笑いを取っていたものだった。

20歳になった彼女は、自分の意志で日本国籍を選び、
そのことをライブでファンに報告した。
2005年に出版された彼女の自伝『Helter Skelter』を読むと、
彼女の温かい想い出は、日本ではなく、
むしろモスクワのほうに多かったのではないかと思うのだが、
彼女は日本人となることを選択したのだ。

上記の自伝には、彼女自身による率直な文章とともに、
臨月時の水着姿や、左乳房切除手術後の写真などが収録されており、
それらを、世間の注目を集めるための一種の露悪趣味として、
嫌った人たちもあったようだ。
確かに、その刺激的な内容ゆえに彼女の自伝は話題になったのだし、
商業的な戦略だった(そしてそれはある程度成功した)と言えると思う。

しかし、それだけではなかったと私は思っている。
彼女にはどんなときも、観客が必要だった。
大勢のファンや、世間の目、彼女に注目する人たちの存在が、
彼女に命をくれ、彼女に力を与えてくれたのだと思う。
たとえ悪意に満ちた視線が混じっていようとも、
彼女にはそのすべてがエネルギーになった。

なぜなら、彼女は「表現者」であったから。
自分の発するものに対して、観客からの反応を得ることが
彼女の最大の喜びであっただろうと私は思う。
演奏家も、歌手も、演技者も、書き手も、
人前で自己表現をすることを仕事にする者は、
大なり小なり自己顕示欲と、そして露悪趣味を持っている。
川村カオリもまた徹底した「表現者」であり、
当初は歌や演技に始まり、ついには私生活や闘病までもが、
彼女の自己表現のための舞台になったということだ。

(このスタイルは、清志郎がほとんど自分の闘病を公開することなく、
「忌野清志郎」という変わらぬ一面だけを表出し続けたことと対照的だ。)

私にとって川村カオリは、『闘病しながら歌い続ける人』ではなく、
最初から最後まで、一貫して『格好いい表現者』だった。
歌手としても女優としても、モデルとしても、書き手としても、
そして私人としても、彼女は常に鮮烈だった。

5月5日の渋公ライブの直前に癌性胸膜炎を起こし入院した彼女は、
それでも懸命の治療を受けながら、ライブのリハーサルに復帰した。
その模様が、テレビ番組で放映された。
彼女は元気そうにはしていたが、
呼吸が苦しいために酸素吸入の鼻孔カニューラをつけていた。
歌うどころか、本当なら安静にしていてもつらい状況だった筈だ。

「リハーサル行きますってったら、主治医が酸素持ってけって。
どんだけラクになるのかと思ったら・・・」
彼女はそう言って、言葉を切り、すぐ顔を上げると、
「・・・こんな、カトちゃん ペ!みたいな・・・」。

そう言って、細い指で鼻の下を押さえて笑った彼女は、
やはり、川村カオリそのものだった。
美しい顔に、華奢な体、パンクな心意気に、可憐な声。
そして、その全部を、一瞬、ひっくり返すようなユーモア。
本当に、圧巻だった。

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清志郎の最新CD『Oh!RADIO』のビデオクリップが、
YouTubeにUPされていた。

忌野清志郎 「Oh! RADIO」

いつ撮影したものか詳細はわからないが、
鹿児島の妙見温泉の風景らしい。
こうして見ると、まるで「今」の清志郎の近況報告みたいだ。

身軽になった清志郎は、小さな列車に乗って旅に出て、
気の向くまま、風の向くまま、あちこち、ふわふわと訪ねている。
そして、静かな目をして、皆の日常を眺めている。
声をかけるわけではないし、その姿も皆からは見えないけれど、
清志郎は確かに、私たちのすぐ近くにいて、
皆のささやかな日々の営みを、絶えず、見守ってくれている。

最後に、振り返り、振り返りながら橋を渡る清志郎は、
こっちの世界を、たくさん、気遣ってくれているかのようだ。
彼の去ったあとへ、ピンクの蝶が虹をかけて見せてくれる。
蝶は、清志郎の分身、清志郎の魂だろうか。

清志郎は、お別れを予感していただろうか。
こうなることが全部わかっていて、
皆のために、残してくれたかのような映像だと思った。

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清志郎の詞で歌われている、国立市の多摩蘭坂を訪れるファンが、
5月3日以来、未だに絶えないそうだ。
私も80年代の終わり頃、実際に行ってみたことがあるのだが、
多摩蘭坂界隈は、観光するような場所とは全然違う、普通の住宅地だ。
ただ、清志郎が、一時期、この近くに住んでいたことがあり、
『多摩蘭坂を 登り切る手前の 坂の途中の家を借りて 住んでる』
という箇所が歌詞にあるので、清志郎ファンの間では、
昔から「聖地」のひとつになっているのだ。

たまらん坂(Wikipedia)

新聞記事やネットの情報で見聞きした範囲では、
この三週間ほどの間、たくさんのファンがここを訪ねてきて、
「たまらん坂」の表示のあるあたりに、花や缶ビール、
某メーカーのカップラーメン(清志郎がCMの曲を担当した商品)、
メッセージや写真など、思い思いの品を供えているそうだ。
長時間立ち尽くしたり、清志郎の歌を歌ったり(爆)、
中には早朝や深夜に、じっと祈っていく人もあるということだ。

御近所の方々は、当初、必ずしも忌野清志郎の名をご存知ではなく、
ましてや『多摩蘭坂』という彼の歌があることなど思いもよらず、
しばらくは、何が起こっているのかと随分当惑なさったようだ。
しかし、訪れるファンの話から、徐々にこの場所の意味がわかり、
今では、ファンの気持ちを尊重して見守って下さっていて、
清掃に手を貸して下さったり、昔の国立の話をして下さったりしている、
・・・ということが、ネットの掲示板に出ていた。

供えられる花や品物の量は、半端なものではないのだそうで、
御近所やファンの有志が、まめに整理と掃除をされているとのことだ。
清志郎の愛した、彼の思い出のたくさんある国立で、
清志郎とそのファンが、地元の方々から大切にして頂いている、
というのは実に嬉しいことで、私もファンの一人として感謝に絶えない。
本来なら大変ご迷惑になるであろう、このような行為に、
温かい眼差しで接して下さっている方々に心からお礼を申し上げたい。
そして、ファンを代表して清掃活動をかって出て下さってる方々にも。

RCサクセション 多摩蘭坂(YouTube)

******************

それにしても、清志郎の多摩蘭坂での下宿生活は、
どのようなものだったのだろう?
『恐るべきジェネレーションの違い(Oh Ya!)』
という曲で、若き清志郎は、
アパートの大家ときたら文句ばっかりだ、
どこかに少しは気の合う大家は居ないのか、
等々と歌っていたのだが、やはり多摩蘭坂の頃も、そうだったのだろうか?

と言っても、その歌詞に出て来る大家というのは実に親身な人で、
口うるさく言う文句の中身というのが、
『夜うるさい』『素行が悪い』『いろんなヤツの出入りが激しい』
『家賃が遅れる』『女を連れ込んでる』『風紀が乱れる』
と、まるで親御さんか舎監先生かという内容なのだった。
そして清志郎自身、
『大人たちの言うことはわかる』『大家の言うこともわかる』
と歌っているくらいなのだった(苦笑)。
今だったら、これだけ構ってくれる大家も少ないのではなかろうか。
人間関係が鬱陶しかったぶんだけ、人の気持ちも温かかった時代に、
清志郎は若い日々を過ごしたのだなと、思った。

RCサクセション 恐るべきジェネレーションの違い (Oh Ya !)(YouTube)

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CHABO涙…清志郎さんへ追悼の23曲(nikkansports)
『2人で歌うはずだった曲を、たった1人で歌った。2日に58歳で死去したロック歌手忌野清志郎さんの盟友、仲井戸“CHABO”麗市(58)が22日、都内でソロライブを行った。病院で最期をみとり、4日の密葬に参列後の初のステージを清志郎さんへの追悼ライブとした。』

チャボこと仲井戸麗市は、RCサクセションのギタリストであり、
清志郎がソロになってからも、たびたび活動をともにした盟友だった。
清志郎のライブの映像を観ると、ほとんどいつもその横には
まさに当意即妙という呼吸で応えるチャボの姿があり、
二人がどれほど理解し合った無二のパートナーであったかが、
よく伝わって来たものだった。

『冒頭からギターを持つ手が震えた。「ちきしょう、サングラス忘れちゃった…」。親友とともに愛してきた外国人歌手のカバー曲の連続で <歌詞>ここにいるはずの君がいない…。<歌詞>ずっとあれから努力してるんだ、君の不在を受け止めることを…と、悲しみの和訳で歌った。』

4日の清志郎の密葬のとき、チャボは痛々しいほど憔悴していたが、
流れる録音の清志郎のライブの声が、『OK、チャボ!』と呼んだとき、
不意に立ち上がって前に出て、ライブさながらのパフォーマンスをした、
と、新聞記事に書いてあった。
清志郎が高校を出て最初に買ったギターの、
ギブソン『ハミング・バード』が、遺品としてチャボに託され、
チャボは清志郎の出棺のとき、それを高く高く掲げて見送った。

――以来、チャボは沈黙した。
9日の青山の葬儀のときにもチャボの姿は無かった。
この、昨夜のライブが、4日以降、初めての、
チャボからの意思表示だったのだ。

『当初は4月までメールのやりとりをしていた清志郎さんをゲスト出演させるつもりだった。「調子が良さそうなら、歌ってもらおうと楽しみにしてたので、悔しいです」。2人で歌うはずだった、RCサクセションの「君が僕を知ってる」「いい事ばかりはありゃしない」「夜の散歩をしないかね」を1人で歌った。スタンドマイク1本でハモる場面では、いつものように左に寄った。もう、右に清志郎さんはいない。それでも体が自然と傾いた。』

加藤くん(チャボ)と栗原くん(清志郎)は、
まだRCを結成する以前から意気投合し、頻回に文通をしていた仲だった。
携帯もメールもなかった、40年前という時代、
文字通り手書きの往復書簡が、無名の、若い二人を繋いでいた。

『40年前の出会い、文通をしていた秘話を、詩の朗読で披露した。全23曲が清志郎さんにささげる歌詞だった。ザ・ローリングストーンズのボーカルとギタリストに例えられ「日本のミック・ジャガーとキース・リチャーズ」とまで称された唯一無二の名コンビだ。「離れ離れになんかなれないさ」と歌った。』『「おーい!! 清志郎、歌い続けること、だよな? わかってるゼ!! キヨシ、キヨシ、君の友だち、仲井戸チャボ麗市」。』『涙でくしゃくしゃの顔で天に向かって“手紙”を読み上げ、文通が終わった。清志郎にさよならした。』【瀬津真也】

清志郎がいなくなり、本当ならチャボは、まだとても、
人前に出られるような状態ではなかったのではないだろうか。
でも、清志郎を上から下まで全部、わかっていたチャボだから、
こんなにつらいライブを、敢えて行ったのだと思う。
清志郎がチャボに、『歌い続けること』を望んでいるのが、
チャボには、わかっていたから。
チャボにしか歌えない歌を聴かせて貰えたことで、
チャボファンも清志郎ファンも、昨夜は、新たな涙の中で、
どれほど強い気持ちを分かち合えたことかと思う。

ありがとう、チャボ!愛してまーす!

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清志郎さんの遺作、6・17に発売決定(デイリースポーツ)
『2日にがん性リンパ管症のため、58歳で亡くなったロック歌手、忌野清志郎さんの遺作「Oh!Radio」が6月17日にシングルリリースされることが14日、分かった。清志郎さんが大阪のFM802の春季キャンペーン用に作詞作曲したもの。自身で歌ったデモテープが残っており、これをCD化する。』『2005年12月の「仕草」以来、13作目となるソロ名義でのシングルは、作詞作曲だけでなく、ギター、ベース、ドラム、ハープまでをも担当した渾身の作品。ファン葬で4万3000人が涙したロック界の“GOD”のラストソングだけに、大きな注目を呼びそうだ。』

清志郎が、FM802の春のキャンペーン・ソングを書く、
という話は、今年の春先、清志郎の療養中に既に聞いていて、
実際にラジオで流れるようになると、「とてもイイ!」という感想が
ネットにも出てきていたので、是非、私も聴きたいと思っていた。
ただ、放送になったのは、Radio Soul 20全員で歌いつぐもので
(阿部真央・新里英之・岸田繁・スガシカオ・仲宗根泉・
BONNIE PINK・山森大輔・和田唱)、
当初は、清志郎の歌うバージョンは公開されていなかった。
それが、このたび清志郎本人によるデモテープの音源から
CD化され、発売されることになったのだ。

Oh!Radio / Radio Soul 20(YouTube)

清志郎は、詞や曲が書けて、歌えるというだけでなく、
あらゆる楽器がひとりで出来る人でもあった。
自作の曲に限らず、2004年秋に出た『YOSUI TRIBUTE』でも、
『少年時代』を清志郎自ら編曲し全ての楽器を自分で演奏している
忌野清志郎/少年時代(井上陽水のカヴァー)(YouTube))。
今回の『Oh!Radio』はデモテープとして録音されたために、
はからずも清志郎による手作りそのものの制作になったのだが、
そのことがかえって、ファンにとっては、
清志郎の「遺作」としての価値を高めることになったような気がする。

私の記憶では、最初の療養生活から武道館復活までの間には、
確か、清志郎は全く新しい曲を書かなかったと言っていたと思う。
それが、再発治療のためにライブ活動を再度休止してからは、
間寛平ちゃんの応援ソング『RUN寛平RUN』『走れ何処までも』や、
この『Oh!Radio』などを作詞作曲し、こうして録音もしていたのだ。
その間の心境の変化があったかなかったか、詳しい事情は、
私程度のファンの立場では知りようもないことだが、
何であれ、亡くなる直前の時期まで清志郎の声が記録されていたことを、
私は、とても嬉しく、有り難いことだったと思っている。

こんな、『トランジスタ・ラジオ』への圧巻のオマージュのような、
しかも細部まで自作自演の音源が、最後に残ったのかと思うと、
清志郎が、出発にあたり、自分できちんと決着をつけて行った、
みたいな、そんな印象すら、ある。

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5月3日以来、清志郎のことを考えない日はなく、
本当にもう今、この世界のどこにも清志郎は居ないのか、
清志郎の居ない日が、どんどん過ぎて行ってしまう、
等々と、同じところを堂々巡りしそうになっていたのだが、
12日にNHK『SONGS 忌野清志郎ライブ完全版』を観たとき、ふと、
清志郎が「いつまで言ってんだっ」と言ってそうな気がした。

ええ、もう。
アイタタなファンだと、笑って下さい~。

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「お母様。オミヤゲです」
と今日、主人が職場から持って帰ってきてくれたのは
地元紙・中国新聞の夕刊だった。
夕刊の存在する地域は都会、というのが私の昔からの認識で、
それはともかく、どうして私が主人の「お母様」なのだろう、
というのも今は関係ないから、それもまたともかくとして、
何が載っていたかというと、『愛してま~す 忌野清志郎』。
中国新聞にまでこんな記事が載るなんて。

訃報以来、私は改めて、忌野清志郎の大きさを知り、
彼の遺したものの影響力が、今になってわかったりもして、
ファンとしてそれはとても嬉しくはあったのだが、
しかし、何かこう、連日の報道を読んだり聞いたりしていると、
『それは、清志郎の立ち位置とは違うのでは』
と、ぼんやり感じることも、ときどきあるようになった。

彼が時代を築いた先駆的英雄だったという主旨の称賛、
42000人の参列した葬儀は美空ひばりと同記録だなどという報道、
国民栄誉賞を授与したら良いのではないかという意見、
そういうのは、私の捉えていた清志郎とは、どこか相容れないものだ。
特に、国家的な権威づけや「お墨付き」など、
清志郎には一番似合わないと、私は思っている。

長い間、私たちだけのものだった清志郎が、
訃報以来、突然、大勢の人によって好きなようにされてしまった、
みたいな、・・・勘違いファンの我が儘なんだろうけど
たまに違和感を覚えるワタクシなのだった(逃)。
勿論、私の見た清志郎がすべてでないことはわかっているので、
私の希望なんか全然、この際問題ではないわけですが。

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清志郎さん“ラストライブ”に4万人超ファン(sponichi)
『前日の雷雨から一転した“雨あがりの空”の下、司会者の「忌野清志郎の“青山ロックンロールショー”にお越しいただきありがとうございます」のあいさつで開始。その声にファンが「ウォーッ!」「キヨシローッ」と叫ぶ姿は、まるで清志郎さんのラストライブ。読経も線香も賛美歌もない。黒白でなく、紅白の幕が祭壇を囲んだ。』『午後10時50分、最後に献花したのは都内の主婦(47)。この時点で約200人が居残り、別れを惜しむように「アンコール!」と声をからした。そして関係者と「雨あがりの夜空に」をフルコーラスで合唱し「ボス、愛してます!」と夜空に向かって叫び合った。』『ファンの列に最も感激していたのは、景子夫人(53)、長男の竜平さん(20)、長女の百世さん(17)。自宅に一度帰ったものの「こんなに多くの方が集まってくれて。できる限りお礼を言いたい」と閉門直前に再び訪れ、目を潤ませた。』

昨日の午後から、私はずっとネットで実況カキコミを読んでいた。
青山で並んでいる人たち、これから向かう人たち、お留守番組、
そして夕方からは、「お別れ」を終えて帰ってきた人たち、
皆が、mixiの清志郎コミュの青山実況スレに書き込み、
「青山ロックンロール・ショー」の一部始終を共有したのだ。

また『行けない人は、清志郎へのメッセージを書き込みしてくれたら、
自分が出かけるとき、プリントアウトして現地に持参します』
という内容のスレを立てて下さった方もあり、
スレ主が出発した後は、別の人たちが引き継いでメッセンジャーとなり、
全くの善意から、見知らぬ人たちの思いを一手に引き受け、
清志郎に届けて下さったりもした。

葬儀所周囲では、ほとんどの人が4時間、5時間待ちは当然で、
晴天の暑い陽射しの中、少しも進まない列にひたすら並んだ。
当初、公式発表では弔問受付は6時終了予定となっていて、
並んでいる人たちが現地係員に確認したところ、
「警察から指導が入ったので6時半までで列をつくるのは終わり」
という情報が判明し、途中で書き込まれた。
しかしその後、間に合わなくても門の外からでも清志郎を送る、
と言って、仕事のあと電車に乗ったり高速を飛ばしたりして、
無理を承知で青山に向かう人たちが後を絶たず、
「6時半で打ち切るという話は、なくなった」
という現地情報が新たにUPされた。

徹夜で並んだ人たちを含めて、乃木坂からと、青山一丁目からと、
列は二手に分かれて続いており、青山墓地出口で合流していたが、
青山一丁目から並んだほうが流れが格段にスムーズで、
結果論になるのだが待ち時間にはかなり不公平さがあったようだった。
終盤は、乃木坂からの列を優先して通すように対処が工夫された。
しかしこのような規模の行列の案内や進行など、スタッフも警備員も、
ほとんど経験がなかっただろうから、不可抗力という面は大きかったと思う。
葬儀所受付で「大変長い間お待たせして申し訳ありませんでした」
と対応したスタッフが、泣いていて鼻の頭が真っ赤で、
思いを共有できたことで慰められたという書き込みもあった。

これから並ぶと終電に間に合わなくなる、という現地係員の判断で、
最終的に夜10時半頃、葬儀所の門が閉められることになった。
それ以降にも駆けつけた人たちに対しては、
清志郎へのメッセージをスタッフが受け取り、
遺影のポストカードが渡されるという形式になったということだった。

解散前に、皆は葬儀所の前で『雨上がりの夜空に』を合唱したそうだ。
なんとも、始めから終わりまで、ド派手で、盛大で、
前代未聞のロックン・ロール・ショーだった。
巨大な遺影になり、弔辞を読まれ褒め称えられる立場になるなんて、
清志郎は、ちょっと気恥ずかしかったかもしれないけれど・・・。
でもきっと清志郎は、皆が悲しんだことも、この日を誇りに思ったことも、
このロック・ショーで最高に感動したことも興奮したことも、
「上から下まで全部、わかっていてくれる」と私は思った。
何より、「葬儀」の日まで、こんなビンビンに盛り上がっちゃうなんて、
「世界中の人に自慢したいよ」と、昨日は誰もが思ったに違いない。

****************

昨夜は奇しくも満月だった。
晴れた夜だったから、それがなおさらはっきりと見えた。
清志郎の詞には、「お月様」がしばしば登場していて、
彼が、夜に月を見上げて様々な思いを書き留めた、
ということが想像できるのだが、
そうであればこそ、ラスト・ショーを最後まで見守る満月は、
いかにも清志郎に似つかわしいもののように感じられた。
実況スレのファンが、皆、清志郎の詞を引用して言った。
今宵は「ジンライムのようなお月様」だと。

夜半、実況スレがほぼ終息したあと、
ベランダに出て、その満月を見ようと、空を見上げたとき、
私は、昔から大好きだったナンバーを、ふと思い出していた。
それは、RCサクセションの、ごく初期の曲『夜の散歩をしないかね』。
同じ、お月様が登場する詞でも、『雨上がりの夜空に』などとは
全く違う存在なのだが、清志郎のR&Bの原点といえる曲で、
歌い手としてのソウルフルな魅力が最大限に発揮された、
清志郎ならではの一曲だと、私は以前からずっと思っている。
昨日、夜更けて、宴が終わり、それでも月だけが、
天からただひとり静かに、私たちを見下ろしているようだった。

きれいな月だよ 出ておいでよ 清志郎


夜の散歩をしないかね(YouTube)

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