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2012年、朝鮮戦争の惨状を伝え、平和を祈願して作られた「桟橋里(ジャンギョリ)公共美術プロジェクト」の作品たちだ。

2021-06-27 | 韓国:ハンギョレ新聞

[フォト]

38度線で分けられた村に平和が息づく――

朝鮮戦争勃発から71年

登録:2021-06-25 08:57 修正:2021-06-25 09:25
 
朝鮮戦争の傷跡の残る「38平和村」
 
 
桟橋里の隣村の基士門里。朝鮮戦争の惨状が描かれた壁画がある家の前で子どもたちが走り回っている=襄陽/ペク・ソア記者//ハンギョレ新聞社

 国道7号線の江陵(カンヌン)~束草(ソクチョ)区間に沿って北に向かうと、朝鮮戦争の傷跡が残る38平和村にたどりつく。江原道襄陽郡県北面(ヤンヤングン・ヒョンブクミョン)の38橋を渡って村に入ると、砲弾の模型の小さな石像が訪問客を迎える。村を横切る桟橋川(38度線川)に沿って、“平和を釣り上げる”という意味が込められた彫刻「一つになった心」や、町内会館前の栗の木に吊り下げられ村の危険を知らせる鐘の役割をした鉄橋の造形物「生存の響き、平和の鐘の音」などがある。2012年、朝鮮戦争の惨状を伝え、平和を祈願して作られた「桟橋里(ジャンギョリ)公共美術プロジェクト」の作品たちだ。

 
 
江原道襄陽郡県北面の38橋を渡って38平和村に入ると、最初に目にする砲弾の模型の小さな石像=ペク・ソア記者//ハンギョレ新聞社
 
 
川を挟んで釣り竿を垂らした二人の人が一緒に平和を釣りあげるというチェ・ムンス作家の作品「一つになった心」=ペク・ソア記者//ハンギョレ新聞社

 38平和村は、小さな峰が屏風のように村を取り囲み、台風も避けていくといわれた平和な村だった。しかし1945年、北緯38度線を境に村が分断される苦しみを経験した。ここで生まれ育ったホン・ピルニョさん(94)は、当時の記憶がはっきりと残っている。「1945年のある日、ロスケ(ソ連軍)と米軍が桟橋里に来て、38度線に幕を張り、ここからは以北、ここからは以南、と言った。その時、スニさんの家の部屋は以南で台所は以北になった。村の子どもたちがその幕のせいで学校にも行けなかった」。ホンさんの家も、南北を行き来した。土地はそのままなのに、前日は北の領土だったり、今日は南の領土になったりした。

 
 
ホン・ピルニョさん(94)と夫のイ・ワンサンさん(92)。この村で生まれ、6歳の時に両親が今の家を買った。母屋だけで4棟あったという大きな家は、戦争が終わった後に灰になった。ホンさんはこの家で両親を看取り、息子3人を育てた=ペク・ソア記者//ハンギョレ新聞社

 朝鮮戦争が勃発した後、ホンさんは村の人々とともに南側に避難した。「戦争が起きた日、明け方に砲撃の音がして山の上に登ってみたら、人民軍が真っ黒に旗を振ってこちらに向かっていた。母は、一番上の姉さんは体が弱くて赤ちゃんをおぶって行けないから、隣村の姉さんと二番目の姉さんと一緒に避難しなさい、と言った。私たちは国軍について仁邱里(イングリ)第5中隊本部に向かったが、後ろから人民軍が銃声を鳴らしながらついてきた」(朝鮮戦争当時、襄陽郡民が経験した話の証言集中のホン・ピルニョさんの記録)

 
 
38平和村から海辺につながる38橋の下のトンネル。車1台がやっと通れるくらいのトンネルの壁には、銃を持った軍人と一輪の花、鉄条網にとまった一羽の蝶が描かれている=ペク・ソア記者//ハンギョレ新聞社

 戦争が終わって帰ってきた家は、焼け跡だけが残っていた。「父と夫がこの家を建て直した。両親ともここで看取り、3人の息子をこの家で育てた」。ホンさんの家から桟橋川に沿って海に向かうと、エメラルド色の東海(トンヘ)の海の上で、波に乗るサーファーたちが初夏の香りを存分に楽しんでいた。桟橋川に沿って流れてきた戦争の痛みが東海にぶつかり、砕け落ちるようだ。再び振り返って見た38平和村は静かだった。村へと向かう道のあちこちに立てられた芸術作品が、平和を守るように黙々と立っている。

襄陽/ペク・ソア記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )


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