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KANO 1931海の向こうの甲子園*台湾映画

2020-09-28 18:48:42 | 映画

KANO、ウェイ・ダーション監督(部族出身で肌黒くて精悍な方)

3時間の長編映画。

何年か前に台湾旅行で嘉義に行った。

嘉義のロータリーに野球投手の像があって、、、これはなんだろう?とおもっていた。

台湾旅行の3回目で阿里山に行ったときに嘉義に寄った。

嘉義は阿里山に向かう登山鉄道の始点だったのだ。

嘉義の中心と言っていいロータリーにKANO精神と書かれた像があった。

私は、不覚にもその時はその有名なストーリーを知らなかった。

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/ef25be279d48a635f9c2a23fd841e1dc

1031年の甲子園に初出場して、あれよあれよというまに決勝戦まで進出した嘉義農林学校の野球部の実話です。

映画化は2014年だったそうだ。

この映画を見ればわかるが、今でも台湾は日本をリスペクトしている。

台湾映画祭で私が見た2本目です。

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ストーリーはウイッキペディアから拝借、以下の通り

のんびりしたチームの「嘉農」野球部は連敗続きであったが、新任監督として迎えられた日本人の近藤によるスパルタ式訓練により、部員たちの心には徐々に闘争心と甲子園出場への夢が芽生えていった。近藤は日本人のみを贔屓することなく、守備に長けた日本人、打撃に長けた漢人、韋駄天の如く足の速い高砂族の選手たちのバランスの良いチームを作り上げていく。また、かつて近藤が指導し、その指導に萎縮した松山商業と比べ、嘉農の選手たちが伸び伸びとプレーする姿は、近藤自身を成長させ、チームに対する愛情を深めていくのだった。

台湾大会が始まった。当時、台湾代表として全国中等学校優勝野球大会へ出場できるのは台湾全島で1校だけであったため、甲子園へ行くには台湾大会で優勝する必要があったが、従来は毎回台北一中か台北商業が出場していた。三民族で構成され、しかもこれまで「一度も勝ったことがない」チームであるはずの嘉農の快進撃は止まらず、勢いに乗って全島優勝を果たす。台北から凱旋した選手たちは町中から大歓迎を受ける。

迎えた甲子園大会、嘉農は下馬評では弱すぎて本土のチームには相手にならないのではと危惧されていた。甲子園球場に来た嘉農の選手たちは、「甲子園の土」の質の良さに感動する。マスコミからの取材を受けた嘉農の選手たちには当初「なぜ外国人がいるのか」「野蛮な高砂族に日本語は理解できるのか」等といった差別的な眼差しと質問が向けられるが、日本人メンバーの小里は「自分達はよい友達だ」と返し、近藤も「彼らは民族を問わず同じ球児だ」と反論した。

決勝の相手は名門中の名門、中京商業。地元の嘉義では市民たちがラジオ中継に熱中し狂喜乱舞しており、日本だけでなく台湾でも大勢のファンが固唾を呑んで見守る中、試合が始まる。しかし、投手アキラの指は限界を迎えていた。試合中に出血したアキラを近藤監督は降板させようとし、チームメイトの間でも激しい意見が交わされた結果、続投することになるが、フォアボールを連発し、押し出しで得点が入ってしまう。そこに守備の選手たちが「俺たちが守るから敵に打たせろ」と叫び、ベンチの選手たちはアキラの応援歌を絶唱する。結局、中京商のに完封に抑えられ、優勝はできなかった。しかし、嘉農の最後まで諦めない奮闘ぶりは日台それぞれの人々に強い印象を残し、スタンドにいた錠者は健闘を称えて「天下の嘉農」と絶叫する。その声はどんどん大きくなり、やがて観客席全体から響き渡るのだった。その中には、当初は嘉農の選手達に差別的な言葉を投げつけた新聞記者の姿もあった。負けても泣くな、勝っても泣くなと指導されてきた選手たちは、「僕たちはいつ泣いたら良いんですか?」と言い、ついに号泣する。

選手たちは準優勝盾と甲子園の土を手に、船で台湾への帰路についた。船上ではしゃぎながら野球をする選手たちの前に、やがて懐かしい台湾の地が近づいて来る。

エンドロールでは、近藤や選手たちのその後が紹介される。ある者は日本の野球界で活躍し、ある者は台湾で野球の普及に貢献した。そして、ある者は大戦で戦死したのだった。

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嘉義市は台中より南、台南のちょっと上に位置します。

台南は北回帰線にあるので熱帯です。

嘉義への印象は、阿里山からバスで降りてくると、どんどんジャングルになってくるという感じだった。

嘉義農林学校の野球部は台湾内の対戦でも未勝利というくらい弱いチームだった。

それを甲子園の名門、松山商業出の先生が赴任してから、この弱小チームが甲子園に絶対に行くと雰囲気が変わり練習が変わった。

漢人、原住民(アミ族、プユマ族)、日本人の混成チームだった。

漢人は肩が強く、原住民は足が早く、日本人は守備がよかった。

3拍子揃った人種が集まったんだから、いいチームになると近藤監督(主役)は思った。

近藤監督も実在の人物です。

甲子園では決勝で中京商業に負けたが、その戦いぶりが甲子園の観客に感動を与えて、決勝で敗れた嘉義農林学校へ「天下の嘉農」の大声援が湧き上がった。

3時間の長編映画ですが、全くダレることのないストーリー展開だった。

見事な映画でした。

台湾映画祭だったので記念のkanoカード12枚をいただいた。

大会出場選手と監督の写真。

カード表は映画の出演者で、カードの裏に当時の実在の人の写真とエピソードがあった。

多くの方は台湾野球界で活躍されたりしていたが、早稲田大学に進学して日本の球界で活躍したものもいた。

むろん、日本人の中には大戦の末期に招集され戦死したものもいる。

このような素晴らしい映画を見ると、日の出のように発展してくる国の勢いを感じます。韓国映画も最近ではメロドラマだけじゃなく、実に味わい深い映画が出てきた。国民・社会の勢いなんでしょう。

予告編で見た日本映画の「未熟さ」「暗さ」はどうにかなりませんか?

おそらく、日本の映画業界の問題ではなく、映画やアート、文化を育てるのが国民だとしたら、、、日本国民が退化、腑抜け、無気力になっていると思える。

とても残念なことだ!

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2020台湾紀行26、台中の審計新村近くの軽食Sun Berno

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2020台湾紀行28、Lo Babh Mi Pasteur 越南法國麵包(ベトナムサンドイッチ)

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