電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩。時々は実際に散歩を楽しみます。

早生種サクランボ「紅さやか」の初収穫をする

2015年05月31日 06時03分54秒 | 週末農業
先日、農協を通じて業者に依頼し、自宅裏の果樹園に雨避けのビニールテントを防鳥ネットを張る作業をしてもらいました。金曜日までに大筋のところは出来上がっておりましたので、細かな隙間を自分で網でふさいで、ムクドリの侵入を防ぐ必要があります。昨年の二の舞は御免と、高い脚立にのぼり、念入りにふさぎました。



午前中は、その仕事で終わりましたので、午後からは少し離れたところにある、もう一つの園地(こちらはテントなしの露地栽培)に出かけ、早生種サクランボ「紅さやか」の収穫をしました。例の「農作業メモ」ノートによれば、昨年は6月7日(土)から収穫をしておりますので、一週間ほど早まっています。なにせ、山形でも30度を越すというこの暑さですので、果樹の生育は早まっているようですが、いささか干ばつの様相を見せており、油断はできません。雨は実割れの原因になりますので、サクランボの収穫期に降らないでくれるのはありがたいのですが、田畑には少しまとまった雨がほしいところです。




体のほうがまだ慣れていないためか、暑さの中での作業はけっこう辛いと感じます。三時間ほど収穫作業をしましたが、とうとう音を上げて退散しました。夕方は風もかなり吹いてきて、脚立の上に登るのも少々心配ですので、無理はしないという判断です。それでも、コンテナにいっぱいのサクランボを収穫。赤いルビーかサファイヤか、それほど大粒ではありませんが色付きは見事なものです。さっそく仏壇の亡父にお供えをしました。きっと喜んでくれていることでしょう。理系の石頭も、こういう時には都合良く仏教徒に変身です(^o^)/




さて、本日も「紅さやか」の収穫の予定です。お天気の具合がどうなるか、気になるところです。



写真は、防鳥ネットを張り終わって静かになった自宅裏の果樹園の様子です。亡父が植えたバラ越しに見ると、なかなか風情があります。このようにきれいに維持管理するのは、専業でない週末農業ではけっこう大変なのですが、まあ、よく頑張った自己満足ということで(^o^)/

作業は順調、収穫の見通しも立ちましたので、今年もブログを介した産直を試みてみましょう。

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明治初期の化学教科書の著者と翻訳者

2015年05月30日 06時06分52秒 | 歴史技術科学
明治初期に発行され、初等中等教育において広く用いられた教科書として、ロスコウ著『小学化学書』があります。この本の実物は、山形県内では県立博物館の教育資料館(*1)で見ることができますが、1872(明治5)年に発行された原著"Chemistry"(Science Primers-第2巻)を、市川盛三郎が翻訳し、1874(明治7)年に文部省が発行したものです。原著の発行にはイギリス側の事情が興味深いものがあり、日本での翻訳の素早さと発行までの期間の短さは驚くばかりです。

まず、原著の発行の事情です。1866年から11年間続いた南北戦争によって、米国南部からの綿花の輸入が急減し途絶えます。これによって、産業革命の柱の一つであった英国ランカシャー地方の工場の操業が止まります。これに対し、労働者に同情したT.H.ハックスリー(Huxley)やチンダル(Tyndall)などが、労働者の資質向上による再就職を狙い、通俗講演会を開きます。また、マクミランの要請によって、1870年にロスコウ、ハックスリー、スチュアート(B.Stewart)が編集者となり、Science Primersという叢書が編集・刊行されます。大沢眞澄(*2)によれば、この刊行の趣旨は、

  1. 学校において年少者の第一段階での教科書として使えるもの、
  2. 実験はきわめて容易な生徒自身が行えるもの
  3. 実験を基礎に学習を進めるもの
  4. 各科の学習順序が入門→化学→物理学のように教育的配慮がなされているもの
  5. 廉価であるもの(定価は1ペニー)

とするとのことです。
このうち、第2巻「Chemistry」は、内容が優れていたために広く普及し、ドイツ、アイスランド、ポーランド、イタリア、トルコ、インド、日本などで翻訳が行われたのだそうです。

この「Chemistry」の翻訳は、1873年版の原著が刊行された翌年の1874(明治7)年10月に、文部省から刊行されます。原著刊行から日本語版の刊行までの期間の短さに驚かされますが、さらにこの序文の内容が、まったく現代に通じるような、たいへん興味深いものです。現代表記に直せば、

原序
この書は化学の原理を説き、童蒙をしてその大意を知らしむるものなり。ただし、その主意たるや、いたずらに事物の理を論じ、生徒をしてこれを暗記せしめんと欲するにあらず。その要する所は生徒を誘導し直に造化に接して自らその妙理を悟らしむるにあり。これがために許多の試験(注:実験のこと)を設け、各事、もっぱら実地についてその真理を証するを旨とす。ゆえに教師たる者、丁寧にこの諸試験(実験)をなして生徒に指示せずば有るべからず。このごとくすれば生徒自ら事物を見てその理を考えるに慣習して大いに利益ありとす。また、時に問を設け生徒をしてこれに答えしめ、その学力進歩の多少を試みることもっとも緊要とする所なり。
                1873年 ロスコウ識るす。

というものです。ファラデーが示し、リービッヒがシステマティックに開始した教育システムの中心にある、理論と実験を通じて化学を学ぶという方法が、ここでも貫かれていることがわかります。

著者のロスコウ(Sir Henry Enfield Roscoe,1833-1915,*3)は、1833年にロンドンに生まれ、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンでウィリアムソン教授らに学んだ後、大学卒業後にドイツのハイデルベルグ大学の、リービッヒの盟友であったブンゼンを訪ね、1855年に助手となり、老ブンゼンを助けて働きます。都市ガスが普及するロンドンで購入してきた一本立てのガスバーナーをブンゼンと共に改良し、今日化学実験室に普及するブンゼンバーナーに改良したほか、この無職の炎を利用してセシウムとルビジウムという新元素を発見、また光が化学反応を促進することを追及し、光化学の変化量は吸収した光のエネルギーに比例するというブンゼン・ロスコウの法則を発見して、光化学の分野の開拓者となります。


(左から、キルヒホッフ、ブンゼン、ロスコウ)


(晩年のロスコウの執務姿)

ロスコウとブンゼンの師弟関係は親密で、学生が実験を通じて化学を学ぶという思想とスタイルをそのままに受け継いだようです。このロスコウのところに留学していたのが杉浦重剛(*4)で、彼は途中で挫折しましたが、帰国後に本書の翻訳を監修します。そして、直接に翻訳に携わったのが、市川盛三郎でした。

市川盛三郎は、1852(嘉永5)年8月に、幕府の洋学者の子として江戸に生まれます。幼時より才能をかわれ、川本幸民(*5)がいた幕府開成所に入り、1866(慶応2)年に幕府の留学生としてロンドンに向かいますが、1968年に幕府が崩壊したことにより帰国、補助的な立場で教職に就きます。1870年11月より、大阪理学所においてお雇い外国人教師リッテルを助け、各種の著作の翻訳編集にあたります。1873(明治6)年に東京に移り、この頃に『小学化学書』を翻訳したようです。21歳のことでした。
1875(明治8)年養子となって平岡姓を名乗り、1877(明治10)年にはマンチェスターのオーウェンズ・カレッジに私費留学、病を得て1879(明治12)年に帰国し、1881(明治14)年には東京大学理学部教授となりますが、翌1882年に病没、31歳の若さでした。

(*1):山形県立博物館の教育資料館
(*2):大沢眞澄「明治初期の初等化学」(『科学と実験』1978年10月号)
(*3):ヘンリー・エンフィールド・ロスコー~Wikipediaの解説
(*4):明治初期の留学生の行先~「電網郊外散歩道」2015年2月
(*5):北康利『蘭学者川本幸民』を読む~「電網郊外散歩道」2008年9月

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白石一郎『海狼伝』を読む

2015年05月29日 06時19分02秒 | 読書
文春文庫で、白石一郎著『海狼伝』を読みました。第97回直木賞受賞作とのことですが、1987年に該当するようです。ジャンルとしては海洋時代小説ということになるのでしょうか、海を舞台にして、戦国武将や海賊たちが中心となって描かれます。

主人公は笛太郎。はじめはあまり大物には見えませんが、どうやら心優しき若者らしい。別の言い方をすれば、仁徳のある若者が船大将に成長する話です。笛太郎は、海を渡って帰ってこない夫・三島孫七郎を20年も待ち続けている母と二人、対馬で暮らしています。そこへ、海賊の宣略将軍が、青く塗ったジャンク船「青竜鬼」と共に帰郷します。母の紹介状を手に、義理の大叔父にあたるという宣略将軍のもとへ出向いた笛太郎は、麗花という明国の女武者と立ち合って敗れ、重臣の金崎加兵衛の配下にさせられてしまいます。船が好きな笛太郎は、将軍の焚書の手伝いをする隙を見つけて航海書を抜き取り、「青竜鬼」という50人乗りジャンク船の、和船にはない優れた構造と性能に魅力を感じます。宣略将軍の一党は残酷な海賊行為を続けますが、笛太郎は宋人で薩摩の奴隷となっていた屈強な男・雷三郎を助け、信頼を得ます。舵取りの才能を発揮する笛太郎に、武術に優れる雷三郎は良い相棒になったようです。

同じ海賊と言っても、やっぱり上には上がいるもので、たまたま襲った商船を守っていたのが、瀬戸内の村上水軍の船でした。作戦も統率が取れており、火薬を使う火攻めも巧妙です。笛太郎と雷三郎は、逆に捕えられて村上水軍の捕虜となってしまいます。そこでも笛太郎の父親の名前が効果を発揮し、命は助かりますが、銭勘定が得意で独立心の旺盛な小金吾の配下となります。村上水軍は、織田信長と対立する毛利方に付き、石山本願寺に物資を輸送することを請け負い、織田軍をさんざんに打ちのめします。
ところが、たまたま分捕った盗人船に乗っていた者たちの中に、雷三郎の同郷の女・玉琴がいたことがきっかけとなり、まわりまわって大山祇神社の三の乙女・晴と笛太郎が仲良くなります。小金吾と笛太郎、雷三郎らは、ボロ船を入手して改装し、巧みに商売をして稼ぎます。もっと儲けたい小金吾は、対馬の宣略将軍を仲介役に頼み、朝鮮との交易を企てますが、逆に宣略将軍に捕えられ、積み荷を横取りされただけに終わり、船はかろうじて脱出に成功します。

第二次石山合戦では、毛利水軍は織田信長が建造した鋼鉄張りの巨船に圧倒され、完敗します。しかし、小金吾は、配下の水夫を増やすために、水に浮かぶ兵たちの中から敵方だけを選んで救い上げます。その中の一人、小矢太は深江浦の船大工で、信長の鋼鉄船を作った男でした。しかも、大鉄砲も造れるという、船に関しては実に詳しい、得難い人材です。海賊に負けない商人船とするには、鉄張りで船を守るよりも、船足が速く逆風に負けずに航行でき、大鉄砲を備えたものが良いという持論を聞き、小金吾は全財産をはたき、さらに借金までして、南蛮船「黄金丸」建造します。
あまりに見事な出来上がりに、欲しくなった村上水軍の頭の村上武吉は、部下の船を横取りしようと攻撃して来ますが、黄金丸は村上水軍を軽く撃退。晴と玉琴を乗せて向かったのは、笛太郎の母親のところでした。そして、小金吾のうらみを晴らすべく、対馬の青竜鬼と対決しますが、南蛮船とジャンク船の勝負はどうなるのか?! というお話。



乗組員を生きたまま海に「捨てる」などというシーンも多く、捨てられる身になった時のことを想像すると恐怖ですが、まあ、わりにおもしろく読みました。

化学専攻らしい詮索を一つだけすると、火薬の製造について:

しかし硝石はどこにでもあるというものではなかった。古い家の床下とか洞穴のなか、しかも湿気のない土の中に少量含まれている。その土を水桶に入れて上澄みをとり、それを釜で何回も煮沸し、たいへんな手間をかけてようやく取れる。硝石に硫黄と灰、樟脳などを混ぜ合わせて、火薬が生まれる。(文庫版:p.178)

と、このように説明しています。しかしながら、これはいささか不正確でしょう。戦国時代の硝石の製法はもう少し合理的で、たとえば越中五箇山の硝石(煙硝)製造は、合掌造りの家の床下に四畳半くらいの深い穴を掘り、ここに麻畑の土やヨモギなどの干草、蚕の糞などを積んだ上に人や馬の尿を大量にふりかけ、土中の硝化細菌の作用でアンモニアを硝酸塩に変化させるというものだそうです。いわば、戦国のバイオテクノロジーが基礎になった秘伝・秘法と言えるでしょう。
また、当時の火薬と言えば黒色火薬でしょうが、その成分として、炭素粉がないのもおかしい。「灰」とあるのは、もしかすると炭灰つまり粉末状の木炭なのではないかと思われます。

もう一つ、日中の交易の観点から言えば、中国では硝石は取れたが硫黄が不足しており、日本は硫黄は豊富だったが硝石が不自由だった。そこに、海上の「硫黄の道」が誕生したという、日宋貿易の理解が新鮮な歴史書(*1)を読んだ記憶も鮮明です。時代はだいぶ異なりますが、興味深いことです。

(*1):山内晋次『日宋貿易と「硫黄の道」』を読む~「電網郊外散歩道」2012年10月

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色彩雫インク「紺碧」を白カクノの中字に移行する

2015年05月28日 06時04分12秒 | 手帳文具書斎
これまで、パイロットのカスタム・グランディ(中字)にコンバータCON-50を組み合わせ、色彩雫シリーズのインク「紺碧」を用いて、もっぱら備忘録ノートのタイトル書きの用途に使ってきました。ところが、よく考えてみると、今使っている万年筆の中でいちばん使用期間が長く、自分の書き癖にもっともよくなじんでいるはずの万年筆を常用せず、タイトル書きにしか使わないというのは、実にもったいない話です。廉価ペンをあれこれ使ってみるのは楽しいけれど、本家本元を忘れては困ります。



そこで、色彩雫「紺碧」は、コンバータCON-50(内容量:0.5ml)ごと白カクノの中字に移行することとし、カスタム・グランディは水洗いすることとしました。このペンは、実はインクが出過ぎの傾向があり、中字とはいいながら太字のような字面に仕上がります。内容量:1.0mlのインクカートリッジのほうが、どうもよさそうです。水洗いし乾燥させた後で、パイロット社の青インクあたりを試してみたいものです。





白カクノは、先日、妻の買い物に付き合った時に、某イオンの文具コーナーで安売りしているのを見つけて、入手したものです。空色のキャップの中字は、「紺碧」インクのイメージです。なんだか、いつの間にか増殖しているような気がしますが(^o^;)>poripori

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小型ノートは件数は少なくてもページ数が多くなる

2015年05月27日 06時03分46秒 | 手帳文具書斎
現在使用中の寝床用雑記帳は、いわゆる文庫本サイズの、A6判の小型ノートです。これは娘から某東南アジアの土産(*1)にもらったもので、ハードカバーのダブルリング・タイプです。紙質は万年筆には向かないものですが、二つ折りにして書き込んでも折れず曲がらず、パワータンク・ボールペンで書く限りにおいては、まずまず実用になるようです。



ところがこのノートは、前のB6判のダブルリングタイプ・ノートに比べて、書き込む件数は少ないのにページ数はやけに消費してしまいます。先月始めに更新したばかり(*2)なのに、2ヶ月ほどで4割程度のページ数を消費してしまいました。これは、片面使用と紙面の面積が小さいことによるもので、記述量が多い時など、ページ数がどんどん進むという事情によるものでしょう。枕元に置いて不定期にメモする用途にしか使っていないのですが、この分だとかなり早く使い切る日が来てしまうようです。



(*1):娘の東南アジア土産は小型ノート~「電網郊外散歩道」2013年8月
(*2):枕元の備忘メモ・ノートを更新する~「電網郊外散歩道」2015年4月

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あまり暑かったので半袖に

2015年05月26日 06時02分49秒 | 季節と行事
日中、あまりに暑かったので、先日から半袖のワイシャツをを着るようにしました。そうしたら、実に涼しく快適です。昨年はいつ頃半袖に着替えたのか、すっかり忘れておりました。例によって、テキストファイル備忘録を検索してみると:

$ grep "半袖" memo-utf.txt
2007/06/13 半袖のワイシャツ 昨日から最高気温が30度を超す夏日となり、半袖のワイシャツを着始めた。エコスタイルでネクタイを外していると、よほどしのぎやすい。
2006/05/06 気温が上り半袖に 寒い春だったが、今日は24度まで気温が上り、半袖の下着にワイシャツにベストでちょうどよい。冬物を整理して、タンスの中身も春物に入れかえた。
1993/05/13 岐阜市で会議 岐阜市の人口は約40万+αくらい。盆地のため、夏は蒸し暑く冬は寒い。昨日と本日の気温は30℃を超え、半袖の女性がほとんどであった。○○○総会および○○部会に参加。~以下略

ふむふむ、少ない記述から推測すると、どうやら5月下旬から6月上旬というのが今までの目安のようです。



そういえば、昔は夏場の服装というと開襟シャツというのが普通だったように思います。今は、冷房が普及してネクタイ族が増えたので、クールビズとやらでノーネクタイが推奨されていますが、開襟シャツというのはあまり見ません。これも不思議なことです。

開襟シャツにパナマ帽、手には扇子というのが、昭和のある時期の中年オジンには定番だったわけで、だからこそ寅さんのスタイルがあるのだろうと思います。さすがに刻みたばこにキセルまではいきませんでしたが、あのレトロスタイルは、冷房があまり普及しない頃に、暑さをしのぐ工夫だったのだろうなあと、懐かしく思い出します(^o^)/

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ホジャイノフのピアノでシューベルトの「さすらい人幻想曲」を聴く

2015年05月25日 06時03分36秒 | -独奏曲
当ブログでは、同じ曲目を何度も取り上げることは、あまりありませんが、たまに例外があります。例えばベートーヴェンの交響曲第9番は3回も記事を書き、サヴァリッシュ指揮チェコフィル、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管、クルト・マズア指揮N響を取り上げています。

シューベルトの「さすらい人幻想曲」については、アルフレート・ブレンデルとミシェル・ダルベルトの録音を取り上げた記事を書いていますが、今回、2014年の11月に山響第240回定期でベートーヴェンの第4番のピアノ協奏曲を演奏したニコライ・ホジャイノフさんのピアノで、彼の愛奏曲を集めたCDが良かったので、取り上げることといたします。曲の成り立ちや構成については、先の記事(*1)のとおりですので割愛。

ニコライ・ホジャイノフという若いピアニストは、18歳でショパン・コンクールのファイナリストに残ったという史上最年少記録を持つ逸材(*2)です。私が実際に演奏を聴いた感想は、

ホジャイノフさんのアンコールは、ビゼーの「カルメン」の旋律が次々に出てくる、すごい技巧的な曲で、思わず呆気にとられるほどです。ホジャイノフさんのピアノは、強音のダイナミックな力強ささだけでなく、弱音がすごくきれいで、生まれたときからコンパクトディスクがあった世代なんだな、と感じさせられました。

というものでした。

実際にCDを聴くと、とても生き生きとした「さすらい人幻想曲」で、意味深げなもったいぶったところはなくて、若いシューベルトが眼前に登場したような、溌剌とした新鮮さがあります。本人自筆の署名があるからという贔屓目だけでなく、説得力のあるCDを、通勤の音楽としてもしばらく聴いてきました。2012年4月24~25日の2日間、群馬県みどり市の笠懸野文化ホールでデジタル収録されたビクター盤で、「ニコライ・ホジャイノフ/マイ・フェイヴァリッツ」という題名のついたVICC-60824という型番のCDです。録音もたいへん明瞭です。

■ホジャイノフ盤
I=5'53" II=6'53" III=4'30" IV=3'39" total=20'55"
■ブレンデル(Pf)盤
I=6'02" II=6'43" III=4'48" IV=3'31" total=20'04"
■ミッシェル・ダルベルト(Pf)盤
I=6'30" II=7'16" III=5'13" IV=3'36" total=22'35"

(*1):シューベルトの「さすらい人幻想曲」を聴く~「電網郊外散歩道」2008年8月
(*2):ニコライ・ホジャイノフ~プロフィール:ビクター・エンタテインメント
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「天皇の料理番」を観る

2015年05月24日 06時03分29秒 | 映画TVドラマ
杉森久英の同名の本(*1)を原作とする連続ドラマ「天皇の料理番」を観ています。第2回は残念ながら見逃してしまいましたが、再放送のかわりに日曜劇場「天皇の料理番」ホームページ(*2)で前週の番組が無料視聴できるようになっているため、お葬式があったり来客があったりしても、なんとか続けて楽しむことができています。

主人公の秋沢篤蔵(実在のモデルは秋山徳蔵)を演じる佐藤健の包丁さばきがかなり上手で、ペティナイフを使って目を瞠るスピードで野菜を切っていました。単身赴任時代に、私も毎日包丁を握っていましたが、さすがにあのスピードは出せません。おそらく、基礎からそうとうに訓練したのだと思います。役者さんというのはすごいものです。

先週の第四回では、華族会館に籍を置き働きながら、内緒で英国大使館だか公使館だかにも出入りしていたのがバレて、クビになってしまう話です。料理人どうしの人間関係というか力関係というか、実力主義というのは、後輩があっという間に上司になり、先輩がその下に付くという世界です。そこでは、嫉妬、陰謀、いろいろあって当然。このあたりの悪役の憎々しさも、実に上手なものです。たぶん、誰か嫌な先輩の俳優を思い出し、真似たりしているのではなかろうかと思いますが(^o^)/

今夜は第五回。華族会館をクビになって、市井の大衆食堂で働くことになり、主人には重宝されるが浮気っぽい奥さんに迫られてしまう、あのあたりでしょう。原作を読んでいると先のストーリーがおおよそわかるので、その分、役者さんの様々な演技上の工夫を楽しむことができます。

そうそう、テーマ曲となっているエルガーの「威風堂々」第1番が、なんとも良い味を出しています。実に堂々としているけれど、ちょいとコミカルなところも感じられるもので、あれは誰の演奏なのだろう?

(*1):杉森久英『天皇の料理番』を読む~新聞報道をきっかけに~「電網郊外散歩道」2015年4月
(*2):TBSテレビ60周年特別企画・日曜劇場「天皇の料理番」公式ホームページ

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田んぼに水が入り蛙の大合唱

2015年05月23日 06時01分31秒 | 季節と行事
田んぼに水が入り、田植えが進むと、夜の静けさの中で何やら耳鳴りのような音が聞こえます。いよいよ聴力に難が出てきたのかと恐れましたが、実はさにあらず。耳鳴りのような音は、田んぼに集う蛙の大合唱でした。思わず連想するのが

死に近き母に添寝のしんしんと 遠田の蛙(かはづ)天に聞こゆる (斎藤茂吉)

です。
ああ良かった。思わず耳鳴りかと思ってしまいましたが、本物の蛙の大合唱でした。幸いに血圧は正常、まだまだ健康で音楽を楽しみたいものです。



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カッコウが啼く季節に

2015年05月22日 06時03分27秒 | 季節と行事
先日、早朝の5時半ころ、カッコウが上手に啼きました。
まだ下手っぴな練習時期に、啼き声がチラリと聞こえたことはありましたが、あのように上手にしっかりと啼いたのは、たぶん今年初めてでしょう。

カッコウが啼くと、季節は初夏を感じるようになります。八十八夜を目安にしている(*1)という老母の畑も、先日の雨でしっかりと育っています。天然の蒸留水は、まさに恵みの雨です。

サクランボの雨避けテントの設営について、業者さんがやってきて打ち合わせをしていきました。なかなか忙しそうです。雨避けテントを張らなかった昨年は、自宅裏の果樹園が野鳥の被害でほぼ全滅しましたが、今年はテントにきちんと防鳥ネットを張って、ムクドリの大群を呼ばないようにする予定。毎年来てくれる雇人の人にも、今年もお願いできるよう、声をかけておきましょう。

(*1):種まきの時期に老母の知恵~「電網郊外散歩道」2011年10月

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帝国大学の整備と教育の目的の変化

2015年05月21日 06時04分53秒 | 歴史技術科学
明治初期には、お雇い外国人教師を中心に様々な学校で行われていた高等教育でしたが、国費留学生が帰朝し、教授に就任するなどして、徐々に日本人教員に置き換えられていき、高給で雇われた外国人教師たちも、少しずつ帰国していきます。
工部大学校の都検(実質的校長)として活躍したダイアーも、明治15(1882)年に帰国し、英国で『大日本』という本を発表します。東洋の島国に移植した西欧の技術とそれを支える思想が、どのような実りをもたらしつつあるか、また将来の日本の技術的自立を予言するものでした。しかし、この本は、明治の日本では発禁となります。これは、おそらく底流を流れる社会進化論的な思想が、当時国家主義的方向に大きく再編成されつつあった日本にとって、有害とみなされたのでしょう。

(森有礼)

明治19(1886)年、学校令が公布されます。これは、(1)帝国大学令、(2)師範学校令、(3)小学校令、(4)中学校令、(5)諸学校通則の五つの法令からなり、教育に対する国家の支配を決定的にするものでした。この中の帝国大学令により、工部大学校や駒場農学校など官立学校が開成学校と統合されて帝国大学となります。これを、かなり強権的に推し進めたのが、幕末期に英国に密航留学していた旧薩摩藩士で、グループが分裂し、アメリカに渡って宗教的コミュニティに幻滅し、国家主義的な考え方を育んだという経歴を持つ人物、森有礼でした。もちろん、その背後には、プロシアのビスマルクと面談し、その影響を濃厚に受けて英国からドイツへと方向転換をするようになった伊藤博文がおり、やがて明治22(1889)年に大日本帝国憲法の成立へと進むこととなります。
森有礼は、帝国大学の目的を、国家に奉仕する人材の育成と定めます。これは、ダイアーらお雇い外国人教師たちの中にあった、技術と産業を通じて社会を変革するという情熱や、教育の目的を社会の進歩と人々の幸福に置くというようなタイプの考え方を、基本的に相容れないものとみなしたのでしょう。ダイアーの離日に際して、名誉は贈るが著作は発禁にするという処置は、森有礼あたりの影響が色濃く出ているのではないかと推測しています。



この頃、足尾鉱山の鉱毒事件が世間を騒がすようになります。明治10(1877)年に操業を開始した足尾鉱山からは、多量の鉱毒が流出しており、明治20(1890)年の大洪水によって、一気に問題が顕在化します。かつては穀倉地帯だった渡良瀬川流域を中心に、鉱毒に汚染された状況を見て、沿岸の青年有志が田畑の土や川の水を採取し、明治24(1891)年、東京帝国大学の丹波敬三教授と農科大学の古在由直助教授に持ち込み、分析を依頼します。

(古在由直)

とくに、この事件に関わりの深い古在由直氏は、明治19(1886)年に駒場の農学校を卒業し、明治22年に農科大学、明治23(1890)年に東京帝国大学農科大学助教授に就任したばかりの少壮学者でした。分析の結果、明らかに銅が含まれていることが判明します。この事件が大きな社会問題となるや、古在助教授は明治28(1895)年にドイツのライプニッツ大学に留学を命じられ、日本を離れることとなります。この背景にあるのも、国家に奉仕するという帝国大学の使命であり、意志であったと言うことができるでしょう。しかしながら、古在助教授は帰国後にもその節を曲げず、徹底した調査活動を行います。明治35(1902)年、鉱毒調査委員を命じられた古在は、渡良瀬川流域を地図上でグリッド化し、その区画毎に銅の濃度をプロットすることによって、自然銅ではなく鉱山に由来するものであることを明かにします。この手法は、まさに駒場農学校で学んだ実践的なフィールドワークの手法の適用であり、鉱山側の責任を誰の目にも明かにするものでした。

足尾鉱毒事件は、明治の鉱山技術を産業として適用した結果の事件であるとともに、化学分析によってその実態が明らかになったわけですが、日清・日露戦争を背景に、富国強兵政策をなおも推進する政府は、鉱山側をかばいます。足尾鉱毒事件は、田中正造という人物によって議会で取り上げられ、大きな社会問題となりますが、鉱毒の回収や無毒化など技術的な解決は不可能で、結果的には谷中村一村の強制移転という形になってしまいます。にもかかわらず、局地的に起こった不幸な事件として受け止められ、国民全体が意思表示することはありませんでした。このあたり、なにやら福島原発事故により周辺町村が集団移転させられた一連の事態を連想してしまいます。渡良瀬川流域の住民は、自ら収集した記録集の発刊を発禁処分とされましたが、現代では発禁処分という対応はできない、という点に違いがあるでしょうが。

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火坂雅志『真田三代(下)』を読む

2015年05月20日 06時05分34秒 | 読書
NHK出版から2011年の10月に刊行された単行本で、火坂雅志著『真田三代』の下巻を読みました。上巻を読んだのが2015年の正月ごろ(*1)ですので、ほぼ三ヶ月ぶりです。たまたま某図書館で見つけ、借りてきて読んだものです。

徳川家康に、上野の所領を北条に返せと命じられた真田昌幸は、ひそかに越後の上杉景勝と結び、徳川に反旗を翻します。そのための人質として送られた次男の真田幸村は、上杉家から大変に丁寧に扱われ、幸村は直江兼続という人物に共感します。

真田を攻めた徳川方との戦いは、なんだか一方的なものでした。徳川の派遣軍を散々に翻弄したと言って良いでしょう。真田方の勝利は、諸国に驚きを持って受け止められます。

真田家の独立自尊の気概は、息子のうち兄が徳川方、弟と父親が豊臣方に分かれることになる関ヶ原の戦を通じても示されます。真田攻めにてこずった徳川秀忠の軍勢は、関ヶ原に遅参することになってしまいます。このあたりは、大局観が問われているところでしょう。

それにしても、関ヶ原の合戦の結果はいかんともしがたく、真田の助命嘆願、昌幸・幸村父子の九度山への蟄居、大阪城攻防戦へと続きます。



様々な武将のありようを見ると、その運命は武力や戦術によって決まるのではなく、誰に仕えたかが大きいようです。つまり、外交や政治的判断力によって左右されるというのが本当のところなのでしょう。どうしても宮城谷昌光『楽毅』と比較してしまいますが、残念ながら読後感にあの爽やかさはうすいようです。

真田幸村という人物は、「反徳川」の人にとっては惜しまれるヒーローなのかもしれませんが、徳川を悪役とし真田を称揚するという設定は、明治期以降に皇國史観の立場から推奨されたものかもしれないと思います。その意味では、坂本龍馬と似たところがあるのかもしれません。

(*1):火坂雅志『真田三代(上)』を読む~「電網郊外散歩道」2015年1月

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ONKYOのCDレシーバーCR-555の感想

2015年05月19日 06時05分27秒 | クラシック音楽
先ごろ、自宅のPCオーディオ用アンプの代替機として購入した、ONKYO のミニコンポ・タイプのCDレシーバーCR-555を使い始めて、ほぼ一ヶ月が過ぎました。パソコンで音楽データを再生し、これをUSBオーディオプロセッサ SE-U33GX+ を経由して音声信号に変換して、デスクサイドのアンプで増幅してスピーカを鳴らす、という役割ですので、単純な増幅と音量調節ができれば良いとさえ言えます。でも、なんとなく国産製品に目が向いてしまうのは、使い慣れた製品ブランドに対する安心感のゆえでしょうか。

ミニコンポというコンパクトなサイズは、デスクトップ・パソコンのそばに置いても場所をとらず、デスクサイドのLP/LDキャビネットの上にちょうど良い大きさです。パソコンでお目当ての曲をリッピングしておき、ハードディスクに蓄えます。二枚組のCDでも、プレイリストには全曲を一括して登録することで、わざわざディスクを交換する必要もありません。ましてや、某レーベルが行ったような、一つの曲を別々のCDに分割して収録するというような愚行・暴挙(^o^;)に対しても、曲全体をまとめてプレイリストを作成することで、憤りの感情もおさまります(^o^)/

FM放送は、外部アンテナを接続しないと聴取に充分とは言えませんが、デスクサイドに置くために、アンテナ端子からは程遠い位置にあります。むしろ、パソコン側で「らじる☆らじる」で聴くのが便利ですが、東北在住の立場からは、緊急地震速報などが入らないのが難点でしょうか。逆に、パソコンの電源を入れていない時でもCDが聴ける点と、手元ですぐにCDを交換できるのは、意外に便利です。

デスクサイドのPCオーディオの音は、大編成のオーケストラ曲よりも、室内楽や独奏曲や歌曲など、小編成のものに向いているように感じます。スピーカまでの距離が近いこともあり、小型スピーカの透明感のある音が好ましく感じられる今日この頃です。

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初めて葬儀の差配をして感じること

2015年05月18日 06時02分33秒 | 季節と行事
過日、親戚に不幸があり、葬儀の差配役を頼まれました。葬儀社に依頼はするものの、親族も多く、誰かが差配役をしなければなりません。これまでは、今回亡くなった方が主として差配役を引き受けてくれていましたが、世代交代により、いよいよ私に順番が回ってきたのかと、感慨深いものがあります。

一度だけ喪主をつとめた経験はあるものの、差配役となると複雑さはまた格別です。呆然としている遺族を助け、親族をまとめ、手配をし、葬儀や告別式、初七日等の準備を進める必要があります。今回は、近所に一つ年下の強力な助っ人がいましたので、本当に助かりました。そうしたチームワークとフットワークが、田舎の葬儀の特徴かもしれません。

結論から言えば、依頼した葬儀社は「当たり」でした。実に緻密に、抜かりなく助言・提案・サポートをしてくれました。料理も良かったし、経費面でも、我が家で依頼した社よりもずいぶん負担が少なくなったようです。

そうした実務面を離れて客観的にみた場合、葬儀にお金がかかりすぎると感じます。様々な名目はありますが、セレモニーホールと住職に支払う金額を合わせると、ごく若い喪主であれば年間の生活費に相当するほどになってしまうというのは、どこかおかしいのではないか。例えば、様々な理由で生活に困難を抱える人が、金銭的な理由で、親の死を悼み、埋葬することができないというのは、実に不幸なことです。

いずれにしろ、無事に終わって良かった~。ほっとしました。次回はないことを祈りたいものです。死は誰にとっても不可避とはいうものの、できれば年齢の順に順番に、できるだけゆっくりと来てほしいものです(^o^;)>poripori

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コンバータ使用万年筆のインク切れが早すぎる件について

2015年05月17日 06時01分30秒 | 手帳文具書斎
これまで最も長く愛用し、自分の書き癖にいちばんよくなじんでいる万年筆は、パイロットのカスタム・グランディ~T778:1978(昭和53)年7月製造~の中字でしょう。黒インクのカートリッジで使い、近年には同社のインクコンバータCON-50を付けて、色彩雫シリーズの「紺碧」を入れて使うようになりました。

この万年筆は、もともとインクフローが良く、たっぷりとインクが出ます。「紺碧」もまた、「インク出過ぎ系」と言っても過言ではないほどですので、中字でハッキリした文字を楽しんでいると、長文の途中でインクがなくなってしまいます(^o^;)>poripori
考えてみると、パイロットのインクカートリッジは内容量1.1mlで、CON-50は0.5mlしかないらしい。それでは筆記量は半分以下になってしまい、途中でインク切れになる頻度が高くなるのも無理はありません。

サブ万年筆で、タイトルを強調表示する程度の用途ならばそれでも良いけれど、主力ペンとしてはやっぱり面白くありません。残念ながら、同社の大容量インクコンバータCON-70は、この万年筆では使えないようです。うーむ、これはインク・カートリッジに戻る方が賢明なのだろうか? あるいは、現在「カクノ」にプラチナ社の古典ブルーブラックをスポイトで補充しているように、「紺碧」をスポイトで補給することにすればよいのだろうか? あるいはまた、「紺碧」にこだわらず、パイロットの青インク・カートリッジを試してみるのが良いのだろうか?

さて、どうしようか。悩ましくも楽しくもあるモンダイです(^o^)/

【追記】
パイロット社の万年筆の製造記号番号について、T778は1977年8月ではなく1978年7月に製造されたものだそうです。記載を訂正しました。

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