転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



私は今日の今日まで知らなかった。
「未成年の人間」のことを「子供」と書いたら差別で、
「子ども」と書くべきである、という価値観が存在するということを。

子供 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

なぜ「子ども」が良くて「子供」は望ましくないかというと、
・「子供」の「供」の字は、「お供」、
 すなわち子供が大人の附隨物であると連想させるため。
・神に奉げる「供え物」の意味につながるため。
・「子供」の「供」は当て字なので、漢字に意味はなく、
 平仮名にすべきである。
などの理由があるから、だそうだ。

私はつい数年前まで教育産業に携わっていたが、
こんな奥深い漢字の知識なんぞ無いもんだから、
へーきで「子供」って書いてたぞ~~
(親御さんたちのことを「父兄」と言うな、「保護者」と書け、
というのは現職の学校の先生から習ったけど。やれやれ・・・)。

私はイデオロギー論争を積極的にしたいとは思わないのだが、
言葉の表記という観点から、ちょっと言いたいことがある。
「子供」は、レッキとしたひとつの名詞なのに、
漢字仮名交じりにされるのは、どうも、私の美意識に反する。
「子供と教育」と書いてくれたら一発でわかるが、
「子どもと教育」だと、『どもと』が一単位に見えて、邪魔なのだ。

そもそも日本語を読むとき、我々は概ね、漢字をメインに読んでいる。
ひとつひとつの単語を等価のものとして見ているのではなく、
漢字で書かれたところが「意味」の中心部分、
仮名で書かれたところは「活用語尾」や「つなぎ」の部分、
という区分けを、無意識のうちに頭の中でしている。
だから、「子供」というひとまとまりの体言を、
わざわざ漢字仮名交じりで分断されると不自然だと私は感じるのだ。

「どもる子どももどもらない子どもも子どものうちは子どもどうしで気にせず遊ぶようだ」
という文など、我々が普段どれほど漢字に依存しているか、
漢字で書く部分が意味の区切りを示す指標としていかに重要か、
よくわかる例ではないだろうか。

まあ、これもひとつの慣れの問題だとは思うので、
世の中から「子供」という表記が姿を消したら、
「子」と見ただけで次は「ども」が続くのだという了解が、
日本語を読み書きする人々の頭の中に出来上がって、
今よりは、たやすく読めるようになるかもしれないけれど。

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