電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

リービッヒの生い立ちと少年時代

2014年06月13日 06時03分58秒 | 歴史技術科学
ドイツの化学者で、ユストゥス・フォン・リービッヒ(*1)という人がいます。彼は、1803年の5月12日に、ドイツのヘッセン・ダルムシュタット大公国の首都ダルムシュタットの薬種原料商人の次男として生まれました。父親は医薬品や染料の製造にあたり、母親が販売面を受け持つという生活で、中産階級に属する家族であったようです。リービッヒ少年は、父親の仕事を手伝いながら化学への興味を育てていきます。このときは、宮廷文庫の蔵書を市民に貸し出すという制度があり、司書官に可愛がられて、化学辞典全32巻など、手当たり次第に読みふけり、知識を蓄えていったという幸運も大きいでしょう。リービッヒは、何度も実験を繰り返し、詳細に知り尽くすまで反復するという点でファラデーを高く評価し、着想を思弁でなく感覚で認めるという自分の流儀を育んでいきます。

ところが、ラテン語や古典などに重きを置く教育が中心のギムナジウムに、リービッヒはなじむことができません。お気に入りの物質である雷酸銀を爆発させる騒ぎを起こしただけでなく、語学がまるでダメ、語学を生かして学ぶ学科もダメとあって、劣等生のレッテルを貼られて、教室で叱責されてしまいます。

「そんな心がけでは、大人になったら何になるつもりか!」

すると、リービッヒは

「化学者になるつもりです」

と答えたそうです。その時、教室中に嘲笑がわき起こったといいますから、語学や哲学、古典などの思弁的学問が重視され、産業革命を支える技術や科学が蔑視されていた当時の社会的評価が想像できます。

卒業を迎えることなくギムナジウムを離れたリービッヒは、薬剤師として身を立てさせようという親の願いにより、近くの村の薬屋に徒弟奉公にやらされます。そこで、薬品の知識は身に付けたものの、屋根裏に与えられた自分の部屋で、やっぱり雷酸銀の爆発事件を起こし、親方からクビを宣告されてしまいます。仕方なく、1818年(15歳)から17歳まで二年間ほど父親の仕事の手伝いをしながら化学の勉強を続けますが、ようやく父親の許しを得て、父親の知り合いだったという縁でボン大学のカストナーのもとに入学し、学友との交流の中で、ギムナジウムでの不勉強に気づきます。リービッヒは、そこから外国語や数学などを真剣に学び始めます。

このあたりも、大学に入学し学んだ経験を持っているリービッヒが大学における科学教育に革命をもたらし、ほとんど学校教育を受けていないために、ファラデーが学校教育にあまり期待しないという違いの遠因でしょうか。

(*1):リービッヒ~Wikipediaの解説

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