転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



昨日、『ヘルタースケルター』を観に行ったときに、
次回上映の案内として『ジェーン・エア』のチラシが置いてあり、
本編上映前にも、この映画の予告映像が流れた。
シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』と言えば、
私は中2のときに大久保康雄氏の訳で読んで以来、
きょうまで30年以上、再び手に取る機会の無かった小説だった。
今またあれが映像化されたのか……。
しかも、本年度アカデミー賞衣装デザイン賞ノミネート……?

私にとって『ジェーン・エア』との出会いの印象は、
全く芳しいものではなかった。
そもそも中学の友人が、
「これに耐えられたら褒めてやる」と言って、
『ジェーン・エア』の文庫を貸してくれたのが馴れ初めだった。
何が耐え難いのか?と私は軽い気持ちで読み始めたのだが、
ほどなくして、友人の言っていたことの意味が、わかった。

少なくとも、14歳だった私にとって、『ジェーン・エア』は、
暗くてエグくてどうしようもない設定の話だったのだ(逃)。
舞台は19世紀半ばのイギリスで、とにかく話の色調がグレーだった。
ジェーンは身寄りがなく、およそ美貌でない地味な子で、
寄宿学校に入れられていたが、そこでは食事は粗末で生活環境も不潔、
チフスが流行し、ジェーンの唯一の仲良しだった子も病み疲れて死ぬ。
これが彼女の、学校時代のメインの思い出だ。
その後、成長したジェーンは家庭教師として、大きな邸に雇われるが、
ここがまた薄暗い部屋ばかりで、旦那様も気難しく個性的。
やがて根暗同志が幸いしたか、気が合って、プロポーズされるのだが、
実は、邸宅の奥深くには気のふれた妻が幽閉されていて、
……と、どこまで行っても全然スカっとしないのだった(爆)。

私は辛抱に辛抱を重ねて、とにもかくにも最後まで読んだが、
主人公が思いを遂げたというには、どうもこうも重苦しい結末に辟易した。
結局、ちっとも光の射さない物語なのだった。
友人は「うちの親でも読めんかったのに凄いね」と褒めてくれた(爆)が、
シャーロット・ブロンテはもう読まん、と私は固く決意していた。
尤も、『ジェーン・エア』しか出回っていなかったのだから、
そんなに固く決意するまでもなかったのだが。
それからしばらくして、今度は私は図書館で『嵐が丘』に出会った。
妹のエミリー・ブロンテ作ということで、少し警戒したが、
梗概を読んだ範囲ではこちらはドラマチックで良さそうだったし、
妹と姉は別の人だろうからと思い、つい、手を出してしまった。

『嵐が丘』は、確かに『ジェーン・エア』よりは動きがあった。
何しろ話の冒頭から犬が吠えまくり、目の前にはウサギの死体の山。
『ジェーン・エア』の天気はいつも肌寒くて曇り空だったが、
『嵐が丘』は題名の通り、1泊目の晩から吹き降りでえらいことになり、
オマケに窓の外では幽霊がヒイヒイと呼んでいるのだった。
それで、オカルト好きだった私にはツカミはOKな感じだったが、
今度はどこまで読んでも、エキセントリックな人しか出て来なくて、
主立った人たちは皆、極端な無愛想か、叫んでいるか泣いているかで、
些細なことで興奮し、落としどころは毎回「ヒースクリフ!!」。
まともに会話を持続できる人間は、召使いの女性だけ。
不気味な下男は、大昔から爺なのに話の最後まで爺だし(爆)。
恋愛小説だと解説には書いてあったが、私には、
愛し合っているというより呪い合っている話だとしか思えなかった。

ブロンテ姉妹いうんは、ゼッタイ、頭がおかしい、
こーゆー人らと付き合うちゃ、いけんわ。
というのが、15歳当時の私の結論であった(汗)。

さて、48歳になった私は、さすがに中学生の感性は失ったのだが、
ブロンテ姉妹が、少しは理解できるようになっただろうか。
映画『ジェーン・エア』、ここで出会ったが百年目、
観に行ってみようかしら。
怖いもの見たさ……(爆)。

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我が家では、旅行をすると、書店でゆっくり過ごす時間が取れる。
主人も娘も、各種レストランに次いで本屋が好きだからだ(^_^;。
それで、この年末の関西旅行では、私も久しぶりに、
時間構わず、店頭で本を実際に手にとって選ぶ楽しみを満喫した。
そして自分へのおみやげに、……というのもいささか妙ではあるが、
旅の成果として(^_^;、思い切って二冊のハードカバーを買った
(そういえば、去年2月の東京旅行の自分用みやげも、『江馬細香』だった)。

*************

ひとつは、『人はひとりで生きていけるか』(小浜逸郎)。
これは「『個人』『自分』は単独で最初から存在しているのではなく、
常に『社会』との関係性において認識されるものであり、
その部分を、現代の粗雑な意味での『個人主義』は、軽視している」、
……という、社会学的な見地から書かれた本だ。
おひとり様の生き方本だと思って読むと、アテが外れるだろう。
私は80年代の終わりから小浜氏の読者となって、既に長いので、
この人の文章の読み方を、私なりに知っているせいもあり、
今回も大変読みやすい本だと感じたが、好みは分かれるかもしれない。

私は、小浜氏の書かれることすべてに同意するのではないにしても、
この人の指摘の多くは、とても興味深いと感じている。ことに今回は、
選択的夫婦別姓への私の考えや、ツイッターへの嫌悪感に関して、
『裏が取れた』かのような(^_^;、ちょっとした爽快感があった。
小浜氏の文章には往々にして、私が漠然と考えていたことに対し、
もう一歩踏み込んで解剖し指針を与えてくれるようなところがあって、
私はその、霧が晴れるような気持ち良さに惹かれて、
この人の文章を二十年以上も読んでいるのだろうと、思った。

ただ、昔私が熱中した、小浜氏ならではの絶妙の『知的パフォーマンス』は、
昨今やや、その鋭さを失ってきたかな、という印象も正直なところあった。
勿論、世相も変わったし、小浜氏もいつまでも四十代ではないのだから、
同じところに立って、同じことばかり繰り返しているわけには行かず、
それとともに、読者としての私もまた年を取ったと思っている。
だから、必然的な変化については、私は概ね肯定的に捕らえているつもりだ。
しかし、欲を言えばやはり、もうちょっと興奮したかったな(^_^;、
という残念さが、今回は特に、残った。

*************

二冊目は、今はまだ読みかけなのだが、
流転の子― 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』(本岡典子)。
88年に映画『ラストエンペラー』を観て、私は発作的に周辺の本を読みあさり、
満州国皇帝・溥儀の弟の、愛新覚羅溥傑の妻となった嵯峨浩の自伝も、
そのときに通読していたので、このあたりの背景は今でもいろいろと覚えていた。
この本の題も、浩夫人の自伝『流転の王妃』を踏まえたものだ。
それで、愛新覚羅嫮生の名をタイトルで見たときすぐに、
この方が溥傑・浩の次女にあたり、今も関西でご健在であることを思い出した。

愛新覚羅浩の自伝については、例えば入江曜子氏などが手厳しい論評をしていて、
特に、満州国の皇帝御用掛であった関東軍の吉岡安直中将に関して、
浩夫人と入江氏の間には、決定的な見解の相違がある
(浩夫人は吉岡を嫌悪し、入江氏は吉岡を擁護)。
また、溥傑・浩の長女であった愛新覚羅慧生の、謎の多い心中事件についても、
嵯峨家側は、偏執狂的な男性によって慧生の命が奪われた、とする立場だが、
当時の友人たちや周囲の証言には、二人の恋愛関係を示唆するものも複数はあり、
私程度の読者には、事件の全貌が見えたとは言えない部分が残っている。
しかし、過去において起こったことは本来ひとつであっても、
関係者にはそれぞれ言い分があり、既に当事者が墓まで持って行った事柄もあり、
今となっては一刀両断にできないものだと、私は常々思っているので、
上記の論点も容易には結論など出ないものだろう。
同様に、今回の『流転の子』の内容も、
溥傑・浩・嫮生の側から語られた昭和史のひとつとして、読んでいるつもりだ。

ときに、話はやや飛ぶのだが、NHK大河ドラマで女性を主人公にするのなら、
嵯峨浩や川島芳子は良い題材ではないかな、と私は以前、考えたことがあった。
しかしすぐに、皇室の立場に言及せざるを得ない設定の物語になると、
きっとタブーが多いのだろうな、とも思い至った。
現代史に近い部分をドラマ化するには、歴史的評価すら流動的で、
存命の関係者もあるから、ともすれば感情的な議論ばかりが表に出てきて、
娯楽としての長所は結局、見逃されてしまうかもしれない、と思い直したのだ。
というわけで、このあたりはまだまだ、文字の世界においてだけ、
壮大な歴史物として、自分本位に味わい読ませて頂くことにします(^_^;。

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山紫水明―頼山陽の詩郷』(池田明子・著)をここ数日、読んでいる。
私が頼山陽に出会ったのは、漢詩の会がきっかけなのだが、
そこから自分なりに関連の書籍を読んだり、縁(ゆかり)の場所を訪ねたりして、
ここ数年、地味に、私の「頼山陽」趣味は深まってきたと思う(笑)。
この秋も、地元の頼山陽史跡資料館で、山陽の息子の聿庵(いつあん)の書が
展示されるということを知り、とても楽しみにしているところだ。

見延典子氏の小説『頼山陽』や、山陽の母・静に関する評伝『すっぽらぽんのぽん』
また、山陽の恋人だった女性を描いた、門玲子氏による『江馬細香』、
などを、昨年から続けて読んだことにより、私の中で、
山陽やその周辺の人々のイメージが、かなり鮮やかなものになってきたと思う。
勿論それは、作家や研究者の目を通して描かれた山陽像に親しんだだけであって、
実際の頼山陽がどういう人物であったかを、私が知っていることにはならないのだが、
それでも、頼山陽やその息子達、父親・春水や叔父達の、詩・書・画に触れると、
私は、自分の記憶に既にある、彼らの逸話をいくつも呼び起こし、
現実に様々な思いの中で生きていた人として、彼らを感じられる気がする。

頼山陽は、19世紀には日本でも有数の文学者として名を得ていたにも関わらず、
21世紀の今となっては、ほとんど完全に忘れ去られている。
彼の著した歴史書『日本外史』が、尊王攘夷論に大いに影響を与えたために、
後の太平洋戦争当時、「皇国史観」に大いに取り入れられ、
戦後はその「反省」ゆえに、彼の名は葬り去られてしまったようだ。

しかし私の知っている頼山陽は、いわゆる「右翼的」な思想の人ではないし、
管理主義や全体主義的な考え方を、むしろ最も嫌った人だった。
彼は、いかなるときも権力から自由であろうとしたし、
そのためにいくら世間から後ろ指を指されようとも、一貫して、
江戸時代としてはまれなほど、人権主義的な発想で通した人だったと思う。
頼山陽は、武士の身分を得ることより、自分の学問的自由を追求したし、
才能があると感じた相手には、性別関係なく打ち込んだ。
平田玉蘊(ぎょくうん)も江馬細香も、山陽の愛した女性たちは、
女である前に皆優れた画家であり詩人であり、
学問や芸術を通して山陽の愛情を受け、人間的な交流を持った。

妻となった梨影は、娘時代は当時で言う「下女」の身分だったけれども、
山陽は彼女についても、家事育児を果たすだけの存在とは見なしていなかった。
彼女は山陽の手ほどきで初めて読み書きを学び、画を覚え、
私塾で生徒たちを指導するときの山陽の講義を、次の間に控えて聴くようになった。
一介の主婦である妻を、学問的に成長させることに自然な喜びを見出していた彼は、
男尊女卑的な固定観念から、やはり相当に自由な人であったと思う。
今も残されている梨影の自筆の手紙や、玉蘊・細香の書画や漢詩等からも、
彼女たちが頼山陽と出会いどれほど磨かれたかを、伺い知ることができる。

私が今、最も残念なのは、現在の私の力では彼の漢詩を読むことは出来ても、
彼の最大の著作である『日本外史』を読みこなすことができない、ということだ。
なにしろ原文は、全二十二巻の漢文体による書物なのだ。
漢詩に関わった以上は、将来、こういうものに手を出せるようになれたらいいな、
とは願っているのだが、なかなか難しいだろう。
まずは現代語による抄訳版に当たってみて、
いつかは書き下し文で全文を読めれば、御の字ではないかと思っている(汗)。
どうにもシオらしい願望で、頼山陽先生には申し訳ないんですが(逃)。

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仮装ぴあにすと様から教えて頂いた、アルゲリッチの伝記を買った。
マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』(オリヴィエ・ベラミー著 藤本優子訳 音楽之友社)

細かいことだが、この本の日本語の副題が、
『子供と魔法』という表記になっていることに私はとても好感を持った。
私はどうも、『子ども』という漢字仮名交じり表記が以前から気に入っていない
今回のように、『と』を中心に『子供』『魔法』と漢字二字による名詞が並んでいれば、
見た目に綺麗だし文句なしにわかりやすいが、
『子どもと魔法』と書かれると、瞬間的に「『どもと』??」と微かな違和感を覚える。
イデオロギーの話ではなく、私のごく個人的な、視覚的な、美意識の問題だ。

……と、それはともかく、この著者はフランス人ジャーナリストで、
いつぞやご自身の番組で、ポゴレリチにインタビューをなさっていた方だ
あのとき、取材後の裏話としてベラミ氏は、
『ポゴレリチとの面会を実現させるのが大変なことで、
筆者はマルタ・アルゲリッチに仲介を依頼することさえした、
それは枢機卿に会うのに法皇に仲立ちを頼むようなものだった』
という意味のことをブログに綴っていらしたものだ。
ベラミ氏はアルゲリッチと、やはりそれだけ親しい間柄だということが伺える。

この伝記の内容は、まだ全部は読んでいないが、拾い読みした範囲では、
デュトワやクレーメルなど彼女のパートナーとして有名な方々だけでなく、
ポゴレリチは勿論、フー・ツォンやゲルバーなど、私の贔屓の演奏家が
次々と登場して、アルゲリッチの交友関係の華やかさにはほとほと感心させられた。
アルゲリッチは今も変わらず、ポゴレリチへの愛情を抱いているのだそうで、
またポゴレリチのほうも、アルゲリッチにラブ・コールを(笑)送っており、
可能であればデュオとして国際的なツアーを行いたいという話もあるそうだ。
性格と演奏の両面で「難しい」の四乗くらいの組み合わせだと思うので、
まあ、期待せずに期待する(苦笑)ことにしておこう。

アルゲリッチの魅力にも才能にも、超人的な底なしのパワーがあって、
彼女の破天荒な人生は、いささかも彼女を傷つけることがなく、
それどころか、ことが起こるたびに彼女は磨かれてひとまわり大きくなり、
そのような彼女に、周囲の者は皆、知らず知らずのうちに巻き込まれて来たのに違いない。
これは彼女の身に天性備わった力のなせるわざであって、
こういう人を見習おうとして、並の人間が同じことをしようものなら、
二度と表街道を歩けなくなる(汗)のがオチだろう。
このような人生は、アルゲリッチだから可能なのだ。
彼女は今も美しく華やかで、その演奏は失速することがなく、いつだって最高だ。

……それにしても、エフゲニー・キーシンの演奏を初めて聴いたときの、
アルゲリッチの思いというのが、『が締めつけられる気がした』(p.283)。
普通、これってではないのかと。
やはり、さすがは女・アルゲリッチ、ということか……。
恐れ入りました。

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五月の團菊祭以来、今年の私は歌舞伎づいているので(笑)
かなり以前に買って放置していた『きのね』(宮尾登美子・新潮文庫)を
ようやく昨日から読み始め、きょうの午後、ほぼ読み終えた。
歌舞伎ファンの間では有名な小説なのだが、菊五郎関連でなかったせいか、
私は何年も前に買ったまま、なんとなくきっかけがなく放置していた。
買った当初はどういう設定の小説か、わかっていたのだが、
今となっては、私は前提をすっかりなくしていて、
「確か、(音羽屋でない)歌舞伎俳優の誰かがモデルの話だった筈……」
という記憶があるのみだった。

それで読み始めて、ともあれ「誰」の話であるかを突き止めようとしたのだが、
出だしが、昭和8年――。
結核で療養中の歌舞伎俳優の家に、お手伝いとして主人公の「光乃」が雇われる、
というところから物語は始まっている。
フィクションという扱いなので、モデルとなった俳優も関係者も実名では登場していない。

しばらく「光乃」の育った家のことや両親の出自が語られ、
18歳の彼女が、歌舞伎の家に奉公に上がることになった経緯が説明されるのだが、
その彼女の運命を変えるのが、役者三兄弟の長男で美貌の「雪雄」。
この「雪雄」のすぐ下の弟が、物静かで思慮深い「新二郎」、
そして三男の「優」は『五尺五寸、十七貫、視力1.2という堂々たる体格を買われ』
徴兵検査で甲種合格、……と、ここまで読んでわかった、この「優」は二代目松緑だ(爆)。
ということは、「雪雄」は先代の團十郎、「新二郎」は先代幸四郎だ。
つまりヒロイン「光乃」は第十一代・市川團十郎の夫人、堀越千代さんだったのだ。

モデルの團十郎本人のことでなく、体格と甲種合格の設定から松緑を特定できたなんて、
全然予想もしなかった、意外なとっかかりだった(汗)。

わかってみると、この小説には、私の知る限り、事実に近い逸話が巧みに盛り込まれ、
細部や登場人物の内面は作者の創作であるにしても、
時系列に添って團十郎とその夫人の周辺が描かれていると感じられた。
昭和40年に亡くなった先代の團十郎を、昭和39年生まれの私は観ていないのだが、
こういう小説を読んでみると、いっそう、先代の舞台を観てみたかったと思った。
高麗屋三兄弟のうち、松緑の舞台だけは、私は結構観ることが出来たが、
『きのね』に描かれる「優」の物語が途切れたその後のことを、
私なりに、いくつかは記憶しているので、そうしたこともまた切なく思い出された。


……そして、今度の9月の松竹座、海老蔵が出るんだからやっぱり観に行こう、と思った(殴)。
明日から、e+の「九月大歌舞伎大阪公演プレオーダー」が始まるのだわよ(汗)。

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カープは踏みとどまれるのか
昨日は広島カープがヤクルトとの試合で、ついに負けた。
ひたすら勝ってばかりいることなんてあり得ないから、
どこかで連勝が止まるのは当然なのだが、さてこのあとどうなるだろう。
折しも昨夜は、横浜が阪神に負け、広島戦から引き続いて連敗を更新した。

転妻「横浜、いっときは基準値を大幅に超えた貯金が検出されていたのに」
転夫「急速冷却じゃ。もはや定位置(6位)は目の前」
転妻「ヒトのこと言えんて」
転夫「明日は我が身か(泣)」
転妻「五号機(5位)と六号機(6位)は冷温停止(苦笑)。
 そうなりゃ、やっとみんなが安心して普段のセ界に戻れる、という」
転夫「くくぅ~~(泣)」


ほんやくコンニャク
ちょっとした仕事で、米国リウマチ学会の某論文を翻訳せねばならなくなったのだが、
内容が全然理解できないうえ、印刷の文字が小さすぎて老眼にあまりにも厳しい。
参考資料としてついてきた、日本の某医学会のハンドアウトは幸いに日本語なのだが、
これがまた絵も少ないし(殴)、およそ読む気がせんシロモノだ(絞)。
そもそも、かなり前からパソ太は高齢になってたびたび気を失っており、
再起動すると前の記憶をまだらになくしていることが増えてきたので、
私の愛する一太郎に保存することさえ、なんだか危うい気配になっていた。
もうもう、あっちもこっちも思うに任せず、八方ふさがりな気分だ。
という話を数日前にしたら、主人が気前良く自分の愛機パソ太二号を私に譲ってくれた。
そして主人は昨日、新しいパソコンを自分用に購入した。
なんのことはない、よい機会だったのだろう(汗)。
私の納戸部屋に引っ越して来た、主人のパソ太二号は、素直で物静かなとても良い子で、
今は、ネットもメールも、気絶することなく一度の作業でスイスイできるようになった。
ってことでデメタシデメタシではなく、私が冒頭の和訳作業を放置している理由は、
やはり「やりたくないから」だけになってしまった。ちっ。


最近読んだ本
『額田女王』(井上靖)新潮文庫:歴女である娘の趣味につられて。
『天平の甍』(井上靖)新潮文庫:上の続きで。
『楊貴妃伝』(井上靖)講談社文庫:漢詩の会で「長恨歌」を読んでいたので。
『連舞』(有吉佐和子)集英社文庫:山岸凉子氏が面白いとおっしゃっていたので。
『乱舞』(有吉佐和子)集英社文庫:上の続編。
『一の糸』(有吉佐和子)新潮文庫:道楽者の私の心の琴線に触れる話。
『ベラスケスの十字架』(エリアセル・カンシーノ作 宇野和美訳)徳間書店
  :本来は児童向けなのだが、ベラスケスの絵への興味から。
『江馬細香』(門玲子)藤原書店
  :実に読み応えがあり部分的には二度三度と読んだ。細香の漢詩も素晴らしい。
『すっぽらぽんのぽん』(見延典子)南々社:再読。

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・朝は曇っていたがそう冷えるとまでは感じなかったし、
午後からは更に晴れてきたので、荒れると言う天気予報はハズレではないか、
と途中までは思っていたのだが、夕方前から急に風の音がしてきて、
モウモウと白い雪が舞い始めた。
このぶんでは、明日はやはり市街地でも多少の積雪があるかもしれない。
日頃、雪の積もらない地域は、ちょっと白くなった程度でも交通機関が大混乱だ。
センター試験の二日目なので受験生はダイヤの乱れや道の渋滞が心配だろう。
こんなとき出来る対策は、とにかく「早めに出る」ことだけしかないように思う。
娘の学校の生徒の場合、会場は系列の女子大だと聞いたような記憶があるのだが、
あそこは住宅地の間の細い道を、山の斜面に向かって登っていくような立地なので、
狭いし、大学に通じる道も何本もあるわけではないし、天気の悪い朝は込みそうだ(--#)。

・それにつけても思い出すのは自分の共通一次試験のことだ。
あの当時、前期後期などの区別はなかったから、国公立はたった一校しか出願できず、
全員、問答無用の5教科7科目が必須、かつ1000点満点で傾斜配点も何も無かった。
しかし推薦入試やAO入試など基本的に無い時代だったから、一次を受けないことには
国公立大学を受ける機会が皆無になるので、日頃の成績がどうだろうと受験するほかなかった。
あの数学の、正解をマークするときに欄が余ったり足りなかったりしたら*印をマークする、
というワケのわからない問題は、今もあるのだろうか
例えば解答のマーク欄が3つで、自分の答が2桁になったときは
余った欄に*印をマークする、とか、
逆に欄が3つまでしかないのに、自分の答えが小数第3位まであって書ききれないときは、
書けるところまで書いて最後の欄は*を塗っておく、とかいうヤツだ。
終わったあと、*印を使う問題がいくつあったか、を友人同志で答合わせした記憶がある。
試験当日、一度も使わなかった私は、何かを間違えていたことをその時点で悟ったものだ(泣)。

・きょうの午前中は舅姑の墓掃除と墓参りに行き、舅宅にも行ってきた。
きょうはなぜか、墓地にはすずめが何羽か来ていた。
「ちゅんちゅん、きょうはみんなでお墓参りに来たのかね~」
などと、能天気の極みのようなことを言っていた私は、うちの墓を見て噴火した。
すずめどもの、立派な××が、いくつもしてあったからだ。
見ると、よそのお墓にもあちこち、してあった。
新年から、ウンのつき始めかよ(--#)。
ぞうきん絞って墓石を拭いて、後始末をさんざんさせられた。
年末まではこのようなことは全くなかったと思うのだが、
すずめたちは、お正月用の生花として供えられた南天などをつつきに来たのか?
なお、舅宅のほうでは、二階の洗面所前でゴキが2体倒れていた。なんまんだぶ。

・年末休みのあたりから昨日までにかけて読んだ本。
『モーツァルトとベートーヴェン』(中川右介)青春新書
『楽しい古事記』(阿刀田高)角川文庫
『影まつり』(阿刀田高)集英社文庫
『残酷な王と悲しみの王妃』(中野京子)集英社
『一房の葡萄 他四編』(有島武郎)岩波文庫
『救命センター当直日誌』(浜辺祐一)集英社文庫(再読)
『唐詩選のことば』(石川忠久)明徳出版社
『英語教育が亡びるとき』(寺島隆吉)明石書店
『サロメの乳母の話』(塩野七生)中公文庫(再読)
『春日局』(杉本苑子)集英社文庫

・このあと読む予定なのは、
『袋小路の男』(絲山秋子)講談社文庫
『額田女王』(井上靖)新潮文庫
『父・こんなこと』(幸田文)新潮文庫
『奔馬――豊饒の海(二)』(三島由紀夫)新潮文庫 ←去年から読みかけ
『中国宰相列伝』(守屋洋)社会思想社 ←舅宅で発掘した昭和51年の本

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昨日、寺島隆吉『英語教育が亡びるとき』(明石書店)を買った。
この本には実は12月31日に梅田の某書店で出会って、
店頭で目次を見てとても心惹かれたのだが、
旅行中だったし荷物が増えるのがいやで、即座には購入しなかったのだ。
(ちなみにその本屋の店先で立ち読みしていたとき、別行動中だった主人が私にメールで
『(三十三間堂での目撃に続き、きょうも)また手を洗わないオッサンをハケーン。しかも
などとわけのわからないことを、わざわざ知らせてきたものだった(--#)。
近くにいた娘にメールの文面を見せてやったら、
「えっ、同じヒト?」
と素っ頓狂なことを彼女が言い、
「京都と大阪だぞ。んなワケねーだろ!!」
と私は呆れた(--#)。)

この本は、世間で信じられている、
「小さい頃から英語をやらなかったから日本人の英語力は貧弱で使い物にならない」
「英語の先生なんだから英語で授業をするのは当然でしょう」
という俗説に、英語教育の各種現場を経験済みの、専門家の立場から反論したものだ。
新高等学校学習指導要領で唱えられている「英語の授業を英語で行う」という部分が、
一般の高校生にとっては、どれほど無意味な、
それどころか、どれほど有害な考え方であるかが検証されており、
またロシアの心理学者レフ·セミョノヴィチ·ヴィゴツキーの近年の論文から、
「母語と外国語の習得過程は逆ベクトル」であるという説得力のある箇所を引用し、
読解や文法を二の次にして「せめて日常会話くらいは英語でできるように」、
というのが、外国語習得過程の本来のあり方に逆らった無茶な発想であることも、
大変きめ細かく述べられている。

さらに、英語を母語とする人がフランス語を習得するのは比較的早いが、
同等の時間数ではロシア語習得は無理で、
日本語となると更に長い学習時間を要する、という事実から、
日本語と英語の言語的な「距離」がかなり遠いことがデータ的に裏付けられており
(日本語より中国語や韓国語のほうが、英語への「距離」はもう少し近い)、
したがって、TOEFLなどにおけるアジア諸外国の実績と比較して、
「日本人に英語力がないのは、英語教育が間違っているから」
と結論づけるのは早計であることも、この本を読めばよくわかる。

私も著者の主張に概ね賛成で、外国語として英語に取り組むときには、
まず読解、それには土台となる「文法」の知識をないがしろには出来ないこと、
次いで英語作文の力を時間をかけて養うのが実用面からも有用であること、
これらは同等以上のことがまず母語(日本語)で出来てから始めるのが良いということ、
読解と作文の力さえ高ければ、英語の口頭表現力はあとから磨けばついて来ること、
等々を、日頃から考えていたので、全く、溜飲の下がる思いだった。
私自身の考えを言うなら、更に理想的には、
日本語と英語の発想の違いも、折に触れて学習すべきだと思うのだが、
こういうことでさえ、対立概念としての日本語が最低限身についていないと始められない。
その意味でも私は、幼児や小学校低学年での英語学習には意義をほとんど見出していない。
むしろ、母語による抽象的思考力が高まる十代前半以降、
具体的には中学入学時、または小学校高学年くらいが、
英語学習の第一歩には適した時期ではないかというのが私の考えだ。

しかし、勿論、山の頂に至る道はたったひとつではないし、
人の能力や適性にも違いがあり、また登りたい山の種類も人によって違うものだろう、
ということも私は想像できる。
母語の習得過程同様に、理屈抜きで英語漬けになるのが有効だ、
天気や買い物の話題で気軽に雑談できる英語力がまず必要だ、
と信じる人が、その道を選択する自由はあって良いだろう。
たがその実現を、公立学校の英語の授業に対して求めるのはかなり無理がある。
私は昔ながらの40人以上が、「学級活動」の場としては適切だという感覚を持っているが、
それは、語学、とくに口頭表現力を磨くときのサイズとして考えるならば不適切だと思う。
先生と1対1で逃げ場もなくイジメ抜かれる(笑)のが、「慣れ」優先の語学習得には最適だ。
生徒が教室に20人もいたら、他の人たちが喋っているときにサボるから、
何時間かけたって「普通の日常会話」など上達しようもない。

*******************

以上、教科教育法としての英語という側面においては、著者の見解に、
私はほぼ同意するし、大いに説得される部分が多々あったのだが、
筆者の主張する「メディア・コントロール」と「ことばの教育」に関する部分には、
必ずしも全面的に賛成できないところがいくつかあった。
平和教育や民族教育、護憲か改憲か、などの問題について、
教育がメディアによる操作から自由になり、生徒には多様な考え方と現状について教え、
最終的には生徒自身が選択できるような土台を与えていく、
という方向性そのものには賛成なのだが、
「多様な考え方を教える」過程で、完全に「メディア操作から自由になること」が、
実態としてどのようなことを指すのか、私にはまだ見えてきていない。

主立ったメディア操作から自由になったあと、
別のマイナーなメディアや主義主張に取り込まれてしまうとしたら、意味がない。
そうなる危険性は教師側にもあるし、若い生徒たちには尚更あると私は思う。
世の中の大勢の人間が騙されているが自分は違う、という発想は、
中身が何であれ、それ自体が若い人にとって魅力的だからだ。
思想信条は自由だから、生徒たちは最終的にはそれでも良いかもしれないが、
公人としての教師は、そうならないよう自分を戒める必要があるだろう。
コントロールするメディアが入れ替わっただけ、というのでは何も改善していない。

また、誰しも自分の学び得た範囲で自分なりの正しさに辿り着いているのだから、
生徒や子供たちに、世の中の多様性について、なんら偏向することなく、
純粋な知識としてのみ、様々な考え方を教えることは、
教師にとって、本質的にかなり難しいことではないかと私は感じている。
著者の姿勢そのものは、そうしたことを探求する際の、
手本のひとつだとは心から認めるけれども。
思い返せば私などは「頭のおかしいみたいな先生も、おったな」という経験から(殴)
逆に学ぶところはあったし(逃)、……いや、話のレベルを落として、すびばせん。

それと「英語のみで授業(講義)を行う」のはいかに無理があるかの証言として、
なんと私の母校の大学の卒業生の話が出て来るのだが、
たったひとりの述懐をもとにして結論に結びつけられるのは、
私には、あまりにも強引な我田引水であると思われた。
少なくとも、もうひとりの卒業生である私の知っている母校の講義は、
書かれているような雰囲気とは全く違ったものだったので、
「こんなことを思っていた人もいたのか?へ~、ホントに??」
と、読んで俄には信じられないような気がした。これまた、すみません(逃)。
ダグラス・ラミス先生の講義は実際に受けましたので(「現代文明とエコロジー」)、
久々に御名前を拝見し、思い出して懐かしかったですが。

*******************
(以下は、特に、この母校の件が気になる方のために補足)

私の母校の大学の話が出てきた箇所は、次の通り。
『また私の知り合いで、英語教育で有名な○○大学の出身者がいます。当時の○○大学でも英語で授業をする外国人教師や日本人教師がいて、その先生はAFS奨学金をもらってアメリカ留学をした学生のみを相手にして得々と英語のみによる授業を進めていたそうです。しかし、その他の多くの学生はその会話についていけず、授業も非常に白けた雰囲気が漂っていたと聞きました。彼女はこの授業で英語が嫌いになったと語っていましたが、英語ができることで○○大学を目指した学生でも、このような思いをしていたとすれば、一般の公立高校では生徒がどのような思いをするであろうかは、想像するに余りあるものがあります。』(p.164)

英文学科や国際関係学科の話だとすると、私にはこういう状況は想像しにくい。
私の知らない、非常に独善的な先生が大学の一角にいらした可能性はあると思うが、
ここに書かれているのは、ひとつの、不運な個人の体験談ではないだろうか。
『英語で授業をする外国人教師や日本人教師がいて、その先生は』
と、特定の先生だけが独自にそういう「変わったこと」を試みていたかのように書かれているが、
英語で行われる必修科目は一年次からいくつでもあり、誰でも普通に受けていたし、
そのことが発端で白けていた人というのも、私の記憶の範囲には居なかった。
この話の場合、問題があったとすれば担当教員の「態度」や「姿勢」のほうであって、
「英語だけで授業をすること」とは関係がなかったのではないかと私は思う。

母校では入学すると、正規の講義が始まる前に「認定テスト」の案内と告知があり、
英語圏での生活経験のある人たち、或いは英語力に最初から自信のある学生は、
志願して受験し、これに合格すれば、会話や作文などは受講免除になった。
だから実際の授業は、学校英語(だけ)がたまたま得意だったから英文に来た学生、
つまり私のような、公立学校で受験英語ばかりやってきた生徒が主な対象だった。
学生は、1年次は確かにモタモタとしか話せず、全く流暢ではなかったが、
著者が後半で奇しくも述べているように、
『頭の中で英作文をしながらゆっくり喋る』(pp.256-257)
という次元のことは、ほとんどの学生ができたから、
先生方は耳を傾けて聞いて下さったし、授業は普通に成立していた。

一方、英語だけで行われる授業が日常的にあったのは確かだが、
かと言って、日本語を排除することが英語を学ぶ上で有効な方法だとも、
私は全く教わらなかったし、大学にも学生にも、そのような雰囲気はなかったと思う。
英語を使う環境に学生を押し込んでおけば、自然に英語がうまくなる、
という発想を私は授業内容やカリキュラムに対して感じたことはなかった。
卒論は英文学科では英語で書くことになっていたが、指導は日本語で行われたし、
私の場合だと、専門基幹科目の英語学概論・言語学概論・英語史・音声学など、
テキストは英語で書かれたものが多かったが、講義はほとんど日本語だった。

私の受講した専攻科目の範囲では、このほか、形態論と談話分析は、
担当者がアメリカ人だったため、英語による講義だったが、
これらはこの本の益川敏英氏の例と似て、科学的概念が優位となる分野だったので、
理論の理解や仮説の独自性のほうに評価の重点があり、日常会話とは直接関係がなかった。
上級生になれば学生は、英語の講義に出て英語で発言することは日常的にあったし、
ペーパーもゼミ論も英語で書き、海外の論文を英語で読むことも当然だと思っていたが、
その段階になってもなお大半の学生は、いわゆる「日常会話ペラペラ」ではなかった。
自分の論文のテーマでなら、アメリカ人教授と何時間でも話し込むことが出来ても、
映画スターのゴシップでアメリカ人の女子高校生と喋り倒す種類の英語力は
ほぼ誰も、持っていなかったのではないかと思う。

この本の中では、大学名を明記された上、ただ一人の『出身者』の話が、
著者の結論を支持するための例として、上記引用のように紹介されていたのだが、
彼女と等しく一人の卒業生である私が、母校で経験したことは
この話とはかなり違うものだったので、記述内容には違和感を覚えた。

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赤毛のなっちゅん―宝塚を愛し、舞台に生きた妹・大浦みずきに
を昨日、買った。
なーちゃん(大浦みずき)の実姉、内藤啓子さんの書き下ろしだ。

なーちゃんが亡くなったのが、ほぼ一年前、
2009年11月14日の朝のことだった。
その前年の秋に、胸膜炎の診断で出演予定の舞台を降板し、
数ヶ月後、3月末に肺癌であることをご本人がファンの前で公表、
以来、ときおり更新される、ファンクラブの電話メッセージだけが
私の知ることのできた、当時の、現在進行形のなーちゃんの姿だった。

この本には、姉妹の幼い頃の思い出や、
少女時代のなーちゃんのこと、宝塚在団中の出来事、
退団後の舞台や私生活の様子、などが記録されているのだが、
これまでなら、周囲への差し支えを考慮して、
はっきりと触れられることのなかったであろう逸話も書かれている、
と私には感じられた。
例えば、『蜘蛛女のキス』の主演を熱望していたが叶わなかったことや、
個人事務所ゆえに独り立ちには苦労をしたこと、
女優になってから、ファンクラブの更新時期になるたびにファンが減ったこと、
また決してファンに見せることのなかった、ご両親の介護の問題のことなども、
淡々とだが明瞭に記述されていた。

しかしそうした、決して甘くはなかった現実の中で、
なーちゃんが、そのときに可能な限りの仕事を、
ひとつひとつ、自分にとっての最善のかたちで積み重ねて行ったことや、
かけがえのない出会いに数多く恵まれたこと、
思いがけない高い評価を外部から与えられたこと、
また、なーちゃん自身が努力を重ねたり工夫をしたりして、
家族との温かい時間を作り出していたことなども、ごく率直に書かれていた。

私は普段だと、著名人が亡くなったときに近しい人が手記を発表するのを、
必ずしも、良いことだとは思っていないのだが、
阪田家に限っては、これは本当に必要なことだったのだと感じた。
作家であったお父上の阪田寛夫氏の遺志をつぐという意味でも、
自身も書くことをしばしば仕事の一部にしていたなーちゃんのためにも、
最も身近であったお姉様が、一冊の本をまとめられることは、
どんな追悼にもまして、意義のあることだったのだと思った。

理知的で、かつ秀逸なユーモアを随所に交えた、あたたかな文体で、
お姉様の目を通して描かれたなーちゃんは、
やっぱり、私たちファンの知っていた通りのなーちゃんだった。
最後の闘病の日々の記述は痛々しいが、なーちゃんの言動から、
彼女のしなやかな感性を印象づけられる場面も多々あった。
一周忌を前に、これだけの文章を書かれるためには、
どんなにか、お姉様としておつらいことも多くおありだったと思うが、
ファンとしては、このような記録を世に出して下さって、本当に感謝している。
お姉様の精神力に、心からの敬意を表したいと思う。
ありがとうございました。

そして、表紙の帯にある阿川佐和子さんの言葉の通り、
なーちゃんご本人がこの本を読まなくてどうする!と私も思った。
読んで、「姉ちゃん、かしこい!」と感心し、
そして恥ずかしそうに、「へへへ」と笑ってくれなくては!

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漢詩の会に通い始めて、頼山陽のマザコン三部作を知ったわけだが(笑)
その後も、山陽の漢詩を先生がいろいろと取り上げて下さっていて、
次回もまた、彼の作品を続けて読むことになっている。
それで、こういうつながりが、せっかく持てたのだから、と思って、
先日、見延典子氏の歴史小説『頼山陽』(上)(下)を買ってみた。
今、ちょうど上巻を読み終わったところなのだが、
大変読みやすい文体で、しかも非常に詳細に調べて書かれていて、
漢詩の会で取り上げられた詩のうち、いくつかについては背景もよくわかり、
今の私にとっては、まさに『出会い』の本だった、と大変感謝している。

頼山陽は母方の実家のある大阪で生まれ、後に京都で活躍した人ではあるが、
幼少時から青年期の初めまで広島城下で育ち、父方の生家は竹原市にあり、
広島県内には、彼の関連のある場所が今でもたくさん残っている。
運良く、今私は広島市内に住んでいるので、
そのうち時間のあるときに、いくつか見て回りたいと思ったりしている。

さしあたり、天気の良い平日に気軽に行ってみられそうなのは、これ↓だ。
頼山陽を知るなら、ここから始めるべきだろう。
頼山陽 史跡資料館
ちょうどこの秋には、頼山陽の「書」が多数、展示されているそうで、
日によっては学芸員さんの解説を聴くこともできるようだ。
……「学芸員」に憧れる娘を誘って、行ってみようか(^_^;)。

頼山陽の父親の生家は今の竹原市にあって、紺屋を営んでいたそうで、
今も、その一部は史跡として見学できるようになっている。
安芸の小京都 きてみんさい竹原(竹原観光案内)
頼惟清旧宅
重要文化財 「春風館」
「復古館」頼家住宅

また、頼山陽が若い頃に身を寄せた、菅茶山の邸宅が
福山の神辺にあって、こちらも見学可能となっている。
菅茶山の詩も、漢詩の会では既に数多く取り上げているので、
こちらはこちらで、頼山陽とはまた別に興味深い漢詩人でもある。
郷土の誇り 菅茶山(神辺町観光協会)
廉塾ならびに菅茶山旧宅
菅茶山の墓

頼家の墓は、広島市内南区比治山の多聞院にあり、
山陽の両親や叔父・長男などの墓がある。
戦後に再建された山陽文徳殿も多聞院に隣接した敷地にある。
比治山多聞院

ほか、山陽の父・頼春水が、浅野長晟(ながあきら)の命により、
『縮景園』の園内名勝に、漢籍の素養をもとに様々な名をつけたことが、
今も記録されているので、これらももう一度、味わう機会が欲しいと思っている。

縮景園
縮景園造園の際、藩主・浅野長晟は、
文化元年(1804) 頼春水らに園内名勝三十四景の名称を付けさせる。
文化3年(1806) 頼春水に「縮景園記」の執筆を命じる。
文化4年(1807) 頼春水「題縮景園詩五首」を詠ず。

広島市内にはこのほか、至るところに頼家由来の史跡があり、
また宮島や鞆の浦など、山陽の立ち寄った場所として知られたところも、
今後、訪ねる機会が得られたら、今までとは違う感慨を持って、
その風景を眺めることができるのではないかという気がしている。
特に、仙酔島と海の風景を、できれば時刻を変えて眺め、
その色彩の変化を楽しみ、山陽の詩の世界に心合わせてみたいものだ。

鞆の浦・仙酔島(福山市)

****************

頼山陽は、最初から、三都(江戸・京・大坂)のいずれかに出て
文筆で名を上げたい、という夢を持っていて、
若い頃には命がけの脱藩を企て、それを実現しようとしたほどだった。
大風呂敷を広げると、しばしば非難された山陽だったが、
どれほど周囲の不興を買おうとも、彼はまた有言実行の人物でもあって、
彼はやがて京都に居を構えて『山紫水明處』と名付け、
歴史書『日本外史』を世に送り出すことになった。
京都観光の中心と言えるような史跡とは違うが、
山陽の書斎のあったこの家にも、私はいつか行ってみたいと思っている。

山紫水明處
京都市上京区東三本木の山陽の書斎。

頼山陽の墓所は、本人の遺言により京都東山の長楽寺にある。
京都東山 黄台山長楽寺

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