「引き抜きの話が来たら給料を2倍出す」
本社の社長は全社員に公言する一方、取締役会議では
「引き抜きたい人材がいたら、2倍の給料で引き抜いてもらいたい。
向こうがその倍出して引き留めたら、こっちはさらに倍出す」
と明言した。
自社の人材に危機感をつのらせる社長は
社員の流出を止めるかたわら、優秀な人材の調達を計っていたのだった。
破格の待遇で迎えたい人材が、事務や現場に必要とは思えない。
しかしどの世界でも営業だけは、人次第で雲泥の差が出る。
社長は、永井部長の率いる営業部の補強を考えているのだ。
幸か不幸か、社長の思いに気づかない永井部長は
腹心を失い、人材調達の急務にかられていた。
引き抜き奨励のお達しを聞いて自信を得た彼は、ある人物に白羽の矢を立てる。
同じ建設業界のD社で営業マンをしている田辺氏である。
49才の田辺氏は元々、C社の営業だった。
C社の前身は任侠の世界。
彼が新卒入社した頃には、とっくにカタギの会社になっていたが
任侠道は脈々と息づいており、彼はその中で鍛えられた。
このC社で一昨年、後継者争いが勃発。
社長派と専務派に分かれてしのぎを削った結果
社長が勝利し、専務は責任を取って依願退職した。
田辺氏は専務派だったため、専務に義理立てして共に退職。
が、すぐにD社から請われて再就職し、以来D社の発展ぶりはめざましい。
つまり田辺氏は、その実力と男気において業界の有名人。
年齢と職種は永井部長と同じでも、立つステージは格段に違う。
それを引き抜いて部下にしたいと恋い焦がれる、身の程知らずが永井部長であった。
「会って、話すだけでも‥」
永井部長はツテを頼って何度も面会を申し入れるが、田辺氏は無視。
当然である。
田辺氏は昔から、夫の親友なのだ。
向こうの方が10才年下だが、C社と我が社は長年の取引があり
その過程で親しくなった。
都市部のC社を辞めて隣市のD社に転職してからは、仕事で組む機会が増え
ますます親密度が増した。
夫が嫌う人間と、会うはずがない。
その一方で、夫は営業部の若手数人に田辺氏を紹介済みである。
建設業界には、絶対に訪問してはいけない会社というのが存在する。
何も知らずに飛び込みで契約を取り、喜んでいたら
社長さんの小指が見当たらない‥(本契約まで登場しないから)
専務さんの背中にお絵描きが‥(厚着の冬に親しくなり、薄着の夏でドッキリ)
こんな漫画みたいなことが本当にある。
永井部長の下で働く若者たちは、日々危険にさらされていると言っても過言ではない。
何か起きたとしても、助けてくれる上司はいないのだ。
この事態を回避するため、また有事の際の保険として
夫は営業部の若手に田辺氏を引き合わせ
「何でもこの男に聞いてから動け」と言い含めてあった。
行ってはならない会社、近づいてはいけない人物など
業界の裏を知り尽くした彼の指示を仰げば安全である。
若者たちも田辺氏を慕い、営業の基礎を教えてもらったり
仕事の力添えをしてもらったり、良い関係ができあがっている。
知らないのは永井部長と、その子分だけであった。
永井部長は相変わらず、田辺氏との接触を試みていた。
十何回目かで、田辺氏は返事をする。
「ヒロシさんの許可があれば会います」
夫と懇意なのを初めて知った永井部長は、しばらく声も出なかったという。
さんざん意地悪をしていた相手が窓口とわかれば、常人ならここで引く。
しかし、そこは持ち前のハイエナ精神で
今度は夫に「会わせろ、会わせろ」が始まった。
今までの仕返しとばかりに、夫が焦らして楽しんでいると
また河野常務を引っ張り出してきた。
「ワシもあの男には、いっぺん会うてみたいんじゃ。
ぜひとも会わせてくれ」
常務が言うんだから仕方がない‥ということで気の済んだ夫は
田辺氏に、河野常務と永井部長との三者面談を打診して了解された。
「2人は、会えるんならどこでも行くと言ってる。
うちでもいいけど、いっそ本社へ乗り込んだら?」
「それは面白い、そうしよう」
ということになり、約束の日、田辺氏は単身本社の門をくぐった。
「D社を辞めて、うちへ来ないか」
引き抜きの話を彼は即座に断り、それから雑談をして帰ったそうだ。
義理堅い彼が、倒産でもしない限り転職するわけがない。
ないが、もしも転職したと仮定すると、永井部長に明日は無い。
営業部長の座は早晩、必ず奪われる。
やる時はとことんやる田辺氏の性格上、会社も追われる。
現に彼の勤めるD社は、大躍進と引き換えに犠牲者を出している。
その犠牲者は奇しくも、夫の父親の会社が危なくなった時
何度も夫に嫌がらせをした2名である。
そのうち、会社も食われそうな勢いだ。
このジョーカーみたいな男を入れたら自分の身が危ないとは思わないのだろうか‥
我々は永井部長の頭を心配してやるのだった。
田辺氏と会って以来、河野常務は不自然な沈黙を守っている。
彼の性質から察すると、この逸材に惚れ込んだのは確かだ。
しかし同時に、彼のジョーカー性をも感知したはずである。
生え抜きの永井部長を葬られては、本社の沽券にかかわる。
ダメな子ほど可愛いというやつで、複雑な心境に陥っていると思われる。
永井部長の方は、態度が激変した。
用があって我が社を訪れた際
「すごい人に会わせてくださって、ありがとうございました」
そう言って夫にお辞儀をした。
合併以来、その瞳に揺らめいていた侮蔑の色は消え、代わりに緊張が宿っている。
「いやあ、あの人とお友達とは恐れ入りました」
おべんちゃらまで言う。
永井部長が帰った後、夫は田辺氏に電話してたずねた。
「あいつ、別人みたいになっとるけど、何か言うたんか?」
「別に、たいしたことは‥
ヒロシさんが色々とお世話になっているそうで、ありがとうございますと。
今後、何かあったら必ずご挨拶に行きますと。
まあ、お礼ですね」
お礼じゃない‥それ多分、お礼じゃないよ、田辺君。
《続く》
本社の社長は全社員に公言する一方、取締役会議では
「引き抜きたい人材がいたら、2倍の給料で引き抜いてもらいたい。
向こうがその倍出して引き留めたら、こっちはさらに倍出す」
と明言した。
自社の人材に危機感をつのらせる社長は
社員の流出を止めるかたわら、優秀な人材の調達を計っていたのだった。
破格の待遇で迎えたい人材が、事務や現場に必要とは思えない。
しかしどの世界でも営業だけは、人次第で雲泥の差が出る。
社長は、永井部長の率いる営業部の補強を考えているのだ。
幸か不幸か、社長の思いに気づかない永井部長は
腹心を失い、人材調達の急務にかられていた。
引き抜き奨励のお達しを聞いて自信を得た彼は、ある人物に白羽の矢を立てる。
同じ建設業界のD社で営業マンをしている田辺氏である。
49才の田辺氏は元々、C社の営業だった。
C社の前身は任侠の世界。
彼が新卒入社した頃には、とっくにカタギの会社になっていたが
任侠道は脈々と息づいており、彼はその中で鍛えられた。
このC社で一昨年、後継者争いが勃発。
社長派と専務派に分かれてしのぎを削った結果
社長が勝利し、専務は責任を取って依願退職した。
田辺氏は専務派だったため、専務に義理立てして共に退職。
が、すぐにD社から請われて再就職し、以来D社の発展ぶりはめざましい。
つまり田辺氏は、その実力と男気において業界の有名人。
年齢と職種は永井部長と同じでも、立つステージは格段に違う。
それを引き抜いて部下にしたいと恋い焦がれる、身の程知らずが永井部長であった。
「会って、話すだけでも‥」
永井部長はツテを頼って何度も面会を申し入れるが、田辺氏は無視。
当然である。
田辺氏は昔から、夫の親友なのだ。
向こうの方が10才年下だが、C社と我が社は長年の取引があり
その過程で親しくなった。
都市部のC社を辞めて隣市のD社に転職してからは、仕事で組む機会が増え
ますます親密度が増した。
夫が嫌う人間と、会うはずがない。
その一方で、夫は営業部の若手数人に田辺氏を紹介済みである。
建設業界には、絶対に訪問してはいけない会社というのが存在する。
何も知らずに飛び込みで契約を取り、喜んでいたら
社長さんの小指が見当たらない‥(本契約まで登場しないから)
専務さんの背中にお絵描きが‥(厚着の冬に親しくなり、薄着の夏でドッキリ)
こんな漫画みたいなことが本当にある。
永井部長の下で働く若者たちは、日々危険にさらされていると言っても過言ではない。
何か起きたとしても、助けてくれる上司はいないのだ。
この事態を回避するため、また有事の際の保険として
夫は営業部の若手に田辺氏を引き合わせ
「何でもこの男に聞いてから動け」と言い含めてあった。
行ってはならない会社、近づいてはいけない人物など
業界の裏を知り尽くした彼の指示を仰げば安全である。
若者たちも田辺氏を慕い、営業の基礎を教えてもらったり
仕事の力添えをしてもらったり、良い関係ができあがっている。
知らないのは永井部長と、その子分だけであった。
永井部長は相変わらず、田辺氏との接触を試みていた。
十何回目かで、田辺氏は返事をする。
「ヒロシさんの許可があれば会います」
夫と懇意なのを初めて知った永井部長は、しばらく声も出なかったという。
さんざん意地悪をしていた相手が窓口とわかれば、常人ならここで引く。
しかし、そこは持ち前のハイエナ精神で
今度は夫に「会わせろ、会わせろ」が始まった。
今までの仕返しとばかりに、夫が焦らして楽しんでいると
また河野常務を引っ張り出してきた。
「ワシもあの男には、いっぺん会うてみたいんじゃ。
ぜひとも会わせてくれ」
常務が言うんだから仕方がない‥ということで気の済んだ夫は
田辺氏に、河野常務と永井部長との三者面談を打診して了解された。
「2人は、会えるんならどこでも行くと言ってる。
うちでもいいけど、いっそ本社へ乗り込んだら?」
「それは面白い、そうしよう」
ということになり、約束の日、田辺氏は単身本社の門をくぐった。
「D社を辞めて、うちへ来ないか」
引き抜きの話を彼は即座に断り、それから雑談をして帰ったそうだ。
義理堅い彼が、倒産でもしない限り転職するわけがない。
ないが、もしも転職したと仮定すると、永井部長に明日は無い。
営業部長の座は早晩、必ず奪われる。
やる時はとことんやる田辺氏の性格上、会社も追われる。
現に彼の勤めるD社は、大躍進と引き換えに犠牲者を出している。
その犠牲者は奇しくも、夫の父親の会社が危なくなった時
何度も夫に嫌がらせをした2名である。
そのうち、会社も食われそうな勢いだ。
このジョーカーみたいな男を入れたら自分の身が危ないとは思わないのだろうか‥
我々は永井部長の頭を心配してやるのだった。
田辺氏と会って以来、河野常務は不自然な沈黙を守っている。
彼の性質から察すると、この逸材に惚れ込んだのは確かだ。
しかし同時に、彼のジョーカー性をも感知したはずである。
生え抜きの永井部長を葬られては、本社の沽券にかかわる。
ダメな子ほど可愛いというやつで、複雑な心境に陥っていると思われる。
永井部長の方は、態度が激変した。
用があって我が社を訪れた際
「すごい人に会わせてくださって、ありがとうございました」
そう言って夫にお辞儀をした。
合併以来、その瞳に揺らめいていた侮蔑の色は消え、代わりに緊張が宿っている。
「いやあ、あの人とお友達とは恐れ入りました」
おべんちゃらまで言う。
永井部長が帰った後、夫は田辺氏に電話してたずねた。
「あいつ、別人みたいになっとるけど、何か言うたんか?」
「別に、たいしたことは‥
ヒロシさんが色々とお世話になっているそうで、ありがとうございますと。
今後、何かあったら必ずご挨拶に行きますと。
まあ、お礼ですね」
お礼じゃない‥それ多分、お礼じゃないよ、田辺君。
《続く》