電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

子供向けの実用書は大人にもわかりやすい〜ジャガイモの育て方

2024年05月03日 06時00分04秒 | -ノンフィクション
図書館で子供用の書架の前を通った時に、日本十進分類法で「農業」のコーナーがあるのに気づきました。へえ、子供向けの農業書って、どんなものがあるのだろうと立ち止まり、眺めていたら、ポプラ社の『めざせ!栽培名人〜花と野菜の育てかた』というシリーズを見つけました。この第14巻、『ジャガイモ、サツマイモ、サトイモ』という巻を手に取ってみたら、図解と簡潔な説明がポイントを抑えたもので、実にわかりやすいものです。これはいいものを見つけたと喜び、第15巻『ダイズ、ソラマメ、インゲンマメ』とともに借りてきました。

当方、サクランボや桃など果樹農家としては週末農業の時代を含めてすでに15年のキャリアがありますが、野菜作りに関してはまだまだ新米です。ようやくジャガイモの植え付けが終わり、芽が出てきたばかりで、これからの作業スケジュールに見通しを持ちたいと思っていたところでしたので、たいへんありがたいものです。

以下、ジャガイモの内容に関して、気づいた点を列記しておきましょう。

  • 種芋の植え付け直後には水やりが大切。その後は自然の雨だけで育つ。水をやり過ぎると腐る。
  • 植え付けから1ヶ月ほどで芽かきをする。芽かきのコツは、残す茎の根元(土)を片方の手でしっかり抑え、他方の手で抜き取る茎を斜め上方に引き抜く。
  • 芽かき後1週間ほどで追肥を行う。畝の肩に化成肥料をまき、クワで土とよく混ぜた後に株元に6〜7cmの高さに土寄せする。

  • さらに2週間後に2回目の追肥と土寄せをする。最終的に土が25cmくらいの高さにする。
  • 花が咲いたら摘む。
  • 植え付けから3ヶ月位で葉や茎が黄色くなってきたら収穫できる。晴天が2〜3日続き、土が乾いた日を選んで収穫する。雨の日に収穫すると、腐る。
  • 収穫したイモは土の上で半日ほど乾かしてから運び、風通しの良い日陰でよく乾かして保存する。カゴなどに入れて風通しの良い暗所に保存する。

ということのようです。

うーむ、種芋の植え付けはこれまでもできていますので、実用的にはほぼこれで足りるでしょう。病虫害はありえますが、ナス科の常で連作障害が起きないように4〜5年周期で場所を変えて植え付けしていれば、それほど問題になるようなこともないのでは。

日本農業教育学会監修、図書館用特別堅牢製本図書だそうです。文字も大きく、老眼でもすごく見やすくありがたい。次はサツマイモについてまとめてみましょう。

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和田茂夫『魔法のスプレッドシート整理術』を読む

2024年04月29日 06時00分22秒 | -ノンフィクション
図書館で、2011年にナナ・コーポレーションから刊行された単行本、和田茂夫著『魔法のスプレッドシート整理術』を見つけ、借りてきて読みました。著者はスプレッドシートと呼び、表計算とは表記していないことから見ても、どうも数値計算や表集計はあまり重視していないような印象を受けます。興味深い本でしたが、いくつか疑問も残りました。



本書の構成は、次のようになっています。

プロローグ スプレッドシート+紙とペンならうまくいく
第1章 情報のまとめ方、デジタルと紙の使い方
第2章 時間をスプレッドシート+「紙」で管理する
第3章 仕事をスプレッドシート+手書きで整理する
第4章 すべてのファイルをスプレッドシートにまとめる
第5章 「情報」は何でもスプレッドシートでつなげる

本書のポイントは、プロローグを読むとおおむね理解できるようです。(1)パーソナルデータ→(2)ToDoリスト→(3)スケジュールや住所録、ファイル一覧→(4)日誌→(5)進行表、企画リスト、アイデアリスト などをスプレッドシートでまとめてきた経歴から、たいていの情報は縦横(行と列)のセルからなるスプレッドシート形式でまとめられると気づきます。それを、入力と出力は紙とペンで、処理と記憶をスプレッドシートに、という形で一般化したということでしょう。あとは検索が容易とか編集や印刷が自由自在とか、スプレッドシートの特長を説明します。実際の利用例などはたしかに有益で興味深いものがたくさんありました。



私自身も、MS-DOS の時代から表計算の自作ワークシートでスケジュールを作り、日付関数や曜日関数などを駆使して、西暦で年を入力すればすべての曜日が自動で入るようにして、システム手帳に組み込んで利用していました。また、何年も前からパーソナルデータをワープロソフトでコピー用紙一枚にまとめ、システム手帳のリフィルとしたり(*1)、折りたたんで綴じ手帳の表見返しに挟んで随時参照する形で(*2)利用してきましたし、テキストファイルで日付とタイトルと内容という3つのフィールドからなる不定長データベースとして1989年からずっと保存してきています(*3)ので、検索や編集加工の容易さなども理解できます。ですが、そこで感じるのは、

なぜスプレッドシートなのか?

ということです。当座の処理に便利なのは充分に理解できますが、1989年当時の表計算のファイルは MS-DOS 上の Multiplan3.1 だったり Lotus1-2-3 だったり、あるいは 20/20(アシストカルク)だったり様々でした。それらのデータファイルは全部ハードディスク中の歴代PC名のフォルダに保存されていますが、SYLK形式のものを除き、それらの大部分はすでにもう読めません。MS-Windows3.1/95 当時の MS-Works の表計算データすら、読めません。かろうじて Windows2000/XP 当時の Excel のデータは読むことができますが、例えば過去に遡って確定申告等のデータを調べたいときなどには、限界があります。実際には、過去データを調べるには確定申告の控え(紙)を綴ったフラットファイルを調べるほうが確実ですし、確定申告以外でも、平成元年あたりまで遡って特定のキーワードについて検索したい時には、テキストファイル備忘録くらいしかアテにはできないのです。

ですから、長年、表計算を便利に使い続け、確定申告も Linux 上の LibreOffice Calc でやっている私の経験からいえば、

当座の処理にスプレッドシートは便利ですが、長期の視点で見るならば、時代の変化に耐えられるのはテキストファイルだけです。

ということですから、「すべての情報」をスプレッドシートに集約するというのは、ある意味、危険なことなのではなかろうか。

(*1): 来年の手帳のこと〜「電網郊外散歩道」2008年10月
(*2): 新しい手帳に差し込むパーソナルデータ〜「電網郊外散歩道」2021年1月
(*3): テキストファイル備忘録を始めたのは〜「電網郊外散歩道」2008年12月

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五日市哲雄・久保田博南『おもしろサイエンス・大豆の科学』を読む

2024年04月18日 06時00分54秒 | -ノンフィクション
先日、図書館から借りてきた本で、五日市哲雄・久保田博南著『おもしろサイエンス・大豆の科学』を読みました。若い頃に岩波新書で中尾佐助著『栽培植物と農耕の起源』を読み、興味を持っていたこともあり、岩波新書で山本紀夫『ジャガイモのきた道〜文明・飢饉・戦争』(*1)を面白く読みましたが、今回は「大豆」の話です。

大豆は、たぶん豆腐や納豆などと一緒に、中国から渡ってきた食べ物なのだろうと漠然と考えていましたが、本書のカバーを見たらどうも違うらしい。そこで内容に興味を持ち、借りてきて読み、備忘録ノートに気づいた点をメモしてみたという次第。本書の構成は、次のようになっています。

第1章 大豆っていったいどんなもの?
第2章 大豆と栄養素のすばらしき関係
第3章 ちょっと驚く大豆の食品としての機能性
第4章 大豆を発酵させれば日本伝統の食品になる
第5章 大豆を加熱する、搾る、添加物を使って加工する
第6章 これからの大豆食品

内容的には、「おもしろサイエンス」というシリーズ名のとおり一般向けに書かれたもので、専門的なレベルの高いものとは違いますが、最近の知見を加えながら上手にまとめていると感じます。以下、私が興味を持った内容です。

  • 青森県の「三内丸山遺跡」で大豆栽培が判明して以降、日本各地の縄文遺跡で1万数千年前から大豆が食べられていたことがわかった。
  • 日本の大豆の自生種子の存在が確認され、大豆の野生種としてツルマメの自生も確認された
  • 自生ヤブツル小豆やツルマメ等の豆類は、縄文人の大事な食料資源、クリの栽培だけでなくマメの縄文農耕の存在
  • 大豆は自家受粉できる。雄しべと雌しべを持つ両性花で、虫媒花でも風媒花でもない
  • 品種として(1)夏大豆(2)中間大豆(3)秋大豆の3種類あり、寒冷地では春に種まき、夏に育ち、秋に収穫する早生種の夏大豆が適する
  • 大豆と枝豆の違いは、大豆の成長過程で枝豆が収穫できる。枝豆は未成熟な大豆のことで、栄養面では大豆が優れるが、枝豆は葉酸が豊富で緑黄色野菜の特徴も持つ
  • 大豆の加工食品(1)蒸す・煮る(発酵させて味噌、醤油、納豆、そのまま煮て煮豆)、(2)しぼる(豆乳、おから、加熱し固めてゆば、豆腐、揚げて厚揚げ、がんもどき、油揚げ)、(3)炒る(炒り大豆、きなこ)、(4)油を搾る(大豆油、大豆ミール)
  • 大豆は根粒菌と共生、窒素固定を行い、タンパク質が豊富、必須アミノ酸を全部含む食品
  • 大豆の種類は(1)黄大豆(味噌、納豆などの原料)、(2)緑大豆(山形県の秘伝など寒冷地に)、(3)黒大豆(煮豆、丹波黒など)、(4)赤大豆(煮豆、旨味)、(5)紅大豆(山形県、希少種)、(6)茶大豆(山形県のだだちゃ豆など香り、枝豆に適する)、(7)白大豆

なるほど、縄文時代から自生している豆を利用していたのですね。そう言えば、白米に大豆を入れて炊く豆ごはんは個人的に大好物です。グリーンピースではなく、やっぱり大豆がいいですね。そして麹さえ入手できれば手作り味噌は作りやすく美味しい。しかし醤油は難しいと感じます。工程が多く、また複雑です。そう簡単なものではないようです。

(*1): 山本紀夫『ジャガイモのきた道』を読む〜「電網郊外散歩道」2020年11月

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田原開起『百姓と仕事の民俗』を読む

2024年02月24日 06時00分59秒 | -ノンフィクション
農業機械が導入される前の農作業について興味を持ち、2014年に未来社から刊行された単行本で、田原開起著『百姓と仕事の民俗』を読みました。こういう本は検索でピンポイントに出会うことはなく、たいていは図書館の棚の中で見つけることが多いものです。今回も、図書館の棚を巡る中で見つけたものです。

著者・田原開起(たはら・はるゆき)氏は1937年に広島県に生まれ、公立学校教員や教育委員会の社会教育分野で仕事をした後に、1998年に定年退職、その7年後、大学院の修士課程を修了したという経歴の方らしい。その後は農業に従事とありますが、お元気なら今年で86歳になるはずです。出版社の紹介文には、次のようにあります。

「一世代前が百姓らしい最後の『百姓』であり、私たちの世代が『百姓』から『農業従事者』への移行の世代だともいえる。/私たちの次の世代は、ハイテクを組み込んだ農業機械とともに生きる『農業従事者』の世代である。」
 広島県央の古老たちに長い時間をかけて「聴き取り」をし、消えゆくその言葉と「農作業」の具体例を、たくさんの写真とともに記録した貴重な資料集。自然と闘いながら、同時に身を委ね、日々を重ねてきた「百姓」たちの姿が浮かび上がる。

農業機械を導入する前の農作業について関心を持っている者にとっては実に興味深い内容ですが、本書の構成は次のようになっています。

第一部 百姓の四季
 第一章 人と牛
  I 人と牛の出会い/II 同伴者としての牛/III 牛馬と人と農耕/IV 牛耕とその終わり/V 件
 第二章 農作業の一年間
  I 冬のあいだの仕事/II 田植まで/III 田植のあとも続く作業/IV 水田の仕事が一段落/V 収穫の秋 十月/VI 秋が終わって一段落/VII 晩秋から冬(次の年への準備)/VIII こぼれ話

第二部 百姓が生み出した知恵
 第一章 自然や人と響き合って生きる知恵
  I 仕事から生まれた労働の知恵/II 仕事で鍛えられた子ども/III 円滑な共同体につながること/IV 仕事体験のなかのたわいない話
 第二章 地域文化を考える
  I すたれゆく挨拶言葉/II 語り伝えられている風俗/III 語り伝えられている風物

古希を過ぎた私の年齢でさえ牛耕の記憶はおぼろげで、たしか小学生の頃に耕耘機が導入されたのだったはずです。それでも牛と馬の習性の違いが馬道と牛道の違いになってくるというところが新鮮です。馬は平坦な道を好み、馬道は現代の道路につながるのに対し、牛は上り下りに強いため、山坂を越える峠道は生活道路として集落を結び、また塩や海の幸を運んだとあります。なるほど、軍馬はまぐさの提供を必要としますが、牛は途中のあぜ道の草を食みながら旅ができるのですから、荷駄を積んだ牛は明治以前には重要な物流手段だったのでしょう。

稲作だけでなく麦との二毛作の記載もあり、農作業の一年間の描写も興味深いものがあります。冬、藁打ちをする父の姿は確かに記憶がありますし、田植えまでの一連の仕事、堆肥振り、耕起、畦塗り、代掻きなどの大変さは重労働だったと思います。田植えの後も田んぼに入って一番除草、二番除草とスケジュールがあり、いずれも人力が基本でしたから、入市被曝者で原爆症だった父にはさぞ過酷な労働だったことでしょう。非農家出身でありながら、気丈な母がよく手助けをしてくれたおかげで、なんとかやれたということなのだろう。農業機械は父母を過酷な労働から解放した面があることは否めないと思います。

とはいえ、百姓が生み出した知恵は現代に通じるものも少なくない。例えば「段取り八分」は有名ですが、「仕事に呑まれる」(p.240)という表現は現代の私たちにも実に納得できるものです。すなわち、春の耕作はじめに、若い頃は「よし、やるぞ」と奮起しますが、年齢とともに「今年は予定通りできるだろうか」と不安になる。眼前の仕事に圧倒されるのを「仕事に呑まれては駄目だ」と弱気を戒めるのです。
若い頃、膨大な集計と統計処理を担当し、その量に圧倒されたこともありました。640KBのメモリしかないMS-DOSパソコンの表計算に入力しながら、何度もため息をついた記憶があります。専業農家となった今ならば、春先に剪定枝を片付けるとき、初夏、鈴なりのサクランボの収穫を始めるとき、仕事量に圧倒されて弱気になり、逃げ出したくなりますが、たしかに圧倒されていたらできるものもできなくなる。例えば午前中だけやろう、今日はここまでやろうと区切りを作り、少しずつやっていればやがて終わりは見えてくるものです。先人の知恵ですね。

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宮本常一『山と日本人』を読む

2024年02月04日 06時00分22秒 | -ノンフィクション
近年、エサ不足でクマが里に降りてきて大騒ぎになったり、山近くの畑や果樹園では猿や鹿など野生動物の被害が多くなってきています。背景には温暖化の影響のほかにも、里山近くの集落の急速な衰退があるのではないかと懸念していますが、そういえば明治以前の日本では里と野生動物との関わりはどうなっていたのだろうと、妙な関心を持っていました。たまたま図書館で手にしたのが2013年に八坂書房から刊行された単行本で、宮本常一著『山と日本人』です。パラパラと読んでみたら、実に面白そうです。さっそく借り出して読んでみました。



本書の構成は、次のようになっています。順序立てて論を進めるタイプの本ではなく、様々な機会に書かれた論考をテーマにそって編集したもののようです。

修験の峯々
魔の谷・入らず
消えゆく山民
狩猟
陥穴
木地屋の漂泊
山村を追われる人々
山と人間
身を寄せ合う暮らし
豊松逍遥
信濃路
山の神楽
山村の地域文化保存について

あまりに面白いので、ところどころ抜書したり大要をまとめたりしながら読みました。



特に面白かったのが「狩猟」や「陥穴」で、具体的な記述が興味深く、オオカミの脅威をどのように防いでいたかなどは先人の知恵を感じます。例えば、引用と言うよりは大要ですが、

宮城県川崎町ではイノシシの陥穴ではなくオオカミの陥穴がもとはたくさんあったという。この地方は、旧藩時代には馬の牧がたくさんあって、そこに馬を放牧していたが、その馬をオオカミが襲って食い殺すことが多かった。そこで牧場のまわりにオオカミの陥穴を掘って侵入を防いでいたと言う。その穴は、直径2m、深さ2mくらいのもの。オオカミも通り道がほぼ決まっていて、そこに穴を掘った。(p.96)

あるいは、

岩手県九戸郡山形村では、猿、鹿、イノシシ、カモシカ、オオカミなどの野生の獣がいた。このうち、村人が一番恐れ、また困らされたのがオオカミで、よく牛を襲って殺した。明治の頃まではオオカミの被害が多く、山中の一軒家には住むことができなかったという。どの家でも槍を持っていて、それで獣を防いだ。また、家畜を守るために犬を飼っていた。(p.97)

などなど、興味深いところです。現代ではニホンオオカミは絶滅しており、むしろクマやイノシシ、シカ、サルなどの問題がクローズアップされていますが、根本的には里山が都市近郊に対する緩衝地帯としての役割を果たしてきたけれど、その里山近くの集落が衰退していったら、多分、野生動物が都市を徘徊する「事件」は日常的に頻発するようになるのではなかろうか。

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キリーロバ・ナージャ『6カ国転校生ナージャの発見』を読む

2024年01月20日 06時00分39秒 | -ノンフィクション
どなたかのブログで、『6カ国転校生ナージャの発見』という本の存在を知りました。たまたまメモ帳に書き留めていたおかげで、地元の図書館に行ったときに探してみることができましたが、残念ながら誰かが借りているらしく、その日は空振り。でも、パソコンでの検索システムでは予約もできるらしく、メールで通知してくれるようなのです。さっそく予約を入れてその日は帰宅しました。しばらくすると、「予約の本が貸出できるようになりました」というメールが入りましたので、さっそく借りてきて読んでみました。

本書は、次のような構成になっています。

はじめに
6つの国、4つの言語で教育を受けて育つとどうなる?
この本を楽しむためのヒント
プロローグ 5つの質問
第1章 ナージャの6カ国転校ツアー
 筆記用具、座席、体育、学年、ランチ、
 数字、テスト、満点、水泳、音楽、
 ノート、お金、校長先生、夏休み、科目
第2章 大人になったナージャの5つの意見
 「ふつう」が最大の個性だった/苦手なことは克服しなくてもいい/
 人見知りでも大丈夫、しゃべらなくても大丈夫/どんな場所にも、必ず
 いいところがある/6カ国の先生からもらったステキなヒントたち
エピローグ 5つの質問【解答編】
おわりに

まあ、小中学生が6カ国も転校するなんて、なかなかできることではないと思いますから、たしかに稀有な、貴重な体験です。その結果が、様々な学校教育のあり方ややり方を相対的に眺め、それぞれの特徴や目的の違いとして感じられる、ということでしょう。ある国の流儀が良くて別のある国のやり方が悪いというのではなく、違った考え方で行われている、という視点はたしかに貴重です。たいへん興味深い本でした。

著者のキリーロバ・ナージャさんはどんな人なのだろうと興味を持ち、検索してみたら、こんなページがヒットしました。
(*1): 日本には多様性がない、なんてない〜 LIFULL stories



一方で、違いに注目すればそういうことになるだろうけれど、逆に6カ国がいずれもいわゆる「先進国」で、学校教育の価値と重要性を認識し、そうした制度を持っているという共通点に立っていることも確かです。世界には、子供を学校に行かせない国や民族、宗教や習俗等がまだまだあるようですし、ノーベル平和賞を受賞した少女の例に見るように、女の子の教育を制限する例もある。そういう大きなとらえ方は、高校生や大学生くらいになったらできるようになるのだろうか。

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茂木大輔『交響録〜N響で出会った名指揮者たち』を読む

2023年12月25日 06時00分41秒 | -ノンフィクション
コロナ禍の中、2020年に音楽之友社から刊行された単行本で、茂木大輔著『交響録〜N響で出会った名指揮者たち』を読みました。著者は1990年11月〜2019年3月までの29年間、オーボエ奏者としてN響に在籍しておりますので、私が「N響アワー」を熱心に聴き、録画もしていた時期にも重なります。N響のオーボエというと、紅一点、小島葉子さんの姿を思い出しますが、その隣りにいた人がそうだったのかと、妙な認識の仕方をしました。

本書には実に多くの指揮者のエピソードを紹介していますが、私にとっても印象の深い人を挙げるとすれば、次の三人になるでしょうか。

  • ホルスト・シュタイン 〜楽員に最も愛された親方指揮者〜 そういえば、N響のヴァイオリンの鶴我裕子さんも「理想の男性」と絶賛(*1)していました(^o^)/
  • アンドレ・プレヴィン 〜ユーモアと笑顔、「もう一度。しかし今度はご一緒に」〜 私も記憶にあるのは、モーツァルトのピアノ協奏曲を弾き振りしたときの演奏(*2)。特にゆっくりした楽章での、愛情にあふれた音楽。
  • ネルロ・サンティ 〜アドリア海の見える練習@NHK交響カラオケ〜 歌手がまだいない初日の練習では自分で歌ってしまう チャイコフスキーの4番で素晴らしい演奏を聴かせてくれた(*3)

このあたりは、NHK教育テレビ「N響アワー」で実際に感じたところと共通するところがあります。サヴァリッシュやスイトナーは別格としてですが、私にとっても特に印象的な指揮者です。

(*1): 鶴我裕子『バイオリニストは目が赤い』を読む〜「電網郊外散歩道」2010年4月
(*2): プレヴィンとN響のモーツァルト「ピアノ協奏曲第24番」〜「電網郊外散歩道」2007年10月
(*3): ネルロ・サンティとN響でチャイコフスキー「交響曲第4番」を聴く〜「電網郊外散歩道」2006年7月

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仲道郁代『ピアニストはおもしろい』を読む

2023年12月07日 06時00分42秒 | -ノンフィクション
果樹園の作業も終わり、読書の秋ならぬ読書の冬となっております。春秋社刊の単行本で、仲道郁代著『ピアニストはおもしろい』を読みました。仲道郁代さんの演奏は、2008年の5月に、山響第189回定期演奏会の中で飯森範親さんの指揮でショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」を聴いています。また、山響の新シーズンのラスト、2025年3月に鈴木秀美さんの指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番が予定されています。そんなこともあって、たまたま目についた本書を手に取り、読み終えたところです。

本書の構成は、次のようになっています。

第1章 ピアノの子[日本編]
第2章 ピアノの子[アメリカ編]
第3章 ピアノの子[ドイツ編]
第4章 子連れピアニストがゆく
第5章 ピアニストと賢者の意思
第6章 社会の中のピアニスト
第7章 ピアニストという生物がいる
第8章 いつも心にピアノ

この中で、ピアノという楽器に触れ、ピアニストになっていく過程での日本、アメリカ、ドイツの教育と環境の特徴が興味深くおもしろい。画一的な面はあるけれど基礎をキッチリ、システマティックにたたきこむ日本、それぞれの美点、持ち味を称賛し伸ばしていく多民族社会の米国、街の生活と環境の中に音楽の歴史が息づくドイツ。なるほど、こんなふうにしてピアニストは育ったのだなあと納得、でも子連れピアニストの生活は大変そうだし、ピアニストの母について歩く子どもも大変そう。

第5章、ピアニストから見た作曲家の本質、特色のところはとても興味深く、参考になりました。モーツァルト、ショパン、ドビュッシー、ベートーヴェン、そしてシューマン。高校生のある時期に、突然、シューマンのピアノ・ソナタ第1番の世界にハマったこと。そして見つけた「クライスレリアーナ」の世界。ちょっと不器用なシューマンの世界に共感するところは、なんだか私も遠い昔を思い出し(*1)そう(^o^)/

こんど、山響と共演する予定のベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番については、第6章255ページで

エドウィン・フィッシャーかどなたか大家が、この曲については「最初のソロを弾いた後、オーケストラの演奏の間ずーっと、自分がいかに下手に弾いたかを反芻させられるからとてもつらい」とどこかに書いておられた。(同感だ!)

とありますが、いやいや、古い歴史の残る山形で温泉に入り美味しいものを食べ、アットホームで前向きなオーケストラと包容力のある聴衆と共に演奏会に臨めば、きっと幸福な気分が味わえますって!



その点はボクが保証します、って李白も寝言で言ってます(^o^)/

(*1): シューマン「ピアノ・ソナタ第1番」を聴く〜「電網郊外散歩道」2007年12月
(*2): ピアノの調律が終わると響きが格段に良くなる〜「電網郊外散歩道」2023年10月


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姉崎等・片山龍峯『クマにあったらどうするか』を読む

2023年11月30日 06時00分59秒 | -ノンフィクション
ちくま文庫で姉崎等・片山龍峯著『クマにあったらどうするか』を読みました。帯に「アイヌ最強のクマ撃ちが残した最高のクマの教科書」とあるように、アイヌ民族最後の狩人である姉崎等さんの語りを片山龍峯さんが聞き書きの形でまとめたもののようです。同じく帯に「遭遇しないための注意から組み伏せられても生き延びる手段まで」とあるとおり、クマ地域に済む人にとっては貴重な教科書的存在の本かもしれません。2014年に初刷が出ているようで、私が入手したのは2020年刊行の第13刷です。増刷を重ねていることからもわかるように、たいへん興味深い内容でした。

本書の構成は、

プロローグ クマが私のお師匠さん
第1章 こうしてクマ撃ちになった
第2章 狩人の知恵、クマの知恵
第3章 本当のクマの姿
第4章 アイヌ民族とクマ
第5章 クマにあったらどうするか
第6章 クマは人を見てタマゲてる
第7章 クマと共存するために
第8章 クマの生きている意味
エピローグ クマに組み伏せられても生きのびるには

というものです。個人的に興味深かったところを備忘録ノートに要約したものを一部ご紹介すると、こんなふうになります。

  • クマは本来は里山の動物である。高山は生育には不適。
  • 主食はドングリ類。雪の上でも走る速さは60km/hは出せる。
  • クマは冬眠前に発酵しない枯れた素材を食べて止め糞=腸内にコルク栓をした状態で冬眠する。
  • 春一番のフキノトウやアマニュウの葉を食べてガスを出させ、止め糞をポンと出してから徐々に食べ始める。
  • クマが交尾をする場所は水飲み場とか比較的平らな山で動物の集まりやすい場所。6月頃、発情期になると鳴いて歩く。
  • クマが子どもを産むのは冬眠中の巣穴の中。
  • 子グマは三歳まで親と一緒に行動して学習する。二歳までの子グマが親とはぐれると、山へ戻る力はない。
  • クマはやたらと人を襲う動物ではない。多くのクマは、例えば大木を切り倒せる人間は怖いものだと学習している。
  • 山のルールを知らない一般の人間が山に入り、残したゴミや残飯を通じてクマが人間社会を認識する。
  • 人を殺したクマは、人を襲った現場からあまり離れない。一度人間を食べたクマは変貌し、人間をもう餌として考える。人を襲ったクマは次も必ず人を襲うので、殺すしかない。
  • 植林により針葉樹林が増え、ブナ、ナラ等の広葉樹林が減少。さらにヘリコプターによる広域防除で訪花昆虫が減少し、花が咲いても受粉できずドングリ類の実がならない。クマにとっては、山が死んでいる。

うーむ。クマを射殺することに電話で抗議する人たちに賛成する気にはなれませんが、また一方で駆除すればよいという単純な問題ではなさそうです。アイヌの伝承にあるとおり、この世の生物には必ず何らかの役割があり、役割のない生物はいないのだから、生態系のバランスを考えればクマも増え過ぎたり減りすぎたりするのはよろしくない。しかし、里山が衰退した反面、一般の人が無防備に山に入るようになり、クマと人間の境界が重なるようになってきつつある現在、家畜や農作物を食べ慣れ、人間を怖いと思わず、弱い老人や子どもの味を覚えてしまったクマはやはり撃ち殺すしかないでしょうし、人間の方もクマの領域に無防備に入ることを遠慮する必要があるのでしょう。



本書を読んで、あらためてわかったことがありました。それは、同じ東北地方でも、秋田とか山形とか、日本海側ではクマの出没の話題をよく聞きますが、南東北の太平洋岸、例えば宮城とか福島東部ではあまり聞きません。これはやはり、エサとなるドングリ類、特にブナの実が実るブナ林の広がりに関係するのではないか。森林限界の低い北海道ではミズナラ等の混合林、西日本の場合は常緑のドングリ類になるのでしょうが、東北地方と言えば豊かなブナ林が特徴ですので、ついそう考えてしまいます。


 (林野庁、ブナ林のマップより)

 (環境省、クマ出没状況マップ)

ブナ林は、同じ東北地方でも日本海側に発達し、南東北の太平洋側にはあまり発達していません。おそらくは積雪量に関連し、冬、早く積雪に覆われる日本海側ではブナの実が雪の下に守られ、発芽する割合も高いために、樹林の更新も可能なのでしょう。ところが積雪の少ない太平洋側では、ブナの実はネズミやリス等の小動物に食われてしまい、発芽してブナ樹の世代交代ができにくいため、ブナ林が発達しにくいのではなかろうか。

そのように考えると、日本海側=積雪=ブナ林の発達=クマの生息という構図が見えてくるように思います。

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ダーウィン『ミミズによる腐植土の形成』を読む

2023年04月04日 06時00分19秒 | -ノンフィクション
光文社の古典新訳文庫で、C.ダーウィン著『ミミズによる腐植土の形成』を読んでいます。図書館で肥料に関する入門的な本を探していた時にたまたま見つけたものですが、同じ著者による『種の起源』や『ビーグル号航海記』などは読んだけれど、まさかミミズの働きを詳しく調べていたとは知りませんでした。東北大学の特任教授でもあるサイエンスライターの渡辺政隆氏による訳で、その内容は;

第1章 ミミズの習性
第2章 ミミズの習性(承前)
第3章 ミミズが地表に運ぶ細かい土の量
第4章 古代建造物の埋設に果たしているミミズの役割
第5章 土地の削剥におけるミミズの役割
第6章 土地の削剥(承前)
第7章 結論

というものです。



土中に混ぜてやると、ミミズはさまざまな植物を食べますが、嗅覚やある種の知的能力に関する観察などは興味深いものです。しかし本書の白眉は、糞の排泄量の測定でしょう。腐植土がミミズの排泄によって形成されるというのは、「生産者ー消費者ー分解者」という生態系における役割が理科の内容として中学生にも理解されている現代においては、ごく当然の知識です。それが、当時の知識人には必ずしも理解されなかった。あの膨大な土が、たかがミミズによってできるわけがない、という思い込みによるものです。『種の起源』は進化に関連する宗教的な反対論も根強かったようですが、『ミミズ』のほうはかなり大きな反響があったそうです。なかなか興味深い翻訳で、従来であれば岩波文庫に入ったところでしょうが、現実には光文社の古典新訳文庫というところが、現代の出版事情を表しているのかもしれません。

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有岡利幸『桃〜ものと人間の文化史157』を読む〜その2

2023年01月14日 06時00分44秒 | -ノンフィクション
大正時代、在来種の桃は「果形小さく肉質固くして酸味多く果汁に乏しく、品質極めて劣等にして」と称されるようなものであったとされていたようです。大正4年刊の恩田徹彌『果樹栽培史』によれば、明治政府はサクランボなど各種果樹の苗木を主として米国から導入していたけれど、桃の場合は違っていたようで、明治6(1873)年にヨーロッパから桃7品種とネクタリン6品種、明治8(1875)年に中国から華北系品種の天津水密桃および華中系品種の上海水密桃とバントウ(幡桃)を導入しているそうです。

しかし、食味が向上したその分だけ、病害虫被害が高まることは自明の理で、人間が食べて美味しいものは虫にも美味しいらしく、まだ効果的な防除技術などもなかった時代に、虫食い果実を食べるのは子供の趣味で、大人は食べないものだったらしい。こうした桃の害虫被害を防止するために、明治18年(1885)年に、上海水密桃の結実後、梨にならって袋かけを実施したところ、ヒメシンクイムシの被害を免れ、確実に収穫できる見込みがついたことから、岡山県の桃栽培が本格的に増加していったのだそうな。なるほど、それで岡山県が桃の本場とされているわけか。



桃の世界史的な伝播の経路を見ると、これもまた興味深いものです。原産地は中国で、縄文時代には九州に伝わっており、これが在来種のルーツでしょう。一方で、中国からペルシア経由でヨーロッパに伝わり、そこからペルシア原産だと誤解されて桃の学名 Purunus percica でペルシア産とされたらしい。ヨーロッパで品種改良されてさらに米国に渡り、これが米国産の桃のルーツとなります。明治以後に日本に伝播してきたのは、これら欧米産のものと中国で品種改良されたものが移入されたもので、いわば日本は桃の伝播の終着点にあたる(p.278)ようです。

桃の産地変遷については、その原因の一つに、連作障害があると書かれており、興味深く読みました。桃を栽培した跡地に再び桃を植えると、樹が衰弱し栽培を続けることが困難になるのだそうです。いわゆる「嫌地(いやち)」現象で、桃樹の根に含まれる青酸配糖体の一種であるプルナシンの分解により生じる有機物質や線虫によるもの(p.293)だそうな。プルナシンが分解されて生じるベンズアルデヒドや安息香酸などが根の呼吸を阻害するのだそうで、なるほどと納得です。

著者、有岡氏は林業、森林の専門家のようで、関連の著書も多いようですが、桃を栽培した経験はあるのかどうかは不明です。たぶん「果物の中では桃が一番好き」なタイプで、それが高じて桃の歴史をまとめることとなったのかも(^o^)/ 地味ですが、たいへん興味深い本でした。



専業農家だった父の死去でサクランボ農家を受け継ぐこととなり、勤め人のかたわら週末農業を営んでいたのでしたが、亡父が植えていた川中島白桃の味が忘れられない妻が少しずつ手をかけていて、虫食い桃の中にも多少は食べられるものがあったことから、本式に桃栽培に取り組むようになったのでした。やってみたら、案外におもしろい。経営的にはなかなか大変ではありますが、喜ばれる度合いはサクランボ「佐藤錦」に次いで、いや、受ける印象としてはそれと同等かもしれません。我が家では「午前収穫、午後配送」のスタイルですので、軟らかくなる前のかたい桃が食べられ、しだいに追熟して軟らかくなる変化を味わえる、というのが喜ばれるのかもしれません。桃は味も歴史も実に興味深い果物です。

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有岡利幸『桃〜ものと人間の文化史157』を読む〜その1

2023年01月13日 06時00分39秒 | -ノンフィクション
山形の週末定年果樹農家として、サクランボや桃などを栽培していますが、来歴が比較的わかっているサクランボとは異なり、桃についてはその歴史を全く知りませんでした。「ももたろう」など各種民話に桃が登場し、桃の節句などというものがあるくらいだから、たぶん昔からあったのだろうとは思うものの、病害虫の多さなどを思えば、現在のような生食のできる桃が昔から栽培されていたとは信じがたい。結局は、桃の歴史は不明のままでした。たまたま図書館に行き、ぶらりと書棚を回遊していたところに、有岡利幸著『桃〜ものと人間の文化史157』(法政大学出版局)を発見、読んでみようと手にした次第。

それによれば、縄文時代、長崎県の6000年前ころの遺跡で桃の核が多く出土したところから、この頃には桃が長崎県まで伝わっていたことがわかるとのことです。また、平城宮の庭園には桃が植えられ(p.50)ており、桃の歌も作られていたけれど、平安期主流の和歌は梅を尊び桃を排除した(p.64)らしいこと、3月3日と雛遊びが江戸期に結びついた(p.106)らしいこと、などがわかりました。これらの桃はもちろんいわゆる在来種で、花を愛で、あるいは薬用や救荒植物として植えられていたもののようです。



江戸時代、天明5(1785)年4月に、菅江真澄が出羽国を訪れ、桃の花盛りを記している(p.150)そうで、これもいわゆる花桃、花を愛でるためのもので生食果実ではないようです。これに対して、元禄10(1697)年、宮崎安貞が著した『農業全書』には、中国から伝わる果実を食用とする桃の品種が渡来しておりこの栽培法を記している(p.176〜8)とのことです。花桃に対して果桃というとらえ方ができるでしょうか。
江戸中期の享保・元文(1716〜41)年間に全国で作成された「諸国物産帳」に主な農作物の一つとして、桃の品種数が報告され、例えば出羽国では庄内領に4種、米沢領に2種、全国では計52種となっている(p.181〜4)そうです。品種としては庄内領が源平桃、ずばいもも、白桃、緋桃の4種、米沢領がずばいもも、秋桃の2種とのこと(p.186)です。大きさは中、味も中とされていることから、食用桃であることは間違いないようです。

近世の下北の桃は救荒作物の一種(p.192〜4)で、「じんべえもも」は果実の小さなネクタリン(油桃)であり、土地の人たちは飢餓に備えて絶やすなと伝承、豊産性で凶作の年にもよく結実するため、干果、漬物、砂糖漬など保存食として備えると共に、近隣で販売あるいは漁村の海産物と交換していたとのこと。これはいわゆる在来品種です。

これに対して、明治10(1877)年、第1回内国勧業博覧会で雛祭りの行事が復活、明治37〜8(1904〜5)年の日露戦争の頃、夫婦雛が「夫婦相和」に利用されて百貨店が売り出し始め、昭和11(1936)年、サトーハチロー作詞・河村光陽作曲の童謡「うれしいひな祭り」のレコード発売で「ひな祭り=桃の花」が全国に広まったこと、などを知りました。

※やや長くなりそうなので、記事を2回に分けることとします。

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高橋拓也『おうちワークの文具術』を読む

2023年01月05日 06時00分25秒 | -ノンフィクション
ウェブマガジン「毎日、文房具。」(*1)編集長の高橋拓也さんが、コロナ禍の中で自宅でリモートワークをする、いわゆる「おうちワーク」を余儀なくされ、その問題を解決していく中で「仕事がはかどり暮らしが整う」スタイルを確立した経過とノウハウを紹介した本です。

基本的に、都会の「狭い住宅事情」の中で家族に犠牲を強いることなく「暮らしと両立」させながら「コンパクトに仕事をする」方向性です。私のように、無駄に広い田舎家で広いスペースを持て余している事情とはだいぶ異なっています。しかし、デスク周りの便利さの追求は共通点も多く、役立つ工夫やノウハウがたくさんあります。例えば「小さいオフィスづくりに必要な3原則」(p.46〜7)として挙げられている

  1. 立体化
  2. 定位置化
  3. バックヤードの重要性

などは、そうだそうだと頷き同感するところです。その意味では、志向する方向性はだいぶ違いますが、その考え方や工夫は参考になるものが多いです。例えば腕時計を台にかけておき、置き時計代わりに使うなどの発想は、少しでもデスク上のスペースを広く使いたい者にとっては目からウロコのアイデアです。



ところで、著者が小さいノートなど「小さいもの」にこだわるのは、本人の好みもあるでしょうが、根本的には都会の住宅事情によるものと思われます。私のように、備忘録など各種ノートをふんだんに使い、しかもそれら全部を何十年も保管しているなどというのは、無駄に広い田舎家だからできることなのでしょう。自分自身の「スペースの無駄遣い」を意識し反省するとともに、狭さや不自由さを楽しむくらいの割り切りと柔軟性がないと都会で楽しく暮らして生きていくことは難しいのかな、と思ってしまいました。

(*1): 「毎日、文房具。」〜 No stationary, No life 〜

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『大学で学ぶ東北の歴史』を読む〜その6〜東北の近世と飢饉

2022年12月18日 06時00分02秒 | -ノンフィクション
昨年暮れに読み始めた東北学院大学編『大学で学ぶ東北の歴史』もいよいよ終盤、近世に入りました。のんびりと読み始めたのに、暮れも押し詰まる頃になかなか興味深い内容で、読み終えるのが惜しい気分です。

高橋克彦『天を衝く』で面白く読んだ九戸政実による豊臣秀吉への反抗の後は、徳川政権下で大名の配置が確定され、それぞれの藩政が展開されていきます。その中で人・モノ・文化の交流が行われますが、その基盤となったのが、街道と水運でした。奥州街道はおおむね現在の東北新幹線や東北自動車道などのルートに相当しますし、羽州街道も一部の峠越えルートは異なりますが、ほぼ東北中央自動車道のルートに相当します。また、物資の輸送に大きな役割を果たしたのは、当地・山形県との関連で言えば最上川舟運や酒田港を起点とする西回り海運などの舟運と海運の整備・発達だったようです。紅花、米、大豆などを中心とする交易とともに商業ネットワークが拡大していき、人的交流に伴って文化的なつながりも拡充されていきます。現在も残る京文化の影響、雛人形や医学修行の記録などは、こうした背景があったためでしょう。



ここからは、私の考えと感想です。半世紀以上前の私の中学生時代、学校の歴史の授業では、河村瑞賢の西回り海運の開始により、出羽のコメの大量輸送が実現したという賛辞が中心だったように思いますが、今は必ずしもそうは思わない。現代ならば地元農協等が中心となって築いていた輸送システムをふっとばすような官製輸送システムが構築されることに相当し、おそらくそのしわ寄せは地元の生産者(農民)が負担させられたのではないかとニラんでいます。



さらに興味深いのは「災害と備え」の章です。東北と言えば寛永・元禄・享保・宝暦・天明・天保と何度も飢饉に見舞われていますが、飢饉の原因は必ずしも自然災害だけではない。むしろ、米中心の経済と藩政の都合で他領に多くの米を送り出し、自藩内では米が不足がちであったという状況に自然災害が大きな打撃を与えたという面が強いのでしょう。上杉鷹山の米沢藩が飢饉において餓死者を出さなかったというのは、救荒作物備蓄や御救米制度などの貢献もありましょうが、実際は質素倹約=領内から他藩へ米を出さない政策をとっていたという理由が大きいのではないかと思います。



1998年にノーベル経済学賞を受けたアマルティア・セン教授の言葉を借りれば、世界各地の「大飢饉」の原因は食料供給量の不足ではなく、人々が食料を入手する能力と資格の剥奪にある、ということなのでしょう。すなわち、飢饉は必ずしも「天災」ではなく「人災」なのだ、ということ。

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鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』を読む

2022年11月06日 06時00分10秒 | -ノンフィクション
講談社学術文庫で、鬼頭宏著『人口から読む日本の歴史』を読みました。文庫の初刷は2000年春ですが、単行本は1983年に出たもののようで、著者は私よりも5歳ほど年上の方のようです。たいへん興味深い内容で、じっくりと読みました。写真のような日本列島の人口の推移を拡大コピーして表計算に入力しなおすほどに、引き込まれる本でした。

本書の内容は次のとおり。

第1章 縄文サイクル
 1 縄文時代の人口変化
 2 縄文時代の古人口学
第2章 稲作農耕国家の成立と人口
 1 初期の人口調査と人口推計
 2 稲作社会化と人口規制要因
 3 農耕化による人口学的変容
第3章 経済社会化と第三の波
 1 人口調査と人口推計
 2 経済社会化と人口成長
 3 人工史における十八世紀
 4 人口停滞の経済学
第4章 江戸時代人の結婚と出産
 1 追跡調査
 2 結婚
 3 出産と出生
 5 人口再生産の可能性
第5章 江戸時代の死亡と寿命
 1 死亡率
 2 死亡の態様
 3 平均余命
第6章 人口調節機構
 1 人口調節装置としての都市
 2 出産制限の理由と方法
第7章 工業化と第四の波
 1 現代の人口循環
 2 家族とライフサイクル
終章 日本人口の二十一世紀
 1 人口の文明学
 2 少子社会への期待
学術文庫版あとがき

全体としてたいへん興味深い内容ですが、とくに興味を惹かれた事柄を列挙してみると、こんなふうになります。

  1. 人口推計の根拠となるデータに関して、考古学的な発掘調査からの推計や、近世の宗門改帳や寺院の過去帳などを分析した統計に基づいており、一定の信頼性があること。
  2. 一万年以上続いた縄文時代において、気候の変化とそれに基づく植生の変化によると思われる人口の大きな変化があり、とくに縄文晩期〜末期の寒冷期には、南関東においても大きな人口減が起こっていること。
  3. 近代になってからの南関東の人口の爆発的増加は、都市人口の膨張、繁栄のあらわれと考えられるが、近世までの「都市=蟻地獄」の現実と対比すると驚くほどで、コメ中心の経済から金納に変わる、おそらくは地租改正などにより富の都市への集中が容易になったためであろう。

  4. 人口の増減の基礎となる出生と死亡の現実がインパクトがある。乳幼児死亡率の高さ、女性の平均余命の短さは出産に伴う危険の現れであろうし、地主などが長命で子沢山なのに比較して下人の短命・子孫の少なさが対照的。病気・怪我などで絶家となったところへ地主等の次三男が分家して人口を穴埋めするという集落の実態が見える。

うーむ、これは興味深い本です。読書の秋に、最近だいぶ歴史づいていますが、貴族・武将や権力の移行などを中心とした歴史ではない、自分の頭で考える時の良い材料になる歴史の本だと感じます。

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