羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

『親鸞』から遡ること34年前の「生き字引」の思想ー五木寛之+佃実夫

2010年01月26日 18時47分32秒 | Weblog
『親鸞』について書いたこのブログの‘つぶやき’は、五、六年前に大学の図書館で偶然に見つけた五木寛之氏の対談が何となしの記憶として残っていたのがもとだった。
 それは『思想の科学』1976年6月号№63臨時増刊号「辞典の歴史と思想 作る人と引く人の対話」<対談>「生き字引」の思想 五木寛之+佃実夫である。
 このなかで五木氏は次のようなことを話されている。要約してみる。運輸、交通等の業界紙の仕事を経験し、その後小説家に転じてからも音楽、ソ連、CM界、テレビ界が背景となる作品を書いてきた。生の業界用語は字引にはないことがまず一点。
 そして氏が文章を書く場所は飛行機の中であったり、喫茶店やスタジオの片隅等だったそうだ。そこでは字引を引く機会がなかったのが二点目。
 そこで業界用語はそこに生きている人に聞くのがいちばんだったことを挙げている。そのうえ九州筑紫出身の出自は、‘語部’の伝承の世界と親密な関係を持っていたことが大きい、と。つまり「言葉の響きと意味」が渾然一体に絡まった‘言語感覚’が、氏の身体深くに流れている。
「辞典には意味は正確に書いてあるけれど、響きについては、明記してないわけですよ」と五木氏は語っている。
 小説のなかでは、言葉の身体性(音声)を大事にすることでしか人物が生きる道はない、ということらしい。このことが記憶の底にありながら、二日分のブログを呟いてしまった、というのが真相である。
 
『「生き字引」の思想』を読み直した。すると後半では‘ルビ’についても語っているではありませんか。
五木氏曰く「漢字をルビつき講談本で覚えたのです。だからぼくは今できるだけルビをつけようとしているのですけれど、そうやって覚えると、微妙な言いまわしを覚えるのですよ」
 辞典を認めつつも、最良の字引は「生き字引」で、それを大事にしていきたい、と34年前の対談は締めくくられている。
 chihiroさんのご質問、Oさんのコメントから思いたって、対談のコピーを探し出し読み返した。
『親鸞』は、そうした作家の思いが籠められた作品として、私も心して読み進みたいと思っている、今日である。
 chihiroさん、追伸:語部、口承文学に関連して『風の王国』1986年を読んでみてください。
コメント
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