加瀬じいにバッサリやられた後、集会所建設の話がどうなったかは知らない。
が、森山さんがメゲていないことはわかった。
ほどなく彼から回された回覧板に、こう書いてあったからだ。
「近日中に、住民の皆さんの生年月日と個人番号を記入する用紙を配布します。
これは安全管理のために必要なので、ご協力をお願いします」
森山さんは、住民全員の生年月日と個人番号を知りたくなったらしい。
私は大いに怪しんだ。
去年の春だったか、森山さんから回された名簿に
うっかり名前を書いて面倒なことになったからだ。
「リバーソーシャル活動にご賛同いただける方は
名簿に名前を記入してください。
これは川の美化を推進する活動です。
署名がたくさん集まると県から奨励金が出ますから
ふるって記入してください」
はい、ふるって記入しましたとも。
よその家もふるって書いてあったので
私も負けじと一家全員の名前を書きましたとも。
数日後、森山さんがうちに来た。
「今度の河原の草刈り、息子さんも参加してくださるそうで」
「え‥」
「リバーソーシャル活動に署名したじゃないですか。
署名した人は河原の草刈りに参加するんですよ。
息子さんには、草刈り機で草を刈ってもらいたいんです」
明るくおっしゃる森山さん。
彼の説明でこの時初めて知ったが、リバーソーシャル活動というのは
春と秋に自治会費で外注していた河原の草刈りを
住民が自力でやると誓約したら、年に5万円の奨励金をもらえるシステム。
そのお金で、草刈りの参加者が飲み食いしようというのが彼の意向だった。
「うちの子、草刈り機なんて使ったことありませんが」
「だから後継者を育てるんですよ」
「無理です!」
私は言葉を尽くして説明した。
協力はしたいが、人には素質というものがある‥
河原は傾斜がきつくて長い‥
草刈りと無縁の環境で育ち、丁寧や慎重とは真逆の性質を持つ彼らが
そのような難所でいきなり草刈り機を持って、無事に終わるはずがない‥
取り返しのつかない事態になる前に、別の作業を振ってくれ‥。
すると森山さんは、笑いながらおっしゃる。
「誰でもできますよ、僕だってできるんだし」
どうしてもうちの息子たちを草刈り隊にしたい森山さんと
草刈り機以外の仕事を要求する私の攻防は続いたが
やがて彼はこともなげに言った。
「心配ないですよ、保険に入ってますから」
頃合いを見計らってストンと落とす、この話術。
これでケムに巻かれ、だまされる人間がいるかもしれない‥
私は当時、ふと思ったものだ。
同時に、ひとたび見込んだら蛇のように執念深い
森山さんの本質を垣間見た気がした。
「保険に入っていたら、飛んだ指や足が元に戻るとでも?」
「アハハ、そんなわけないじゃないですか」
依然として明るい森山さん。
「後進を育てる意味で息子さんにと言ったんですが
ナンならご主人でもいいんですよ」
「あの人に草刈り機なんか持たせたら、死人が出ますよ」
「アハハ、まさか、そんなことありえないでしょう」
「誰がそれを証明します?何かあってからでは遅いんですよ」
逃げたいのではない。
私は真剣だ。
ズバ抜けたウカツは、夫の大きな特徴である。
バイクのエンジンをかけたまま、幼児だった長男を
うっかりマフラーの横に立たせ、彼のふくらはぎに火傷を負わせた夫‥
次男が生まれたばかりの真夏、エアコンを最低温度に下げて寝入り
横に寝かせていた赤ん坊を紫色にした夫‥
室内でゴルフの素振りをし、シャンデリアを粉砕した夫‥
身の毛もよだつ記憶の数々が蘇る。
他人の森山さんは、夫の呪われし秘密を知るよしもない。
「じゃ、やっぱり息子さんにお願いしますよ。
若者はお宅しかいないんですから」
この調子で延々とリピート、それが森山さんである。
よく読まずに署名した自分を悔やむ私よ。
いや、これはワナだ。
読んでも多分わからなかった。
他の住民も、リバーソーシャルなんてカタカナに惑わされ
わからないままに署名したに違いない。
最終的に森山さんは
「じゃあ、お宅はご協力いただけないということで!」
と不機嫌に言い捨てて帰った。
駐車場親子の世話をした美談の人に、疑いを抱き始めた最初だった。
が、これであきらめないのが森山さん。
草刈りの前日、庭に出ていた息子たちを呼び止めて
参加の約束を取り付けてしまった。
「断りに行く!」
森山さんの執拗と息子たちの安易に激怒した私に、息子たちは平然と言う。
「奥さ〜ん、明日は雨よ〜」
「あんたら‥それ知って返事したんか」
「当たり前じゃん」
「よその息子をつついて子分にしたがるおじさんは時々おるもんよ。
たいてい息子がおらんか、息子とうまくいってない人。
男の子の扱い方知らんけん、一回関わったらどこまでも図々しいんじゃ」
「俺ら、ああいう人に何べんも会うとるけん、対処の仕方は知っとる」
クロいやつらだ‥親の顔が見たい。
翌日はやはり雨で中止となった。
話が飛んだが、その森山さんが‥
署名でワナを仕掛ける森山さんが‥
今度は生年月日と個人番号を書けと言ってきた。
入手したあかつきには、これを元に新たな獲物を探す気配、濃厚。
なにしろ後期高齢者揃いのデンジャラ・ストリート。
近い将来、空き家になる予定の家はたくさんある。
持ち主がしっかりしておらず、後継者がいない家を探し
今度は「空き家バンク」とかなんとか言って管理を申し出るつもりか。
だんだん森山さんの手口がわかってきたような気がする。
そのうち「安全管理」のために、印鑑証明を欲しがるかもしれない。
ワナに打ち勝つには、彼より長生きするしかないのだ。
名簿が回ってきたら「お断りします」と書いてやる‥
そう決めて待つこと半月、生年月日と個人番号を記入する紙は
いまだ、どの家にも届かない。
今度も誰かが森山さんに抗議して、立ち消えになったと思われる。
また何か判明したらお知らせすることにして、ひとまず終わらせていただこう。
《完》
が、森山さんがメゲていないことはわかった。
ほどなく彼から回された回覧板に、こう書いてあったからだ。
「近日中に、住民の皆さんの生年月日と個人番号を記入する用紙を配布します。
これは安全管理のために必要なので、ご協力をお願いします」
森山さんは、住民全員の生年月日と個人番号を知りたくなったらしい。
私は大いに怪しんだ。
去年の春だったか、森山さんから回された名簿に
うっかり名前を書いて面倒なことになったからだ。
「リバーソーシャル活動にご賛同いただける方は
名簿に名前を記入してください。
これは川の美化を推進する活動です。
署名がたくさん集まると県から奨励金が出ますから
ふるって記入してください」
はい、ふるって記入しましたとも。
よその家もふるって書いてあったので
私も負けじと一家全員の名前を書きましたとも。
数日後、森山さんがうちに来た。
「今度の河原の草刈り、息子さんも参加してくださるそうで」
「え‥」
「リバーソーシャル活動に署名したじゃないですか。
署名した人は河原の草刈りに参加するんですよ。
息子さんには、草刈り機で草を刈ってもらいたいんです」
明るくおっしゃる森山さん。
彼の説明でこの時初めて知ったが、リバーソーシャル活動というのは
春と秋に自治会費で外注していた河原の草刈りを
住民が自力でやると誓約したら、年に5万円の奨励金をもらえるシステム。
そのお金で、草刈りの参加者が飲み食いしようというのが彼の意向だった。
「うちの子、草刈り機なんて使ったことありませんが」
「だから後継者を育てるんですよ」
「無理です!」
私は言葉を尽くして説明した。
協力はしたいが、人には素質というものがある‥
河原は傾斜がきつくて長い‥
草刈りと無縁の環境で育ち、丁寧や慎重とは真逆の性質を持つ彼らが
そのような難所でいきなり草刈り機を持って、無事に終わるはずがない‥
取り返しのつかない事態になる前に、別の作業を振ってくれ‥。
すると森山さんは、笑いながらおっしゃる。
「誰でもできますよ、僕だってできるんだし」
どうしてもうちの息子たちを草刈り隊にしたい森山さんと
草刈り機以外の仕事を要求する私の攻防は続いたが
やがて彼はこともなげに言った。
「心配ないですよ、保険に入ってますから」
頃合いを見計らってストンと落とす、この話術。
これでケムに巻かれ、だまされる人間がいるかもしれない‥
私は当時、ふと思ったものだ。
同時に、ひとたび見込んだら蛇のように執念深い
森山さんの本質を垣間見た気がした。
「保険に入っていたら、飛んだ指や足が元に戻るとでも?」
「アハハ、そんなわけないじゃないですか」
依然として明るい森山さん。
「後進を育てる意味で息子さんにと言ったんですが
ナンならご主人でもいいんですよ」
「あの人に草刈り機なんか持たせたら、死人が出ますよ」
「アハハ、まさか、そんなことありえないでしょう」
「誰がそれを証明します?何かあってからでは遅いんですよ」
逃げたいのではない。
私は真剣だ。
ズバ抜けたウカツは、夫の大きな特徴である。
バイクのエンジンをかけたまま、幼児だった長男を
うっかりマフラーの横に立たせ、彼のふくらはぎに火傷を負わせた夫‥
次男が生まれたばかりの真夏、エアコンを最低温度に下げて寝入り
横に寝かせていた赤ん坊を紫色にした夫‥
室内でゴルフの素振りをし、シャンデリアを粉砕した夫‥
身の毛もよだつ記憶の数々が蘇る。
他人の森山さんは、夫の呪われし秘密を知るよしもない。
「じゃ、やっぱり息子さんにお願いしますよ。
若者はお宅しかいないんですから」
この調子で延々とリピート、それが森山さんである。
よく読まずに署名した自分を悔やむ私よ。
いや、これはワナだ。
読んでも多分わからなかった。
他の住民も、リバーソーシャルなんてカタカナに惑わされ
わからないままに署名したに違いない。
最終的に森山さんは
「じゃあ、お宅はご協力いただけないということで!」
と不機嫌に言い捨てて帰った。
駐車場親子の世話をした美談の人に、疑いを抱き始めた最初だった。
が、これであきらめないのが森山さん。
草刈りの前日、庭に出ていた息子たちを呼び止めて
参加の約束を取り付けてしまった。
「断りに行く!」
森山さんの執拗と息子たちの安易に激怒した私に、息子たちは平然と言う。
「奥さ〜ん、明日は雨よ〜」
「あんたら‥それ知って返事したんか」
「当たり前じゃん」
「よその息子をつついて子分にしたがるおじさんは時々おるもんよ。
たいてい息子がおらんか、息子とうまくいってない人。
男の子の扱い方知らんけん、一回関わったらどこまでも図々しいんじゃ」
「俺ら、ああいう人に何べんも会うとるけん、対処の仕方は知っとる」
クロいやつらだ‥親の顔が見たい。
翌日はやはり雨で中止となった。
話が飛んだが、その森山さんが‥
署名でワナを仕掛ける森山さんが‥
今度は生年月日と個人番号を書けと言ってきた。
入手したあかつきには、これを元に新たな獲物を探す気配、濃厚。
なにしろ後期高齢者揃いのデンジャラ・ストリート。
近い将来、空き家になる予定の家はたくさんある。
持ち主がしっかりしておらず、後継者がいない家を探し
今度は「空き家バンク」とかなんとか言って管理を申し出るつもりか。
だんだん森山さんの手口がわかってきたような気がする。
そのうち「安全管理」のために、印鑑証明を欲しがるかもしれない。
ワナに打ち勝つには、彼より長生きするしかないのだ。
名簿が回ってきたら「お断りします」と書いてやる‥
そう決めて待つこと半月、生年月日と個人番号を記入する紙は
いまだ、どの家にも届かない。
今度も誰かが森山さんに抗議して、立ち消えになったと思われる。
また何か判明したらお知らせすることにして、ひとまず終わらせていただこう。
《完》