館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

F本観光で行く沖縄2008秋その2・南部戦線に立ち尽くす。

2008-11-26 06:44:10 | 旅は続く


今の沖縄にも興味は尽きない。日本の基地のほとんどを引き受ける沖縄・島の(不遜な物言いだが、物の豊かさでない)豊かなと思える暮らし・おじいやおばあへの敬いのある精神性・豊かで美しい海。

だが、あの戦争を五感で感じたい僕が居る。この過去からの学びは、これからを生きる人間に、真理を伝える気がするからだ。

3日(正確には初日は夜中・翌日座間味)は本島だ。F本氏は久高島に行きたいとのこと。知念村の安座真港に送って別れる。

この日はタクシーを貸切・運転手はもう毎度お世話になってる内間さん、見事なガイドもしてくれ、沖縄の島巡りでは頼りになる存在だ。

おなかをすかせた僕は、まず昼飯・・・内間さんのオススメの店で昼飯だった。
蕎麦・もずくの天ぷら・もずく酢・もずくのジューシー(混ぜご飯)だ。
もずく料理は絶対オススメだ。旨いったらウマイ!



「世界遺産・斎場御嶽(セーファーウタキ)」「清めの泉」

F本観光の勧めで、沖縄最高の聖地を訪ねた。

島によって姿が異なるので一概には言えないが、琉球開びゃくの地であり、太陽神を最高位とする琉球は、久高島がその日の昇る場所として、あがめられ、また、海の彼方の異界ニライカナイにつながる聖地であり、穀物がニライカナイからもたらされたといわれている。このウタキはその、久高島からの霊力(セジ)を最も集める場所とされているのだ。女性を守護神とする母性原理の精神文化は、政治や経済が男の領域になっても、不可侵の地位を与えられていたようである。
いまも、その紐帯は残って、沖縄の暮らしを支えているようにも思う。
沖縄の女性は強く、家を支えているように思う。

多くの聖地は男が踏み入れない場所であり、今も残る。

このセーファーウタキも、そうであったが、世界遺産に整備され、今は僕でも入れる。 



遠方・その久高島。




ウタキへ続く参道。参道下の広間・・・ここで本来は男は待機だ。



いくつかの拝所があり、最後の「三庫理(サングーイ)」の拝所で信託や霊気を戴くまでの儀式の場が続く。
写真・寄満(ユインチ)・豊穣の満ちる場である。



ここが三庫理である。自然に出来た確かに神秘的な場所だった。



内間さんが、写真を撮ってくれた。彼は久高島の出身である。
ウタキの説明には力が入り、見事に僕にはここの大事さが分かった。




一昨年は首里・そして「平和記念資料館」を見た。
昨年は、本島上陸、ここからアメリカ軍の「鉄の爆風」と呼ばれる国内で唯一行われた「地上戦」が始まった読谷村から、首里への進軍の地を走り眺めた。

今回は、その首里から敗走を重ね、悲惨を極めた南部戦線に行くがテーマだった。

一昨年来たのに、訪れなかった「韓国慰霊塔」にまず行った。
僕らの一昨年止まった駐車場の反対側・見事に近いその場所を僕は見落としていたのだ。たぶん、この場所だけで1日かけるような、時間の持ち方が必要なんだろうな。



僕らが、あの大戦の被害を語るとき、隣国への加害を対峙せず、語ってはいけないのだ。
写真矢印の石のモニュメントは、母国「韓国」を指し示している。



観光化・・そのイメージがあって「ひめゆり」は敬遠していた。
が、訪れるべき!と心が動いた。
高女ひめゆり同窓会が建てた、本物の塔の側には、天皇が訪れる時に建てられた立派な大きい塔が立つ(写真には無い)。
しっかりした資料館内は撮影は禁止だ。
この第三外科壕の側にある。



首里の後方に病院中枢を揃え、後方支援の体制がひかれる。
やがて、激戦で外科は第一外科となり、内科は第二外科となり、防疫・伝染病科が第三外科となる。
ひめゆりや、他の多くの学徒が病院に派遣され、医療補助や死体の運搬・ありとあらゆる手伝いを行った。

本土決戦の態勢未然・大本営さえ松代に変えようと突貫工事だ。

出来るだけ、沖縄を捨石に時間を稼ぐ。4月に始まった本島の攻防はやがて、首里の本部が落ち、南部へ敗走する。

本部壕に結集した病院も、各壕にちらばり、やがて軍の指揮官(牛島司令官)は6月になって、「最後まで戦え」と軍命を出し、自決する。

組織的戦いが果てて後、更なる悲劇が続き、沢山の村民・学徒が死んでゆくのだ。

そのひめゆり・資料館は展示方法など、やや不満はあったが、それでも、衝撃的だ。出口に給水機はうなずける。喉はカラカラだった。



ひめゆりの周りは、お土産やが軒を連ねる。
修学旅行の生徒たちが、必ず立ち寄り、にぎやかだ。
入り口にはボランティアが献花を売る。その収益で、運営をまかなう。
紐のつかない運営が、表現の曖昧さも断ち切っているらしい。

ひめゆり・あまりにも観光化はしているが、多く知らせる、1つの力にはなっているようである。




ひめゆりからわずか数百メートルの畑の中に「第一外科壕」はあった。
最近やっと車で来れるようになったらしい。
驚くばかりの、閑散だ。極めて訪れる人は少ないらしい・・・
せめて、ひめゆりの「後に」高校生達が立ち寄ったら・・と思った。
今も、当時のまま存在する姿を見るべきだ。




陸軍病院跡だ。第一・第二・第三を束ねた本部壕の跡だ。
ここも、閑散だ。




第二外科壕の跡だ。すでに壕は埋まり、ほんの少し穴が開いている程度である。
寄せ付けない凄みが、ある。




ひめゆり達の壕も、鉄の爆風が激しさを増して迫る。
住民を守るべき軍隊は、勝手に自決し・あるいは敗走し・あるいは隠れる住民を追い出し壕や洞穴に逃げている。

ひめゆりは壕を捨て、南に逃げる。やがて陸の終わる「荒崎海岸」に出る。
コーラルの岸壁・波で浸食された海岸の穴に身を隠す。やがて海上の米軍に見つかり、海からは砲撃が襲い、背後からは火炎放射がせまる。

渡された手りゅう弾で、尊い命が自決で果てた場所だ。



最後に行った場所は、本島最南端の「喜屋武岬」だ。
ひめゆりの荒崎海岸のすぐ南の岬だ。

業火に追われた住民が、やがて行き場を失い、身を投げた絶壁だ。



左に眺めれば、荒崎海岸だ。




眼下は荒海だ。

太平洋と東シナ海の出会う場所だ。

身を投げ、未だ、海へたどり着かない魂が、岸壁に残っている、立ち尽くす以外に身の処し方が無いような、そんな場所だ。

ガイドブックをなぞったような、沖縄の主戦場をめぐって3年目。
やっと一筆が終わった。

この大きな犠牲のおかげで、僕は憲法9条を抱きしめている。

深く・力の限り、手放すまいと思った。

また、同じ場所にやってくるかもしれない・・・忘れないように、僕に続く子供達に伝えるために・・・・


コメント (15)
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