「統一した朝鮮がみたい、それが私の最後の夢」三木睦子さんを悼む
故三木武夫元首相夫人で護憲運動や女性の政治参加を進める活動に取り組んだ三木睦子(みき・むつこ)さんの訃報を聞いて、在日同胞た
ちの悲しみも深い。 三木さんは、南北統一を支援する「アジアの平和と女性の役割』シンポのよびかけ人のほか、日本軍性奴隷制の被害者たちへの
国家賠償を求める活動などに深く関わって来た。
94年、主席逝去の3週間前、三木さんは孫たちと一緒に招待され、金日成主席と和やかなひとときを過ごした。その際、「南北の和平は建国以来の念願
です。手伝ってくださってほんとうにうれしい、ありがとう」と主席からの言葉をかけられた。三木さんはその言葉に最期まで信義と誠意で応えられた。
米寿を迎えた三木さんにご自宅でインタビューしたのが、お会いした最後になった。日朝関係がなかなか前に進まないと嘆きながら、政治家の不甲斐なさを叱
り、「怒ることが生きる張り合いになっている」とも。04年には作家の大江健三郎さんらとともに、憲法9条を守ろうと訴える「九条の会」を結成。市民た
ちの会合に呼ばれて講演したり、教科書問題をめぐる学者たちの会合にも招かれた。「激しい言葉で怒ってほしい」と、みなに期待され、ついそれに応えてし
まうと苦笑されていた。
また、2000年には、朝鮮の刺繍と日本の染めの技術を融合したデザインを手がけて「新作きもの展」を開くなど、伝統文化に深い素養を持つ三木さんなら
ではの「スーパーレディーぶり」で交流史に華やかな足跡を残した。
少女の頃、東京・四ッ谷にあった実家に2.26事件(日本陸軍の一部将兵たちが軍首脳、政治家たちを襲撃した=1936年)を起こした「反乱軍」が寝泊
まりするという体験もあって、度胸も座っていた。
三木さんと「朝鮮」との出会いは1923年の関東大震災までさかのぼる。「東京中焼け野原になったため、家の中が被災者たちでごった返していて、何だか
興奮していたことが記憶にある。大人たちの会話から『朝鮮』という言葉が耳に入ってきて、日本にたくさんの朝鮮人たちが住んでいることを知った。虐殺事
件の事実を知ったのは大分経ってから」。実家には、朝鮮半島からの留学生たちが寄宿していて、三木さんは彼らといつも食卓を囲んだ。東京府立第一高女時
代には朝鮮人の親友もいた。朝鮮への親しみの原風景はここにあった。「第2次世界大戦でアジアの国々にあれだけ迷惑をかけたのだから、なんとか日本が率
先して平和のために尽力するのが筋ではないかと思って…」と口にされていた。
とりわけ印象深いのは01年、東京で開かれた「アジアの平和と女性の役割」の集い。北南朝鮮の女性たちが一堂に会する場として自宅を提供し、北南の女性
たちを結ぶかけ橋としての重責を担った。「北から来られた呂鷰九さん、南の李効再さん、尹貞玉さんは共に梨花女子大学の同窓生。3人がわが家で46年ぶ
りに抱き合ってボロボロ涙を流している様子を見て、その運命の不思議さに心打たれた」。
三木さんは男に比べて女は社会的なしがらみが少ない分、自由に活動できると実践を通じて示された。
「男の人たちにまかせると話がとげとげしくなる。でも、女性たちは政治的立場が違っても、『そんなこといいじゃないの』と仲良くできる。それぞれが教育
のこととか、ざっくばらんに話あえる。これは面子や利害関係と違う、もっとも人間的なところ。だから、今後も何とかして朝鮮の統一や中国を含めた東アジ
アの真の平和の実現のために、活動を続けたい」。日本の社会が北叩き一色に染まっても、「右倣い」にくみせず、ぶれず、ひるまず、信念を貫き通した。
「何とか私が生きている間に統一した朝鮮半島を見ることができればいいのに。それが私の生涯最後の夢です」と少女のような笑顔で語られていた三木さん。
心から冥福を祈りたい。
(朴日粉記者)
故三木武夫元首相夫人で護憲運動や女性の政治参加を進める活動に取り組んだ三木睦子(みき・むつこ)さんの訃報を聞いて、在日同胞た
ちの悲しみも深い。 三木さんは、南北統一を支援する「アジアの平和と女性の役割』シンポのよびかけ人のほか、日本軍性奴隷制の被害者たちへの
国家賠償を求める活動などに深く関わって来た。
94年、主席逝去の3週間前、三木さんは孫たちと一緒に招待され、金日成主席と和やかなひとときを過ごした。その際、「南北の和平は建国以来の念願
です。手伝ってくださってほんとうにうれしい、ありがとう」と主席からの言葉をかけられた。三木さんはその言葉に最期まで信義と誠意で応えられた。
米寿を迎えた三木さんにご自宅でインタビューしたのが、お会いした最後になった。日朝関係がなかなか前に進まないと嘆きながら、政治家の不甲斐なさを叱
り、「怒ることが生きる張り合いになっている」とも。04年には作家の大江健三郎さんらとともに、憲法9条を守ろうと訴える「九条の会」を結成。市民た
ちの会合に呼ばれて講演したり、教科書問題をめぐる学者たちの会合にも招かれた。「激しい言葉で怒ってほしい」と、みなに期待され、ついそれに応えてし
まうと苦笑されていた。
また、2000年には、朝鮮の刺繍と日本の染めの技術を融合したデザインを手がけて「新作きもの展」を開くなど、伝統文化に深い素養を持つ三木さんなら
ではの「スーパーレディーぶり」で交流史に華やかな足跡を残した。
少女の頃、東京・四ッ谷にあった実家に2.26事件(日本陸軍の一部将兵たちが軍首脳、政治家たちを襲撃した=1936年)を起こした「反乱軍」が寝泊
まりするという体験もあって、度胸も座っていた。
三木さんと「朝鮮」との出会いは1923年の関東大震災までさかのぼる。「東京中焼け野原になったため、家の中が被災者たちでごった返していて、何だか
興奮していたことが記憶にある。大人たちの会話から『朝鮮』という言葉が耳に入ってきて、日本にたくさんの朝鮮人たちが住んでいることを知った。虐殺事
件の事実を知ったのは大分経ってから」。実家には、朝鮮半島からの留学生たちが寄宿していて、三木さんは彼らといつも食卓を囲んだ。東京府立第一高女時
代には朝鮮人の親友もいた。朝鮮への親しみの原風景はここにあった。「第2次世界大戦でアジアの国々にあれだけ迷惑をかけたのだから、なんとか日本が率
先して平和のために尽力するのが筋ではないかと思って…」と口にされていた。
とりわけ印象深いのは01年、東京で開かれた「アジアの平和と女性の役割」の集い。北南朝鮮の女性たちが一堂に会する場として自宅を提供し、北南の女性
たちを結ぶかけ橋としての重責を担った。「北から来られた呂鷰九さん、南の李効再さん、尹貞玉さんは共に梨花女子大学の同窓生。3人がわが家で46年ぶ
りに抱き合ってボロボロ涙を流している様子を見て、その運命の不思議さに心打たれた」。
三木さんは男に比べて女は社会的なしがらみが少ない分、自由に活動できると実践を通じて示された。
「男の人たちにまかせると話がとげとげしくなる。でも、女性たちは政治的立場が違っても、『そんなこといいじゃないの』と仲良くできる。それぞれが教育
のこととか、ざっくばらんに話あえる。これは面子や利害関係と違う、もっとも人間的なところ。だから、今後も何とかして朝鮮の統一や中国を含めた東アジ
アの真の平和の実現のために、活動を続けたい」。日本の社会が北叩き一色に染まっても、「右倣い」にくみせず、ぶれず、ひるまず、信念を貫き通した。
「何とか私が生きている間に統一した朝鮮半島を見ることができればいいのに。それが私の生涯最後の夢です」と少女のような笑顔で語られていた三木さん。
心から冥福を祈りたい。
(朴日粉記者)