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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



主人が読んでテーブルの上に置きっぱなしにしていた、
講談社現代新書《モナ・リザの罠》西岡文彦・著を、
何気なく手にとって読み始めたら面白くて、一気に読み終えた。

名画の代名詞とも言えるほど有名なモナ・リザに関して、
そもそも絵のモデルは誰なのかという問題や、
これが実は、人物画や風景画というジャンルが
成立する以前の作品であるということ、
この絵の左右両端が切断されたものなのではないかという噂、
等々を取り上げて、改めて検証した興味深い一冊だったのだが、
これを読んで私は、本分に関連して、思い出したことが様々あった。

私は十歳前後の頃、雑誌に付録でついていた、
《モナ・リザ ジグソーパズル》を持っていたのだが、
当時、パズル類が割と得意であったにもかかわらず、
やってみたら、モナ・リザを元通りにするのは非常に難しいものだ、
ということを初めて実感した記憶があるのだ。

それまでの私の認識では、モナ・リザという絵の構成は、
顔や手が肌色、服と髪は黒、背景は山とか川、
というふうなもので、そのパーツの色や形を基準に
パズルは簡単に組み立てられるように思っていたのだ。
が、実際にやろうとすると、そんな単純なものではなかった。

例えば肌の色ひとつにしても、部位によって微妙な濃淡があり、
額や頬、首、そして手と、肌のキメの細かさが違い、
手指のひとつひとつまで、明瞭さが異なっていて、
とてもじゃないが「肌色」とまとめられるようなものではなかった。

また、全体に黒っぽいドレスを着ている、
というイメージしかなかったのに、
実際にパズルの一片一片を見てみると、それらにはやはり濃淡があり
生地の織られ方の違いや、繊維の流れまでが、
信じられないほど精緻なタッチで描き込まれていたのだった。

黒色をしたパーツひとつについてさえ、
ほかにも同じような色のそっくりなパーツがたくさんあるのに、
どれもこれも色合いが微妙に違っていて、
その色彩と周囲とのつながりには明らかな必然性があることに
気づいて、私は、大いに悩んだ。
なんらかの必然性があるのはわかったのだが、
それがどこにどう繋がるべきものなのかが、
私の感覚では容易に解き明かせなかったからだ。

そして、最後にそれがぴったりの場所に収まってみれば、
なるほどこれはここにしかあり得ない色とタッチだ、
ほかの箇所とは絶対に違うのだ、ということが感じられ、
計算されつくした絵画のあり方を垣間見た思いがしたものだった。

勿論、小学生の私に、このような語彙はなかったから、
そのとき感じたことは、つまり
『すごーーー・・・・』
という一語に尽きたわけだけれども(^_^;、
子供心にも私は、そこに使われている色彩の多様さと微妙さに驚き、
絵画として眺めたときにあの「モナ・リザ」であるためには、
実際には一目では認識できないほどの色が、
想像を絶する細やかさで重ねられているのだ、
ということを知ったのだった。

上野の国立博物館で《日本モナ・リザ展》が行われたのは、
この本によれば1974年4月だったということなので、
私が当時持っていたのは、多分、
小学館《小学四年生四月号》あたりの付録パズルだったのだろう。

出来上がったパズルを改めて眺めて、小学生の私は、
モナ・リザが、どうも、普通の美しい女性には思えず、
見事な絵画なのに、どこか不気味だ、と感じられたものだったが、
そのことについても、この《モナ・リザの罠》で詳述されていて、
長年の漠然とした印象について、明瞭に解き明かされた思いがした。

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風邪で、こう体が痛いと、寝ているしかなく、
何か気の紛れることをしようと思うのだが、
テレビ嫌いの私に出来ることは、音楽鑑賞と読書しかない。

時間だけはたっぷりあるので、こんなときにこそ、
日頃聴けないCDを聴くとか、読めない本を読むとかすれば良いのだが、
残念ながら、気力がないと、馴染んだものでないと長続きせず、
それで選んだのが、例によってギーゼキングのモーツァルトと、
『アンネの日記』だった(^_^;。

(ここからは超長いです。体調不良のため推敲もしません。
お時間のある方だけおつきあい下さいましたら充分です。)

これまで語る機会がなかったのだが、実は私は、
ちょっとした「アンネ・フランク・マニア」である。
中2のときに、皆藤幸蔵氏の訳による『アンネの日記』を読み、
我ながらあきれるほどハマってしまったのが、馴れ初めだ。
当時、自分でも大学ノートに毎日なんだかんだと書いていたのだが、
自分と同じような年齢だった少女が、
こんな、とっくの昔に日記文学を確立していたというのは衝撃で、
なるほど、日記はこのように書けるものかと目から鱗が落ちた気分だった。

皆藤幸蔵氏の訳文がまた、あまりにも見事だった。
14歳だった私にとって、あれは、それまでに触れた中でも
最も美しい日本語のひとつだった。
このように書きたいと、どれほど憧れたことだろうか。
「アンネの日記」そのものにハマったのか、訳文のほうにハマったのか、
その境界は我ながら定かではない部分もあったと思う。

が、それはともかくとして、最初のうちこそ、
夢中になってただただ読んでいたのだが、私は途中から、
『この日記は、どうも、できすぎているのではないか』
と思うようになった。
当時ときどき言われていたような、デッチ上げ疑惑などとは違い、
日記の信憑性については、私は全く疑っていなかったのだが、
私の抱いた「できすぎ」感というのは、
『アンネは、日記を書くのに、もしかしたら一度下書きをして、
それを推敲したり書き直したりしながら、清書していたのでは?』
ということだった。
一気に書いたにしては、文章が練られ、構成が整理され過ぎているし、
全体の統一感もあり過ぎるのではないか、と私は感じたのだ
(翻訳が立派過ぎるからか?とも思ってみたのだが)。

私のカンが正しかったことは、九十年代の半ばになって判明した。
確かに、アンネの日記は、編集・清書されたものだった。
それも、主としてアンネ本人の手によって。
80年に、アンネの父親のオットー・フランク氏が亡くなり、
それまで彼が管理していたアンネの直筆日記は、
遺言によりオランダ国立戦時資料研究所に遺贈されたのだが、
その後、日記の版権を持つアンネ・フランク財団が、
91年になって、「アンネの日記・完全版」なるものを世に出した。
それは、これまでの版には掲載されていなかった未発表部分を含む、
新しいバージョンの「アンネの日記」だった(邦版が出たのは数年後)。
そのときに、「アンネの日記」には、アンネが最初に書いたものと、
アンネ本人によって書き直された出版用日記の二種類が存在したことが、
世の中に対して明らかにされたのだ。

いや、正確に言うと、事態は、実はもう少し、込み入っていた。
私の想像が当たっていた、どころではない。
そこには、アンネ本人や、父親のフランク氏の、
様々な思いが交錯する、深い「裏事情」があったのだ。

アンネはまず、13歳の誕生日に、父親から日記帳を贈られて書き始め、
これが推敲なしの最初の日記となるわけだが(学術上aテキストと呼ばれる)、
のちに隠れ家生活を始めてから、将来出版することを思いつき、
自分の日記に手を加えて、出版用の日記を自ら編集し始める
(これがbテキストと呼ばれるものになる)。
彼女は、自分の日記を最初から読み返し、自分で書き直したものを、
本来の日記とは別に、たくさんの紙片に清書していたそうだ。

そして、戦後、ひとり生き残ったオットー・フランク氏が、
娘の遺品となったこれらの日記関連文章に初めて目を通し、
アンネの意志を尊重し主としてbテキストをもとに、
身近な人々のプライバシーの侵害になる箇所などを割愛し、
彼自身の価値観を反映して、編集を施し世に出したものが、
90年代に入るまで我々が「アンネの日記」だと思っていた文章である
(これがcテキストと呼ばれている)。

私が「できすぎ」と感じたのも道理で、当初流布した「アンネの日記」は、
アンネ本人と、父親のフランク氏による、二段階の推敲・編集を経て、
文芸作品として完成されたもの(=cテキスト)だったのであり、
それは、明らかに発表を前提とし、読者を意識してつくられたものだった。
決して、女学生が勢いで書き散らした日記そのままではなかったのだ。

この完成度ゆえに、デッチ上げ疑惑も盛り上がったのだろうと思うが、
bテキストはアンネ本人によって編纂されたものであり、
そのことは筆跡鑑定からも明らかであるとされているので、
私は現在も、「アンネの日記」は十代の少女の記録である、
という前提で、愛読している。
しかし、誤解を恐れずに大胆なことを言うならば、
実は私個人としては、仮に、「アンネの日記」が、
のちに誰かが勝手に書いた偽物であったと結論づけられたとしても、
今更、たいした憤りも失望も感じないのだ。
私は「反戦」や「人類愛」を訴えた部分に感動したのではなく、
ましてやそれが「迫害されたユダヤ人少女の書いた文章」だから
価値がある、と言っているのでもないから、
仮にそこが否定されたとしても、別にどうということはないのだ。
私は、ただただ、日記文学としての類を見ないスタイル、
構成感、丁寧な記述とそこに込められた「書くことへの愛着」
と言ったもののほうに、心底、惚れ込んでいるのだ。
極端な話、本物であっても「稚拙な、凡百の完成度」ならば
それは、それまでのものであり、
偽物疑惑があろうと「私に感銘を与えてくれる珠玉の作品」をこそ、
手元に置いておきたい、というのが私の道楽全体に通じるポリシーだ。

ところで、この、aテキスト、bテキスト、cテキストのすべてが、
三段組みで並列・収録されている、『アンネの日記研究版』という書物が、
九十年代半ばに、深町真理子氏の訳で出版された。
マニアの私としては、勿論、買いましたとも(^_^;。
驚くなかれ、この本は11,214円もする。
現在、私が所有している中で、多分、最も単価の高い本であり、
同時に最も重量感のある本である(これで殴られたら脳震盪では済まない)。

これで初めて私はaテキストのほぼ全貌に触れ、ある意味やっと安心した。
かなり不完全で首尾一貫しない内容だったからだ
これでこそ、本来の「日記」というべきものだろう。
話題があちらこちらに移り変わるし、文章が途中で切れているし、
何より笑ったのが、日記の宛名が、
有名な「キティ様」以外にまだまだ何人も何人もいたことだった。
アンネは、手紙形式で日記を書くアイディアは最初からあったが、
相手をひとりに絞るのは、隠れ家に移ってから決めたことだったのだ。

こんな物凄い本が出たのだから、これで本当に、
アンネの日記資料はすべて世に出たのだろう、と誰しも思った。
少なくとも私は、「研究版」を買った時点でそう信じた。
とうとう、私のアンネは完結した、と。
ところが。まだ、あったのだ。aテキストの未発表部分が。
それを収録したのが、2003年に改めて出版された、
『アンネの日記 増補新訂版』だった。

私から見ると、その未発表部分というのは、
例によって、アンネが母親についての不満を書き殴った、
あんまりたいした内容の部分でもないと思われたのだが、
関係者にしてみれば、公にするには忍びない表現があったようで、
研究版のaテキスト本文では該当部に空欄が設けられ、
「フランク家の要望により割愛」した旨、記されていた箇所だった。
原文は、フランク氏が封印したに等しいかたちで、
フランク氏の友人のもとに預けられていたらしい。

というわけで、あまりにも長々と語って参りましたが(^_^;、
私は、旧版の皆藤幸蔵訳の「アンネの日記」から、
新版の深町真理子訳の「アンネの日記」、
同じく深町真理子訳の「アンネの日記完全版」「同 増補新訂版」
及び、「アンネの日記研究版」、すべて所有しているのだが、
たったひとつ、戦後すぐ出されたという、皆藤幸蔵訳の
「光ほのかに」という邦題つきバージョンだけは持っていない。
お持ちの方、いらっしゃいましたらよろしくお願い致します。
美品歓迎、価格は応相談(殴)。

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倉田百三『出家とその弟子』を読み返した。
初めて読んだのが中学二年生のときだったから、
四半世紀ぶりにこの本を手に取ったことになる。

14歳の私が何を思ってこの話を読んだのか、
今となっては思い出せないのだが、
こうして四十過ぎて改めて読んでみると、
この戯曲の奥深さには非常に打たれる。
最も罪深い者にこそ、御仏の救いが与えられる、
という親鸞の浄土思想が、どれほど深く、
魂の慰めとなり得るものか、
恐らく、十代半ばの私には
感じ取れなかったことだろうと思う。
著者26歳時の作品と解説にあり、恐れ入ってしまった。

人生五十年と言われた時代には、
26歳は既に折り返しの年齢だっただろうし、
自身も胸を病んでいた倉田百三にとっては、
死が日常的に自分を脅かすものであっただろうと思う。
その状況下だからこそ、この研ぎ澄まされたような、
究極の宗教文学とも言える作品を
生み出すことが出来たのだろう。

現代の我々は平時に誰も彼もが結核で死ぬことは稀だし、
人生も平均的に八十年前後あっても不思議はないから、
そのぶん、人は皆、精神的に良くも悪くも安定してしまい、
哲学的な思索にふけることが減ったのではないだろうか。
ふける人もないではないと思うが、多くの場合、
そこに一瞬の命の燃焼を賭けるかのような、
追いつめられた気分には、ならなくなったのではと思う。
豊かで安定した生活が約束されたからこそ、
現代人の精神性は堕落したのではないだろうか。

もうひとつ、今の歴史授業では、宗教史というものを
ほとんど扱っていないということも私は感じた。
欧米でキリスト教が歴史と切り離せないものであることに較べ、
日本の仏教は、門徒数が多いにもかかわらず、
文化史の一画という程度の扱いであることが多いと思う。

法然は浄土宗、弟子の親鸞が浄土真宗、
と「一問一答」みたいな用語集で暗記するのが、
私の知っている歴史の学習方法だったのだが、
実際に当時の仏教が人の思想にどういう影響を与えたか、
どれほどの力を持っていたかなどは、
授業でも教科書でも、ほとんど、
触れられていなかったのではないだろうか。

少し話が逸れるが、信長が比叡山を焼き討ちしたのは、
単に彼が、政治と宗教の分離を目指すためにやったとか、
激昂しやすい異常性格の男だったから、とかではなくて、
比叡山延暦寺が、それほどに強大な宗教的指導力を持ち、
信長の命さえ、手玉にとるほどの存在だったからだ、
という方向で考えてみるというのは、どうなのだろうか。
信長が本当におそれていたのは何だったのか、
彼が焼き討ちを敢行してまで封印したかったのは何なのか。
当時の仏教がどれほど恐ろしいものだったかを考える、
という視点が、歴史授業の中にあっても、
良かったのではないか、と今にして思う。

(尤も、こういう考え方は、あまり突き詰めると、
マルキシズムとどこかで衝突してしまうので、
歴史授業の「偏向」を避けるためには、
触れないのが無難だった、ということかもしれない。)

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『人類の月面着陸は無かったろう論』という本がある。
昔、『欠陥英和辞典の研究』で一世を風靡した副島隆彦氏の著作だ
(私的にそうだった、というだけなので深くはツっこまないで下さい(^^ゞ。
この方の著作は英語のみならず多彩な分野に渡って多数あります。念のため)。
以前から気になっていたのだが、このほど機会を得て、ようやく私はこれを読了した。

69年から72年までの、アポロによる月面着陸及び有人探査は、
アメリカによる捏造であり、飛行士達の活動の映像もフェイクだった、
というのがこの本の主張だ。
アメリカはソ連との冷戦で絶対的な優位を確保するために、
宇宙開発で世界に先駆けて偉業を達成する必要があった。
だから、実際には不可能な月探査が、あたかも実現したかのように、
虚偽の映像まで世界に流して、アメリカの威信を守ったのだ、
と副島氏は言う。

私はこういう話が大好きだ。
私はあの月探査が本当でも嘘でも、個人的には全然困らないので、
あれがもし大嘘で、今後それが露見することがあったら、
アメリカを初めとする世界の国々はどういう反応をするのか、
と考えると、それが見たくて、ついワクワクしてしまうくらいだ(^_^;)。

私自身は、これまで、さほどの問題意識は持っていなかったが、
あのときあれだけ何度も何度も(合計6回だったらしい)、
アメリカの宇宙飛行士たちが月へ出かけたのに、
なぜ、それから今に至るまで全然、誰も行っていないのかな、
ということは常々、不思議に思っていた。

また、ヴァンアレン帯を越えて宇宙を旅して、月に軟着陸し、
幾日も滞在し、月面走行車なるものを使用してあちこち探索した挙げ句、
結構な大きさの月の石まで採取して、また地球に帰って来る、
などという物凄いことがあの当時既に実現していたにもかかわらず、
それに較べると、最近のスペースシャトルというのは、
ただ地球のまわりをぐるぐる回っているだけだなんて、
なんとも小規模で、しおらしい計画だな、とも思っていた。

副島氏は、まさに私が疑問に思っていた事柄について論破し、
そもそもアポロによる有人月面探査は虚偽だった、と主張している。
ついでに、97年の火星探査機マーズ・パスファインダーについても、私は、
『軟着陸できたのならもっと驚くような成果があっても良かったのに、
意外と公表されないものだな?』
と不満に思ったことがあるのだが、その私の疑惑に答えるように、
副島氏は、この火星軟着陸成功も嘘だっただろう、と解釈している。

私にとっては、かねがね疑問だった事柄にズバリ触れる本で、
こういうことを夢想していたのは私だけではなかったのだということがわかり、
嬉しかった(爆)。
もちろん間違いなくトンデモなのだが、実に面白いトンデモだった。
こういうものを読むためなら、私は自分の時間を使うこともやぶさかではない。
少なくとも今や私は、「月面着陸は当然あった」とまでは、
言い切れないものが、私の心の片隅に生まれたのを感じている(笑)。

ただ、真面目に言うなら、この本には
よけいなこともたくさん書かれすぎていると思う。
副島氏はこの話を、最初、インターネットで発表したのだが
彼の論への反発や嫌がらせや妨害が並々ならぬものであったらしく、
しばしば、この本の中で、そうした妨害者や「副島アンチ」たちへの、
反論や反発、ときには呪詛の言葉まで書いている。
副島氏の状況を想像する材料としてはそれらの果たした役割はあったが、
私は別に彼のアンチではないので(シンパでもないが)、
要所要所で感情的な言葉が混じるこの本の構成には、
いささか気分の悪いものがあったのも本当だ。
もっと事実関係の検証にのみ、頁数を割いて欲しかったと
個人的には思っている。
そのほうが、精度の高いトンデモになったってば(逃)。

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私は「笑い」の追求がひとつの生き甲斐だ。
私の物事の判断基準は、「笑えるかどうか」であることもしばしばだ。
だが、巧まずして生まれる笑い、狙ってもいなかったからこその可笑しさに、
勝るものはないのではないか、と思うこともまた、非常に多い。

VOW王国『ニッポンの誤植』(宝島社)

この本は有名だろうか?
私は前から書店で見かけて、気になってはいたのだが、
店頭で死ぬのが怖くて、なかなか手に取る勇気がなかった。
それを、ついに、先日、禁を破って、開いて見てしまい、
・・・読み始めていくらもたたないうちに窒息寸前になったので、
やむなく、買った。だから、手にとっては、いけなかったのに(^_^;)。

ここには、幾多の誤植の実例、及び、その周辺のいろいろが納められている。
本についているオビの部分からして、既にたまらない。
『週刊文春』で実際にあった訂正記事が掲載されているのだが、

『■訂正 先週号「名前」記載の「大和田獏」を「武者小路実篤」に訂正します』

めくると、中身もいずれ劣らぬ力作揃いだ。
例えば、時計の使い方説明書の抜粋が載っている。
『1.電池フタをあけなす
 2.乾電池を入れなす。
 3.時計を合わせなす。
 4.アラーム針を合わせなす。』

広告も載っている。
『無添加 人参バターロール 6個 180円
無添加のバターロールに人間を練り込みました
『コカ・コーラ カスッと爽やか 350ml 105円』

新聞記事だってあなどれない。
『大統領は厳しい選挙戦の疲れのあとが目のまわりに伺えたが、
集まった支持者の労をねぎらったった

『橋は片側一車線で見通しはよく、橋周辺の川幅は400メートル。
西大寺署はスペードの出し過ぎではないかと見て調べている』

厳密には誤植ではないのかもしれないが、「誤変換」のコーナーもある。
『アントニオ猪木→(誤変換後)杏と匂いの木
『生まれた子供→(誤変換後)埋まれタコども


・・・・惜しいな。私の知る限り最高傑作の、
『ちぎっては投げ ちぎっては投げ
ちぎって鼻毛 ちぎって鼻毛
は載ってなかった(逃)。

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今朝は、年に二度ほどまわってくるハタ当番、
いわゆる「みどりのおばさん」の日だった。
たとえ子供は学区外通学であろうとも、
我が家は相変わらず佐伯区内某市立小学校の児童保護者だから、
こういう当番は当たり前に回って来るのだ。

お陰で私は今朝五時起きだった。
7時40分までに学校近くの交差点に到着するには、
こっちを六時台に出るバスに乗らないと間に合わなかったのだ。
しかも巨大ハタを持ってだ(T.T)。

娘の学校は、標高の高い団地内にある小学校なので、
早朝となると殊更寒かった。
私はハタを振りつつ、
『おはようございま~す』『いってらっしゃ~い』
とやっていたのだが、眠さと寒さのせいか、
途中から口がまわらなくなって来て、
『おはよっしゃ~い』
になりつつあったのには文字通り閉口した。
意味不明なことを言うくらいなら、黙ってハタを振るべきだった。

だがこんなのは言い間違いとして序の口だ。
笑うほどのものではない。
私はかつて、もっと恥さらしな言い間違いをしでかしたことがある。
『在日外国人指紋押捺問題』に関する英語(!)のディスカッション、
という身分不相応なものに出席していて、よくわからんままに発言して、
fingerprint(指紋)と言わねばならないところで、ずっと、
footprint(あしあと)
と言い間違い続けていたことがあったのだ。
どうしてほかの出席者がうつむいているのか、
早く気づけば良かったよ(^^ゞ。
いちいち靴脱いで足型押捺、って凄い光景ですな。

そういえば、「ダメで元々」と励まそうとして
「元々ダメダメ」と言ってしまった、
というのは三宅裕司夫人だったっけ。
確か、「あそこに立っているのが主人です」と言おうとして、
「あそこが立っているのが主人です」というのもあったな。

ちなみに、ほぼ日刊イトイ新聞に、
このような各種言い間違いを集めたコーナーがあるのをご存じだろうか。
これがあまりに人気が出たので、今年の初め、一冊の本にまとめられて、
『言いまつがい』として出版されている。
まだお読みになっていない方は、どうぞお試しあれ。
ただし、く~だらない言いまつがい、と思いつつも、
しだいに腹がよじれてくるので、立ち読みはお勧めできません。

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二十代の一時期、ロマンス小説をやたらと読んだことがあった。
最初は、ハーレクイン・ロマンスだった。
東京~広島を新幹線で移動する機会が多かったので、
車中の時間つぶしにちょうど良いと、遊び友達のOが言いだして、
やってみたら、なるほど全然疲れず、ぴったり二冊読めた。

どれを読んでも話は一緒(ヒロイン登場→ヒーローとの心に残る出会いを体験→
接近→ライバル登場→あわや破綻→一気に語り合って誤解がとけてゴールイン)、
ということは3冊目くらいで看破したのだが、
セッティングに凝っているところがこのシリーズの味わいなのだな、とやがてわかった。
ちなみに、私的大ヒットのヒロイン設定は「五カ国語を話す猛獣使い」だったものだ。

で、あるとき、そろそろ洋モノ金髪は飽きた・やっぱ国内版でしょ、
と思いついて、河岸を変えることにした。
それで、乗車前に駅の書店で適当に買ったのが、
サンリオ・ニューロマンスの一冊、桐野夏生真昼のレイン』だった。

発車して、軽い気持ちで読み始めたら、ビックリ仰天した。
なんと、私がタカをくくっていた、いつもの展開に、なってない!!
喋ってわかってエブリシングズ・オールライト、で済むような簡単な人間関係じゃ、ない!!
しかも、ヒロイン、二股かけてます!!

私は思わぬ鉱脈を探り当てた気分で、このときからしばらく、
サンリオ・ニューロマンスを買いあさった。
桐野作品はもうひとつ『熱い水のような砂』というのがあったがすぐ読んでしまい、
その次に別の意味でハマったのが、此君那由子だった。
中でもピアニストと指揮者の愛を描いた『一夜のコンチェルト』は、
もう、私的には笑い無しには読めないツボ刺激されまくりの娯楽作で、
私は友人Oと組んで自分らも作家デビューしたい、と考えたほどだった。
ネタは勿論、天才イーヴォ少年の、人妻・略奪愛!!

残念ながらこのシリーズはしばらくして休刊になってしまった。
そして、私のロマンス小説熱も、いつしか冷めた。

ちなみに93年、桐野夏生は、第39回江戸川乱歩賞を受賞し
ミステリー作家として世に出た。
今となっては、彼女のロマンス小説時代を知っているのは私の密かな自慢だ(^^ゞ。

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