電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

リービッヒはカストナーによって道を開かれた

2014年06月15日 06時02分51秒 | 歴史技術科学
1820年の秋、リービッヒは、そのころ父親が懇意にしていた、当時のドイツ最大の化学者と言われたカール・ウィルヘルム・ゴットロープ・カストナー(1783~1857)のいるボン大学に入学します。そこで、自分に不足している外国語や数学などを学び始めますが、1821年にカストナーがエルランゲン大学に移ると、リービッヒもエルランゲン大学に転学します。やはり薬剤師等の徒弟修業の経歴を経て教授となっていたカストナーがボンからエルランゲンに移ることとなった事情はよくわかりませんが、どうやら政治的な事情もあったらしいです。

エルランゲン大学でのカストナーの講義は、残念ながら実験を重視するリービッヒを満足させるものではなかったようですが、このエルランゲン大学時代に、リービッヒはお気に入りの雷酸銀に関する処女論文を、カストナーの紹介で薬学雑誌に投稿(*1)するなど、化学の学習と研究を続けていたようです。

1822年に、リービッヒは急に郷里のダルムシュタットに帰ります。これには、いささか不穏な事情があったようで、リービッヒはこの年のはじめ頃に、非合法の学生団体に関係し住民と衝突をしたことがあり、逮捕される危険から逃れるためだったと言われています。当時のドイツは、小さな王国や公国に分かれた封建体制のもとにありましたので、思想の自由やドイツ統一などを論じることはかなりの「危険思想」であったようです。実際には、郷里に戻ったからと言って危険が去るわけではないわけで、リービッヒはついに逮捕されてしまいます。今風に言えば、学生運動に関わり暴行を働いた容疑ということになるのでしょうか。

幸いなことに、リービッヒは釈放されたばかりでなく、エルランゲン大学から博士号を取得して、パリ大学に留学できることになります。これには、恩師カストナーからヘッセン大公ルートヴィヒI世に宛てて、「この優秀な青年をパリに留学させたのちに化学教師として採用するならば、貴国の発展に寄与するだろう」という推薦状が提出されており(*2)、これを閣僚のシュライエルマッヘルが取り上げた(*3)ためらしい。弟子を心配する師カストナーの温情を、リービッヒは痛感したことでしょう。

考えてみれば、ひたすら化学に没頭し、新しい知識と技術を求めることに性急であったリービッヒにとって、事件を起こし警察に追われる身になった学生を心配する師カストナーの在り方は、人間性ということを考えさせるもので、後年のリービッヒとその弟子たちの師弟関係に大きな影響を与えたものと思われます。

(*1):吉羽和夫「有機化学を拓いた化学者(その1)ユストゥス・フォン・リービッヒ」、『科学の実験』共立出版、p.603,1976年7月号
(*2):吉羽和夫「有機化学を拓いた化学者(その2)ユストゥス・フォン・リービッヒ」、『科学の実験』共立出版、p.706,1976年8月号
(*3):島尾永康「リービッヒの薬学・化学教室」,『和光純薬時報』Vol.66,No.4(1998)
(*4):Karl Wilhelm Gottlob Kastner ~ Wikipedia(English)
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