電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

山形県立博物館の講演会で加藤セチの生涯を聴く〜高等女学校にも理科実験室があった

2023年10月09日 06時00分53秒 | 歴史技術科学
山形県立博物館のプライム企画展で、「高等女学校と実科高等女学校〜青春の学びと生活〜」という展示をやっているそうです。そこで「理学博士加藤セチの生涯」という記念講演会が予告されていましたので、聴いてきました。「女性科学者のパイオニア 加藤セチ 〜真実一路の生涯〜」と題して、山形県産業科学館の館長の宮野悦夫氏の講演です。氏は先ごろ山形新聞で加藤セチの生涯を取り上げて執筆されており、この上下二回の連載記事を興味深く読んだ(*1)だけに、期待も高まります。入館料は一般300円。



県立博物館の副館長さんの挨拶と講師紹介の後、ノートパソコンとプレゼンテーションソフトを用いて講演がありました。庄内の押切村新田の豪農・加藤家の三女に生まれたセチは、押切尋常高等小学校を出て鶴岡の高等女学校に進みます。この頃、実家が開拓と酪農経営に失敗して没落、父が死去し家は破産します。このため三年時に高等女学校を退学、庄内藩の重鎮の家から嫁いでいた継母とともに山形に出て山形県女子師範学校に入学、特待生として表彰されたくらいに優秀だったようです。卒業後に狩川尋常高等小学校の訓導として赴任しますが、教えることに悩みます。継母の熱心な勧めで東京に出て東京高等師範学校の理科に進みます。ここまでの疑問は;

  1. 継母が東京女高師の存在を知っていたのはどんなルートからだったか。もしかすると、庄内藩の重鎮だった実家・水野家を経由しての情報?
  2. 加藤セチが東京女高師の理科を選んだのはなぜか。もしかすると、鶴岡高等女学校あるいは山形女子師範学校時代にも物理や化学など理科の実験室があり、それらの科目が面白いと思ったことがあったのかも。これに対する宮野氏の考えは、ちょうどその頃に東北帝大理学部に三人の女子学生が受験・入学するという「事件」があり、これらの報道等に接し、理科ならばなんとかなるのではという期待を持ったのかもしれない、とのことでした。

当時、女子が入学できた最高学府が東京と奈良の女子高等師範学校でしたが、尊敬する先生の推薦により、卒業後は北海道のミッションスクールに数学・理科・体操の教諭として勤務します。ここでも勉強の不足を痛感し、北海道帝国大学農学部に女子第一号の全科選科生として入学します。ここで学問に目覚め、農芸化学教室の副手として勤務します。その後、推薦を受けて理化学研究所に勤務、吸収スペクトルによる化学分析を武器に業績を挙げ、女性では三人目の理学博士の学位を取得、後にこちらも理研初の女性主任研究員となります。理研を定年退職後は嘱託として勤務するかたわら若手の女性教員・研究者を集めて理科ゼミを主催し、95歳で永眠する、というものです。

会場からの質問で、太平洋戦争末期、山形でも試作されたロケット戦闘機「秋水」の燃焼試験の不調に接し、燃料成分について20%ほど水で薄めてはどうかと助言したら成功した、というようなエピソードも紹介され、「秋水」は産業科学館で展示しているのでどうぞ、との案内もありました。



講演会の終了後、「高等女学校と実科高等女学校」の展示を見て回りましたが、女子校らしい制服の展示と三台のグランドピアノが目につきました。うち2台は当時のままで、1台は復元修理したもののようです。10月28日(土)と29日(日)には山形西高の高校生による合唱と山形北高吹奏楽部による演奏、11月23日(木)には復元修理したピアノを用いたミニコンサートが開かれるのだそうで、これも興味深いところです。



また、展示の中に、谷地実科女学校を前身とする谷地高等女学校の平面図があり、この中に「地歴博物教室」「同準備室」「理科教室」「同準備室」の記載がありました。学制の中で相当する男子のコースである旧制中学校には、明治24年の「尋常中学校設備規則」により物理・化学・博物の特別教室および準備室、薬品室・標本室等を整備することが記載されている(*2)ことを考えると、これに準じる形で物理と化学を一緒にして「理化教室」、それに生物地学分野が地理歴史と兼ねて「地歴博物教室」とされているものと想像しています。したがって、大正〜昭和初期頃には、高等女学校にも理科実験室があったと判断して良さそうです。ただし、旧山形師範学校のような、グループで実験可能な生徒実験室スタイルだったのかどうかは疑問です。このあたりは、写真帳などに実際に理科教室や授業風景の写真が残っていないか、調べる必要がありそうです。

なお、山形市内の道路拡張工事が終了しており、東北中央自動車道から東進して霞城公園北門に右折する信号ができていいますので、山形市内東側市街地からはもちろん、市街地西側・西バイパス方面からも県立博物館に車でスムーズに行くことができる(*3)ようになっています。

(*1): 理研で主任研究員となった女性・加藤セチの業績のことなど〜「電網郊外散歩道」2022年7月
(*2): 明治期の中学校と理科実験室〜「電網郊外散歩道」2015年10月
(*3): 山形市西部から霞城公園・県立博物館へ行くには〜「電網郊外散歩道」2010年10月〜この裏道情報はもはや不要になりました。

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戦後の経済発展の基礎となった「品質管理」が成功した理由

2023年03月21日 06時00分18秒 | 歴史技術科学
終戦直後の日本経済は、さまざまな曲折を経て、とくに戦争特需もあって、徐々に復興を果たしますが、その際に多くの人に指摘されるのが「品質管理の概念と手法の導入」です。日本製品が「安かろう悪かろう」で悩んでいた時期である1950年に、日本政府が国勢調査のアドバイザーとして米国から統計学のデミング博士を招きます。当時の経済界の主だった経営者たちは、デミング氏の品質管理の講演を聞いて感銘を受け、以後は氏の指導を仰ぎながら業務の改善を進め、1970年代頃までに品質の劇的な改善に成功し、1980年代には「Japan as No.1」と称されるようになります。「デミング賞」という賞の存在と共に、このあたりはテレビでもずいぶん取り上げられました。

ところが、デミング博士が品質管理について講演を行ったのは、日本だけではなかったようなのです。日本での講演に前後して、メキシコ、ギリシャ、インド等でも講演を行いましたが、品質管理について大きな成功を経験したのは、どうやら日本だけ(*1)だそうです。このことは、しばしば日本の教育水準の高さによって説明されることが多いように思いますが、デミング流の品質管理は本質的には統計的な手法によるものであり、教育の水準というだけではどうも漠然とし過ぎのように感じます。識字率が高ければ統計的手法になじむとは言えないでしょうし、コンピュータのソフトウェア開発の例を持ち出すまでもなく、20×20までの九九を暗証しているインド人の数学的能力は相当に高いでしょう。実際の品質管理においては、さまざまな要素を数え、比較整理し、作業工程の中の問題点を調べてどう改善を提案していくかが眼目となるわけで、チームの一人一人が読み書きや計算ができるだけでなく、観察力や注意力、工夫する発想力などの一定の経験があって成果が期待できるのではなかろうかと思います。では、日本における戦後世代のそれらの力は何によって養われたのだろうか。

1960年代の小中学校を経験した私の考えでは、おそらく今よりずっと理科の時間が多かった当時の小中学生のほとんどが経験したであろう、活発な自由研究等の影響があるのではないかと思います。あるいは課外のクラブ活動等も影響したかもしれません。識者はしばしば教育というと授業のことをイメージするようですが、授業は基礎的な力を付ける場であって、身につけた力を試し発揮するのは課外の活動の場合が多いようです。逆に言えば、活発な自由研究がすたれ課外活動がスポーツに偏重していくとき、日本の製造業における品質は必ずしも No.1 ではなくなっているだろう、とも言えます。昨今のさまざまな報道に、どうしてもその懸念がぬぐえません。

(*1): 吉田耕作『ジョイ・オブ・ワーク』(日経BP社、2005年)

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1965〜67年頃の中学校科学部はどんな活動をしていたか

2023年03月18日 06時00分57秒 | 歴史技術科学
昭和40(1965)年に中学生となった筆者は、科学部に入部しました。大学に進み自然科学の研究者になるのが夢であったために、小学校にはなかった二つの理科実験室と準備室にはワクワクするような宝の山と感じました。交流100V を直流にする電源装置があり、電流計や電圧計が何台も並び(*1)、ビュレットやピペットなど小学校では使わなかったガラス器具が整備されている第1理科室は、物理・化学の第1分野を対象とするもので、コンクリートの床に各生徒用実験卓には流し台とガスバーナーが設備されていました。一方、生物・地学領域を扱う第2分野を対象とする第2理科室は板張りの床で、生徒用の実験卓と器具棚のほかに等身大の人体模型が立っていて、入ったばかりの中学生の度肝を抜きました。

この科学部には何人かの三年生が先輩として活動しており、中庭に岩石園を造るなど熱心に活動していたM先生を顧問に、「トゲウオの研究」をテーマとして飼育観察を試みていましたが、残念ながら夏場の水温のコントロールがうまくできず、死滅してしまったようでした。それでも、この先輩たちと一緒に顧問の先生が引率してくれて夏休みに白髪山登山を敢行し、シャクナゲと草原の山頂に並んで記念写真を撮ったのが良い思い出です。

この先輩たちが卒業した後は、顧問のM先生の転勤もありましたが、2年生部員がいないため1年生の私が部長となり、運動部をやめて増加していた部員たちがそれぞれ個人であるいは数人のグループで研究テーマを決めて研究をすすめることとしました。後任の顧問は放任主義で、準備室をかなり自由に生徒に使わせてくれましたし、先生用の実験書なども読ませてくれました。しかし、研究テーマの設定というのは意外に難しいものです。そこで、学校の近くを流れる河川をフィールドに設定し、これに関わるものならば何でも良いことにして、「◯◯川の総合調査」と銘打って研究を進めることにしました。アイデアを出し合って工夫した当時の仲間の研究テーマとして今でも記憶に残るのは、例えば

  • 河原の中で腐肉に集まる昆虫を調べる コーヒーの空き瓶を河原に埋め、中に入れたチーズやハム等に集まる肉食性昆虫の種類と数を調べる。
  • 空中花粉をつかまえる グリセリンを塗ったスライドガラスを一定時間放置し、顕微鏡で観察して風媒花の花粉を見つける。高校進学後にメチルグリーンで染色すると見つけやすいことを知り、悔しがった。
  • 植物体中の鉄分を調べる アカザ等の植物の葉を乾燥し、るつぼで焼いて灰を硝酸に溶かし、フェロシアン化カリウム水溶液で青色を検出、比色法で標準溶液と比べる。
  • サクラのてんぐ巣病について てんぐ巣病の枝と正常枝に付いた葉の縦横の寸法を実測し、幹側から枝先までの縦横比の分布を調べることで、今風に言えば植物ホルモンの分布異常を推測したもの。
  • 太陽黒点の移動と変化 学校の天体望遠鏡で白紙に投影して太陽黒点の大きさと移動を記録する。
  • トノサマガエルの孵化と成長 水槽に卵塊を入れ、孵化してからオタマジャクシが陸に上がるまでを飼育観察する。

などです。大部分はこの河川とは直接の関わりはなく、それぞれの興味関心に基づくものなのですが、材料をこの川から入手したり、調査対象のフィールドであったりして、なんとか格好をつけることができました。

これらの共同研究テーマと並行して、私自身の個人研究も進めておりました。化学反応式の係数は何の比を表しているのかというもので、当時の表記で表せば第二鉄イオンFe3+とフェロシアン化物イオン[Fe(CN)6]4-の沈殿反応を題材に、モル比を表すらしいということを結論付けるものでした。同時にごく薄い濃度では沈殿ではなくコロイドになることを発見し、中学2年生の夏?に借りた高校化学の教科書が愛読書で、化学量論を独力で理解できたのも、ひとつひとつ実験を積み重ねていくやり方が効果があったと実感として感じました。

今思えば、実に熱心に活動していたものと思いますが、中学生の熱意を支えるような社会的な背景もありました。例えば

  • 小学校時代に、学研の「学習」「科学」などの雑誌を購読していた生徒が少なからずいて、多くの生徒が理科実験観察に漠然とした憧れを持っていました。
  • 夕方のNHK教育テレビには「楽しい実験室」というテレビ番組があり(*2)、毎週さまざまなテーマで研究のヒントやトランジスタ工作などを紹介するだけでなく、返信用切手を同封して申し込めば番組内容を完結に記載した資料が郵送されてくるのでした。当時の番組制作には、SONYの技術者も協力していたそうです。
  • 読売新聞社の学生科学賞というレベルの高いコンクールもあり、村山農業高の生徒が「トゲウオの研究」で文部大臣賞を受賞、米国で発表してきたと話題になりました。これも農業高校という設備とノウハウがあっての飼育観察かと想像して、同じ研究テーマでも環境というのは大事だと感じていました。
  • 寄せ集めの性格の強かった自分たちの共同研究は、学生科学賞のシャープな審査にたえるものではないと考え、三年生の時に当時行われていた山形新聞・山形放送主催の「小さな芽キャンペーン」という科学研究募集に応募したところ、私の研究が個人研究の部で入賞し、部としての共同研究は学校特別賞を受賞することができました。
  • このときの副賞がカラーテレビとOlympusの顕微鏡、それに協賛各社の製品で、大量のお菓子が学校に届き、遠足以外に学校にお菓子を持ってきてはいけない中学生の世界で、生徒全員が一人一人チョコレートやビスケット等の菓子をもらって、「科学部ってスゴイことをやったんだ!」と驚かれました。スポーツ以外でもヒーローになれたことに部員たち皆が鼻高々だったと記憶しています。
  • 地区の中学校の科学研究発表会が毎年開かれており、各校が競い合って発表していました。発表されるテーマ数もかなり多く、複数の分科会場に分かれて発表されるような盛況でした。

おそらく、NHKの「みんなの科学 たのしい実験室」の人気も、山形県の「小さな芽キャンペーン」の実施も、科学技術立国を掲げた当時の社会風潮を反映したもので、全国的に同様な催しが行われていたのでしょう。

(*1): 後日談:娘が中学生になった時、授業参観で母校の中学校の理科室を訪れる機会がありました。その時に驚いたのは、電流計や電圧計、解剖皿など昭和30年代の理振法のシールが貼られたあの頃のものをまだ使っていることでした。驚き呆れて、当時の科学部員で市役所のけっこうな役職にあった友人に「こんな状況だったよ」と話をしたところ、翌年に理振法の補助の予算がついたとのことでした。モノを大事にするのはいいけれど度が過ぎている状況の背景には、備品だからと実験器具一つ一つにシールを貼って台帳で細かく管理する方式があると思われ、戦後の物不足の時代ではあるまいしあまりにも時代錯誤なやり方ではないかと感じたものです。
(*2): 理科大好きっ子のお気に入り〜「みんなの科学 たのしい実験室」〜NHKアーカイブス

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戦後の新制中学校における実習室や実験室の整備

2023年03月16日 06時00分16秒 | 歴史技術科学
終戦直後の混乱期をなんとか通過した頃、ベビーブームによる子どもたちが大挙して学校に入学するようになります。昭和23年に発足して間もない新制中学校(*1)は、義務教育の受け皿として拡充整備することが求められますが、選択科目の英語だけでなく各科目を教えられる教員も足りなければ教える教室も足りないという状況で、1クラスに55人も生徒が入っているという状況でした。特に戦後の町村合併と重なった地域では校舎建築が間に合わないほどだったようです。筆者の母校でも、それなりに歴史の長かった小学校と違い、当初は旧国民学校高等科の建物を利用していた新制中学校は隣接する二つの地区の請願により2校が統合されることとなり、一期工事で昇降口と便所、普通教室のほか第1と第2の理科実験室と準備室、二期工事で体育館とグランド、三期工事で普通教室と特別教室棟が追加建設されました。このうち特別教室は、音楽室、技術木工室、同金工室と準備室等を含むもので、新制中学校で新たに誕生した技術家庭科のための実習室でした。

ここで、一期工事に普通教室に加えて理科室が入っていることに驚きます。おそらくは、先の大戦が科学技術や合理的な考え方を軽視し、精神主義・非合理主義に陥っていたという反省から、科学技術教育の重視が打ち出されていたことの影響でしょうか。理科の先生が得意そうに白衣をひるがえし、科学部(クラブ)にはかなり多くの部員が所属していたということからも、当時の風潮がうかがわれます。また、放課後の部活動も、昭和40年頃にはおよそ6割が運動部に所属し、4割は文化部・生産部に所属して、科学、音楽、美術などのほか、木工、珠算、家庭(料理・被服)などの活動に従事していました。ほとんどが運動部に所属する平成〜令和の姿を思うとき、感慨を禁じえません。

それと同時に、産業復興を支える人材育成を目指したのであろうと思われますが、1951(昭和26)年に産業教育振興法が制定(*2)され、いわゆる産振棟・産振設備の整備が可能となっておりましたので、技術家庭科の実習室はこれらの補助を受けて整備されたものと思われます。また、1953(昭和28)年には理科教育振興法が議員立法によって制定され、理科や数学等の実験器具や模型等の整備ができるようになりました。二つの振興法に基づく予算規模は桁が違いますが、理科の場合は建物や設備整備ができず備品の購入の補助にとどまったのは、当時の社会情勢によるものと思われます。

というのは、昭和25年頃には約42%強だった高校進学率が、昭和35年にはおよそ60%に増加し、昭和40年には約71%、昭和49年にはついに90%を突破するという背景がありました。しかも、進学先の高校が、昭和25年、昭和35年、昭和40年と、ずっと高等学校在籍生徒数の約6割が普通科に、約4割が職業学科に学んでいたのです。私の年代でも、中卒で就職する人が同級生の約二割はいたと記憶していますが、産業教育の振興は、産業人材の育成を目指すという点で、高度経済成長を続ける当時の社会の要請でもあったのかもしれません。



残念ながら、その後の展開は必ずしも趣旨が充分に生かされたかどうかは疑問な面があり、商業高校や工業高校が中型コンピュータ(ミニコン)によりオンラインで結ばれる整備がようやく実現した頃にはパーソナルコンピュータとネットワークが普及してきているという具合に、設備整備の速さよりも技術の進歩の速さが勝るなどの矛盾も見られるようになりました。設備整備が終わった頃にはすでに技術が陳腐化しているというものですが、それでも法律が制定当時に果たした役割は大きなものがあっただろうと思われます。

(*1): 新制中学校の発足と義務教育年限の延長〜「学制百年史」文部科学省
(*2): 産業教育振興法の制度〜「学制百年史」文部科学省

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理研で主任研究員となった女性・加藤セチの業績のことなど

2022年07月17日 06時00分25秒 | 歴史技術科学
地元紙「山形新聞」では、山形県ゆかりの人物を取り上げる連載をずっと続けていますが、最近では先月の「加藤セチ」の記事をたいへん興味深く読みました。



山形県の庄内地方、三川町の資産家に生まれた加藤セチ(*1)は、県令三島通庸の勧めでアメリカ式の大農場酪農経営に挑んだ生家の没落に伴い、山形師範学校に進み小学校教師となりますが、教育のあり方に悩み、やがて東京の高等女子師範学校に進みます。卒業後、札幌のキリスト教系の北星女学校で教師として働くかたわら向学心を燃やし、女子への門戸を開いた北海道帝国大学に選科性として入学(*2)します。そこで努力し才能を開花させますが、本当に力を発揮したのは理研に移ってからでした。このあたりの表面的な伝記的事項についてある程度は承知していましたが、今回の記事がきっかけであれこれ調べ始め、知ることができたのは、彼女の研究業績の概要(*3)です。



大正から昭和に移行した頃、すなわち1920年代に量子力学に関心を持ち、セチは分光器による光のスペクトル分析を化学物質に応用したらどうかというアイデアがひらめきます。今ふうに言えば分光分析の始まりです。白熱電球を光源に理研にあるさまざまな物質の吸収スペクトルを測定し、その構造との関連を調査します。その中で、各種ネオジム塩水溶液の吸収スペクトルからd殻における価電子のスピンの方向転換にあると結論し、注目を浴びます。日本で3人目の女性理学博士となった実際の学位論文は「アセチレンの重合」ですが、これはすでに無機化合物から有機化合物に研究の対象が移っていたことを意味するものでしょう。

そういえば、エチレンに臭素が付加する反応はゆっくりとした熱的付加反応ですが、アセチレンに臭素が付加する反応は意外なほどにさらに遅い。しかし、直射日光下では瞬時に反応が進み、光によるラジカル付加反応であることを示唆することを昭和の高校の化学実験で知ったものでした。そんな私の学生時代に、加藤セチは存命で都内の高校で物理化学生物を教える教師たちとともに無償の「理科ゼミ」を開催していた(*3)のだとのこと。不明を恥じるとともに、こうした先人の営為が、日本の科学研究を支えてきたのだなと感じずにはいられません。

(*1): 加藤セチ〜Wikipediaの解説
(*2): 美人すぎて科学者には向かない〜女性科学者・加藤セチものがたり〜加藤裕輔
(*3): 加藤セチ博士の研究と生涯〜スペクトルの物理化学的解明を目指して〜前田侯子〜御茶ノ水大学

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戦中期~終戦直後における旧制高校の実験室

2017年11月14日 06時01分28秒 | 歴史技術科学
戦中期の大学における実験室の様子を、いくつかの回想記をもとに探ってきましたが、大学以外の、他の学校ではどうだったのか。旧制六高の名物教授であった山岡望氏の伝記(*1)をもとに、旧制高等学校のエピソードをひろってみたいと思います。

山岡望氏は日本化学会の第1回化学教育賞を受賞した教育者で、1892(明治25)年に三重県津市の教会牧師・山岡邦三郎・ハル夫妻の三男として生まれました(*2)。父が牧師を辞め民間会社に転じたため大阪へ転居、13歳で府立岸和田中に入学します。兄を追って1910(明治43)年に第一高等学校に入学し、3年後の1913(大正2)年に東京帝國大学理科大学化学科に入学しますが、この一高~東大時代の同期に矢内原忠雄がおり、親友となります。山岡は『向陵三年』という書物を書き、これに「わが敬愛する矢内原忠雄兄にこの小著を贈る 山岡望」との献辞を添えて贈っているとのことです(*3)。
理科大学化学科には、このとき桜井錠二、池田菊苗、松原行一の三教授と、柴田雄次助教授が在籍しており、山岡はオストワルド門下でライプツィヒ大学仕込みの池田菊苗教授の下で有機化学を専攻します。ところが、1915(大正4)年、23歳の山岡は重い肋膜炎にかかり、35日間東大病院に入院し、半年ほど休学することを余儀なくされます。翌1916(大正5)年にようやく卒業しますが、研究者としての道ではなく、岡山の旧制第六高等学校に講師として赴任することになります。24歳の山岡にとっては一つの挫折ではあったでしょうが、翌年に正式に教授に昇任し、講義と化学実験室の経営にあたる六高の名物教授という、ある意味で幸福な生活を送るスタートとなります。


 昭和15年夏、旧制六高化学実験室における3年生の定性分析 (『山岡望傳』p.89より)

「Be Prepared」(常に準備せよ)というYMCAのモットーに基づき丹念に準備された講義実験と、化学史上のエピソードや名詩句をちりばめた講義は評判を呼び、情熱を持って取り組んだ学生実験室は様々な工夫がなされ、ここから多くの俊秀が巣立っていきましたが、1937(昭和12)年には矢内原忠雄が東大を追われ、1940(昭和15)年には六高校友会に所属する学内団体はすべていったん解消し、あらためて六高報国会として再組織されるなど、時局は戦争への道を進み始めます。山岡を中心とした私的なサークルであった六稜会は、校友会に所属していなかったために再編を免れますが、この時期について山岡は後に次のように回想しています。

--Inter arma silent musae, 武具の間にあっては学芸は沈黙する--
Hoffmann が好んで引用する古い言葉でありますが、例の大戦争の時にも学生たちは学問を棄てて武器を取らねばならず、戦線に赴かぬ者たちも工場やら農村に出向いて銃後を固めねばなりませんでした。六高は瀬戸内海に臨む玉野市の三井造船所に動員して働いておりました。しかし学問を棄ててしまうわけには参りません。作業の合間に教授たちが出張して行って補習の授業をやっておりました。 (『山岡望傳』p.363)

生涯独身を貫き、化学教育に生涯を捧げた山岡は、戦争が終結し再び学生実験ができる日を待ち望んでいたことでしょう。しかし1945(昭和20)年、岡山大空襲により、旧制六高も、山岡が心血を注いだ実験室も、そして自宅も、みな焼失してしまいます。

終戦後、焼け残ったコンクリートの化学天秤室に寝起きして、山岡は講義を再開すべく準備し始めます。昭和22年、講堂、普通教室、寮、食堂などは復興していましたが、学生実験室はありません。講義実験だけでは満足できない、早急に学生実験を実施したいと考え、始められたのが青空の下の化学実験でした。

化学の分析の実習は昭和22年の秋から強行した。暗室前の中庭に半壊の銃掃除台を4~5台並べて塩類の分析を始めた。アルコール燈4個、水道は1個。これでクラス80人が同時に実験する。試薬は足りない、ビンやガラス器は更に足りない。強引きわまる青空実験室である。(同,p.174)

この状況を経験した教え子たちは、このように回想しています。

当時は教育界も混乱の時代であった。その中にあって山岡先生の授業だけがさまざまな物質的、精神的な困難にもかかわらず、整然かつ親密に行われていたのはむしろ不思議なくらいであった。(同p.175)

化学の教育の本質は実験室にあると明治の先人たちが伝えたリービッヒ流の教育の思想と方法は、山岡望の情熱に鼓舞されながら、終戦後の焼け跡の中から再び立ち上がります。

(*1):山岡望傳編集委員会『山岡望傳』(内田老鶴補)
(*2):この件、「ことバンク」では父の名を邦三と誤記。また長男は出生後すぐに亡くなっていますので、実質的には次男です。
(*3):表紙 向陵三年

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閑話休題:配属将校の評判

2017年11月09日 06時04分26秒 | 歴史技術科学
戦前・戦中期の実験室のようすを調べるために、様々な回想記を読んでいると、配属将校への不満やあてこすりが多いことに気づきます。理屈っぽい理系人間だけでなく、大正デモクラシーの雰囲気を持った文系の人たちも、どうやら配属将校に強烈な不満を感じた人が多かったようです。確かに、学生の軍事教練が必修科目となり、理学部の化学教室前のペーブメントに学生を並べて「エイッ」「エイッ」と銃剣術等の訓練を強制するわけですから、場違いな感じは否めません。それに不服を言うとどうなったのかは記されていませんでしたが、一つだけ、亡父から聞いた事例がありました。

当方の高校時代(大阪万博前後)は大学紛争が高校にも影響を及ぼしていた時期で、ご多分にもれず「制服廃止運動」が起こっていました。制服廃止論者の主張は、「学生服は軍国主義の遺産であるから廃止すべきだ」というものでした。このときの生徒総会の様子を夕食時に話題にしたら、当時40代後半だった父が、こんなエピソードを教えてくれました。

山形県の村山農学校は、主として自営農家の子弟に農業を教える中等教育機関でした。亡父がこの学校に在学していたとき、いつも威張って嫌われていた配属将校から「学生服を廃止し、国民服を着用するべし」という提案が職員会議に出されたそうです。これに対して、M先生が反対意見を出します。「学生は学生服が一番だ。国民服など、あんなクソ色の服を学生に着せるのは反対だ」と言ったのだそうです。配属将校は「貴様!クソ色とは何だ!クソ色とは!」と烈火のごとく怒り、結局は国民服の着用が決まってしまった、とのことでした。M先生は学校にいられなくなり、まもなくおやめになってしまったそうです。

離任式等が行われたのかどうか不明ですが、職員会議の様子が学生に伝わっていたということは、他の先生の中に事情を教えてくれた人がいたということでしょう。配属将校への不満や、大政翼賛体制の下でなし崩しに進行する「会議等の手続き的には問題の無い」強制への不満などが、古き良き時代を知る師弟の間に共通する感覚だったのかもしれません。亡父にとって学生服は、むしろ平和な時代のシンボルだったようです。実は私自身が後にM先生の息子さんの知遇を得ることとなり、お父上のこのエピソードをお伝えしたところ、たいへん驚いておられました。実験室とは何の関連もありませんが、書き残したいと考えたところです。

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戦中期の実験室の様子を示唆するもの

2017年11月01日 06時04分28秒 | 歴史技術科学

太平洋戦争中、大学の研究室は様々な形で軍の体制に組み込まれ、悪い意味での「選択と集中」が強制されました。戦中期の実験室に関する記録を目にすることが少ない理由には、一つには学徒動員などで学生が減少していたこと、また促成教育や勤労動員の補習教育などが中心となり、自由な雰囲気の研究などはほとんどできなかった、ということなのでしょう。いくつかの回想記から、戦中期の実験室の様子をひろってみました。

『東北化学同窓会報・東北大学化学教室八十周年記念号』に転載された安積宏「戦争中の學生」によれば(p.91)、戦争不拡大方針のはずだったのにもかかわらず満州事変は次第に深入りしていき、昭和14年には学生の軍事教練が事実上必修課目となり、大学には配属将校の人数が急に増えていきます。日独伊三国同盟が結成された昭和15年には大政翼賛会が結成されますが、例えば(旧制)高等学校の校友会に所属する学内団体はすべていったん解消され、あらためて校長を団長として全教授を指導者とする全校一体の報国団が組織された(*1)ように、昭和16年には大学においても報国隊が作られます。これは、例えば東北大学理学部が第一大隊を組織し、数学と物理が第一中隊、化学と地学が第二中隊、助教授クラスが中隊長を命じられ、その組織に対して勤労動員の命令が下りる、というものでした。昭和18年には学生の徴兵猶予が廃止され、法文系の学生は学業を半ばにして戦場に出ていくことを余儀なくされます。昭和19年には、理科系の学生にも学徒勤労動員が決まります。
(写真は、大政翼賛会本部)

この頃の元学生の文章として、同『八十周年記念号』に掲載された武者宗一郎「世紀会万々歳」(昭和18年卒)には、次のような記述があります。
「…天下寛しとは言え、我が化学教室において、在学二年半を以て学業を全うせるは我等『世紀会』を置いて他に類を見ざるも我等満を足せず。これ豈はからんや東条英機の愚見によるなり。(略)」(p.287)
事実上、大学教育の実質的停止に相当したのではないかと思われます。

では、大学における研究活動のほうはどうだったのか。よく技術の画期的進歩の理由として戦争がきっかけになる例が指摘されます。原子力の研究と原子爆弾の製造が代表的な例でしょう。しかし、戦争に伴う「選択と集中」は、必ずしも科学技術を画期的に進歩させるとは限りません。その例として、東北大学工学部の電気工学科で研究されていた八木アンテナの原理等を用いた「電探」の技術開発が挙げられます。日本で先に研究が始まりながら英米で先にレーダーとして実用化され、ミッドウェー海戦等で日本軍が甚大な被害を被ったわけですが、その理由は軍部と政治家が主導した「選択と集中」が実情に合わず矛盾したものだったからではなかったか。

『同八十周年記念号』に掲載された塩浜喬「学徒動員と私達」(昭21卒)によれば、氏と同級生の二人が海軍からの委託研究で、「コンデンサー用絶縁油の合成」を担当したそうです。これは、電波探知機に使うもので、戦闘機にも積める小型のもの、そして高空でも性能が劣化しないものを、と要求されていました。o-ジクロルベンゼンとデカリンが縮合した物質で、合成過程の大要はできていたそうですが、工場から渡された材料の純度が60%と劣るため、発煙硫酸でスルホン化して不純物を除去しようと考え、発煙硫酸の手配を申請します。ところが、その回答は


「しかしながら、現下の情勢では、遺憾ながら発煙硫酸は支給できない。別の方法を工夫してやって欲しい。」
「でも…」
「解っとる。説明はいらない。無いものは無いのであるからして、是非大和魂で合成して呉れたまえ。」


というものでした。試薬がなく大和魂で化学合成ができるわけがありません。おそらく当時の工業生産の状況は、発煙硫酸の生産さえできないか、あるいは開発研究になどまわせないところまで停滞していたのでしょう。「電探」という軍事的要請度の高いはずの海軍の委託研究すらこの状況ですから、科学研究を軽視し研究費を抑制・削減し、優秀な人材を兵卒として前線におくるという軍政の矛盾がこうした結果を招いたのは必然のように思います。

(*1):山岡望傳編集委員会『山岡望傳』(内田老鶴圃)

【追記】
日本化学会編『日本の化学 100年のあゆみ』によれば(p.98)、化学会誌のページ数の変化について、次のようなデータを載せています。

誌名 昭19 昭20 昭21 昭22 昭23
日本化学会誌  712   66   67  110  181
Bull.Chem.Soc.Japan  216     0     0   26   77
工業化学雑誌  994   92  198  198  168


戦争が、ある一部の技術を進歩させた面があるのは否めないでしょうが、日本の戦中期に関しては明らかに停滞していることが、この論文等のページ数に現れていると言えます。

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小学校に理科実験室ができ始めた時期

2017年10月07日 06時02分02秒 | 歴史技術科学
1980年代頃でしょうか、日本の学校教育を視察に訪れた視察団が驚いたことの一つに、「小学校にも理科実験室が整備されている」ことが挙げられていました。たしかに、中学校や高校以上では、諸外国、とくに先進諸国では物理・化学や生物などの実験室と準備室が整備されているのは珍しいことではありませんが、小学校でもとなるとたしかに珍しいことでしょう。おそらくは、日本の高度経済成長や Japan as No.1 と言われた当時の科学技術の強さの秘密を探ろうとしてやってきた視察団の目には、印象的なこととして映ったに違いありません。

では、日本で小学校に理科実験室ができ始めた時期はいつ頃なのか。山形県内を中心に調べてみると、次のようなことがわかりました。
まずは、見当たらないことがわかっているケースです。

  • 明治9年、鶴岡の朝暘学校の平面図には、教場や試験場などの記載はありますが、理科実験室など特別教室はありません。
  • 明治17年、写真のように、河北町立谷地小学校の校舎平面図には理科実験室など特別教室はありません。

  • 明治22年、山形市立第一小学校の前身である山形市中部高等尋常小学校の校舎平面図にも、理科実験室など特別教室の記載はありません。
  • 明治30年、河北町立谷地小学校の増築時にも、児童数の増加に対応して教室と裁縫室、講堂などが増築されていますが、理科室はありません。

  • 明治33年に落成した山形市立第三小学校(現在名)の校舎平面図にも、理科実験室の記載はありません。
  • 明治36年に河北町立南部小学校が独立開校したときも、明治41年に同西部小学校が独立開校したときにも、校舎平面図には理科室はありません。

  • 大正2年の山形市立明治小学校(現在名)の平面図にも、大正13年の増築平面図、昭和5年の改築平面図にも、理科実験室の記載は見られません。

次は、理科実験室の存在がわかる例です。

  • 大正3年、現在の山形大学附属小学校の沿革に、山形女子師範附属小学校に「理科室を特設する」という記述があります。大正8年の付属小学校の写真帳の中には、児童の理科実験の様子を撮影したものがあります。
  • 昭和2年、山形市立第一小学校の大改築が行われ、東北初のコンクリート校舎が完成しますが、この平面図に理科実験室の記載があります。
  • 昭和11年、河北町立谷地中部小学校の移転改築の際に、理科実験室と準備室が作られています。
  • 昭和14年、山形市立第三小学校の新校舎平面図に、理科実験室の記載があります。

また、山形県外でこれに類した情報を集めようと試みましたが、小学校の場合はなかなか難しいようで、あまり進んでおりません。その中でも、

  • 現在の大阪府豊中市立原田小学校の沿革中に、「昭和2年 創立、昭和3年 講堂・理科室・倉庫等 増築」との記載あり。
  • 明治12年に開校した三重県四日市市立八郷小学校の沿革中に、「昭和8年 2階建て特別教室(理科・図工・音楽・裁縫)の増築」との記載あり。

などが確認できました。

これら数少ない例から一般化するのはなかなか難しいのですが、大正期の児童中心主義の思潮による影響もあってか、大正時代に師範学校の付属小学校などが理科実験室を備えるようになり、昭和に入って、財政力のある都市部の小学校が理科実験室を備えるケースが出てきたけれど、この時期に大多数の小学校が理科実験室を備えるまでには至らなかった、と結論付けたいと思います。

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東北帝大を卒業した黒田チカのその後と理研

2017年07月15日 06時05分56秒 | 歴史技術科学
帝国大学初の女子学生となった三人の一人、黒田チカの生涯は、「黒田チカ 理研」などで検索すると、理化学研究所の広報ページに、YouTube に登録された短編映画にリンクされており、探すことができます。ここでは、黒田チカの生涯と業績、生前の声、考え方などが簡潔に紹介されています。佐賀に生まれた明治の民権派藩士の娘が、父母の理解を得て教育を受け、化学者として成長していったこと、途中、女子排斥運動だとか不愉快なことも少なくなかったことでしょうが、1916(大正5)年に東北帝国大学を卒業、日本初の理学士となります。真島利行が結晶化に成功した紫根の色素について、副手として構造研究をつづけ、東京化学会(現在の日本化学会)で『紫根の色素について』発表を行いますが、これは日本初の女性理学士による発表でした。

その後、1921(大正10)年に文部省外国留学生として英国オックスフォード大学へ留学しますが、その時の研究テーマには、「家事」の語を入れなければならなかったそうです。天然物色素の分子構造を決定しようとする研究者に対して、「家事」の語を入れなければ留学を認めないとは、いかにも帝国大学に女子の受験を認めようとしなかった、当時の文部省らしい対応ではありますが、留学期間を終えて、黒田チカは1923(大正12)年に米国経由で帰国します。帰国後は東京女高師で講義をするとともに、恩師・真島利行によって理研への道が開かれます。

当時の理研(理化学研究所)は、1917(大正6)年に創立された我が国の有数の研究機関であり、初代総裁が渋沢栄一、初代所長が菊池大麓でした。1921(大正10)年に、第三代所長に就任した大河内正敏により大きな改革を受け、研究者の自由な楽園と言われる理研の伝統が開始されます。1922(大正11)年に主任研究員制度が発足し、研究室を持っていた真島利行のもとで、黒田チカは紅花の色素の構造研究を行います。現代のようなNMRなどの機器分析の手段を持たない時代に、地道に実験を積み重ね、ベニバナの色素カーサミンのほぼ正確な構造決定に成功します。その業績から1929(昭和4)年に学位を受け、女性として2人目の理学博士となります。戦後は、東京女子高等師範学校を前身とするお茶の水女子大学の教授をつとめ、タマネギの成分ケルセチンの血圧降下作用を発見するなど、「物に親しむ」「物に語らせる」ことを一貫して追求しながら、後進の指導にもあたりました。



真島利行と黒田チカの師弟を通じて、側面から理研(理化学研究所)の成立と初期の発展の様子を簡単に眺めましたが、明治の実験室と研究・教育システムの移植の時期を過ぎて、大正期に科学研究の自立が進み、世界に伍したレベルの研究が行われるようになっていたこと、大学以外の専門研究機関が成立したことを示しています。また、「研究に男女差はない」とする理研の戦前からの伝統が生まれたきっかけは、やはり黒田チカらの実績によるところが大きい(*)と思われます。

(*):この点については、のちにSTAP細胞をめぐる一連の事件が起こりますが、このあたりは「再現が可能」で「検証可能」であることを求められる実験科学の根本が満たされないだけでなく、「実験ノートに記録がない」という時点で、お粗末な結末が予想できるものでした。

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帝国大学に入学した女性たち

2016年10月11日 20時22分33秒 | 歴史技術科学
世間の注目を浴びながら、初めて帝国大学に入学した三人の女性たちは、それぞれどのような経歴であったのかを調べると、当時の女性の高等教育の状況が見えてきます。

黒田チカ(*1)は、1884(明治17)年に九州の佐賀に生まれました。理解ある父のもとで育ち、17歳で佐賀師範学校を卒業、一年間の奉職義務を終えて1902(明治35)年に東京の女子高等師範学校に進みます。このとき、理科の実験は学校でなければできないという理由から、理科を受験したとのことです。明治30年代の師範学校の教育の中に、実験室を通じた教育が影響力を及ぼしている例が、ここにも見られます。1890(明治23)年に、師範学校教員の養成のために設立されていた東京女高師では、東京大学卒の平田敏雄教授が理論化学を担当していました。黒田チカは、平田教授の指導を受けながら酒石酸の光学異性や染料と染色などに惹かれます。1906(明治39)年に東京女高師を卒業した黒田は、福井師範学校女子部に理科教師として奉職します。福井での教師生活は活気あるものでしたが、翌1907(明治40)年に保井コノ(生物)に続く二人目の官費研究科生として母校に呼び戻されます。平田教授の下で講義の準備や実験助手をしながら化学の教科書を原書で読み、二年間の研究科生活を終え、東京女高師の助教授となります。25歳でした。

この頃、東京女高師には、東京大学医学部の長井長義も講師として指導にあたっていました。黒田は長井教授の実験助手もつとめながら、直接に指導を受けます。長井教授は黒田チカの実力を認め、1913(大正2)年に高等工業学校や高等師範学校卒業者、中等教員検定試験合格者に受験資格を与え、女子にも門戸を開放するという制度を創設した東北帝国大学理科大学化学科への受験を勧めます。実は、長井長義は明治34年に創立された日本女子大学校に、自ら設計した階段教室や化学実験室を備えた香雪化学館を作り、化学の教授をつとめていました。ここでは、1873(明治6)年・鹿児島生まれの丹下ウメ(*3)が長井教授の実験助手として働いており、長井教授は、幼時に右目を失明しながら29歳で日本女子大学校の第一期生として入学、最年長で優秀な成績を収めた丹下ウメに中等教員検定試験を受けさせ、これに合格するとさらに東北帝国大学理科大学化学科への受験を勧めます。丹下ウメは40歳でした。

東京女高師からは、もう一人、牧田らく(*4)が数学科を受験しており、この年は東北帝国大学理科大学に三人の女子帝国大学生が誕生します。

「大正デモクラシーの時代」と言われる「時代の後押し」はあったでしょうが、入学までの経歴を眺めるとき、むしろ時代を切り開いた女性たちの迫力を感じます。と同時に、長井長義等の恩師の存在が大きいことにも気づかされます。


(*1):黒田チカ~Wikipediaの解説
(*2):君川治「女性化学者・黒田チカ」~On Line Journal「ライフビジョン」日本科学技術の旅より
(*3):「農学博士・化学者 丹下ウメ」~On Line Journal「ライフビジョン」日本科学技術の旅より
(*4):都河明子「牧田(金山)らく(数学者、1888-1977)ー妻としての選択」

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帝国大学に初めて女子が受験、入学する

2016年10月10日 09時28分40秒 | 歴史技術科学
1907(明治40)年、分析化学の講義という職務のかたわらバイヤーやフィッシャーの論文を読破し、漆の有機化学を志していた東京帝国大学の眞島利行助教授でしたが、留学するにあたって上司の桜井錠二教授が命じたのは「無機化学の研究」でした。そのために、最初の留学先はチューリッヒのウェルナー教授の下となる予定でした。ところが、入学手続きもすまないうちに桜井教授から電報が届きます。それは、同年に仙台に新設されることとなった東北帝国大学に理科大学が設置され、そこで有機化学をやってよい、という内容でした。眞島はこれを「無上の幸せと思い」、ただちに漆の研究に不可欠な不飽和結合の位置決定のためにオゾン酸化法を開発したキール大学のハリエス教授のもとで研究することを決定し、留学生活を始めます(*1)。このあたりは、時の運と恩師のありがたさを感じたことと思われます。

明治44年9月12日付けの河北新報に掲載された沢柳政太郎の文章によれば、9月11日、東北帝国大学理科大学が数学、物理学、化学の三学科の授業を開始した、とあります。地質学科は準備が整わず、翌年開始の予定と付記されており、金百余万円を寄付した古河財閥ならびに土地および金十五万円を寄付した宮城県等に対して感謝の言葉を述べています(*2)。
化学科の初代教授は、

  • 眞島利行 有機化学
  • 小川正孝 無機化学  幻の元素「ニッポニウム」は、あともう少しで新元素発見につながる業績だった。
  • 片山正夫 物理化学  著書の『化学本論』は、宮沢賢治が法華経とともに机上に置いた愛読書であったとのこと。

の三名で、それぞれの研究室や学生実験室の他に、講義室、図書室、天秤室、封管爐室、製造室など、教育と研究のための設備を備えたものでした。

このように発足して間もない1913(大正2)年、文部省から東北帝国大学総長あて、一通の文書が舞い込みます。それは、同年に沢柳政太郎総長が女子の入学を受け入れることを表明したのに対して、東京女子高等師範学校でも化学を指導していた長井長義が勧める(*3)などにより三名の女子学生が受験することとなり、この新聞報道に対する一種の詰問状でした。現代風に直せば、次のようなものです。



発専八九
本年貴学理科大学入学志望者中数名の女子出願いたしおり候様(よう)聞き及び候(そうろう)ところ、右は試験の上選科・入学せしむる御見込みに候や。元来女子を帝国大学に入学せしむることは前例之無きことにて、すこぶる重大なる事件に之有り、大いに講究を要すところと存ぜられ候につき、右に関しご意見詳細に承知いたしたく、この段照会に及び候ところなり。
 大正二年八月九日
   文部省専門学校局長 松浦鎭二郎
東北帝国大学総長北條時敬殿

そして、この詰問状の欄外には「八月二九日、総長文部省へ出頭、次官へ面談済」という朱書きがあり、北條時敬総長がどのような約束をしたのかは不明ですが、当座の大学の意思を貫く形をとって決着したようです(*4)。

こうして入学したのが、次の三名でした(*5)。

  • 黒田チカ(*6) 東京女子高等師範学校、化学科
  • 牧田らく   東京女子高等師範学校、数学科
  • 丹下ウメ   日本女子大学校(香雪化学館)、化学科


(*1):櫻井英樹「眞島利行先生」,『東北化学同窓会報・化学教室創立八十周年記念号』,p.54,1992(平成4)年3月
(*2):沢柳政太郎「東北帝國大学」,『東北化学同窓会報・化学教室創立八十周年記念号』,p.8-9,1992(平成4)年3月
(*3):明治初期の留学生の行先~「電網郊外散歩道」2015年2月
(*4):女子学生受験についての文部省からの詰問状,『東北化学同窓会報・化学教室創立八十周年記念号』,p.13,1992(平成4)年3月
(*5):女子学生の歴史~東北大学女子学生入学百周年記念事業
(*6):去華就実と郷土の先覚者たち・第29回~黒田チカ

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明治~大正期の日本の化学研究の状況~紹介から自立へ

2016年10月09日 06時41分00秒 | 歴史技術科学
日本化学会が創立百周年を機にまとめた新書判の小冊子『日本の化学 100年のあゆみ』(日本化学会編・井本稔著)に、興味深いデータが掲載されています。それは、明治13年から44年までの東京化学会誌と興行化学雑誌に掲載された報文数の推移のグラフ(p.54、図2)と、大正元年から昭和15年までの同誌及び欧文誌"Bulletin of the Chemical Society of Japan"に掲載された報文数の推移のグラフ(p.65、図1)です。これによれば、

  • 明治期において、年間の報文数は10編程度から二誌あわせて50編程度まで増加した。
  • 大正期、とくに大正末期から報文数が顕著に増加し、100編を越えるようになる。

ということがわかります。とくに大正期の増加は工業化学雑誌で著しく、第一次大戦による日本経済の向上を反映しているものと考えられます。

『日本の化学 100年』によれば、研究の内容面からは「衣料資源がないならば化学繊維を、肥料と軍事力のためにはアンモニアを、一朝有事の際には自力で医薬や染料を」(p.78)という目標からもわかるように、軍事的・帝国主義的な色彩を強く持っていたことが指摘されますが、また一方では、基礎となる基礎化学の必要性が認識されていったことも確かでしょう。大正期が、西欧の進んだ科学技術の紹介・模倣から自立へと歩む時期であったと位置づけて良かろうと思います。

この頃の指導的な化学者として、同書は次のような人物を挙げて紹介しています。

  • 真島利行(1874-1962) 有機化学
  • 朝比奈泰彦(1881-1975) 薬学
  • 鈴木梅太郎(1874-1943) 農芸化学
  • 大幸勇吉(1867-1950)、片山正夫(1877-1961) 物理化学
  • 柿内三郎(1882-1967) 医化学→生化学

いずれも、それぞれの分野におけるビッグネームですが、これらの人々は日本で教育を受け、研究に携わった後に欧米の大学に留学して、ギーセン大学でリービッヒが開始したような実験室を通じて教育と研究を進めるというスタイルでそれぞれの研究を深めて帰国し、研究を発展させていった、という特徴を持っています。一言で言えば研究を深めるために留学しており、学ぶために留学していた明治初期の国費留学生とはだいぶ異なる様相を示しています。このあたりも、紹介から自立へという変化を表していると考えます。

例えば真島利行(*1)は、1874(明治7)年に京都市に生まれ、京都府中学を経て第一高等学校に入学、東京帝国大学理科大学を卒業後、同大助手、1903年から助教授となり、1907年から留学します。真島の研究テーマは漆の化学成分で、留学先は、いずれもリービッヒの弟子またはその門下生にあたり、ドイツのキール大学のハリエス教授(*2)と、スイスのチューリヒ工科大学のヴィルシュテッター教授です。ここで、真空度の高い減圧蒸溜法やオゾン酸化法、接触還元法などを取り入れ、帰国後に東北帝国大学理学部を拠点に、白金黒を触媒として水素気流中で接触還元するという方法で、1917年には漆の化学成分を突き止めます(*3,*4)。東洋の島国に生まれた若者が、ドイツに発する実験室を通じた教育と研究というスタイルで成長し、人種や国籍を越えて世界的な研究に到達するという、見事な実例です。

真島は、1911(明治44)年に東北帝国大学教授に就任していますが、この研究の最中の1913(大正2)年に、一つの「事件」が持ち上がっていたのでした。
(続く)

(*1):真島利行~Wikipediaの解説
(*2):Carl Dietrich Harries~Wikipediaの解説(ドイツ語)
(*3):真島利行の業績
(*4):化学遺産の第3回認定~眞島利行ウルシオール研究関連資料,久保孝史・江口太郎,『化学と工業』,2012年7月

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高等教育に注目するだけで良いのか

2016年06月16日 06時05分02秒 | 歴史技術科学
明治維新の後、学校教育は小学校と師範学校を重点にして開始されました。この点、少数のエリートに高度な専門的教育を施すのではなく、小学校からスタートし、師範学校で核となる教師養成を行うという行き方をとったことになります。これは、身分制の撤廃という政治的なねらいだけでなく、教育の面からも特徴的です。つまり、レベルの高さではなくまず広がりを重視することで、全体の底上げを図り、続いて高等教育のレベルアップを図っていくという方向性です。


(ヘンリー・ダイアー)

この発想は、技術者養成の面でも発揮されました。1873(明治6)年に来日した工部大学校の都検(実質的には校長)のヘンリー・ダイアーは、外国人教師の代わりを勤められる指導者を養成するという高等教育の目標の他に、技術者養成の観点から、中級エンジニア層の形成を目標にした技術者養成の教育を提言します(*1)。工部大学校や帝国大学等の高等教育機関で養成できる上級技術者の人数は、語学のハンデもあって、限りがあります。しかし、実際に現場で必要とされる、従来技術の職工や技能者を指示・指導できる中級技術者の数は、桁違いに多くなると予想されたのです。

実は、高等教育だけでなく、横須賀造船所における横須賀黌舎(こうしゃ)や、灯台寮・電信寮・勧工寮などの寮(今風に言えば省庁)ごとに技手を養成するための修技学校などが作られていました。たとえば電信修技学校では、明治3年から工部省が閉鎖される明治15年までに、1,239名の卒業生を送り出し、全国の電信網の建設・維持・運用を担っていたとのことです(*1)。これは、工部大学校や帝国大学の関連学科の卒業生人数と比較して、たいへん多いものでした。

また、東京職工学校は、工部大学校とは別に、中等程度の実用的な技術教育の必要性から1881年に作られた、修業年限三年の官立の学校です。ここでは、東京大学理学部を卒業した日本人教員を中心にして、機械工学科と化学工芸科、陶器玻璃工科を通じ、伝統的工芸を近代産業へと移行させる結果を導きました。
この初代校長となった正木退蔵(*2)は、1846(弘化3)年に萩藩士の家に生まれましたが、1870(明治3)年に井上馨とともに上京し、翌1871(明治4)年に英国に留学します。留学先はロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジの化学教室であり、やはりウィリアムソン教授の世話になりながら、実験室を通じた化学教育を受けます。正木退蔵は、1874年まで三年間英国に滞在しますが、ここでアトキンソンに出会い、帰国後はともに開成学校で化学を教えます。その後、再び英国留学をした後、帰国して東京職工学校の校長となります。従来の職工のイメージから、校名が災いした面もあり、学生募集と学校運営に苦労したようですが、目標とした中級技術者の育成の課題は、着々と果たされたといえるようです。
そしてここでも、工部大学校や帝国大学で実験室教育を受け現場実習を経験し養成された人たちのうち、国費留学生に選ばれなかった人たちが指導者となり、実験室や実習室を通じた教育を日本語で実施しています。

当時の日本の教育は、高等教育から中等教育・職業教育まで、理論学習と実験・実習室を通じて集団教育を行い、仕上げには現場実習を課すという、徒弟制にはない、理論と実習を併せ持つ画期的なシステムでした。今では当たり前のことですが、明治期の世界の状況を見れば、注目すべき画期的なものであったと言えます。英国に帰国したダイアーが、東洋の島国の技術水準の向上を教育を通じて予見した(*3)ように、当時の識者の注目を集めたもののようです。

また、時代はだいぶ後になりますが、農業においても農林学校教員を養成するための機関として農業教員養成所等の機関が作られました。記念の写真集を見ると(*4)、こちらも実験室・実習室を備えており、理論学習と実験実習とが並行して行われる点で、共通の特徴を感じます。




ちなみに、次の写真は、当時の東京帝国大学の総長だった古在由直の肖像です。古在「由直」が「直由先生」になっています。


以下、実験室・実習室の写真です。





(*1):中岡哲郎『日本近代技術の形成』p.435、朝日新聞出版、2006
(*2):沼倉研史・沼倉満帆「東京職工学校初代校長・正木退蔵の経歴と業績~『英学史研究』No.19,(1987)
(*3):ダイアー『大日本』~「超読み日記」より
(*4):「農科大学農業教員養成所・卒業記念写真帖」、大正15年3月

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文明開化とは言うものの~技術が支持され普及する理由

2016年02月07日 06時01分24秒 | 歴史技術科学
開国と明治維新によって、国策として導入し始めた西欧の科学技術は、明治の日本社会に無条件に受け入れられたわけではありませんでした。好奇心から新しいものに手を出しても、現実に適合しなければ、やがて捨てられるのが世の常です。例えば明治期の繊維産業における染色技術を例に取ることで、西欧の技術が受け入れられた理由を推測することができます。

絹や羊毛などの動物繊維は、紅花だけでなく塩基性アニリン染料によく染まり、鮮やかな色に発色します。これに対し、木綿や麻などの植物性繊維は、塩基性アニリン染料では染まりにくく、水洗いすれば色落ちしてしまいます。すでに江戸末期に輸入されていた染粉(化学染料)は、草木染の地味な色や、藍染めの複雑で面倒な工程と高経費を改善するものとして期待されたのでしたが、実際は水洗いすると色落ちしてしまうために、粗悪な「まがい物」として認識されており、文明開化とはいうものの、塩基性アニリン染料など化学染料に関する技術は、ひろく社会に受け入れられる状況にはなかったようです。

1885(明治18)年、農商務省主催で、東京上野公園において、繭糸織物陶磁器共進会が開催されます。ここでは、出品物の展示と表彰だけでなく、技術的啓蒙のための講話と経験交流のための集談会が開催されました。織物分野では、粗悪な「まがい物」が跋扈し問題となっていた染色の問題を背景に、三人の技術者が話しています(*1)。
その三人とは:

  • 山岡次郎 維新直後の福井藩推薦米国留学者で、コロンビア大学鉱山学部等で化学及び染色法を修め、明治8年6月に帰国して文部省督学局に採用され、開成学校、次いで明治10年に東京大学助教授として化学及び染色法を教える。明治14年より農商務省御用掛。この集談会のプロデューサー的な役割。
  • 平賀義美 福岡県出身。長崎で英学を修め、明治3年に福岡藩貢進生として大学南校に入学、外国人教師の化学実験に感動して化学を志し、旧福岡藩主の給費生として英国留学、オーエンス大学で染色術を専攻。1881(明治14)年に帰国したばかりの新帰朝者。翌年に平賀家の養子となり改名。兵庫県川西市に実験研究棟・化学実験室付きの英国風西洋館である旧平賀邸が残る。

     (Wikimedia commons より「川西市郷土館」)
  • 高松豊吉(*2) 貢進生として大学南校・開成学校・東京大学理学部化学科に入学、アトキンソンに化学を学ぶ。1879(明治12)年~1882(明治15)年まで英国マンチェスターのオーエンス・カレッジでロスコウから無機化学を、ショルレンマーから有機化学を学び、ドイツのフンボルト大学ベルリンに転学、ホフマンに師事して応用化学を修めた。染料化学の新帰朝者である。

     (晩年の高松豊吉~Wikipediaより)

     (高松豊吉らを指導したカール・ショルレンマー~Wikipediaより)

というもので、いずれも理論と実験と通じて化学を学ぶという共通の経歴を持つことが注目されます。

この集談会の主要なテーマは、当時の中心的産業でありながら、粗悪な製品が染織物全体の評価を下げている染織業の現状に対し、紅花染には高い評価を与えつつ、基礎知識と技術の確立を目指すものでした。具体的には、

  • 色素には「永存スル」ものと「永存セザル」ものとがあること(染料の性質)
  • 繊維ごとの染色特性の違い、媒染剤と染色堅牢度などの基礎知識
  • 染色化学の習得とその上に立つ技術の練磨が急務であること

などを説きます。同時に、高松と平賀がアリザリンを中心に媒染剤に応じて鮮やかに色を変える技術を示したことは、聴く者に強い印象を与えたことでしょう。

確実な知識と技術の有効性が、染織業の振興の基礎となっていること、担い手となる技術者を養成する職工学校の設立と、指導する大学出身の化学者の存在が、当時の社会に印象深く受容されたことでしょう。すなわち、文明開花や当時の大学の権威は、国家の威信のゆえではなく、産業技術として有効だったために一般社会から信頼と尊敬をかち得ていたのだろう、ということです。このことから、新しい技術や科学思想などが社会に広く受容されるのは、一定の有効性が実際に示され、そしてそれが在来産業の技術進歩にも貢献したからではないか、という一般化ができそうに思えます。

(*1):中岡哲郎『日本近代技術の形成』(p.169~171)
(*2):高松豊吉~Wikipediaの記述。なんでも、お笑い芸人の たかまつ・なな さんの曽祖父にあたるそうです。

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