転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



山紫水明―頼山陽の詩郷』(池田明子・著)をここ数日、読んでいる。
私が頼山陽に出会ったのは、漢詩の会がきっかけなのだが、
そこから自分なりに関連の書籍を読んだり、縁(ゆかり)の場所を訪ねたりして、
ここ数年、地味に、私の「頼山陽」趣味は深まってきたと思う(笑)。
この秋も、地元の頼山陽史跡資料館で、山陽の息子の聿庵(いつあん)の書が
展示されるということを知り、とても楽しみにしているところだ。

見延典子氏の小説『頼山陽』や、山陽の母・静に関する評伝『すっぽらぽんのぽん』
また、山陽の恋人だった女性を描いた、門玲子氏による『江馬細香』、
などを、昨年から続けて読んだことにより、私の中で、
山陽やその周辺の人々のイメージが、かなり鮮やかなものになってきたと思う。
勿論それは、作家や研究者の目を通して描かれた山陽像に親しんだだけであって、
実際の頼山陽がどういう人物であったかを、私が知っていることにはならないのだが、
それでも、頼山陽やその息子達、父親・春水や叔父達の、詩・書・画に触れると、
私は、自分の記憶に既にある、彼らの逸話をいくつも呼び起こし、
現実に様々な思いの中で生きていた人として、彼らを感じられる気がする。

頼山陽は、19世紀には日本でも有数の文学者として名を得ていたにも関わらず、
21世紀の今となっては、ほとんど完全に忘れ去られている。
彼の著した歴史書『日本外史』が、尊王攘夷論に大いに影響を与えたために、
後の太平洋戦争当時、「皇国史観」に大いに取り入れられ、
戦後はその「反省」ゆえに、彼の名は葬り去られてしまったようだ。

しかし私の知っている頼山陽は、いわゆる「右翼的」な思想の人ではないし、
管理主義や全体主義的な考え方を、むしろ最も嫌った人だった。
彼は、いかなるときも権力から自由であろうとしたし、
そのためにいくら世間から後ろ指を指されようとも、一貫して、
江戸時代としてはまれなほど、人権主義的な発想で通した人だったと思う。
頼山陽は、武士の身分を得ることより、自分の学問的自由を追求したし、
才能があると感じた相手には、性別関係なく打ち込んだ。
平田玉蘊(ぎょくうん)も江馬細香も、山陽の愛した女性たちは、
女である前に皆優れた画家であり詩人であり、
学問や芸術を通して山陽の愛情を受け、人間的な交流を持った。

妻となった梨影は、娘時代は当時で言う「下女」の身分だったけれども、
山陽は彼女についても、家事育児を果たすだけの存在とは見なしていなかった。
彼女は山陽の手ほどきで初めて読み書きを学び、画を覚え、
私塾で生徒たちを指導するときの山陽の講義を、次の間に控えて聴くようになった。
一介の主婦である妻を、学問的に成長させることに自然な喜びを見出していた彼は、
男尊女卑的な固定観念から、やはり相当に自由な人であったと思う。
今も残されている梨影の自筆の手紙や、玉蘊・細香の書画や漢詩等からも、
彼女たちが頼山陽と出会いどれほど磨かれたかを、伺い知ることができる。

私が今、最も残念なのは、現在の私の力では彼の漢詩を読むことは出来ても、
彼の最大の著作である『日本外史』を読みこなすことができない、ということだ。
なにしろ原文は、全二十二巻の漢文体による書物なのだ。
漢詩に関わった以上は、将来、こういうものに手を出せるようになれたらいいな、
とは願っているのだが、なかなか難しいだろう。
まずは現代語による抄訳版に当たってみて、
いつかは書き下し文で全文を読めれば、御の字ではないかと思っている(汗)。
どうにもシオらしい願望で、頼山陽先生には申し訳ないんですが(逃)。

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