転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



風邪で、こう体が痛いと、寝ているしかなく、
何か気の紛れることをしようと思うのだが、
テレビ嫌いの私に出来ることは、音楽鑑賞と読書しかない。

時間だけはたっぷりあるので、こんなときにこそ、
日頃聴けないCDを聴くとか、読めない本を読むとかすれば良いのだが、
残念ながら、気力がないと、馴染んだものでないと長続きせず、
それで選んだのが、例によってギーゼキングのモーツァルトと、
『アンネの日記』だった(^_^;。

(ここからは超長いです。体調不良のため推敲もしません。
お時間のある方だけおつきあい下さいましたら充分です。)

これまで語る機会がなかったのだが、実は私は、
ちょっとした「アンネ・フランク・マニア」である。
中2のときに、皆藤幸蔵氏の訳による『アンネの日記』を読み、
我ながらあきれるほどハマってしまったのが、馴れ初めだ。
当時、自分でも大学ノートに毎日なんだかんだと書いていたのだが、
自分と同じような年齢だった少女が、
こんな、とっくの昔に日記文学を確立していたというのは衝撃で、
なるほど、日記はこのように書けるものかと目から鱗が落ちた気分だった。

皆藤幸蔵氏の訳文がまた、あまりにも見事だった。
14歳だった私にとって、あれは、それまでに触れた中でも
最も美しい日本語のひとつだった。
このように書きたいと、どれほど憧れたことだろうか。
「アンネの日記」そのものにハマったのか、訳文のほうにハマったのか、
その境界は我ながら定かではない部分もあったと思う。

が、それはともかくとして、最初のうちこそ、
夢中になってただただ読んでいたのだが、私は途中から、
『この日記は、どうも、できすぎているのではないか』
と思うようになった。
当時ときどき言われていたような、デッチ上げ疑惑などとは違い、
日記の信憑性については、私は全く疑っていなかったのだが、
私の抱いた「できすぎ」感というのは、
『アンネは、日記を書くのに、もしかしたら一度下書きをして、
それを推敲したり書き直したりしながら、清書していたのでは?』
ということだった。
一気に書いたにしては、文章が練られ、構成が整理され過ぎているし、
全体の統一感もあり過ぎるのではないか、と私は感じたのだ
(翻訳が立派過ぎるからか?とも思ってみたのだが)。

私のカンが正しかったことは、九十年代の半ばになって判明した。
確かに、アンネの日記は、編集・清書されたものだった。
それも、主としてアンネ本人の手によって。
80年に、アンネの父親のオットー・フランク氏が亡くなり、
それまで彼が管理していたアンネの直筆日記は、
遺言によりオランダ国立戦時資料研究所に遺贈されたのだが、
その後、日記の版権を持つアンネ・フランク財団が、
91年になって、「アンネの日記・完全版」なるものを世に出した。
それは、これまでの版には掲載されていなかった未発表部分を含む、
新しいバージョンの「アンネの日記」だった(邦版が出たのは数年後)。
そのときに、「アンネの日記」には、アンネが最初に書いたものと、
アンネ本人によって書き直された出版用日記の二種類が存在したことが、
世の中に対して明らかにされたのだ。

いや、正確に言うと、事態は、実はもう少し、込み入っていた。
私の想像が当たっていた、どころではない。
そこには、アンネ本人や、父親のフランク氏の、
様々な思いが交錯する、深い「裏事情」があったのだ。

アンネはまず、13歳の誕生日に、父親から日記帳を贈られて書き始め、
これが推敲なしの最初の日記となるわけだが(学術上aテキストと呼ばれる)、
のちに隠れ家生活を始めてから、将来出版することを思いつき、
自分の日記に手を加えて、出版用の日記を自ら編集し始める
(これがbテキストと呼ばれるものになる)。
彼女は、自分の日記を最初から読み返し、自分で書き直したものを、
本来の日記とは別に、たくさんの紙片に清書していたそうだ。

そして、戦後、ひとり生き残ったオットー・フランク氏が、
娘の遺品となったこれらの日記関連文章に初めて目を通し、
アンネの意志を尊重し主としてbテキストをもとに、
身近な人々のプライバシーの侵害になる箇所などを割愛し、
彼自身の価値観を反映して、編集を施し世に出したものが、
90年代に入るまで我々が「アンネの日記」だと思っていた文章である
(これがcテキストと呼ばれている)。

私が「できすぎ」と感じたのも道理で、当初流布した「アンネの日記」は、
アンネ本人と、父親のフランク氏による、二段階の推敲・編集を経て、
文芸作品として完成されたもの(=cテキスト)だったのであり、
それは、明らかに発表を前提とし、読者を意識してつくられたものだった。
決して、女学生が勢いで書き散らした日記そのままではなかったのだ。

この完成度ゆえに、デッチ上げ疑惑も盛り上がったのだろうと思うが、
bテキストはアンネ本人によって編纂されたものであり、
そのことは筆跡鑑定からも明らかであるとされているので、
私は現在も、「アンネの日記」は十代の少女の記録である、
という前提で、愛読している。
しかし、誤解を恐れずに大胆なことを言うならば、
実は私個人としては、仮に、「アンネの日記」が、
のちに誰かが勝手に書いた偽物であったと結論づけられたとしても、
今更、たいした憤りも失望も感じないのだ。
私は「反戦」や「人類愛」を訴えた部分に感動したのではなく、
ましてやそれが「迫害されたユダヤ人少女の書いた文章」だから
価値がある、と言っているのでもないから、
仮にそこが否定されたとしても、別にどうということはないのだ。
私は、ただただ、日記文学としての類を見ないスタイル、
構成感、丁寧な記述とそこに込められた「書くことへの愛着」
と言ったもののほうに、心底、惚れ込んでいるのだ。
極端な話、本物であっても「稚拙な、凡百の完成度」ならば
それは、それまでのものであり、
偽物疑惑があろうと「私に感銘を与えてくれる珠玉の作品」をこそ、
手元に置いておきたい、というのが私の道楽全体に通じるポリシーだ。

ところで、この、aテキスト、bテキスト、cテキストのすべてが、
三段組みで並列・収録されている、『アンネの日記研究版』という書物が、
九十年代半ばに、深町真理子氏の訳で出版された。
マニアの私としては、勿論、買いましたとも(^_^;。
驚くなかれ、この本は11,214円もする。
現在、私が所有している中で、多分、最も単価の高い本であり、
同時に最も重量感のある本である(これで殴られたら脳震盪では済まない)。

これで初めて私はaテキストのほぼ全貌に触れ、ある意味やっと安心した。
かなり不完全で首尾一貫しない内容だったからだ
これでこそ、本来の「日記」というべきものだろう。
話題があちらこちらに移り変わるし、文章が途中で切れているし、
何より笑ったのが、日記の宛名が、
有名な「キティ様」以外にまだまだ何人も何人もいたことだった。
アンネは、手紙形式で日記を書くアイディアは最初からあったが、
相手をひとりに絞るのは、隠れ家に移ってから決めたことだったのだ。

こんな物凄い本が出たのだから、これで本当に、
アンネの日記資料はすべて世に出たのだろう、と誰しも思った。
少なくとも私は、「研究版」を買った時点でそう信じた。
とうとう、私のアンネは完結した、と。
ところが。まだ、あったのだ。aテキストの未発表部分が。
それを収録したのが、2003年に改めて出版された、
『アンネの日記 増補新訂版』だった。

私から見ると、その未発表部分というのは、
例によって、アンネが母親についての不満を書き殴った、
あんまりたいした内容の部分でもないと思われたのだが、
関係者にしてみれば、公にするには忍びない表現があったようで、
研究版のaテキスト本文では該当部に空欄が設けられ、
「フランク家の要望により割愛」した旨、記されていた箇所だった。
原文は、フランク氏が封印したに等しいかたちで、
フランク氏の友人のもとに預けられていたらしい。

というわけで、あまりにも長々と語って参りましたが(^_^;、
私は、旧版の皆藤幸蔵訳の「アンネの日記」から、
新版の深町真理子訳の「アンネの日記」、
同じく深町真理子訳の「アンネの日記完全版」「同 増補新訂版」
及び、「アンネの日記研究版」、すべて所有しているのだが、
たったひとつ、戦後すぐ出されたという、皆藤幸蔵訳の
「光ほのかに」という邦題つきバージョンだけは持っていない。
お持ちの方、いらっしゃいましたらよろしくお願い致します。
美品歓迎、価格は応相談(殴)。

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