電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

吉村昭『漂流』と『ロビンソン漂流記』の差はどこからくるか

2005年05月31日 22時02分55秒 | -吉村昭
吉村昭『漂流』は、ある種、凄惨な物語だ。鳥島に漂着したとき、彼らの所持品はわずかに一個の桶、割れた船材とそれから引き抜いた12本の五寸釘、であった。大型のアホウドリの肉を主食に、雨水を受けてなんとか生きのびるが、おそらくビタミン不足と思われる病気で仲間は死亡していく。しかし、同じように漂着する者達と力をあわせ、わずかの道具を使い、漂着する船材を集めて船を作ることにした。船材が漂着すると喜ぶ自分たちの姿は、まるで地獄の餓鬼のようだと思えた。

これに比べると、デフォーの『ロビンソン漂流記』は、同様にたった一人の孤独な漂流物語だが、難破船から多くの道具や物資を運び、快適な生活を作り上げる前向きな姿と、聖書に基づく信仰と労働が描かれ、それほど凄惨な印象は受けない。この差は、どこからくるのだろうか。
思うにそれは、自然の恵みと、所持していた文明の差だと思う。『漂流』の物語も、一組の火打ち石の到来で火が使えるようになると、生活の中に人間らしい様子が増してくるし、大工道具の存在が、彼らの帰国の意志を支えることになる。ロビンソン・クルーソーが、もし鉄砲を持っていなかったら、生活の様相は一変していたであろうし、後半の冒険もありえなかっただろう。
自然の恵みと漂着したときに持っていた文明の質と量。これが、二つの漂流記の違いの理由であろう。
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チー・ユンの「ヴォカリーズ」を聞く

2005年05月30日 21時35分47秒 | -室内楽
週明け、どさっとたまった仕事を片付けて帰ると、すでに夜八時を回っていた。今日はくたびれたから、ゆっくりとしたい気分だ。こんなときは、ヴァイオリンのすてきな演奏を聞くに限る。チー・ユン(Vn)と江口玲(Pf)による「ヴォカリーズ」と題したCD(DENON COCO-70458)は、優美でやさしい演奏だ。
(1)エルガー 「気まぐれな女」
(2)リムスキー・コルサコフ 「熊蜂の飛行」
(3)ラフマニノフ 「ヴォカリーズ」
(4)シマノフスキ 「アレトゥーサの泉」
(5)エルガー 「愛のあいさつ」
(6)バーンスタイン 「ウェストサイドストーリー」組曲より「I feel pretty」
(7)同上 「Somewhere」
(8)同上 「America」
(9)ハチャトリアン 「夜想曲」
(10)スーク 「ブルレスケ」
(11)フォーレ 「子守歌」
(12)マスネ 「タイスの瞑想曲」
(13)サラサーテ 「序奏とタランテラ」
後半は、バーンスタインで活気が出て盛りあがるが、再び静かになり、ちょうど一日の演奏会のような構成になっている。
録音は1992年の夏、東京、府中の森芸術劇場、ウィーンホールにて行われたとあり、ヴァイオリンはもちろん、ピアノの演奏もバランスよくとらえた好録音だ。
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映画「スゥイング・ガールズ」の舞台、高畠高校を訪問

2005年05月29日 20時07分26秒 | 散歩外出ドライブ
地元紙のニュースで、映画「スゥイング・ガールズ」の舞台となった旧高畠高校が一般公開された、という記事(*)を読み、物好きにも今日出かけてみた。結果的には昨日だけの公開で、新校舎に移転しひっそりとした旧校舎は、映画にあるよりももっとのどかな風景だった。窓からガラス越しにのぞくと、「教室の表示を外さないでください。町教委」という貼紙が貼られた職員室入口や、「会議・出張」と表示された校長室などが見えた。この老朽校舎は、やがて取壊される運命のようだが、最後に思わぬ映画出演という出来事があり、ずっと人々の記憶に残るのではないか。
(*): 「スゥイング・ガールズ」の舞台、高畠高校一般公開の記事

なんでも、監督が「撮影のため学校を借してほしい」と依頼に出向いたとき、応対した校長先生と教頭先生が、その場で即決でOKしたのだという。その後の「スゥイング・ガールズ」ブームは、地元の活性化にずいぶん貢献しただろう。
私も封切日に見たが、実に面白かった。誇張もあるが、あんなにハッピーで、音楽を楽しむ様子を描いた映画とは思わなかった。この秋、10月1日に封切られる藤沢周平「蝉しぐれ」を見ることと、この「スゥイング・ガールズ」をまた見てみたい、というのが今年の映画の目標だ。
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古いマシンを利用する雑誌記事の観点

2005年05月29日 10時39分11秒 | コンピュータ
雑誌 Linux World の7月号に、退役マシンのリベンジ・マッチとする特集があった。この手の記事は、LinuxMagazine や 日経Linux などでも一時よく取り上げた企画だが、今回はその観点が面白かった。
以前は、古いマシンでも Linux で使えますよ、という内容が中心の企画が多かったが、内容は結論的に言うと「デスクトップ用途ならテキスト編集程度、サーバとしては充分使えます」というものが多かった。
それが、今回は使用できるマシンのスペックがしだいに上がって来たこともあり、
(1)軽量デスクトップ・マシン、(2)音楽CDリッピング・マシン、(3)ネットワーク監視サーバ、(4)電子辞書サーバ
という想定で組まれている。現実的に、音楽CDリッピングをしばしば行っている世代が、中古とは言えリッピング専用マシンなどというものを別途用意できるほど経済力があるのか、という点で疑問はあるが、CDを次々と取り換えながらリッピングを先に行い、CPUの暇を見てゆっくりエンコードを行うようスクリプトを変更する、という考え方は面白い。
EPWING規格のCDを利用した電子辞書サーバというのは面白いけれども、現実問題としてインターネット上に各種の辞書がある以上、それほど専門的なものでなければ、あまり意味はないような気がする。
むしろ、PentiumII/IIIやCeleronの350~450MHzといったゾーンの、爆発的に普及しリースアップ機があふれている機種に対する「軽量デスクトップマシン」としての評価が、意外に辛いのに驚いた。
実は私の現在の主力機(FMV-6450CL3)が、まさにこのゾーンであり、絵に描いたようにぴったりあてはまるからだ。だが、GnomeやKDEはもちろん、Mozillaは統合環境で重くて無理があるのかは、疑問だ。メモリを(64+256=320)MB積んだ私の環境では、起動に時間はかかるものの、スクリーンショットのように運用に特に問題はない。より快適性を求めるならば、FirefoxやThunderbird等を中心にした選択肢もありますよ、というスタンスが妥当なのではないか。

私自身が使っていて感じる最大の問題点は、外部スピーカに接続したとき、常時ノイズが乗ること、すなわちサウンドカードのS/N比の悪さだ。FMV-64xxシリーズのようなビジネス用省スペース機の用途からみて、サウンドカードに音楽再生を想定してはいないのだろう。むしろ、日常的に音楽CDを楽しむためには、実際どんな工夫が必要か、といった観点がほしいと思う。
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藤沢周平『孤剣~用心棒日月抄』を読む

2005年05月28日 21時41分25秒 | -藤沢周平
新潮文庫で、藤沢周平著『孤剣』を読んでいる。実はこれ、同氏の『用心棒日月抄』の続編で、国元の陰謀がまだ片付いてはおらず、一味の主魁である寿庵保方の反撃を断ち切るため、奪われた一味の証拠の手紙と連判状を取り戻すべく、新婚の妻と母を残し再び脱藩し江戸で剣鬼・大富静馬を追う物語である。嗅足組の頭領の娘、佐知の活躍と慕情を織り込み、前作に劣らない面白さになっている。

作者の藤沢周平は、1927年に現在の山形県鶴岡市に生まれた。山形の師範学校時代は、終戦後になる。「山びこ学校」の無着成恭は、師範学校の先輩にあたるらしい。郷里に戻り、湯田川中学の先生になるが、結核を発病して退職、療養所生活を送る。やがて病も癒えて、見舞いに来たかつての教え子の娘と結婚、業界紙の記者としての生活を送る。愛妻が病気で亡くなった頃をさかいに、本格的に小説を書きはじめる。『蝉しぐれ』は、山形新聞に連載されて爆発的な人気を得た。写真は、師範学校の学生もこの前の通りを歩いたであろう、山形市の老舗の高級料亭、千歳館。この一帯は、旧県庁の文翔館をはじめ、藤沢周平の青春時代の名残を残す一帯だ。
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オネゲルの交響曲第3番「典礼風」を聞く

2005年05月27日 21時22分06秒 | -オーケストラ
いつもより少し早く帰宅できたので、オネゲルの交響曲第3番を聞いた。「典礼風」という副題を持つこの曲は、第1楽章がアレグロ・マルカートで演奏される「怒りの日」と題された音楽。第2楽章は、「深き淵より叫ぶ」と題されたアダージョ。そして最後の第3楽章は、「我らに平和を与えたまえ」と題されたアンダンテの楽章だ。それぞれの楽章に付けられた表題からは、死者のためのミサ曲を連想するが、実際に悲痛な気分に満ちた音楽であり、厳しくかつ美しい音楽である。
手元には、なぜか三種類の録音がある。
ジャン・フルネ指揮のオランダ放送フィル盤(DENON COCO-70425)は、全体にゆっくりしたテンポで、いつもの上品なフルネの印象からは遠い、大きく劇的な対比を強調した音楽だ。特に第2楽章と第3楽章は特筆に価する。録音は1993年にオランダ、ヒルウェルムズ、ミュージック・センターで行われたもので、透明なフルネらしいサウンドを鮮明にとらえている好録音である。この頃はまだまだ指揮棒の「フルネ・マジック」は健在だったはずだから、肉体的な衰えから来るテンポの遅さとは考えられない。むしろ、今では高齢の長老指揮者だけが知っている、先の大戦の記憶のゆえの痛切な祈りの表現だろうか。
反対に、セルジュ・ボド指揮のチェコ・フィル盤(DENON COCO-70660/1)は、悲劇的な描き方は共通だが、速いテンポでぐいぐいと進んでいく演奏で、フルネの演奏とは全体で7分も違う。録音は1960年にプラハの芸術家の家で録音されたもので、ステレオ録音の初期に属し、決して目が覚めるような鮮明さはないが、デジタル・リマスタリングされて聞きやすくなったものだ。
デュトワ指揮バイエルン放送交響楽団の演奏(エラート:REL-5530)は、フルネ盤ほど遅いテンポは取らず、両者の中間よりややボド盤と近いテンポ設定になっている。録音は、1982年にミュンヘンのヘルクレス・ザールでデジタル録音とクレジットされている。実際、ジャケット写真のデュトワはまだ若い。今から20年前なら、中年オヤジもまだ青年時代にあったと言ってよいだろう。どれも、それぞれに心に残る演奏だ。
参考までに、演奏時間を示す。

■ ジャン・フルネ指揮 オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団
I=7'02" II=14'21" III=13'49" total=34'52"
■ セルジュ・ボド指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
I=6'15" II=11'48" III= 9'45" total=27'48"
■ シャルル・デュトワ指揮 バイエルン放送交響楽団
I=6'41" II=12'13" III=11'02" total=29'56"

ただし、デュトワの演奏は、ジャケットに演奏時間のデータが記載されていないため、時計で実測したものである。LPを再生するベルトドライブ・プレイヤーの回転速度(ピッチ)の問題があるため、秒まで正確とはいえないが、おおむね傾向はつかめるだろう。
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カーステレオとマイカー歴について

2005年05月26日 22時02分08秒 | Weblog
運転免許を取得して30年くらいになるが、この間に乗った自分の車は四台である。
最初の車は、C-10型の Skyline 1500 セダンであった。ハイオクタン専用エンジンを積んだこの車、ベンチシートが固く、長時間の運転では背中が痛くなったけれど、東北自動車道をとにかくよく走った。コラムシフトも便利だったが、十万キロを走破し、Nissan Auster 1600 セダンに乗り換えた。
新車には、ナショナルのオズマというカセット・カーコンポを搭載し、後部窓部にフォステクスのオーディオ用スピーカ・ユニットUP-103を埋め込み、LPからカセットに録音して、のびのびした音を楽しんだ。出力が大きく、迫力ある音で楽しめ、マーラーの交響曲を全曲車内に持ち込み、一番から十番まで、順に聞いていったりもした。素直なFR車らしく、運転もしやすかったが、13万キロを走破し、ガソリン車の燃費経済性と雪道の運転に難があり、次は燃費の良いFF車を、と考えた。
三台目は、片道40~50キロと長くなった通勤距離に対応して、Nissan Pulsar 1700 diesel セダンに乗り換えた。このときも、SONY のカセット・カーステレオを導入、某社の据え置き型スピーカをセット、FM放送とカセットテープで音楽を楽しんだ。ディーゼル車の性能は予想以上に満足できるもので、リッターあたり22キロも走る燃費経済性(*)と、1500回転以上を保てば結構力強い動力性能であったが、市販スピーカの音質は予想外にこもった音で、UP-103ののびのびした音に慣れた耳にはやけに冴えないものに感じられた。ただし、CDからカセットに録音した音は鮮明で、その点は良かった。
ディーゼル車も九年目に入り二十万キロを走破するに及んで、四台目は Nissan March 1000 に乗り換えた。本当は、同じ Pulsar のディーゼルにしたかったが、ディーゼル規制の動向が不透明なのと、ガソリン車でもコンパクトな車種なら燃費経済性(*)も同等のレベルを維持できるのではないかと考えたからだ。結果的には通勤が至近距離に変わり、それほど燃費経済性を気にしなくともよくなったのだが、コンパクトできびきびした走りは fun to drive という言葉を鮮明に思い出させてくれる。カーステレオは、初めてFM/CD タイプを装備し、前席ドア・スピーカで音楽を聞く事になった。CDがありがたかったのは、冬の荒れた圧雪デコボコ路面でもテープのように音が揺れないことだ。特に、ピアノ曲等にその恩恵を感じることができる。また、ハンドル下部のアンダーダッシュにCDを入れておくことができ、収納も比較的容易である点もありがたい。
(*): 2台の車の燃費記録
現在の車ももうじき十万キロを走破する。大学生の子どもがお古を狙っていることもあり、年内には車を更新しなければならないが、次はセダンにして、リア・パーセル・トレイに埋め込むタイプのスピーカを併用して、CDを存分に楽しめるようにしたいものだ。
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通勤の車中ラヴェル「弦楽四重奏曲」を楽しむ

2005年05月25日 20時48分38秒 | -室内楽
ここ一週間ほど、通勤の車中でラヴェルの弦楽四重奏曲を聞いている。例のブックオフ全集分売CDのうちの一枚。ヌオーヴォ・クァルテットのこの演奏(GES-9245)は、1985年4月にフィレンツェ近郊のルフィーナ、ヴィラ・ディ・ボッジオ・レアーレにてデジタル録音されたもので、ドビュッシーの弦楽四重奏曲も一緒に収録されている。
第1楽章の優しく物憂い音楽や、第2楽章の印象的なピツィカートも、前半の印象は叙情的な性格の強いものだ。一方、第3楽章の緊張感のある音楽や生き生きとした激しさのある第4楽章など、後半の印象は一転する。ハイドンやボッケリーニなどをしばらく聞いていた身には、ラヴェルの感覚的な響きはやけに新鮮に感じられる。渡部和著『クァルテットの名曲名演奏』によれば、この曲はラヴェルがまだ世に認められる前の若い時代の作品だという。それにしても伝統的な弦楽四重奏曲の形式に立ちながら、斬新な響きの世界を構成したことと感嘆する。

通勤の車中から、自宅の部屋に持ち帰り、ステレオ装置であらためて聞いてみた。やはり弦楽合奏の響きがぐっと繊細にやわらかく感じられる。スピーカーの差だろうか。少しボリュームを上げて聞いてみると、おたがいに音を聞きあって演奏しているんだろうな、と思う。

参考までに、演奏時間を記す。
■ ヌオーヴォ・クァルテット
I=9'19" II=6'53" III=9'27" IV=5'59"
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ブックオフ等の全集分売CDについて

2005年05月24日 20時54分11秒 | クラシック音楽
ブックオフ等で、全集分売のCDをよく見かける。正規盤と比較して、ずいぶん安価な価格設定なのは、たぶん解説書がついていなかったり、全部そろっていないから、なのだろう。それにしても、初期のデジタル録音の演奏が250円で買えるのが嬉しくて、見つけるたびに購入していたら、写真のように40枚もそろってしまった。日本コロムビア(デンオン)の「My Classic Gallerry」というシリーズである。
実は、このシリーズを集め始めたきっかけは、ヤン・パネンカ(Pf)の演奏するシューマンの「子供の情景、謝肉祭」等の収録されたCD(GES-9252)を見つけたのがきっかけだった。この録音は、最初に購入したデジタル録音のLPレコードでもあった。当時、ヤン・パネンカの生き生きとした演奏はもちろん、録音の面でもピアノの低音の冴えた迫力に感動したものだ。これなら車で聞くことができると思いつき、LPレコードとの重複をものともせず集めてみると、ずいぶん優れた録音・演奏が多い。一例をあげれば、スゥイトナーのベートーヴェン「英雄」「田園」やブロムシュテットのモーツァルトやブルックナー、エリアフ・インバルのマーラーといった具合だ。バブル崩壊以前の日本の良心的なクラシック録音を集大成したカタログを見るような感じさえする。

こういう全集ものを購入した人は、どういう人なのだろうと想像することがある。一時、教養のために分割購入したはみたが、結局クラシック音楽そのものになじめず、売り払ってしまったと考えるのが自然かもしれないが、中にはクラシック好きの身内が亡くなり、家族が場所ふさぎな音楽CDを処分したとかいうようなケースもあるのかもしれない。明日の我が姿かもしれないと思うと、いささか粛然たる気分になる。
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宮城谷昌光『晏子』を読む

2005年05月22日 20時58分27秒 | -宮城谷昌光
新潮文庫で、宮城谷昌光の『晏子』第1巻~第4巻を読んだ。前半の第1巻と第2巻は、父・晏弱の物語だ。後半の第3巻と第4巻は、子・晏嬰の物語である。

春秋時代の中国で、使者として斉王・頃公に拝謁しようとした晋卿が、王の生母にその容貌を哂われ、激怒したことから、斉と晋の間に険悪な空気が流れる。王の命により断道の会に赴いた晏弱は、辛うじて死中に活を得、斉に帰還し復命したことで、亡命貴族に過ぎない立場から一転して斉の将軍となる。優れた人格を備え、智謀と戦略により東方の諸国を従えた晏弱は、斉の政変を越え見事に対処することで、人々の信頼と期待を集める大夫となるが、国の存亡をかけた危難の最中に急死してしまう。
そして、戦乱の中で三年の喪を通した晏弱の息子・晏嬰は、小さな体に父の意を受け継ぎ、霊公、荘公、景公と三代の王に仕え、諌め教えた。その毅然たる進退は、春秋戦国の世にあって、見事なまでに一貫している。

父・晏弱が途中あまりにあっけなく死んでしまうので、一時はどうなることかと思ったが、父と子の物語だったのですね。
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若い日の登山と音楽

2005年05月22日 06時32分34秒 | クラシック音楽
若い頃、山登りが好きで、よく出かけた。たいていはグループででかけたが、単独行をしたこともある。グループの場合は比較的気持ちが安心だが、単独行の場合は、夜などに心細さもある。無人の避難小屋で、ろうそくの光だけをたよりに一人じっとしていると、本を読むこともできないし、実に夜が長い。そんなときは、持参した携帯ラジオが楽しみだ。山頂付近なら、たいていどこのFM局も受信できるので、普段は聞くことのできない、地元のFM局の放送を聞くことができる。ただし、他愛もないおしゃべりは、人里離れた山小屋ではかえって空疎なものだ。むしろ普段から聞きなれている、クラシック音楽の演奏に強く心惹かれる。音域の狭いラジオのスピーカから流れる音を想像力で補正しながら聞くBeethovenの交響曲第3番や、Dvorakの交響曲第8番などは、たいへん心にのこるものだ。ましてや、たまたまそれがジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏が流れたりすると、偶然とはいえ、力のこもった演奏に思わず溜息が出る。
福島と山形の県境にある吾妻連峰や秩父の三峰山から雲取山への縦走、丹沢や金峰山、山形と宮城の県境にある船形山や北面白山、北アルプスの蝶ヶ岳や穂高岳、剣岳、尾瀬の燧岳、台風にあってしまった月山など、若い日に登った山々の記憶は鮮明だ。そうして、天気予報やニュース、音楽などを楽しんだ一台のラジオが、人里はなれた山中ではどれほど貴重な存在だったかを、あらためて思う。
できるだけ荷物を軽くしようと努力しながら、重たい一眼レフカメラと交換レンズを持ち、文庫本や山行記録のノートを持ち、さらに携帯ラジオをザックにつめて、水や食糧、燃料、衣類など十数キロの荷物を背負ったことになる。今はとてもそんな元気はないが、三十年前のあの頃はたしかに若かったのだろう。そして、いまだに歩くことが好きで、お天気がよければデジタルカメラと携帯CDプレーヤーをお供に散歩に出るのは、当時の習性をそのまま残しているのかもしれない。

写真は、剣岳。1978年に撮影したものだ。
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携帯CDプレイヤーの音と特徴

2005年05月21日 06時37分23秒 | クラシック音楽
自宅のステレオ装置と比べて、携帯CDプレイヤーとイヤホンの音はずいぶん特徴がある。
まず、欠点として、迫力ある重低音がまるで出ない。したがって、サン=サーンスの交響曲第3番のオルガンの音や、ホルストの「惑星」の出だしなどは、つらいものがある。また、イヤホンでむやみに音量を上げると耳を傷めるおそれがあり、ほどほどの音量で静かに聞くことになるため、部屋中に響き渡るような大音量の爽快さには乏しい。また、モノラル録音の場合は、頭の真ん中に定位するようで、違和感を感じやすいこともあげられるだろうか。
一方、長所もある。まず、煩い環境音楽等を離れ外界から遮断されるため、集中して聞くことができ、細部まで聞き取ることができやすい。特に、再生音域に無理の少ない室内楽や小編成の音楽には、各パートが対話しているようなやりとりを楽しむことができるなど、適しているように思う。
いろいろ欠点を並べたが、それにしても散歩しながら音楽を携帯して楽しめる長所には代えがたいものがある。自然の中で携帯音楽プレイヤーで音楽を聴くことの是非はあるけれど、私の場合は自然の中で音楽を聴くという贅沢を享受したいほうである。

写真は、林間からのぞく初夏の葉山の風景。
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寒河江の2の堰ぞいを歩く

2005年05月20日 23時02分39秒 | 散歩外出ドライブ
素晴らしい快晴の金曜日、一足先に郊外を歩いた。今日は、寒河江市まで足を伸ばし、2の堰ぞいを歩いた。寒河江川の雪解け水を引き込み、実に水量が豊富だ。水車も軽やかに回っている。遠くに見える月山から朝日連峰に続く残雪の尾根が、すでに初夏の様相だ。周囲の畑もサクランボが小さな緑の実を付けている。つつじ公園からチェリーランドまで、地元の人しか知らない生活道かもしれないが、散策すると実に気分がいい。チェリーランドでアイスクリームを食べたが、気温が上がっていたので、たいへん美味しかった。

歩きながら、携帯CDプレーヤーで、ホルストの「惑星」を聞く。ロリン・マゼール指揮フランス国立放送管弦楽団及び合唱団の演奏。街中の騒音の中では「火星」の出だしの低音部、イヤホンではほとんど聞き取れないが、昨年かなり流行した「ジュピター」の元となった「木星」など、盛り上がるところはイヤホンでもまずまず楽しむことができる。
昔、初めてこの曲を聞いたのは、ワルター・ジュスキント指揮セントルイス交響楽団による演奏のLPだった。このときは、最後の「海王星」の女声合唱が、弱い音なのにどうも再生音が割れたようにびりつき、LPの再生の難しさを感じた。しかし、CDになり、カートリッジの汚れやホコリなどの心配もなくなり、澄んだ女声合唱が消え入るように終わる余韻を充分に感じることができる。
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田んぼに蛙の鳴き声

2005年05月19日 22時25分16秒 | 散歩外出ドライブ
田んぼに水が入り、田植えが行われている。今は、人力で田植えなどしないで、ほとんど田植え機械でやっているから、あっというまに作業が終了するようだ。一段落した田んぼに、蛙の声が聞こえる。とりわけ、夕方から夜にかけて、遠田のかわず天に聞こえるほど。

通勤の音楽は、ここしばらくドビュッシーとラヴェルの弦楽四重奏曲を聞いている。演奏は、ヌオーヴォ・カルテット。運転に適しているとは言いにくいが、魅力的な音楽だ。明日は、少々長く郊外を散歩してくる予定。
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歓迎できないトラックバックが来る理由

2005年05月18日 20時10分22秒 | コンピュータ
Weblogを運用するようになり、パソコン通信の会議室やWEBの掲示板などとは違った形で、楽しいやりとりが生じることがある。機知に富んだコメントや思いがけないトラックバックをいただくのは楽しいものだ。
その反面、「これは何だ?」と首をかしげるケースもある。たとえば、トラックバックをたどると、文章も何もない、圧縮された音楽データのサイトに誘導されたりする。どうも、特定のキーワードを検索して、自動的にトラックバックを送りつけているらしい。キーワードとしては、某アップル社の携帯音楽プレーヤーの名称4文字(iP○d)や、Pulse Coding Modulation 方式の録音の頭文字3文字などだ。そのため、こうしたトラックバックの届いた記事について、該当する半角英字の文字列を削除したり、全角英字に直したりしてみた。この記事でも、半角の o のかわりに○を使ったり、略称ではなく正式名称を用いたりしている。これで、歓迎されざるトラックバックを減らすことができたら、実験は成功である。さて、どうなるだろうか。
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