電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

「電網郊外散歩道」選定「今年の文具大賞」

2008年10月31日 06時26分47秒 | 手帳文具書斎
平成20年も、残すところあと二ヶ月余となりました。今年使った文具の中で、最も感心したものは何かといえば、やっぱり三菱のボールペン「JetStream」でしょう。記事に対するコメントの数や話題としても、サラサラと書き味スムーズなところが、だんぜん評価が高かったように思います。当方も、つい先日、また替え芯(リフィル)を交換したばかり。そう何度もリフィルを交換しましたというだけの記事を掲載するわけにもいかず、記事掲載は見送りましたが、写真のように、見事に使いきった青や黒色のボールペンのリフィルを、すでに何度か交換しています。いつも持ち歩いているブログ記事ネタ用小型ノートも、もう四冊目になりました。それだけ今年は書く量も多かったわけで、このボールペンには手書きの喜びのようなものがあると感じます。

そこで、何の権威も権限も、また商売上の影響もたぶんありませんが、当「電網郊外散歩道」選定「今年の文具大賞」を、

三菱のボールペン「JetStream」

に贈りたいと思います(^_^)/
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モーツァルト「ピアノ協奏曲第25番」を聴く

2008年10月30日 06時42分58秒 | -協奏曲
どうも風邪気味のようで、鼻水がでます。このところ、休みなしに緊張が続いたせいか、それとも暖房なしの寒さがこたえているのでしょうか。部屋でゆっくりと音楽を聴きました。あたたかいご飯とモーツァルトの音楽で体調の維持を図りましょう。

モーツァルトのピアノ協奏曲第25番は、1786年の作品だそうです。完成の二日後には交響曲第38番「プラハ」を完成させているのだそうで、なんとも早業です。ハ長調の調号にふさわしく、翳りをもちながらも、基本的には明快で構成感のある音楽です。

第1楽章、アレグロ・マエストーソ。堂々たる開始。どこか「フィガロの結婚」を連想させるフレーズがところどころに顔を出し、明るさの中にもどこか翳りを見せる音楽です。カデンツァは、パウル・パドゥラ=スコダによるものです。
第2楽章、アンダンテ。木管と弦に導かれた提示の後に、ピアノによって反復され、さらに優しいニュアンスをこめたピアノの分散和音による短い中間部が続きます。再現部もすてきです。
第3楽章、アレグレット。映画「アマデウス」の舞踏会のシーンのような、踊るように軽やかなロンド形式によるフィナーレです。途中のちょっとした転調や、対照的な旋律に彩られながら反復され、最後に力強いコーダで終わります。

楽器編成は、独奏ピアノと弦五部、Fl-1、Ob-2、Fg-2、Hrn-2、Tp-2、Timp というもの。クラリネットを欠いていますが、上手な奏者が少なかったのか、中声部の響きをわざと薄めにしたかったのか。演奏時間が30分を超える、堂々たるピアノ協奏曲です。

当時のウィーンで、なぜ晩年のモーツァルトの予約演奏会の人気が落ち、開くことが困難になったのか、不思議です。来るべき荒々しい変動の時代の空気にあわなくなったのか、それとも単に浮気な聴衆に飽きられたのか。産業革命前のウィーンでは、急激な人口増加はまだ起こっておらず、おそらく数十万人規模で、現在の山形市や天童市等を含めた、村山盆地程度の人口と思われます。ハプスブルグ家の権威はまだまだ大きく、貴族階級を揶揄したダ・ポンテの「フィガロの結婚」の思想を、王室に睨まれた可能性もあります。

演奏は、アンネローゼ・シュミット(Pf)、クルト・マズア指揮ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団。1972年11月19~22日、ドレスデンの聖ルカ教会にて録音された、独オイロディスク社原盤によるCD(DENON COCQ-84104)です。自然な響きのアナログ録音で、演奏の良さもあいまって、とても気持ちよく聴くことができます。

■アンネローゼ・シュミット(Pf)、マズア指揮ドレスデン・フィル
I=14'11" II=6'48" III=9'43" total=30'42"

解説書の時間表示と実際のトラック時間表示とに数秒程度の食い違いがあり、解説書の方が長くなっています。たぶんこれは、無音部も含めた表示になっているものと判断し、実際のトラック時間表示を採用しました。
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藤沢周平『冤罪』を読む

2008年10月29日 06時46分51秒 | -藤沢周平
新潮文庫で、武家もの短編集『冤罪』を再読しました。奥付を見ると、"Read through, January 31, 2004" とありますので、前回の読了から4年と9ヶ月が過ぎています。本作は、藤沢周平が会社づとめをやめて、作家として独立した昭和49年~50年頃の作品を集めたものです。初期作品の救いようのない暗さではなく、思わずニヤリとさせるユーモアも見られる、多彩な作品集となっています。後年の格調高く充実した作品群よりは、『未発表初期作品集』収録作品との共通性を感じるところもあります。

第1話「証拠人」。羽州14万石酒井家の新規召し抱えの報に参集した佐分利七内は、20年以上も前の関ヶ原の合戦での高名の覚書について、裏付けとなる証拠人の口書きを求められます。ところが、たずねあてた島田重太夫が三年前に死去していることを、妻であった農婦に知らされます。高百石の仕官の道が閉ざされますが、浪々の生活の中で体力も衰えていることを痛感し、農婦との生活の中に希望を見出します。夢敗れても幸せはある、と感じさせるかのような佳編です。
第2話「唆す」。ひっそりと市井に隠棲する煽動者の、隠された喜びが描かれます。はじめは客観的に、次に本人の心中が、続いて内儀の目から、そして全体が見えてくるという、視点を移動する映画的な手法が見事です。
第3話「潮田伝五郎置文」。思いを寄せた女性が、尊敬する先輩の妻となりながら、井沢勝弥と不義をなしている。井沢を果し合いで倒し、自刃した潮田伝五郎の置文が真相を伝えます。一方の側からは真率な感情であっても、他方の女の側からは理不尽で迷惑な、一方的な思いに過ぎないという関係が鋭利に描かれます。
第4話「密夫の顔」。説明をしない、話をしないことが、悲劇の元になる場合があります。親友を疑ったのは誤りでした。細君が哀れです。
第5話「夜の城」。記憶喪失の夫と秘密を持つ妻。周囲の日常生活が、突然に全く違った色合いになります。幕切れの舟の中の会話が、緊張を解きほぐします。
第6話「臍曲り新左」。この作品は、一度「藤沢周平とユーモア」という題で取り上げた(*)ことがあります。お気に入りの作品の一つです。
第7話「一顆の瓜」。夫婦喧嘩と政変とが同時に進行します。「力を貸せ」とは言うものの、単に命のやりとりを利用されるだけ。身分の差はなくなりはしません。力を貸した礼は、表題のとおりでした。
第8話「14人目の男」。幕末の変動機に、勤王か佐幕かの間で揺れ動く藩の意志に、幸せ薄い叔母も八木沢兵馬も命を落とします。
第9話「冤罪」。これもまた、勧善懲悪の終わりにはなりません。娘の父親の冤罪は明らかとなったものの、兄夫婦の生活を破壊することになってはと、暴露を思いとどまります。大きな百姓の養女に望まれている娘の婿にと申し出る経緯に、なるほど、武士の身分を捨てるという別の道があったかと思い当たりました。でも、なぜか北海道に解決の途を求める山田洋次監督作品とは異なり、蝦夷地に希望を託したりはしていません(^o^)/

(*):藤沢周平とユーモア~「電網郊外散歩道」より
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パソコンとかな漢字変換

2008年10月28日 06時19分28秒 | コンピュータ
パソコンで日本語の文章を入力するときには、必ずかな漢字変換のお世話になります。MS-DOS の時代には、日本語フロントエンド・プロセッサ(FEP)などと呼ばれていました。Windows の時代になると、Input Method Editor の略で 日本語IME などと呼ばれるようになりました。Linux では、X-window system 上で動作するクライアント・サーバ型の日本語入力システムを XIM (X Input Method) と呼んでいます。当方が使ったことがある FEP, IME, XIM の主なものは、

(1) ファンクションキーを用いて文字種の変更を行うもの
ATOK, VJE, Katana, EGBridge, MS-IME, Anthy(フリーな日本語入力システム,Linux等) など
(2) ファンクションキーを用いずに文字種の変更を行うもの
OAK(オアシスかな漢字変換)、canna(かんな、カスタマイズによりMS-IME風に変更もできる)など

などでしょうか。
(1)では、入力後に、例えば F7でカタカナに、F8で半角に変換することができます。
これに対し、(2)では、例えば「無変換」キー等でカタカナに変換することができます。
日本語入力は慣れの要素が大きく、特に(1)と(2)のタイプの間を往復するような使い方は困難ですが、(1)のタイプの間では、比較的はやくなれることができるように思います。

最近は、かな漢字変換のプログラムにつきものの辞書やロジックが中国で開発されるようになり、某社の IME がお馬鹿でズタズタになっているのだそうな。元同社幹部でさえ叱正するくらい(*)ですから、相当なのでしょう。この記事のコメントに対するリプライで、氏が同社の「執行役員の何人が自分でセットアップできるか」を問うているあたり、経営組織内における技術系役員の減少に伴い、技術の根幹が弱体化する傾向を表しているように見えてしかたがありません。

当方、Ubuntu-Linux で愛用するのは、フリーの日本語入力システムである Anthy ですが、時にニヤリとするくらいで、それほどひどい誤変換には遭遇しておりません。企業が責任を持って作るから品質が信頼できるとは言い難い時代になってきているのでしょうか。ネットワークの時代には、オープンソースのソフトウェアのように、多くの人の目にさらされるほうが、品質は向上するのかもしれません。



(*):MS-IME…さらにお馬鹿になっていく~古川享ブログより~

このあたりも、「安けりゃいいのか?」記事シリーズの部類で消化。じゃない、部類でしょうか(^o^)/
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N響アワーでバルトークを聴く

2008年10月27日 07時05分24秒 | -オーケストラ
日曜の夜は、一週間のうちで唯一テレビの前に座れる時間です。9時きっかりにDVDレコーダーの録画をスタートさせ、SONY Profeel BASIC の前に陣取ります。アナログですが、映像はまだまだきれいです。音声はアンプを通してステレオ装置から。映像の力もあり、音楽をじっくり楽しめます。

今日のテーマは「アメリカのバルトーク」。曲目は、バルトークと同郷(トランシルヴァニア)の作曲家ペーテル・エトヴェシュ指揮「管弦楽のための協奏曲」全曲と、エマニュエル・ヴィヨーム指揮、店村眞積のヴィオラで、遺作となったヴィオラ協奏曲(シェルイ版)から、第2楽章です。
バルトークの「管弦楽のための協奏曲」は、ライナー指揮シカゴ響やジョージ・セル指揮クリーヴランド管などハンガリー系指揮者とアメリカのビッグ・オーケストラの組み合わせだけでなく、飯森範親指揮山形交響楽団など、さまざまな録音や演奏会を興味深く聴いていますが、今回のN響の演奏も、非常に集中力に富むものです。
ヴィオラ協奏曲の方は、意外にも、実演ではもちろん放送でも録音でも初めてです。実際にヴィオラの深い響きを聴くと、ああ、いい曲だな~と実感します。これはぜひCDを探さなくては!放送がきっかけになって、長い音楽道楽の隙間を埋めることができます。こんなところが、テレビ放送のいいところですね。
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今年のナスはずいぶん長く食べられた

2008年10月26日 07時10分11秒 | 週末農業・定年農業
亡父が植えた今年のナスは、肥料をたっぷりやったのが良かったのか、ずいぶん長く食べることができました。写真のように、10月に入ってもまだ花が咲くほど。さすがに中旬になると、収穫はあてにできなくなりましたが、なぜか嫁に食わせるなとかいう秋ナスを、老母と嫁と娘と一緒に食べておりました。



先週、今週と週末に仏事や大きな行事が入り、お天気もよろしくないので、週末農業はお休みです。そういえば、先々週に畑を耕し、二畝だけネギを残して、あとは全部平らにしてしまいました。来年まで、畑も休眠に入ります。最近は、老母が楽しんで畑を作っております。老父が亡くなり、元気を無くすかと心配しましたが、畑仕事は心を癒すはたらきがあるのかもしれません。野菜を収穫し、色々な漬物を漬けるなどして冬支度におわれていると、たしかに悲しみに沈むヒマはないのかも。
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寒さ対策はまず衣類から

2008年10月25日 06時31分26秒 | 季節と行事
もうすぐ11月の声を聞くようになり、朝晩はめっきり寒くなりました。経験的に、10月は年間で一番気温の低下が大きい時期のように感じています。では、実際のデータではどうなのか、山形地方気象台の記録から、各月の平均気温と最高気温、最低気温について、前月の値との差を取ってみました。



その結果、平均気温、最低気温のいずれも、10月がいちばん前月との差が大きいことがわかります。特に、最低気温の変動は年間で最も大きく、1ヶ月の間に7度も下がってしまいます。風邪を引きやすい、体調を崩しやすいのも10月です。俗に「破綻の秋」ともいいますが、その裏付けになるデータかもしれません。

これをグラフにすると、次のようになります。



前月比が0に近いのは2月と8月であり、違いが顕著に感じられるのが3月と9月であると考えると、ここが季節の変わり目と言うべきなのでしょう。「暑さ、寒さも彼岸まで」とは良く言ったものです。

寒さ対策は、まず衣類から始まります。毛糸のベスト、セーター、長袖の下着、コートに防寒着を用意し、暖房が入るまでのしばらくの間、衣類で調節して寒さ対策とします。11月に入れば、暖房無しでは我慢できない日も出てくることでしょう。石油ストーブの準備も、そろそろしておかなければなりません。灯油のポリタンク、灯油ポンプ、長靴、雪かきスコップ、アノラック、帽子、手袋なども必需品です。また、車の冬タイヤ、チェーン等の点検も必要です。やれやれ、思わず溜息がでますなあ。
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サン=サーンス「ヴァイオリン・ソナタ第2番」を聴く

2008年10月24日 06時19分52秒 | -室内楽
秋の夜長に、サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタ第2番を聴きました。演奏は、第1番と同じく、ジャン=ジャック・カントロフ(Vn)とジャック・ルヴィエ(Pf)です。1991年3月に、オランダのライデンにあるシュタットヘホールザールでデジタル録音された、DENON COCO-70550というCDで、録音もたいへん明快です。

第1楽章、ポコ・アレグロ・ピゥ・トスト・モデラート。
第2楽章、スケルツォ、ヴィヴァーチェ。
第3楽章、アンダンテ。
第4楽章、アレグロ・グラツィオーソ、ノン・プレスト。

第1番(*)のソナタから7年後の1892年に作曲されました。このとき作曲者57歳。初演はサン=サーンスの楽壇生活50周年の記念コンサートで、作曲者自身のピアノとサラサーテのヴァイオリンで行われたそうな。それはすごい伝説的な演奏会です。

緊密な構成、多彩な音色。ちょっと聞いてすぐに親しみやすさを感じるような要素は乏しいですが、なかなか素晴らしい音楽です。中年の落ち着いた快活さ、とでも言えばよいのでしょうか。変ホ長調という調性で、古典的・ロマン的な枠組みの中で、なお音楽の可能性を探った、ということでしょうか。作曲当時、ドビュッシーは30歳。1891年に「二つのアラベスク」、1893年に「弦楽四重奏曲」、翌1894年には「牧神の午後への前奏曲」を作曲しています。ラヴェルはまだ17歳、もうすぐ彼らの時代がやってくるその時に、大家中の大家として君臨していたのでしょう。時代の残照と言うにはもったいないほど素敵な音楽だと思いますが、この曲は第1番とは異なり、あまり演奏される機会が多くないのかも。ブログの記事もずいぶん少ないようです。

■カントロフ(Vn)、ルヴィエ(Pf)
I=6'34" II=4'08" III=5'31" IV=4'47" total=21'00"

(*):サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタを聴く~「電網郊外散歩道」より

写真は、寒さにやられて枯れかけているバラです。
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単身赴任アパートのお風呂マットを新調する

2008年10月23日 06時55分41秒 | Weblog
ここ数日、濃霧の朝が続いております。朝晩はめっきり気温が下がり、通勤時刻でさえも10℃を切るほどです。まだ暖房のないアパートの夜は、背中がぞくぞくして、けっこう寒さがこたえます。こんなときは、お風呂に入って早く寝るに限ります。

単身赴任のアパートのお風呂は、安いビジネスホテルと同じようなユニット・バスですが、さいわいに水まわりには異常がなく、蛇口をひねればお湯が出ますので、まずまずの便利さです。生活を快適にするために、ちょいとお風呂マットを新調してみました。たわいない話ですが、なんだか嬉しい気分です。



まだあちこち不便はあり、キッチンの蛍光灯が点滅を始めました。蛍光管とグロー管を交換する必要もありそうです。
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佐伯泰英『雪華ノ里~居眠り磐音江戸双紙(4)』を読む

2008年10月22日 07時02分20秒 | -佐伯泰英
双葉文庫で、佐伯泰英作の居眠り磐音シリーズ第4巻、『雪華ノ里』を読みました。豊前関前藩を震撼させた騒動を鎮め、坂崎磐音は、身売りした許嫁の奈緒を追って旅に出ます。長崎丸山遊廓を目指す道中、蘭方医の中川惇庵を襲撃者から救いますが、一足違いで丸山遊廓に奈緒はいませんでした。後に残されたのは、幼き日の思い出を描いた絵扇のみ。親しくなった遊女から扇をもらって、次は長門の赤間関へ。
そこでも大立ち回りがありますが、要するに再び一足違いでした。残されたのは奈緒が描いた白扇のみ。これで二本目ですね。

続いて京都では、身請けの資金の140両を東源之丞にまかせて賭け闘鶏ですってしまい、肝心の奈緒さんはまたもや一足違いで加賀金沢に転売されたといいます。残されたのは、やっぱり絵姿が描かれた舞扇です。ワンパターン、これで三本目。「土地転がし」ならぬ「奈緒転がし」は、はや値千両だそうで。このあたりでもう「あほらし」。まさか、全巻この調子じゃなかろうなと、一瞬悪い予感がします。
続いて磐音さんは加賀金沢へ。ここでもいろいろありますが、会うことができたのは要するに同姓同名の那尾さんでした。京の島原を出るまでは一緒だったという那尾さん、四本目の舞扇を磐音に差し出します。剣の達人の坂崎磐音さん、すでに扇のコレクターです。

結局、江戸に戻ってきてしまいます。奈緒さんの行き着いた先も、結局は吉原で、転売を重ねすでに千両を越えるお値段です。全巻これ一足違いの「奈緒転がし」と扇収集のストーリー。いやはや、あきれて笑ってしまいました。
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CDを再生するついでに

2008年10月21日 06時22分44秒 | クラシック音楽
夏に新調した自宅の Ubuntu-Linux で、音楽CDを再生するついでに、デジタル化してハードディスクに取り込んでみました。以前は、Windows 上で取り込みの最中にパソコンで作業をすると、何かしら不都合が起きがちでしたので、わざわざ音楽CDのリッピングはしない主義で来ました。ところが、CPU の性能も上がり、Linux の安定性も信頼できるレベルに達して来ていますので、RhythmBox というツールで試してみたものです。パソコン用の小型スピーカでは、室内楽などの小編成のものが適していますので、もっぱらベートーヴェンやサンサーンスのヴァイオリンソナタなどを中心に。ちょいと聞くにはたいへん便利です。わざわざ立ってステレオ装置の前まで行く必要がない。これは、ますます運動不足になりそう。健康のために、適度の不便を楽しむ、という面からは、やや問題がありそうな便利さではあります。
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藤沢周平『橋ものがたり』を読む

2008年10月20日 07時15分19秒 | -藤沢周平
思い込みというのはあるもので、藤沢周平の代表的な市井もの、お気に入りの『橋ものがたり』を、すでに取り上げたとばかり思っておりました。ところが、ふと検索してみたら、書名としては登場するものの、まだ一度も記事にしていないことが判明。この機会に、もう一度読み直しました。う~ん、やっぱりいいですねえ!

本作は、橋にまつわる男女の物語10編を集めた短編集です。
第1話「約束」。錺職人の幸助は、5年前に小名木川に架かる萬年橋の上で会う約束をしたお蝶を待ちますが、病気の母親を抱えたお蝶は、男に体を売る今の境遇を恥じ、幸助と会うことに逡巡します。橋の上で待ち続けた幸助が、ずっとお蝶を思い続けたことを伝えますが、お蝶は幸助を拒みます。別れに心残りはないと思ったものの、お蝶の心の芯はぽっきりと折れたよう。翌日、一晩考えた末に、幸助はお蝶の家を訪ねます。幸助の心を知ったお蝶が、台所で振り絞るように号泣する声は、はじめて読む者の心も動かします。
第2話「小ぬか雨」。不意に訪れ、通り過ぎた恋。たぶん、19歳というおすみの年齢の頃には、よくあることなのでしょう。たまたまそれが、やけにドラマティックだっただけのことかも。
第3話「思い違い」。指物職人の源作は、両国橋でいつもすれ違う女の揉め事に出くわします。身持ちの悪い親方の娘の縁談を断り、職人仲間に無理に連れていかれた岡場所で、思いを寄せた女おゆうに出会います。現代のサラリーマンは、夜の商売の女性と、やはり橋の上ですれ違うのでしょうか。都会の場合はありえますが、田舎では車で通勤ですので、ありえないかも。
第4話「赤い夕日」。夫の新太郎に愛人がいると密告した手代の七蔵は、油断のならない男です。若狭屋の女将のおもんは、夫にも話していない秘密がありました。お父っつあんの名前をかたり呼び出されたおもんの身柄をかたに、悪党たちは夫の新太郎をゆすりにかかります。秘密を持った妻と夫の、思いがけなくほんのり甘さのある解決が印象的です。
第5話「小さな橋で」。「おれ、およしとできた。」思春期の少年と少女の飛躍です。
第6話「氷雨降る」。老いの先に見えたものは、古女房や息子が、店の主人である自分をないがしろにする虚無感でした。たまたま助けたおひさは、約束した男と一緒に出て行ってしまいます。氷雨が、荒涼とした孤独感をいっそう冷たく見せています。
第7話「殺すな」。奔放な女の後に随いて行った男が、結局元の鞘に収まろうとする女にぽいと捨てられます。だが、浪人の小谷善左エ門は、捨てられた吉蔵に、お峯を殺すな、と言います。不義の噂に激昂して家内を斬ってしまった、いとしいなら、生かすことを考えるべきだった、と。
第8話「まぼろしの橋」。父のいない娘が、橋のたもとで拾われて美しく育ち、跡取り息子の嫁になることに。だが、父親の話を種に狂言が仕組まれ、悪党どもに誘い出されてしまいます。第4話と似ていますが、こちらはずっと年若い娘の話です。
第9話「吹く風は秋」。いかさま博奕で江戸を逃れ、逃亡生活に倦んだ初老の男と、死んだ妻にどこかしら似た女郎との、うっすらとした関わり。殺伐とした渡世人の暮らしには、特定の橋での出会いも別れも、もたらされないようです。
第10話「川霧」。島帰りの夫を葬い、戻ってきた女の肩を抱いて橋を渡るシーンは、実に映画的です。

いずれも読み応えのある作品ばかり。市井の庶民の物語として、藤沢周平の代表作でしょう。映画化を期待したいところです。
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マーラーの交響曲第1番「巨人」を聴く

2008年10月19日 22時01分37秒 | -オーケストラ
マーラーの交響曲の中で、第1番「巨人」は、手にする機会があまり多くない曲の一つです。というのは、第1楽章の、ハーモニクスで連続する弦のイ音が、正弦波によるスイープ音のように脳髄に突き刺さります。風邪などで体調の悪いときには、とてもではないが、聴いていられないほどです。でも、ふだん体調の良い時には、この緊張感が持続する中から、カッコウの声や、軍隊の起床ラッパのような音などが立ち上がってくるさまは、なかなかの聴きものです。

第1楽章、ゆるやかに、ひきずるように、自然の響きのごとく。たぶん夜明けなのでしょう。カッコウの声や軍隊の起床ラッパの音を模した部分などからわかるというよりも、全体的な気分が、夜明けと早朝のイメージです。実際の夜明けは、太陽が昇るのに4分30秒以上もかかることはないのですが、むしろ実際よりも誇張しているのは、いかにもしつこいマーラーらしいのかも。
第2楽章、力強く動いて、しかしあまり速くなく。まるで田舎のおっさんと太りぎみのおばはんが踊る舞曲のような、スケルツォ楽章。中間部はややテンポを落とし、優雅に。第3部では田舎風の第1部を短く再現します。体調の悪いときは、この楽章から聴き始めます。
第3楽章、荘重に威厳を持って、引きずらずに。コントラバスのソロが、カノン風に民謡風の主題を奏します。中間部では、失恋を悲しむ歌曲集「さすらう若人の歌」中の「私の恋人の二つの青い眼が」の旋律が歌われます。第3部では、やはり第1部を短く再現します。
第4楽章、嵐のように運動して。シンバルの一撃で始まる、急速でアグレッシヴな音楽ですが、やっぱりマーラーの音楽は単純に盛り上がって終わることはありません。終わるかな~と思うと終わらずに、もう一度しつこく盛り上がり、圧倒的なクライマックスを作って終わります。

作曲家28歳の時の作品。窮乏生活の中で、副指揮者の地位に不満を持ち、色々と衝突を繰り返しながら、初期の作品を生み出していた時期に、恋愛がきっかけになって生まれたものだとか。たぶん、作曲当初の動機となった恋愛の経験にもかかわらず、時の経過につれて体験の生々しさはうすれ、ハンブルクやワイマール、あるいはベルリンと、各地での演奏経験に基づいてブラッシュアップされ、抽象化されていった、と考えるのが良いのでしょう。一部に20代の青年の恋愛体験の片鱗が残されていると見ればよいのでは。それが「花の章」や副題の削除などの経過と見ることができます。作曲の経緯は複雑ですが、ジェイムズ・レヴァイン指揮ロンドン交響楽団によるこの録音(RVC R32C-3002)は、4楽章形式の第3稿によるもので、彼の最初のマーラー録音でした。

ジャケット写真からわかるように、録音当時のレヴァインは31歳、作曲家とほぼ同じくらいの年代です。ジョージ・セルの元で才能を認められ、野心に満ちて活動している頃の意欲的な録音は、年長の世代のマーラー演奏とはだいぶ趣きを異にしています。特に、オーケストラを絶叫させないで、木管楽器のひとふしを印象的に浮かび上がらせ、清澄さを保つ処理の巧みさ、打楽器や弦の内声部のバランス感など、音楽に共感しながらも、かなり客観的に表現しているようです。

■レヴァイン指揮ロンドン響
I=16'37" II=7'39" III=11'24" IV=19'28" total=56'18"
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百科事典の温故知新~昭和55年の『百科事典操縦法』

2008年10月18日 06時50分20秒 | 手帳文具書斎
新書用本棚の整理をしていたら、平凡社の『世界大百科事典』の底辺拡大でしょうか、平凡社刊の『百科事典操縦法~1000万人の情報整理学』という新書を見つけました。梅棹忠夫、加藤秀俊、小松左京という三人の著者の顔ぶれからみても、「慢性百科事典中毒症を自認する人類学者と社会学者とSF作家、少なくとも日に5~6回は百科事典を開くという百科事典通たちが、体験をまじえて語る愉快な百科事典のノウハウ集」という触れ込みは魅力的でした。本書が刊行された当時、昭和55年には、世界大百科をど~んと購入するほど年収に余裕はなかったのですが、図書館などでお世話になる機会は多く、このような新書を購入していたのだろうと思います。

で、Wikipedia や『世界大百科DVD』が机上で検索できる現在において、この新書の中に詰まっているノウハウは、現代にも通用するものがあるのでしょうか?

結論として、大部分のノウハウは書籍という形に対応したものであり、書籍の中にある知識や情報そのものに関するものは意外に少ないために、現在に通用するものは多くない、と感じました。

ただし、一部なるほどと思ったことがらもありました。自分で実践して便利だと思ったこともふくめて列記してみると、こんなところでしょうか。

(1)「まず索引」 これは、「まず検索」に置き換わっています。むしろ、検索キーワードの選び方や、and/or 検索の用法などが重要でしょう。
(2)百科事典のページをコピーして旅先に持参 ガイドブックよりも客観的でデータも詳しく、たいへん便利です。今ならば、Wikipedia 等の該当項目のプリントアウトでしょうか。初めて訪れる都道府県の概要は、たいへん参考になります。
(3)物量や重さからの解放 本書の言う「社会に蓄積された情報を、私たち大衆の一人一人が利用しやすい形で整理して保存するシステム」からイメージされるのは、まさに Wikipedia のようなものでしょう。

書籍の形の百科事典には、作曲家「グスタフ・マーラー」についての記述はあるだろうけれど、具体的な楽曲、たとえば交響曲第1番「巨人」についての詳細な記述は期待できません。しかし Wikipedia では、内容的にも突っ込んだ、かなり詳細な記述があります。ブログ記事のために曲目の周辺を調べるには、圧倒的に便利です。このあたりに、本質的な進歩を感じます。
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確かに、モノが多すぎる

2008年10月17日 05時54分47秒 | Weblog
超シンプル生活を営む単身赴任のアパートと比べて、自宅の自室は、確かにモノが多すぎると感じます。長年の習慣で、使いもしないのに「とりあえず」しまっといたモノが、堆積しています。本人には意味があっても、周囲の人にはガラクタでしかない、多くのモノ。少しずつ処分して、少しずつ身軽になりたいと思っていました。

ところが、最近、帰宅するごとに何やらダンボールが増えています。どうも、A地点を片付けた妻が、B地点に運んでいるようなのです。A地点はきれいに整頓されますが、主が不在のB地点はどうなる?

単身赴任は、かくのごとき危機をも内包しているのです(^o^)/
危うし、わが砦!
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