電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

ファラデーとデーヴィーの間のトラブル~その背景と階級的偏見

2014年06月07日 06時01分13秒 | 歴史技術科学
王立協会のフェローであり、名講演で社会的な知名度の高い王立研究所教授で、ファラデーよりも13歳年上の尊敬する師匠であるハンフリー・デーヴィーは、1812年にナイトの称号を受けるとともに、上流階級出身の裕福な未亡人と結婚していました。

1813年3月1日、ファラデーは王立研究所の助手に正式に採用されます。この時点では、ファラデーはまだ実験の助手に過ぎず、独自の研究業績をあげていたわけではありませんでした。長いあいだ願っていた科学研究の世界に足を踏み入れ、思い切り好きな実験ができるぞと喜んでいたときに、デーヴィーはナポレオン・ボナパルトからメダルを贈られることとなり、これを受ける目的で、1813年10月にヨーロッパ旅行に出かけることになります。当時、英国とフランスは戦争状態にあったために、夫人の召使いは敵対国への同行を断ります。ファラデー自身は、助手としてデーヴィーに従うこととしますが、デーヴィーは新たな召使いが見つかるまで、一時的に夫人の仕事も請け負うことを受諾させます。

ナポレオン・ボナパルトの旅券の効力もあって、パリへの旅はなんとか前進しますが、英語のわかる夫人の召使いはなかなか見つかりません。にもかかわらず、レディとして気位の高い夫人の要求は多種多様で、命令は居丈高だったようです。

デーヴィーに表敬訪問する西欧諸国の科学者たちとの晩餐に、社交好きな夫人が同席して愛想を振りまいても、ファラデーは召使部屋で召使たちと一緒の食事を強いられるばかりです。科学者たちは、デーヴィーの従僕が実は豊富な科学知識と科学実験の経験を持っていることをいぶかしみ、晩餐への同席を要請しますが、夫人の不同意のために実現しません。はやく夫人の召使いを雇ってほしいと訴えても、デーヴィーは曖昧に言葉を濁すだけだったようです。科学の研究のためにデーヴィーに献身的に協力することについては熱心でも、上流階級の階級意識と偏見にとらわれた夫人の態度には、さすがのファラデーも我慢がならなかったものとみえます。

ラテン語や古典の知識に基づく教養が紳士の条件とされた時代、上流階級の人たちは、新興中産階級の教養の無さを指摘し、技術や産業に熱心な俗物性をさげすんでいました。デーヴィー夫人が、ナイトの称号を持つ有名人としての夫を誇ることはあっても、次々に新発見を成し遂げる偉大な科学者として夫を尊敬したとは思えません。デーヴィーの妻が夫の助手に過ぎない下層階級出身のファラデーを従僕扱いにしたことは、その流れにおいて理解すべきことでしょう。当然のことながら、ファラデーを科学者の一員として認めることはあり得ませんでした。ましてや外国人とくに東洋人への偏見と蔑視は、彼女だけでなく当時の西欧の社会的な共通性だったと思われます。

ナポレオン・ボナパルトの運も傾き、1815年に、デーヴィーは急きょ帰国します。ファラデーにとってこの旅は、不愉快なことも多かったことでしょうが、視野を広げ、各国の科学者との交流が生まれることとなった、得難い有益な経験となったことでしょう。

帰国した1815年に、デーヴィーはファラデーの協力のもとに、炭鉱で使う安全灯を発明します。産業革命が進む英国で、鉄と石炭は最も重要な資源でした。当時は、炭鉱で爆発事故が頻発し、炭塵が舞う坑内で用いることができる、安全な照明が求められていたからです。

そして、これまでの多くの科学上・技術上の業績により、1819年、デーヴィーは平民出身としては最高の爵位である準男爵となり、1820年には王立協会の会長に就任します。デーヴィーはすでに王立研究所は辞して名誉教授のような立場になっており、ファラデーは後任の教授との関係も良好で、自力で研究を続けておりました。ところがその結果が、デーヴィーとの間でトラブルを招くこととなります。

1821年に、ファラデーは単独で磁気と電流の相互作用を実験的に証明しますが、デーヴィーはこれをウォラストンの研究を盗んだと考えます。おそらく、かつての助手が自分の研究成果をしのぐ画期的な業績を上げたことに対する嫉妬だったのでしょう。そのために、ファラデーを王立協会の会員に推す提案があったときも、会員全員の賛成の中でただ一人、会長のデーヴィーだけが反対票を投じるというしまつでした。

しかし、ファラデーは塩素の液化に成功(1823)し、気体は液体の物質の状態が変化したものに過ぎないとする考え方を導きます。さらに、当時ロンドンに普及しつつあったガス配管の詰まりが液化留分によるものであることを突き止めてベンゼンを発見(1825)し、後の有機化学における芳香族化合物の分野を開きます。デーヴィーの死去(1829)の後も、電磁誘導の発見(1831)、高校化学の教科書で有名な電気分解の法則の発見(1833)、さらには反磁性の発見(1845)、磁場が光に影響するというファラデー効果の発見など、この時代にノーベル賞があったならば一人で何度も何度も受賞していたであろうと思われる業績を、次々にあげ続けます。まことに壮観です。

では、晩年のファラデーは恩師デーヴィーをどう思っていたのか。ファラデーの伝記を執筆した著者が、次のような内容の証言を残しています。ファラデーは、恩師デーヴィーが自分を王立研究所の助手にと誘ってくれた手紙をずっと大切に持っていたそうで、伝記を執筆する際に、返却を条件に貸してくれたとのことです。いろいろな軋轢はありながら、恩人として感謝の気持ちを持ち続けたのではないでしょうか。

(*1):スーチン著(田村二郎訳)『ファラデーの生涯』(東京図書)
(*2):J.ハミルトン著(佐波正一訳)『電気事始め~マイケル・ファラデーの生涯』(教文館)

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