電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩。時々は実際に散歩を楽しみます。

週末、梅の収穫をする

2014年06月30日 06時07分30秒 | 週末農業
お天気に恵まれた週末、暑い時間を避けながら、梅の収穫をしました。昨年ほどの大豊作ではありませんが、大粒の梅がたくさん収穫できました。



昨年、思い切って剪定をしたので、今年はたしかに大粒です。



箱を調達し、出荷の段取りをしていたら、翌日曜日は朝から断続的に雨降りでした。東北地方もようやく本格的な梅雨に入ったようです。しばらく雨が降り、来月中旬に集中豪雨がやってきて、それで梅雨が明けるのが例年ですが、さて今年はどうだろうなどと話しているうちに、週末は終わってしまいました。やれやれ(^o^;)>poripori



アホ猫いわく、「ご主人も奥さんも、ご苦労だニャ~。アタシはネコに生まれてよかったニャ~」だそうです。たまにはいいこと言うね、とほめてあげました(^o^)/

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ヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ第4番」(管弦楽版)を聴く

2014年06月29日 06時02分15秒 | -オーケストラ
サッカーのワールドカップでは、残念ながら日本チームは敗退してしまったようですが、当方はヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」を聴き続けて(*1~3)おり、現在は第4番がカーステレオにセットされています。
そういえば、だいぶ前に「ブラジル風バッハ」全曲演奏会がNHK-FMで放送(*4)された際に、ピアノ独奏版のこの曲を取り上げておりました(*5)が、今回は管弦楽編曲版です。

第1楽章:前奏曲(序奏)、レント。
第2楽章:コラール(奥地の歌)、ラルゴ。
第3楽章:アリア(カンティガ)、モデラート。
第4楽章:踊り(ミウヂーニョ)、Muito animado。

終楽章の「Muito animado」という指示の意味が不明ですが、管弦楽編曲版らしく、カーステレオによる通勤の音楽としても、ロードノイズに負けずに充分に楽しめます。
ピアノ独奏版の演奏では、シンプルなだけに、ストレートに心に訴えるものがあり、活力とイキのよさとともに、「できれば一人で聴きたい、悲しみの涙が心をうるおすような」性格を感じていました。管弦楽編曲版でもそういう要素は大きいのですが、それだけではなく、オーケストラの楽器の音色や響き合いや音としての迫力など、楽しみの要素もぐっと大きくなります。このあたりが、オーケストラ編曲のおもしろいところでしょう。

演奏は、エンリケ・バティス指揮のロイヤル・フィルハーモニック管弦楽団。EMIの3枚組のうちの2枚目、TOCE-16136 というCDです。1986年のデジタル録音。

参考までに、演奏データを示します。
■バティス盤
I=3'47" II=5'40" III=5'22" IV=3'37" total=18'26"

YouTube には、シモン・ボリバル・オーケストラによるこの曲の演奏がありました。

VILLA-LOBOS: Bachianas Brasileiras 4 - Orquesta Sinfónica Simón Bolívar/Roberto Tibiriçá



(*1):ヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ第1番」を聴く~「電網郊外散歩道」2014年2月
(*2):ヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ第2番」を聴く~「電網郊外散歩道」2014年6月
(*3):ヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ第3番」を聴く~「電網郊外散歩道」2014年6月
(*4):NHK-FMで「ブラジル風バッハ」全曲演奏の予定~「電網郊外散歩道」2009年10月
(*5):ヴィラ・ロボス「ブラジル風バッハ第4番」を聴く~「電網郊外散歩道」2009年11月

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ウィリアムソン教授のこと

2014年06月28日 06時04分32秒 | 歴史技術科学
アレクサンダー・ウィリアム・ウィリアムソンは、1824年生まれのイギリスの化学者で、ハイデルベルクでグメリンについて化学を学び、20歳の1844年から22歳となる1846年まで、ギーセンのリービッヒのもとに留学します。リービッヒの化学教室としては開設後20年を経過した時期で、リービッヒ自身がロンドンの王立協会のフェローに選出され、科学の業績に対して贈られる最古の賞であるコプリ・メダルを受けるなど、充実した研究教育を行っていました。ギーセン大学で三年間リービッヒの下で学んだウィリアムソンは、ではその後はまっしぐらに化学の道に進んだかというと、そうではありませんでした。

父親の仕事の関係で幼馴染であった友人J.S.ミルの推薦によって、パリのオーギュスト・コントの下で、ウイリアムソンはさらに高等数学を学びます。コントといえば社会学の祖の一人ですから、「日本的常識」に従えば「社会学=文系=数学苦手(^o^;)」となるところですが、実はコントはエコール・ポリテクニークで数学を専攻した学者で、フランス革命の後の市民社会の危機を、想像的神学に基づく軍事的社会から理性と論理に基づく法律的社会へ、そして実証的観察に基づく科学に立脚した産業的社会へと移行発展していくことにより克服することができる、と主張した人です。化学者ウィリアムソンは、リービッヒの革命的な教育研究システムとその背後にある教育思想を身に付け、さらに功利主義を唱えた友人J.S.ミルを通じて紹介された在野の学者オーギュスト・コントに高等数学を学ぶかたわら、コントの実証主義による産業的社会の理想・理念を、カール・マルクス等とは別の形で~おそらくはコスモポリタン的な形で~受け継いだのであろうと想像できます。

1849年、ウィリアムソンは25歳でロンドン大学の実用化学の教授に指名され(*1)、63歳となる1887年に退くまでその教授職にありました。1855年(31歳)には王立協会の会員となり、エマ・キャスリーン・キイと結婚します。夫人はカレッジの比較文法学の教授トーマス・H.キイ博士の三女で、まずは中産階級以上の出身とみなして良いでしょう。夫妻はロンドン大学まで3kmほどのプロヴォスト街の家に住み始めます。

さて、ウィリアムソン教授の研究テーマは、アルコールとエーテルが中心で、通常はアルコールに130~140℃で濃硫酸を作用させると水分子が取れて(脱水縮合)、対称なエーテルができます。例えば、メタノールを原料とすればジメチルエーテルが、エタノールを原料とすればジエチルエーテルができます。

CH3-OH + HO-CH3 → CH3-O-CH3 + H2O    (ジメチルエーテル)
C2H5-OH + HO-C2H5 → C2H5-O-C2H5 + H2O   (ジエチルエーテル)

このあたりは、高校化学で習うところですが、私自身、高校生の頃に、ふと疑問に思ったことがありました。もし、メタノールとエタノールを混合して濃硫酸を加えたら、エチルメチルエーテルを作ることはできるのか? たぶん、ジメチルエーテルとジエチルエーテル、それにエチルメチルエーテルの三種混合が生成してしまうのではないか。では、命名法の問題に出てくる、片方がエチル基で他方がメチル基からなるような非対称エーテルを効率的に作るには、どうすればよいのだろう?



実は、これを19世紀に解決していたのが、ウィリアムソン教授でした。まさにそれが、大学の有機化学で初めて学んだ非対称エーテルの合成法「ウィリアムソン合成」です。

C2H5-ONa + Cl-CH3 → C2H5-O-CH3 + NaCl   (エチルメチルエーテル)

ウィリアムソン合成のすぐれた点は、立体障害などが影響しない限り、エチルメチルエーテルに限らず、任意の非対称エーテルを合成することができる、という点にあります。
ウィリアムソン教授は、ロンドン大学にリービッヒ流の実験室を中核とした研究室を作り、こういった分野の研究を推し進めます。数多くの研究業績により、1863年には、39歳でイギリス化学会の会長に就任します。

ウィリアムソン教授の肖像は、先に掲げたものが用いられることが多いのですが、実はもう一種類、左手をだらんと下げた肖像が伝えられています。それは、生涯左腕のマヒをかかえ、右眼を失明し左眼は近視で、自分が細かな実験をするのは不自由だったけれど、理論的な思索に優れていたという教授の姿をよく表しているようです。



(*1):日本版Wikipediaの解説中、「教職の候補となり」は誤訳。英語版 Wikipedia の原文は Williamson was appointed professor of practical chemistry at University College, London,…)とある。

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サクランボのタルトをいただいて

2014年06月27日 06時05分32秒 | 料理・住まい
少し前のことになりますが、先日、某さんからサクランボのタルトをいただきました。我が家のサクランボ「紅さやか」をお菓子用に提供したところ、試作品を分けてくれたもので、たいへん美味しくいただきました。

作り方はよくわからないのですが、話を聞いた限りでは、水っぽくならないように、サクランボをあらかじめシロップにつけておいてから使ったそうです。ふむふむ、佐藤錦など黄色系サクランボでは色があせてしまうのですが、熟すると黒っぽくなる紅さやかの場合は、タルトにしてもかなり赤色が残っており、きれいな見た目と酸味とを生かした味になっていました。美味しかった~(^o^)/

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幕末期の英国とロンドンの化学界

2014年06月26日 06時04分17秒 | 歴史技術科学
日本で言えば幕末期にあたる19世紀後半には、英国は覇権国家となっており、「パックス・ブリタニカ」と呼ばれるような帝国最盛期の繁栄を謳歌していましたが、それ以前の19世紀前半には、労働者という階層が都市に集中し、様々な問題が生まれていました。劣悪な都市生活環境は、例えばディケンズの小説『オリヴァー・ツイスト』やエンゲルスの著書『イギリスにおける労働者階級の状態』などに描かれているとおりです。

これに対して、環境汚染を抑制し、食品や売薬や飲料水などの純度を規制するような法的措置が制定されますが、実際に規制を有効なものとするためには、化学分析を主とする検定業務を担う一群の人々が必要となります。ところが階級社会イギリスにおいては、ドイツのギーセンにおけるリービッヒの研究室のように、大学がその育成の役割を担うことはありませんでした。むしろ、薬局協会などの職能団体が、徒弟制のような形で技術者の育成を行っていたのが実状のようです。

1826年に、哲学者ベンサムが高等教育の大衆化を唱え、ロンドン・ユニヴァーシティを設立します。当時、オックスフォード大学やケンブリッジ大学は、イギリス国教会の信徒で貴族出身の男性のみを受け入れていましたが、ロンドン大学ははじめて女性を受け入れ、宗教・政治的思想・人種による入学差別を撤廃した、自由主義・平等主義の大学として成長します。ロンドン大学は、後に多くのカレッジを吸収しつつ成長しますので、もともとの大学をユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)と称するようになります。おもしろいエピソードとしては、無宗教という性質上、大学のある通りをもじって「ガワー街の無神論者たち」と揶揄されることもあったそうで、チャールズ・ダーウィンも、「生物進化論」を発表したのはこの大学だったそうです。また、幕末期に英国公使の通訳として活躍したアーネスト・サトウも、この大学の卒業生です。次の写真は、ダーウィン。



さて、UCL は、設立当初から医学部の中に化学教育を置きましたが、薬局協会の制約を受けるなど、教育面でも必ずしも効果をあげたとは言えなかったようです。1841年には、薬学協会とほぼ同時にロンドン化学会が設立され、外国人化学者の第一号としてリービッヒを会員に迎えています。1845年には、リービッヒの助言を得てロンドンに王立化学カレッジを開設し、短期間ホフマンが指導に当たりますが、こちらもあまりうまくいかず、財政的に行き詰まり、1853年には王立鉱山専門学校に吸収されてしまいます。

したがって、ギーセンにおけるリービッヒの流儀をイギリスに伝え、後々まで影響を与えた人物として挙げられるのは、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのウィリアム・ウィリアムソン教授ということになりましょう。

(*):柏木肇「西欧の化学~19世紀化学の思想その4~イギリスにおける化学の職業と科学運動」,『科学の実験』572-579,Vol.29,No.7,1978,共立出版

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サクランボ週末農業の喜びは

2014年06月25日 06時05分17秒 | 週末農業
お天気とスケジュール表をにらめっこしながら、週末農業でなんとか維持している二つのサクランボ果樹園は、ほとんど収穫作業が終わり、あとは数本の「紅秀峰」と「南陽」を残すばかりとなっていましたので、合間を見て、エイヤッとばかりに収穫をしました。写真は、大粒の「紅秀峰」です。

今年は、異常な真夏日が続いた5月下旬の天候も影響したらしく、例年よりも1週間近く早く熟しているようです。例年ならば、七月上旬に収穫期になる両品種が、結構食べられるまでに熟してきています。このままだとまた野鳥に荒らされてしまいますので、多少の時期のずれには目をつぶってもらうことにして、いとこが嫁いだ九州へ宅送しました(^o^)/

そういえば、あちこちに発送した「佐藤錦」の反応も届き始めています。南は九州から関西、関東、県内各地を含む東北地方に、今年は中部圏(名古屋)が加わりました。親戚・知人から、電話やメール等が届き、「美味し~い!」「ありがとうございます!」など、ビックリマーク満載のリアクション(^o^) を受け取るとき、本当に喜ばれているのがわかり、嬉しくなります。これが、生産者の喜びというのだろうな、と実感します。



当方、本業は勤め人ですので、実際問題としてサクランボ果樹園などやめてしまっても生活上の問題はありませんし、サクランボ農業によって私のお小遣いが増えるわけでもありません。でも、我が家でサクランボ果樹園を止めたら、長年働きに来てくれる人たちの仕事が一つ確実に消えてしまいますし、毎年喜んでくれる人たちの楽しみが、一つ減ってしまうのは確かです。

サクランボなど主食ではないし、食べなければ食べないですむものですけれど、季節の楽しみではあるはず。毎年この時期になると、赤く色づいた果実を届けて喜びの声を聞くというのは、嬉しく張り合いがあるものです。80歳を過ぎても、亡父が果樹園農業を明日の希望としていた気持ちが、何となくわかります。

さて、サクランボが終わると、梅とスモモの「大石早生」の収穫と続きます。サクランボ収穫後の施肥(「お礼肥え」と呼びます)の作業もあります。この時期、週末農業もなかなか多忙です。

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民放ラジオの面白さとCMのつまらなさ

2014年06月24日 06時05分54秒 | 週末農業
畑で農作業をしているとき、とくにサクランボの収穫のように、脚立の上で淡々と単調な作業をしているときには、枝に引っかかりやすいイヤホンの不要なラジオが、唯一の娯楽です。賑やかなのが良いと考えて中波の民放ラジオを聞くことがありますが、番組の面白さに比して、なんともCMがつまらない。怪しげな健康栄養サプリの大量叩き売りや語学教材など、思わずスイッチを切りたくなります(^o^;)>poripori
民放ラジオのCMが購買意欲につながるのかどうか、そのへんはよくわかりませんが、少なくともパソコンや文具のCMなどは近頃とんと聞いたことがありません。ボールペンなんてどれでも同じだと考えている老母のような人たちに、「ジェットなんとか」というボールペンの書きやすさに気づいてもらうには、丁寧なラジオCMもありだと思うのですが。

NHK でやっているスポーツや国会中継などは、後で結果だけわかれば良いと考えるような人種なので、これも選局から外れます。結局は、聞きなれたFM放送が一番良い、ということになるようです。

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カール・シュターミッツ「ヴィオラ協奏曲ニ長調」を聴く

2014年06月23日 06時02分23秒 | -協奏曲
通勤の音楽に、ヴィオラ協奏曲を集めたCDを聞いています。カール・フィリップ・シュターミッツにホフマイスターの二曲を収めた、まことに地味~なCDです。でも、繰り返し聴くほどに、味わいのある音楽だと感じます。本日はその中から、カール・シュターミッツのヴィオラ協奏曲ニ長調を取り上げます。CDは、ナクソスの 8.572162 です。

添付のリーフレット等によれば、カール・シュターミッツ(1745~1801)は18世紀後半に生きたヴァイオリン奏者・ヴィオラ奏者・作曲家で、父親などマンハイム楽派の先人たちから多くを吸収した恐るべきヴィルトゥオーゾで、主にパリで活躍し、ハイドンやモーツァルトと同時代を生きた人のようです。彼のヴィオラ協奏曲ニ長調は、ヴィルトゥオーゾが活躍した19世紀の音楽でしばしばお目にかかるような水際立った作品で、豊かな色彩的なセンスと入り組んだ記譜法に結びついた傑出した作品、とあります。

私の小規模なライブラリには、残念ながらこの人のCDはほとんどないのですが、山形弦楽四重奏団の定期演奏会(*1)で「クラリネット四重奏曲」を聴いたり、先年のファゴットとストリングスによる「室内楽の夕べ」で「ファゴット四重奏曲」の生演奏に接する(*2)などによってその魅力を知り、とくにヴィオラの使い方がうまいことに強い印象を受けました。そこで、シュターミッツのヴィオラ協奏曲ニ長調です。楽器編成は、独奏ヴィオラ、クラリネット(2)、オーボエ(2)、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラも2つのパートに分かれ、チェロとコントラバス、という具合です。

第1楽章:アレグロ。オペラの序曲のように、期待感を盛り上げるような序奏を持つ始まりです。そして、ヴィオラが登場するところは、まるで豊かなアルトの声を持つ貴婦人の登場のよう。でも、一番長い楽章の中で、その後の展開を聴いていると、貴婦人というよりはやっぱり能弁なヴィルトゥオーゾを想像してしまいます。
第2楽章:アンダンテ・モデラート。しみじみとした情感を持つ、親密な始まりです。前の楽章がパーティの始まりだとしたら、この楽章は親しい集まりでしょうか。ヴィオラが低い音で暗めの音色を聴かせながら、バックの弦楽が対照的な高音で鋭い対比を示したりします。
第3楽章:ロンド、アレグレット。独奏ヴィオラがゆらゆらと始まると、弦楽パートではヴァイオリンだけが簡素に応えます。やがて、終楽章らしく独奏ヴィオラが存分に活躍し、オーケストラがこれに華やかさを加える、といった展開で、盛り上がって終わります。

ネットで検索しても、この曲に関する記事はあまり多くなく、CDの販売に関するものを除けば、オーディションの告知や演奏記録などが多いようです。ポピュラーとは言い難いヴィオラの、一般に知られているとは言い難いシュターミッツの協奏曲。晩年には錬金術に凝るなどあまりかんばしくない行状の音楽家だったようですが、音色に対する感受性を想像させる、穏やかな音楽と言ってよろしかろうと思います。

演奏は、ヴィクトリア・チャン(Vla)、マーカンド・ザーカー指揮のボルチモア室内管弦楽団。2009年5月に、米国メリーランド州 Towson の Goucher College, Krausuhaar Auditorium で収録されたデジタル録音です。

(*1):山形弦楽四重奏団第31回定期演奏会を聴く~「電網郊外散歩道」2009年4月
(*2):ファゴット&ストリングス「室内楽の夕べ」を聴く~「電網郊外散歩道」2013年4月

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リービッヒの研究・教育とギーセンで学んだ化学者たち

2014年06月22日 06時02分13秒 | 歴史技術科学
リービッヒの研究上の業績のうち大きなものは、

(1) 高校の化学の教科書に出てくる有機化合物の定量分析法を確立し、様々な有機化合物を分析したこと。これには、酸素気流中で試料を燃焼させて生じた二酸化炭素を吸収する、写真のようなカリ球の採用による精度の向上が大きく貢献しています。

(2) ヴェーラーとの共同研究によって苦扁桃油からベンゾイル基(C6H5CO-)を発見し、基の概念を提唱したこと。
(3) 植物の生育に関するN,P,Kの三要素説とリービッヒの最小律を提唱したこと。

などが挙げられることと思います。もちろん、全ての植物が空中窒素を固定できると誤解し、有機質肥料不要論を唱えたり、発酵の微生物原因説を否定したりするなどの誤りもありましたが、有機化学の確立者の一人であり、農芸化学の父と呼ばれるなど、後世に大きな影響を与えました。また、粉ミルクの創始者で、肉エキスを商品化するなど、産業面や栄養改善にも努力した人でもありました。

これらのリービッヒの活動の基礎となった、化学実験室の薬品や装置は、当初リービッヒの私費でまかなわれたために、雑誌編集を行ったり、委託研究の費用をつぎ込んだほか、受講生からは受講料を徴収し、大学入学資格のない者まで迎え入れたそうです。もちろん、この背景には、リービッヒのオープンな考え方があって、国籍や宗教の別なく学生を受け入れることにしていた(*1)のでしょう。



例えば、ギーセンの化学実験室を描いたイラストの中で、左端に立つ伊達男ふうの男性は、右手にカリ球を持っているようですが、実はメキシコからの留学生で、ヴィンセント・オルティゴーサだそうです。彼は、リービッヒが確立した化学分析の手法をもとに、タバコに含まれるアルカロイドの分析を行ったそうですが、所定の受講料を払うことのできる、意欲ある人々に開かれていたことの証であると言えます。そしてこのオープン性の背後に、お金を払ってくれる人ならば受け入れるというドライな割り切りとともに、リービッヒ自身が不遇時代に手を差し伸べてくれたカストナーや、パリ大学時代のゲイ=リュサックの影響、などを見てしまいます。

さて、リービッヒの研究室が毎年20人の卒業生を出そうとしていることに、大学の内外では様々な批判があったそうです。たとえば、

・優れた弟子を育てるには生涯に一人か二人で精一杯で、リービッヒの教育方法は二流の化学技術者をつくるだけだ。
・むやみに化学者ばかりをたくさんつくって、彼らの将来をどうするのか。青年をおだてて身を誤らせるおそれがある。

などです。

これに対し、リービッヒは、一人の一流をつくるよりも、たくさんの二流をつくることが大切だと信じていたようで、その後のリービッヒの化学教室は、多くの薬剤師、化学技術者、学者をつくり出すことになります。科学史家・島尾永康氏の論文(*2)によれば、28年間にわたるリービッヒの薬学・化学教室の受講者の総数は700人を超え、そのうち化学の教授になった者が約60人という数字があるとのこと。進行する産業革命を支える技術者を育てるとともに、実験室を中核とし、理論と実験とを並行する化学教育のシステムが、弟子達を通じて世界中に広がっていきます。例えばベルリン大学にはホフマンが、ボンにはケクレが、ロンドン大学にはウィリアムソンが、そしてハイデルベルクには盟友のブンゼンが、ギーセン流のスタイルで研究室を構えます。一時期、ノーベル化学賞はリービッヒ門下生の独壇場だったようで、エミール・フィッシャー(1902)、オストワルド(1909)、リチャード・ウィルシュテッター(1915)という具合です。先の批判が当たっていたかどうかは、まさに歴史が証明していると言えましょう。

ここからは、リービッヒ流の化学教育システムをロンドンに伝えた、ウィリアムソン教授の周辺を見ていきます。

(*1):とはいうものの、残念ながら日本はまだ鎖国中で、日本人は登場しません。日本人が登場するのは、もう少し後になって、ロンドンとなります。
(*2):島尾永康「リービッヒの薬学・化学教室」,『和光純薬時報』Vol.66,No.4(1998)
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好きなことを自由に書けることがブログの楽しみの原点

2014年06月21日 06時05分36秒 | ブログ運営
雑誌等で記事を書く場合には、編集のねらいやら編集方針などがあり、好きなことを好きなように書く、というわけにはいきません。それが不満ならば自分で雑誌を発行すれば良いとは言っても、現実にはとても無理な話でしょう。ところが、ブログの場合は、公序良俗に反しない限り、かなり自由に書くことができます。経営上の思惑や、浮世の義理にしばられることもありません(^o^)/

たとえば現在連載中の科学史シリーズは、リービッヒを経てウィリアムソン経由で長州ファイブへ、そして現代へと続く予定ですが、こんな内容を、今どき掲載してくれる媒体は、たぶん無いでしょう。自前のブログだからこそ、たとえ「絶賛不人気連載中」であったとしても、本人がある程度納得するまで書きつづけることができます(^o^;)>

自分の備忘のために書く。その内容が、他人様にも役立つものであればなお幸い、というスタンスで続けている当「電網郊外散歩道」ですが、引き続き自由に好きなように書いていけたらと思います。もちろん、読んでくださる人が皆無では意味がありませんが、後になってぽつりぽつりと検索され、読まれるようであればいいなあと、ひそかに願っております。

図は、上空の大気の組成を調べるため熱気球で飛び立った、リービッヒの師匠ゲイ=リュサックを描いたイラストです。高校化学の時間には「気体反応の法則」しか習いませんので、実験室の中の人なのかな、と思っていましたが、どうしてどうして、なかなか冒険家の面もあったのですね!

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備忘録ノートでタイトル行を目立たせる工夫

2014年06月20日 06時01分06秒 | 手帳文具書斎
日々の雑多な備忘メモを記録している備忘録ノートでは、表紙の次に目次を作り、タイトルと日付と、ブログ記事に使ったものは行頭の□にチェックを入れてネタがかぶらないようにしています。本文は、ページの中で時系列で順次書き込んでおり、記事と記事との間には数行の空白行を入れて、記事の区切りがわかるようにしていますが、その際に案外だいじなのは、タイトル行を目立たせる工夫です。

同じペンを用い、同じ色・太さ・大きさで書かれたタイトル行は、本文の中に埋もれてしまい、一目で中身をとらえるには不便です。そこで、タイトル行だけを通常とは異なる色・太さのペンで書くようにすると、視認性がぐっと良くなって Good です(^o^)/

例えば本文をプラチナ#3776ブルゴーニュ(F)に同社の古典ブルーブラックで書いているとき、タイトル行だけはパイロットのカスタム(M)に同社の「紺碧」という具合。あるいはまた、本文を三菱の Jetstream 0.7mm の黒で書いて、タイトル行は 同 1.0mm の青、という形です。

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リービッヒ、ギーセン大学に新しい化学研究教育システムを開始する

2014年06月19日 06時02分07秒 | 歴史技術科学
1824年の4月、リービッヒはパリ留学を終えて故郷ヘッセンに戻ります。そして、5月にはギーセン大学の助教授として、人口5,500人ほどの小都市ギーセンに赴きます。

ギーセン大学は、哲学・医学・法学・神学の四学部からなり、おそらくは医学部に所属する形でのスタートであったろうと思われます。しかし、化学の先任教授は、21歳と若い助教授リービッヒと実験室を共用することに同意しません。せっかく張り切って赴任しても、実験室がないリービッヒは翼のない鳥です。助け船を出してくれたのは、やはり閣僚のシュライエルマッヘルだったようで、大学が口出しできない兵舎の守衛室を実験室として使えるようになります。同年11月、最初の受講生として12名の薬学学生を迎え、リービッヒの化学教室はスタートします。

実験室として当てられた棟は、間口が約5.5m、奥行きが約7m、面積が約38平米といいますから、日本風に言えば約11.5坪、23畳分の広さの小規模なものでした。翌1825年の12月、先任教授の逝去によって、リービッヒはギーセン大学でただ一人の化学教授に昇任します。そして、実験室に天秤室、試薬類の倉庫、洗浄室、助手室などを加えてしだいに実験室を拡充していき、化学・薬学研究所を発足(*3)させます。
ここは1年間の課程で薬剤師に必要な学科を教授するもので、その内容は、

前期:数学、一般植物学、鉱物学、試薬学、化学分析理論のほかに、リービッヒが担当する実験化学、薬剤商品学、医薬鑑識法
後期:数学、実験物理、化学分析実習

というものだったそうです。このようなやり方は、取りも直さず、それまでリービッヒが追求してきた「化学的技術には理論の裏付けがあり、逆に化学の基礎学習は実験によって達成される」というヴィジョンの具体化でした。

そして、一年間に受け入れる学生数を20人に定め、講義の中で実験を演示しながら、耳で聴き眼で見ることができる教育を推し進めます。現代にあっても、黒板とチョークだけで講義される化学が無味乾燥で理解しがたいものであるのに、実験を通じて自分の眼で確かめながら学ぶ場合には、興味を引かれ、理解度も高まることが多いものです。ましてや当時の多様な学生にとっては、こうした教育方法はまさに斬新かつ革命的なものであり、印象深く理解にも有益なものであったろうと思われます。

(*1):島尾永康「リービッヒの化学・薬学教室」、「和光純薬時報」Vol.66,No.4(1998)
(*2):吉羽和夫「有機化学を拓いた化学者(その2)ユストゥス・フォン・リービッヒ」、『科学の実験』共立出版、p.706,1976年8月号
(*3):写真は増築後のもので、現在はリービッヒ博物館。隣に日産マーチが駐車しているのが、後の日本との関わりを暗示しているようで、おもしろい。

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備忘録ノートの2冊目が残り20枚を切り、3冊目を用意する

2014年06月18日 06時03分03秒 | 手帳文具書斎
コクヨのキャンパスノート・ハイグレード澪のA5判80枚を使っている備忘録ノートが、ついに残り20枚を切りました。ほぼ4分の3を使ったことになります。このままのペースで進むと、たぶん今月末~来月上旬には使い切る計算になります。年間に三冊程度との目論見は、どうやら無理っぽいようですが、そんなことを言ってもおれず、新しく三冊目のノートを用意しました。これで、いつ使いきっても大丈夫です。

ちなみに、2冊目を使い始めたのは3月でした(*1)。だいたい3ヶ月で、このペースなら年4冊は必要ということになります。キャンパス・ハイグレード澪は、10冊単位でまとめ買いをしてストックしており、不足することはまずないでしょう。「澪ペーパー」は、薄いけれどなかなか良い紙です。プラチナの古典ブルーブラックインクと同社の#3776ブルゴーニュ(F)を主体に、裏抜けなしの万年筆ライフを送れております。



(*1):新しい備忘録ノートを用意する~「電網郊外散歩道」2014年3月

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パリ留学時代のリービッヒ

2014年06月17日 06時05分26秒 | 歴史技術科学
リービッヒは、ヘッセン大公ルートヴィヒI世から奨学金を受け、1822年にパリ大学に入学します。当時のパリ大学には、気体反応の法則の発見者で熱気球で大気の組成は上空も下界も変わらないことを示したジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック(*1)等、多くの科学者がおり、元素記号を定め原子量を精密に測定したスウェーデンのベルツェリウスとともに、物理学・化学研究の先端に位置する教育と研究を行っていました。肖像画は、ゲイ=リュサックです。



当時のドイツでは、学生実験は認められず、リービッヒが反発したように、自然哲学という名目で実験事実を都合よく解釈する講義が幅を利かせていました。ところがパリ大学では、講義の中でよく準備された実験を演示するやり方を主体に、観察と仮説、実験による検証と数学的手法も駆使した理論化といった科学的な方法論が中心になっており、リービッヒは自分のうぬぼれに気づかされると同時に、ようやく求めていた環境に近づけたと驚喜したことでしょう。

ただし、先生の実験室(研究室)に入れるかどうかはまた別問題で、リービッヒが幸運にもゲイ=リュサックの研究室に入れたのは、ドイツの貴族の生まれで有力政治家を兄に持つ地理学者・博物学者アレクサンダー・フンボルトの紹介があったためでした。これは、1823年の7月に、リービッヒが科学アカデミーで雷酸の性質に関する論文を発表した際に、フンボルトもリービッヒの実力を正当に評価し、ゲイ=リュサックに紹介の労をとったためでした。

リービッヒは、ゲイ=リュサックの直接指導を受ける中で、様々な科学的知識や法則の背後には、過去の研究業績の積み重ねがあることを痛感し、発見や研究の基礎となる教育の在り方、とりわけ真実を追求するフランス流のやり方に感銘を受けます。1778年生まれのゲイ=リュサックと1803年生まれのリービッヒとは、25歳も年齢が離れた親子のような関係でしたが、「困難な実験に成功したときには、ともに手を取って実験台のまわりをワルツを踊りながら喜び合ったという」(*2)師弟関係は、期間は短くとも、貴重なものだったでしょう。リービッヒ自身が、後に

兵器庫の中にあったゲー=リュサックの実験室こそ、私のその後の仕事の基礎を与え、私の生涯の針路を決定した

と語っている(*2)ように、リービッヒは、科学研究の方法のうえでも教育と師弟の在り方の上でも、ようやく自分の方向性を見出していくのです。
1824年4月に、リービッヒはパリを離れてドイツに戻り、5月にはギーセン大学の助教授の職を得ますが、これにはヘッセン大公に宛てたフンボルトの推薦状とともに、ゲイ=リュサックの推薦状が大きくものを言ったようです。



こうしてみると、リービッヒは本当に先生に恵まれていると感じます。才能と実力があるだけではなく、たぶん人間的な魅力のある青年だったのでしょう。肖像画でも、直情的で喧嘩っ早い熱血青年の面影を残しているものが多くみられます。

(*1):ジョゼフ・ルイ・ゲイ=リュサック~Wikipediaの解説
(*2):吉羽和夫「有機化学を拓いた化学者(その2)ユストゥス・フォン・リービッヒ」、『科学の実験』共立出版、p.707,1976年8月号

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サクランボ果樹園だより~週末農業の成果と課題

2014年06月16日 06時02分53秒 | 週末農業
いよいよ本格的にサクランボのシーズンです。我が家でも、今週の半ばから、人を雇って収穫作業に入ることにしました。写真は、少し離れたところにある園地で、この冬にプロに剪定作業をお願いし、春に剪定枝の後片付けと焼却処分に働いた場所です。収穫の作業効率をあげるために、まずは園地の草刈りをしました。梅雨時の草の伸び方はすさまじいもので、一週間であっという間に草ボウボウになってしまいます。きれいに刈っておけば、収穫作業で人が歩くことで踏まれますので、草の伸び方もだいぶ抑制されます。



主力の佐藤錦の出来具合は、今のところ、こんな感じです。



まだ色づきが不足ぎみですが、雨が降ると実割れしてしまいますので、妻と二人で収穫できる分だけ収穫してみました。草刈り後の労働の成果は、こんなものです(^o^;)>poripori



うーむ、今年は例年よりも早めに成熟しているようで、剪定の効果もあり、粒は大粒でそろっていますが、味はまだ本当の佐藤錦の甘さになっていません。やはり、今週の後半からになりそうです。



試しに初出荷してみましたが、生産者が「わーお!」と驚くほどのお値段でした。ここまでは、今年の週末農業の成果の部分でしょう。

課題というか、反省点は、自宅裏の園地のほうです。

(1) 別の園地の剪定枝の処分に追われてこちらの剪定ができなかったために、小枝が密生してしまい、大きさが小粒です。
(2) 二年続いた干ばつ等で枯死する樹が出たため、今年は雨に当てて樹勢を回復することを考え、雨避けテントをしない判断としました。その結果、野鳥の食害が甚大です。樹頂部はほぼ全滅。樹下はサクランボの実で赤くなっています。垂れ下がる枝についた実はまだ大丈夫のようですが、収量は半減でしょうか。
(3) 面白いのは、露地栽培の園地のほうでは、野鳥の被害がほとんどないことです。たぶん、雨避けテントの骨格となる鉄パイプが、皮肉なことにムクドリの大群のとまり木の役割をしてしまっているからでしょう。

まだ収穫が本格化する前になんですが、来年は自宅裏の畑もプロに剪定をお願いすることと、野鳥対策を講じること、野鳥との競争になりますが、被害が大きくなる前の早めの収穫などが課題です。

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