電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩。時々は実際に散歩を楽しみます。

戦中期~終戦直後における旧制高校の実験室

2017年11月14日 06時01分28秒 | 歴史技術科学
戦中期の大学における実験室の様子を、いくつかの回想記をもとに探ってきましたが、大学以外の、他の学校ではどうだったのか。旧制六高の名物教授であった山岡望氏の伝記(*1)をもとに、旧制高等学校のエピソードをひろってみたいと思います。

山岡望氏は日本化学会の第1回化学教育賞を受賞した教育者で、1892(明治25)年に三重県津市の教会牧師・山岡邦三郎・ハル夫妻の三男として生まれました(*2)。父が牧師を辞め民間会社に転じたため大阪へ転居、13歳で府立岸和田中に入学します。兄を追って1910(明治43)年に第一高等学校に入学し、3年後の1913(大正2)年に東京帝國大学理科大学化学科に入学しますが、この一高~東大時代の同期に矢内原忠雄がおり、親友となります。山岡は『向陵三年』という書物を書き、これに「わが敬愛する矢内原忠雄兄にこの小著を贈る 山岡望」との献辞を添えて贈っているとのことです(*3)。
理科大学化学科には、このとき桜井錠二、池田菊苗、松原行一の三教授と、柴田雄次助教授が在籍しており、山岡はオストワルド門下でライプツィヒ大学仕込みの池田菊苗教授の下で有機化学を専攻します。ところが、1915(大正4)年、23歳の山岡は重い肋膜炎にかかり、35日間東大病院に入院し、半年ほど休学することを余儀なくされます。翌1916(大正5)年にようやく卒業しますが、研究者としての道ではなく、岡山の旧制第六高等学校に講師として赴任することになります。24歳の山岡にとっては一つの挫折ではあったでしょうが、翌年に正式に教授に昇任し、講義と化学実験室の経営にあたる六高の名物教授という、ある意味で幸福な生活を送るスタートとなります。


 昭和15年夏、旧制六高化学実験室における3年生の定性分析 (『山岡望傳』p.89より)

「Be Prepared」(常に準備せよ)というYMCAのモットーに基づき丹念に準備された講義実験と、化学史上のエピソードや名詩句をちりばめた講義は評判を呼び、情熱を持って取り組んだ学生実験室は様々な工夫がなされ、ここから多くの俊秀が巣立っていきましたが、1937(昭和12)年には矢内原忠雄が東大を追われ、1940(昭和15)年には六高校友会に所属する学内団体はすべていったん解消し、あらためて六高報国会として再組織されるなど、時局は戦争への道を進み始めます。山岡を中心とした私的なサークルであった六稜会は、校友会に所属していなかったために再編を免れますが、この時期について山岡は後に次のように回想しています。

--Inter arma silent musae, 武具の間にあっては学芸は沈黙する--
Hoffmann が好んで引用する古い言葉でありますが、例の大戦争の時にも学生たちは学問を棄てて武器を取らねばならず、戦線に赴かぬ者たちも工場やら農村に出向いて銃後を固めねばなりませんでした。六高は瀬戸内海に臨む玉野市の三井造船所に動員して働いておりました。しかし学問を棄ててしまうわけには参りません。作業の合間に教授たちが出張して行って補習の授業をやっておりました。 (『山岡望傳』p.363)

生涯独身を貫き、化学教育に生涯を捧げた山岡は、戦争が終結し再び学生実験ができる日を待ち望んでいたことでしょう。しかし1945(昭和20)年、岡山大空襲により、旧制六高も、山岡が心血を注いだ実験室も、そして自宅も、みな焼失してしまいます。

終戦後、焼け残ったコンクリートの化学天秤室に寝起きして、山岡は講義を再開すべく準備し始めます。昭和22年、講堂、普通教室、寮、食堂などは復興していましたが、学生実験室はありません。講義実験だけでは満足できない、早急に学生実験を実施したいと考え、始められたのが青空の下の化学実験でした。

化学の分析の実習は昭和22年の秋から強行した。暗室前の中庭に半壊の銃掃除台を4~5台並べて塩類の分析を始めた。アルコール燈4個、水道は1個。これでクラス80人が同時に実験する。試薬は足りない、ビンやガラス器は更に足りない。強引きわまる青空実験室である。(同,p.174)

この状況を経験した教え子たちは、このように回想しています。

当時は教育界も混乱の時代であった。その中にあって山岡先生の授業だけがさまざまな物質的、精神的な困難にもかかわらず、整然かつ親密に行われていたのはむしろ不思議なくらいであった。(同p.175)

化学の教育の本質は実験室にあると明治の先人たちが伝えたリービッヒ流の教育の思想と方法は、山岡望の情熱に鼓舞されながら、終戦後の焼け跡の中から再び立ち上がります。

(*1):山岡望傳編集委員会『山岡望傳』(内田老鶴補)
(*2):この件、「ことバンク」では父の名を邦三と誤記。また長男は出生後すぐに亡くなっていますので、実質的には次男です。
(*3):表紙 向陵三年

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閑話休題:配属将校の評判

2017年11月09日 06時04分26秒 | 歴史技術科学
戦前・戦中期の実験室のようすを調べるために、様々な回想記を読んでいると、配属将校への不満やあてこすりが多いことに気づきます。理屈っぽい理系人間だけでなく、大正デモクラシーの雰囲気を持った文系の人たちも、どうやら配属将校に強烈な不満を感じた人が多かったようです。確かに、学生の軍事教練が必修科目となり、理学部の化学教室前のペーブメントに学生を並べて「エイッ」「エイッ」と銃剣術等の訓練を強制するわけですから、場違いな感じは否めません。それに不服を言うとどうなったのかは記されていませんでしたが、一つだけ、亡父から聞いた事例がありました。

当方の高校時代(大阪万博前後)は大学紛争が高校にも影響を及ぼしていた時期で、ご多分にもれず「制服廃止運動」が起こっていました。制服廃止論者の主張は、「学生服は軍国主義の遺産であるから廃止すべきだ」というものでした。このときの生徒総会の様子を夕食時に話題にしたら、当時40代後半だった父が、こんなエピソードを教えてくれました。

山形県の村山農学校は、主として自営農家の子弟に農業を教える中等教育機関でした。亡父がこの学校に在学していたとき、いつも威張って嫌われていた配属将校から「学生服を廃止し、国民服を着用するべし」という提案が職員会議に出されたそうです。これに対して、M先生が反対意見を出します。「学生は学生服が一番だ。国民服など、あんなクソ色の服を学生に着せるのは反対だ」と言ったのだそうです。配属将校は「貴様!クソ色とは何だ!クソ色とは!」と烈火のごとく怒り、結局は国民服の着用が決まってしまった、とのことでした。M先生は学校にいられなくなり、まもなくおやめになってしまったそうです。

離任式等が行われたのかどうか不明ですが、職員会議の様子が学生に伝わっていたということは、他の先生の中に事情を教えてくれた人がいたということでしょう。配属将校への不満や、大政翼賛体制の下でなし崩しに進行する「会議等の手続き的には問題の無い」強制への不満などが、古き良き時代を知る師弟の間に共通する感覚だったのかもしれません。亡父にとって学生服は、むしろ平和な時代のシンボルだったようです。実は私自身が後にM先生の息子さんの知遇を得ることとなり、お父上のこのエピソードをお伝えしたところ、たいへん驚いておられました。実験室とは何の関連もありませんが、書き残したいと考えたところです。

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戦中期の実験室の様子を示唆するもの

2017年11月01日 06時04分28秒 | 歴史技術科学

太平洋戦争中、大学の研究室は様々な形で軍の体制に組み込まれ、悪い意味での「選択と集中」が強制されました。戦中期の実験室に関する記録を目にすることが少ない理由には、一つには学徒動員などで学生が減少していたこと、また促成教育や勤労動員の補習教育などが中心となり、自由な雰囲気の研究などはほとんどできなかった、ということなのでしょう。いくつかの回想記から、戦中期の実験室の様子をひろってみました。

『東北化学同窓会報・東北大学化学教室八十周年記念号』に転載された安積宏「戦争中の學生」によれば(p.91)、戦争不拡大方針のはずだったのにもかかわらず満州事変は次第に深入りしていき、昭和14年には学生の軍事教練が事実上必修課目となり、大学には配属将校の人数が急に増えていきます。日独伊三国同盟が結成された昭和15年には大政翼賛会が結成されますが、例えば(旧制)高等学校の校友会に所属する学内団体はすべていったん解消され、あらためて校長を団長として全教授を指導者とする全校一体の報国団が組織された(*1)ように、昭和16年には大学においても報国隊が作られます。これは、例えば東北大学理学部が第一大隊を組織し、数学と物理が第一中隊、化学と地学が第二中隊、助教授クラスが中隊長を命じられ、その組織に対して勤労動員の命令が下りる、というものでした。昭和18年には学生の徴兵猶予が廃止され、法文系の学生は学業を半ばにして戦場に出ていくことを余儀なくされます。昭和19年には、理科系の学生にも学徒勤労動員が決まります。
(写真は、大政翼賛会本部)

この頃の元学生の文章として、同『八十周年記念号』に掲載された武者宗一郎「世紀会万々歳」(昭和18年卒)には、次のような記述があります。
「…天下寛しとは言え、我が化学教室において、在学二年半を以て学業を全うせるは我等『世紀会』を置いて他に類を見ざるも我等満を足せず。これ豈はからんや東条英機の愚見によるなり。(略)」(p.287)
事実上、大学教育の実質的停止に相当したのではないかと思われます。

では、大学における研究活動のほうはどうだったのか。よく技術の画期的進歩の理由として戦争がきっかけになる例が指摘されます。原子力の研究と原子爆弾の製造が代表的な例でしょう。しかし、戦争に伴う「選択と集中」は、必ずしも科学技術を画期的に進歩させるとは限りません。その例として、東北大学工学部の電気工学科で研究されていた八木アンテナの原理等を用いた「電探」の技術開発が挙げられます。日本で先に研究が始まりながら英米で先にレーダーとして実用化され、ミッドウェー海戦等で日本軍が甚大な被害を被ったわけですが、その理由は軍部と政治家が主導した「選択と集中」が実情に合わず矛盾したものだったからではなかったか。

『同八十周年記念号』に掲載された塩浜喬「学徒動員と私達」(昭21卒)によれば、氏と同級生の二人が海軍からの委託研究で、「コンデンサー用絶縁油の合成」を担当したそうです。これは、電波探知機に使うもので、戦闘機にも積める小型のもの、そして高空でも性能が劣化しないものを、と要求されていました。o-ジクロルベンゼンとデカリンが縮合した物質で、合成過程の大要はできていたそうですが、工場から渡された材料の純度が60%と劣るため、発煙硫酸でスルホン化して不純物を除去しようと考え、発煙硫酸の手配を申請します。ところが、その回答は


「しかしながら、現下の情勢では、遺憾ながら発煙硫酸は支給できない。別の方法を工夫してやって欲しい。」
「でも…」
「解っとる。説明はいらない。無いものは無いのであるからして、是非大和魂で合成して呉れたまえ。」


というものでした。試薬がなく大和魂で化学合成ができるわけがありません。おそらく当時の工業生産の状況は、発煙硫酸の生産さえできないか、あるいは開発研究になどまわせないところまで停滞していたのでしょう。「電探」という軍事的要請度の高いはずの海軍の委託研究すらこの状況ですから、科学研究を軽視し研究費を抑制・削減し、優秀な人材を兵卒として前線におくるという軍政の矛盾がこうした結果を招いたのは必然のように思います。

(*1):山岡望傳編集委員会『山岡望傳』(内田老鶴圃)

【追記】
日本化学会編『日本の化学 100年のあゆみ』によれば(p.98)、化学会誌のページ数の変化について、次のようなデータを載せています。

誌名 昭19 昭20 昭21 昭22 昭23
日本化学会誌  712   66   67  110  181
Bull.Chem.Soc.Japan  216     0     0   26   77
工業化学雑誌  994   92  198  198  168


戦争が、ある一部の技術を進歩させた面があるのは否めないでしょうが、日本の戦中期に関しては明らかに停滞していることが、この論文等のページ数に現れていると言えます。

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小学校に理科実験室ができ始めた時期

2017年10月07日 06時02分02秒 | 歴史技術科学
1980年代頃でしょうか、日本の学校教育を視察に訪れた視察団が驚いたことの一つに、「小学校にも理科実験室が整備されている」ことが挙げられていました。たしかに、中学校や高校以上では、諸外国、とくに先進諸国では物理・化学や生物などの実験室と準備室が整備されているのは珍しいことではありませんが、小学校でもとなるとたしかに珍しいことでしょう。おそらくは、日本の高度経済成長や Japan as No.1 と言われた当時の科学技術の強さの秘密を探ろうとしてやってきた視察団の目には、印象的なこととして映ったに違いありません。

では、日本で小学校に理科実験室ができ始めた時期はいつ頃なのか。山形県内を中心に調べてみると、次のようなことがわかりました。
まずは、見当たらないことがわかっているケースです。

  • 明治9年、鶴岡の朝暘学校の平面図には、教場や試験場などの記載はありますが、理科実験室など特別教室はありません。
  • 明治17年、写真のように、河北町立谷地小学校の校舎平面図には理科実験室など特別教室はありません。

  • 明治22年、山形市立第一小学校の前身である山形市中部高等尋常小学校の校舎平面図にも、理科実験室など特別教室の記載はありません。
  • 明治30年、河北町立谷地小学校の増築時にも、児童数の増加に対応して教室と裁縫室、講堂などが増築されていますが、理科室はありません。

  • 明治33年に落成した山形市立第三小学校(現在名)の校舎平面図にも、理科実験室の記載はありません。
  • 明治36年に河北町立南部小学校が独立開校したときも、明治41年に同西部小学校が独立開校したときにも、校舎平面図には理科室はありません。

  • 大正2年の山形市立明治小学校(現在名)の平面図にも、大正13年の増築平面図、昭和5年の改築平面図にも、理科実験室の記載は見られません。

次は、理科実験室の存在がわかる例です。

  • 大正3年、現在の山形大学附属小学校の沿革に、山形女子師範附属小学校に「理科室を特設する」という記述があります。大正8年の付属小学校の写真帳の中には、児童の理科実験の様子を撮影したものがあります。
  • 昭和2年、山形市立第一小学校の大改築が行われ、東北初のコンクリート校舎が完成しますが、この平面図に理科実験室の記載があります。
  • 昭和11年、河北町立谷地中部小学校の移転改築の際に、理科実験室と準備室が作られています。
  • 昭和14年、山形市立第三小学校の新校舎平面図に、理科実験室の記載があります。

また、山形県外でこれに類した情報を集めようと試みましたが、小学校の場合はなかなか難しいようで、あまり進んでおりません。その中でも、

  • 現在の大阪府豊中市立原田小学校の沿革中に、「昭和2年 創立、昭和3年 講堂・理科室・倉庫等 増築」との記載あり。
  • 明治12年に開校した三重県四日市市立八郷小学校の沿革中に、「昭和8年 2階建て特別教室(理科・図工・音楽・裁縫)の増築」との記載あり。

などが確認できました。

これら数少ない例から一般化するのはなかなか難しいのですが、大正期の児童中心主義の思潮による影響もあってか、大正時代に師範学校の付属小学校などが理科実験室を備えるようになり、昭和に入って、財政力のある都市部の小学校が理科実験室を備えるケースが出てきたけれど、この時期に大多数の小学校が理科実験室を備えるまでには至らなかった、と結論付けたいと思います。

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東北帝大を卒業した黒田チカのその後と理研

2017年07月15日 06時05分56秒 | 歴史技術科学
帝国大学初の女子学生となった三人の一人、黒田チカの生涯は、「黒田チカ 理研」などで検索すると、理化学研究所の広報ページに、YouTube に登録された短編映画にリンクされており、探すことができます。ここでは、黒田チカの生涯と業績、生前の声、考え方などが簡潔に紹介されています。佐賀に生まれた明治の民権派藩士の娘が、父母の理解を得て教育を受け、化学者として成長していったこと、途中、女子排斥運動だとか不愉快なことも少なくなかったことでしょうが、1916(大正5)年に東北帝国大学を卒業、日本初の理学士となります。真島利行が結晶化に成功した紫根の色素について、副手として構造研究をつづけ、東京化学会(現在の日本化学会)で『紫根の色素について』発表を行いますが、これは日本初の女性理学士による発表でした。

その後、1921(大正10)年に文部省外国留学生として英国オックスフォード大学へ留学しますが、その時の研究テーマには、「家事」の語を入れなければならなかったそうです。天然物色素の分子構造を決定しようとする研究者に対して、「家事」の語を入れなければ留学を認めないとは、いかにも帝国大学に女子の受験を認めようとしなかった、当時の文部省らしい対応ではありますが、留学期間を終えて、黒田チカは1923(大正12)年に米国経由で帰国します。帰国後は東京女高師で講義をするとともに、恩師・真島利行によって理研への道が開かれます。

当時の理研(理化学研究所)は、1917(大正6)年に創立された我が国の有数の研究機関であり、初代総裁が渋沢栄一、初代所長が菊池大麓でした。1921(大正10)年に、第三代所長に就任した大河内正敏により大きな改革を受け、研究者の自由な楽園と言われる理研の伝統が開始されます。1922(大正11)年に主任研究員制度が発足し、研究室を持っていた真島利行のもとで、黒田チカは紅花の色素の構造研究を行います。現代のようなNMRなどの機器分析の手段を持たない時代に、地道に実験を積み重ね、ベニバナの色素カーサミンのほぼ正確な構造決定に成功します。その業績から1929(昭和4)年に学位を受け、女性として2人目の理学博士となります。戦後は、東京女子高等師範学校を前身とするお茶の水女子大学の教授をつとめ、タマネギの成分ケルセチンの血圧降下作用を発見するなど、「物に親しむ」「物に語らせる」ことを一貫して追求しながら、後進の指導にもあたりました。



真島利行と黒田チカの師弟を通じて、側面から理研(理化学研究所)の成立と初期の発展の様子を簡単に眺めましたが、明治の実験室と研究・教育システムの移植の時期を過ぎて、大正期に科学研究の自立が進み、世界に伍したレベルの研究が行われるようになっていたこと、大学以外の専門研究機関が成立したことを示しています。また、「研究に男女差はない」とする理研の戦前からの伝統が生まれたきっかけは、やはり黒田チカらの実績によるところが大きい(*)と思われます。

(*):この点については、のちにSTAP細胞をめぐる一連の事件が起こりますが、このあたりは「再現が可能」で「検証可能」であることを求められる実験科学の根本が満たされないだけでなく、「実験ノートに記録がない」という時点で、お粗末な結末が予想できるものでした。

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帝国大学に入学した女性たち

2016年10月11日 20時22分33秒 | 歴史技術科学
世間の注目を浴びながら、初めて帝国大学に入学した三人の女性たちは、それぞれどのような経歴であったのかを調べると、当時の女性の高等教育の状況が見えてきます。

黒田チカ(*1)は、1884(明治17)年に九州の佐賀に生まれました。理解ある父のもとで育ち、17歳で佐賀師範学校を卒業、一年間の奉職義務を終えて1902(明治35)年に東京の女子高等師範学校に進みます。このとき、理科の実験は学校でなければできないという理由から、理科を受験したとのことです。明治30年代の師範学校の教育の中に、実験室を通じた教育が影響力を及ぼしている例が、ここにも見られます。1890(明治23)年に、師範学校教員の養成のために設立されていた東京女高師では、東京大学卒の平田敏雄教授が理論化学を担当していました。黒田チカは、平田教授の指導を受けながら酒石酸の光学異性や染料と染色などに惹かれます。1906(明治39)年に東京女高師を卒業した黒田は、福井師範学校女子部に理科教師として奉職します。福井での教師生活は活気あるものでしたが、翌1907(明治40)年に保井コノ(生物)に続く二人目の官費研究科生として母校に呼び戻されます。平田教授の下で講義の準備や実験助手をしながら化学の教科書を原書で読み、二年間の研究科生活を終え、東京女高師の助教授となります。25歳でした。

この頃、東京女高師には、東京大学医学部の長井長義も講師として指導にあたっていました。黒田は長井教授の実験助手もつとめながら、直接に指導を受けます。長井教授は黒田チカの実力を認め、1913(大正2)年に高等工業学校や高等師範学校卒業者、中等教員検定試験合格者に受験資格を与え、女子にも門戸を開放するという制度を創設した東北帝国大学理科大学化学科への受験を勧めます。実は、長井長義は明治34年に創立された日本女子大学校に、自ら設計した階段教室や化学実験室を備えた香雪化学館を作り、化学の教授をつとめていました。ここでは、1873(明治6)年・鹿児島生まれの丹下ウメ(*3)が長井教授の実験助手として働いており、長井教授は、幼時に右目を失明しながら29歳で日本女子大学校の第一期生として入学、最年長で優秀な成績を収めた丹下ウメに中等教員検定試験を受けさせ、これに合格するとさらに東北帝国大学理科大学化学科への受験を勧めます。丹下ウメは40歳でした。

東京女高師からは、もう一人、牧田らく(*4)が数学科を受験しており、この年は東北帝国大学理科大学に三人の女子帝国大学生が誕生します。

「大正デモクラシーの時代」と言われる「時代の後押し」はあったでしょうが、入学までの経歴を眺めるとき、むしろ時代を切り開いた女性たちの迫力を感じます。と同時に、長井長義等の恩師の存在が大きいことにも気づかされます。


(*1):黒田チカ~Wikipediaの解説
(*2):君川治「女性化学者・黒田チカ」~On Line Journal「ライフビジョン」日本科学技術の旅より
(*3):「農学博士・化学者 丹下ウメ」~On Line Journal「ライフビジョン」日本科学技術の旅より
(*4):都河明子「牧田(金山)らく(数学者、1888-1977)ー妻としての選択」

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帝国大学に初めて女子が受験、入学する

2016年10月10日 09時28分40秒 | 歴史技術科学
1907(明治40)年、分析化学の講義という職務のかたわらバイヤーやフィッシャーの論文を読破し、漆の有機化学を志していた東京帝国大学の眞島利行助教授でしたが、留学するにあたって上司の桜井錠二教授が命じたのは「無機化学の研究」でした。そのために、最初の留学先はチューリッヒのウェルナー教授の下となる予定でした。ところが、入学手続きもすまないうちに桜井教授から電報が届きます。それは、同年に仙台に新設されることとなった東北帝国大学に理科大学が設置され、そこで有機化学をやってよい、という内容でした。眞島はこれを「無上の幸せと思い」、ただちに漆の研究に不可欠な不飽和結合の位置決定のためにオゾン酸化法を開発したキール大学のハリエス教授のもとで研究することを決定し、留学生活を始めます(*1)。このあたりは、時の運と恩師のありがたさを感じたことと思われます。

明治44年9月12日付けの河北新報に掲載された沢柳政太郎の文章によれば、9月11日、東北帝国大学理科大学が数学、物理学、化学の三学科の授業を開始した、とあります。地質学科は準備が整わず、翌年開始の予定と付記されており、金百余万円を寄付した古河財閥ならびに土地および金十五万円を寄付した宮城県等に対して感謝の言葉を述べています(*2)。
化学科の初代教授は、

  • 眞島利行 有機化学
  • 小川正孝 無機化学  幻の元素「ニッポニウム」は、あともう少しで新元素発見につながる業績だった。
  • 片山正夫 物理化学  著書の『化学本論』は、宮沢賢治が法華経とともに机上に置いた愛読書であったとのこと。

の三名で、それぞれの研究室や学生実験室の他に、講義室、図書室、天秤室、封管爐室、製造室など、教育と研究のための設備を備えたものでした。

このように発足して間もない1913(大正2)年、文部省から東北帝国大学総長あて、一通の文書が舞い込みます。それは、同年に沢柳政太郎総長が女子の入学を受け入れることを表明したのに対して、東京女子高等師範学校でも化学を指導していた長井長義が勧める(*3)などにより三名の女子学生が受験することとなり、この新聞報道に対する一種の詰問状でした。現代風に直せば、次のようなものです。



発専八九
本年貴学理科大学入学志望者中数名の女子出願いたしおり候様(よう)聞き及び候(そうろう)ところ、右は試験の上選科・入学せしむる御見込みに候や。元来女子を帝国大学に入学せしむることは前例之無きことにて、すこぶる重大なる事件に之有り、大いに講究を要すところと存ぜられ候につき、右に関しご意見詳細に承知いたしたく、この段照会に及び候ところなり。
 大正二年八月九日
   文部省専門学校局長 松浦鎭二郎
東北帝国大学総長北條時敬殿

そして、この詰問状の欄外には「八月二九日、総長文部省へ出頭、次官へ面談済」という朱書きがあり、北條時敬総長がどのような約束をしたのかは不明ですが、当座の大学の意思を貫く形をとって決着したようです(*4)。

こうして入学したのが、次の三名でした(*5)。

  • 黒田チカ(*6) 東京女子高等師範学校、化学科
  • 牧田らく   東京女子高等師範学校、数学科
  • 丹下ウメ   日本女子大学校(香雪化学館)、化学科


(*1):櫻井英樹「眞島利行先生」,『東北化学同窓会報・化学教室創立八十周年記念号』,p.54,1992(平成4)年3月
(*2):沢柳政太郎「東北帝國大学」,『東北化学同窓会報・化学教室創立八十周年記念号』,p.8-9,1992(平成4)年3月
(*3):明治初期の留学生の行先~「電網郊外散歩道」2015年2月
(*4):女子学生受験についての文部省からの詰問状,『東北化学同窓会報・化学教室創立八十周年記念号』,p.13,1992(平成4)年3月
(*5):女子学生の歴史~東北大学女子学生入学百周年記念事業
(*6):去華就実と郷土の先覚者たち・第29回~黒田チカ

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明治~大正期の日本の化学研究の状況~紹介から自立へ

2016年10月09日 06時41分00秒 | 歴史技術科学
日本化学会が創立百周年を機にまとめた新書判の小冊子『日本の化学 100年のあゆみ』(日本化学会編・井本稔著)に、興味深いデータが掲載されています。それは、明治13年から44年までの東京化学会誌と興行化学雑誌に掲載された報文数の推移のグラフ(p.54、図2)と、大正元年から昭和15年までの同誌及び欧文誌"Bulletin of the Chemical Society of Japan"に掲載された報文数の推移のグラフ(p.65、図1)です。これによれば、

  • 明治期において、年間の報文数は10編程度から二誌あわせて50編程度まで増加した。
  • 大正期、とくに大正末期から報文数が顕著に増加し、100編を越えるようになる。

ということがわかります。とくに大正期の増加は工業化学雑誌で著しく、第一次大戦による日本経済の向上を反映しているものと考えられます。

『日本の化学 100年』によれば、研究の内容面からは「衣料資源がないならば化学繊維を、肥料と軍事力のためにはアンモニアを、一朝有事の際には自力で医薬や染料を」(p.78)という目標からもわかるように、軍事的・帝国主義的な色彩を強く持っていたことが指摘されますが、また一方では、基礎となる基礎化学の必要性が認識されていったことも確かでしょう。大正期が、西欧の進んだ科学技術の紹介・模倣から自立へと歩む時期であったと位置づけて良かろうと思います。

この頃の指導的な化学者として、同書は次のような人物を挙げて紹介しています。

  • 真島利行(1874-1962) 有機化学
  • 朝比奈泰彦(1881-1975) 薬学
  • 鈴木梅太郎(1874-1943) 農芸化学
  • 大幸勇吉(1867-1950)、片山正夫(1877-1961) 物理化学
  • 柿内三郎(1882-1967) 医化学→生化学

いずれも、それぞれの分野におけるビッグネームですが、これらの人々は日本で教育を受け、研究に携わった後に欧米の大学に留学して、ギーセン大学でリービッヒが開始したような実験室を通じて教育と研究を進めるというスタイルでそれぞれの研究を深めて帰国し、研究を発展させていった、という特徴を持っています。一言で言えば研究を深めるために留学しており、学ぶために留学していた明治初期の国費留学生とはだいぶ異なる様相を示しています。このあたりも、紹介から自立へという変化を表していると考えます。

例えば真島利行(*1)は、1874(明治7)年に京都市に生まれ、京都府中学を経て第一高等学校に入学、東京帝国大学理科大学を卒業後、同大助手、1903年から助教授となり、1907年から留学します。真島の研究テーマは漆の化学成分で、留学先は、いずれもリービッヒの弟子またはその門下生にあたり、ドイツのキール大学のハリエス教授(*2)と、スイスのチューリヒ工科大学のヴィルシュテッター教授です。ここで、真空度の高い減圧蒸溜法やオゾン酸化法、接触還元法などを取り入れ、帰国後に東北帝国大学理学部を拠点に、白金黒を触媒として水素気流中で接触還元するという方法で、1917年には漆の化学成分を突き止めます(*3,*4)。東洋の島国に生まれた若者が、ドイツに発する実験室を通じた教育と研究というスタイルで成長し、人種や国籍を越えて世界的な研究に到達するという、見事な実例です。

真島は、1911(明治44)年に東北帝国大学教授に就任していますが、この研究の最中の1913(大正2)年に、一つの「事件」が持ち上がっていたのでした。
(続く)

(*1):真島利行~Wikipediaの解説
(*2):Carl Dietrich Harries~Wikipediaの解説(ドイツ語)
(*3):真島利行の業績
(*4):化学遺産の第3回認定~眞島利行ウルシオール研究関連資料,久保孝史・江口太郎,『化学と工業』,2012年7月

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高等教育に注目するだけで良いのか

2016年06月16日 06時05分02秒 | 歴史技術科学
明治維新の後、学校教育は小学校と師範学校を重点にして開始されました。この点、少数のエリートに高度な専門的教育を施すのではなく、小学校からスタートし、師範学校で核となる教師養成を行うという行き方をとったことになります。これは、身分制の撤廃という政治的なねらいだけでなく、教育の面からも特徴的です。つまり、レベルの高さではなくまず広がりを重視することで、全体の底上げを図り、続いて高等教育のレベルアップを図っていくという方向性です。


(ヘンリー・ダイアー)

この発想は、技術者養成の面でも発揮されました。1873(明治6)年に来日した工部大学校の都検(実質的には校長)のヘンリー・ダイアーは、外国人教師の代わりを勤められる指導者を養成するという高等教育の目標の他に、技術者養成の観点から、中級エンジニア層の形成を目標にした技術者養成の教育を提言します(*1)。工部大学校や帝国大学等の高等教育機関で養成できる上級技術者の人数は、語学のハンデもあって、限りがあります。しかし、実際に現場で必要とされる、従来技術の職工や技能者を指示・指導できる中級技術者の数は、桁違いに多くなると予想されたのです。

実は、高等教育だけでなく、横須賀造船所における横須賀黌舎(こうしゃ)や、灯台寮・電信寮・勧工寮などの寮(今風に言えば省庁)ごとに技手を養成するための修技学校などが作られていました。たとえば電信修技学校では、明治3年から工部省が閉鎖される明治15年までに、1,239名の卒業生を送り出し、全国の電信網の建設・維持・運用を担っていたとのことです(*1)。これは、工部大学校や帝国大学の関連学科の卒業生人数と比較して、たいへん多いものでした。

また、東京職工学校は、工部大学校とは別に、中等程度の実用的な技術教育の必要性から1881年に作られた、修業年限三年の官立の学校です。ここでは、東京大学理学部を卒業した日本人教員を中心にして、機械工学科と化学工芸科、陶器玻璃工科を通じ、伝統的工芸を近代産業へと移行させる結果を導きました。
この初代校長となった正木退蔵(*2)は、1846(弘化3)年に萩藩士の家に生まれましたが、1870(明治3)年に井上馨とともに上京し、翌1871(明治4)年に英国に留学します。留学先はロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジの化学教室であり、やはりウィリアムソン教授の世話になりながら、実験室を通じた化学教育を受けます。正木退蔵は、1874年まで三年間英国に滞在しますが、ここでアトキンソンに出会い、帰国後はともに開成学校で化学を教えます。その後、再び英国留学をした後、帰国して東京職工学校の校長となります。従来の職工のイメージから、校名が災いした面もあり、学生募集と学校運営に苦労したようですが、目標とした中級技術者の育成の課題は、着々と果たされたといえるようです。
そしてここでも、工部大学校や帝国大学で実験室教育を受け現場実習を経験し養成された人たちのうち、国費留学生に選ばれなかった人たちが指導者となり、実験室や実習室を通じた教育を日本語で実施しています。

当時の日本の教育は、高等教育から中等教育・職業教育まで、理論学習と実験・実習室を通じて集団教育を行い、仕上げには現場実習を課すという、徒弟制にはない、理論と実習を併せ持つ画期的なシステムでした。今では当たり前のことですが、明治期の世界の状況を見れば、注目すべき画期的なものであったと言えます。英国に帰国したダイアーが、東洋の島国の技術水準の向上を教育を通じて予見した(*3)ように、当時の識者の注目を集めたもののようです。

また、時代はだいぶ後になりますが、農業においても農林学校教員を養成するための機関として農業教員養成所等の機関が作られました。記念の写真集を見ると(*4)、こちらも実験室・実習室を備えており、理論学習と実験実習とが並行して行われる点で、共通の特徴を感じます。




ちなみに、次の写真は、当時の東京帝国大学の総長だった古在由直の肖像です。古在「由直」が「直由先生」になっています。


以下、実験室・実習室の写真です。





(*1):中岡哲郎『日本近代技術の形成』p.435、朝日新聞出版、2006
(*2):沼倉研史・沼倉満帆「東京職工学校初代校長・正木退蔵の経歴と業績~『英学史研究』No.19,(1987)
(*3):ダイアー『大日本』~「超読み日記」より
(*4):「農科大学農業教員養成所・卒業記念写真帖」、大正15年3月

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文明開化とは言うものの~技術が支持され普及する理由

2016年02月07日 06時01分24秒 | 歴史技術科学
開国と明治維新によって、国策として導入し始めた西欧の科学技術は、明治の日本社会に無条件に受け入れられたわけではありませんでした。好奇心から新しいものに手を出しても、現実に適合しなければ、やがて捨てられるのが世の常です。例えば明治期の繊維産業における染色技術を例に取ることで、西欧の技術が受け入れられた理由を推測することができます。

絹や羊毛などの動物繊維は、紅花だけでなく塩基性アニリン染料によく染まり、鮮やかな色に発色します。これに対し、木綿や麻などの植物性繊維は、塩基性アニリン染料では染まりにくく、水洗いすれば色落ちしてしまいます。すでに江戸末期に輸入されていた染粉(化学染料)は、草木染の地味な色や、藍染めの複雑で面倒な工程と高経費を改善するものとして期待されたのでしたが、実際は水洗いすると色落ちしてしまうために、粗悪な「まがい物」として認識されており、文明開化とはいうものの、塩基性アニリン染料など化学染料に関する技術は、ひろく社会に受け入れられる状況にはなかったようです。

1885(明治18)年、農商務省主催で、東京上野公園において、繭糸織物陶磁器共進会が開催されます。ここでは、出品物の展示と表彰だけでなく、技術的啓蒙のための講話と経験交流のための集談会が開催されました。織物分野では、粗悪な「まがい物」が跋扈し問題となっていた染色の問題を背景に、三人の技術者が話しています(*1)。
その三人とは:

  • 山岡次郎 維新直後の福井藩推薦米国留学者で、コロンビア大学鉱山学部等で化学及び染色法を修め、明治8年6月に帰国して文部省督学局に採用され、開成学校、次いで明治10年に東京大学助教授として化学及び染色法を教える。明治14年より農商務省御用掛。この集談会のプロデューサー的な役割。
  • 平賀義美 福岡県出身。長崎で英学を修め、明治3年に福岡藩貢進生として大学南校に入学、外国人教師の化学実験に感動して化学を志し、旧福岡藩主の給費生として英国留学、オーエンス大学で染色術を専攻。1881(明治14)年に帰国したばかりの新帰朝者。翌年に平賀家の養子となり改名。兵庫県川西市に実験研究棟・化学実験室付きの英国風西洋館である旧平賀邸が残る。

     (Wikimedia commons より「川西市郷土館」)
  • 高松豊吉(*2) 貢進生として大学南校・開成学校・東京大学理学部化学科に入学、アトキンソンに化学を学ぶ。1879(明治12)年~1882(明治15)年まで英国マンチェスターのオーエンス・カレッジでロスコウから無機化学を、ショルレンマーから有機化学を学び、ドイツのフンボルト大学ベルリンに転学、ホフマンに師事して応用化学を修めた。染料化学の新帰朝者である。

     (晩年の高松豊吉~Wikipediaより)

     (高松豊吉らを指導したカール・ショルレンマー~Wikipediaより)

というもので、いずれも理論と実験と通じて化学を学ぶという共通の経歴を持つことが注目されます。

この集談会の主要なテーマは、当時の中心的産業でありながら、粗悪な製品が染織物全体の評価を下げている染織業の現状に対し、紅花染には高い評価を与えつつ、基礎知識と技術の確立を目指すものでした。具体的には、

  • 色素には「永存スル」ものと「永存セザル」ものとがあること(染料の性質)
  • 繊維ごとの染色特性の違い、媒染剤と染色堅牢度などの基礎知識
  • 染色化学の習得とその上に立つ技術の練磨が急務であること

などを説きます。同時に、高松と平賀がアリザリンを中心に媒染剤に応じて鮮やかに色を変える技術を示したことは、聴く者に強い印象を与えたことでしょう。

確実な知識と技術の有効性が、染織業の振興の基礎となっていること、担い手となる技術者を養成する職工学校の設立と、指導する大学出身の化学者の存在が、当時の社会に印象深く受容されたことでしょう。すなわち、文明開花や当時の大学の権威は、国家の威信のゆえではなく、産業技術として有効だったために一般社会から信頼と尊敬をかち得ていたのだろう、ということです。このことから、新しい技術や科学思想などが社会に広く受容されるのは、一定の有効性が実際に示され、そしてそれが在来産業の技術進歩にも貢献したからではないか、という一般化ができそうに思えます。

(*1):中岡哲郎『日本近代技術の形成』(p.169~171)
(*2):高松豊吉~Wikipediaの記述。なんでも、お笑い芸人の たかまつ・なな さんの曽祖父にあたるそうです。

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明治期の中学校と理科実験室

2015年10月15日 06時03分21秒 | 歴史技術科学
明治時代、小学校の就学率はしだいに上昇していきました。改正教育令で事実上の受益者負担主義となり、53%まで向上していた就学率が40%台まで低下するという足踏みの時期はありましたが、明治21年に設置者負担に変わると、就学率は回復し、再び向上していきます。

ところが、中学校となると、就学率の推移は必ずしも順調ではありませんでした。当時は、子供の頃から子守りなど何らかの役割を与えられ、小学校卒業年齢には働くのが普通でしたので、読み書きを習った後に、わざわざ上級の教育を受ける必要性を感じないどころか、教育を受けると働くことを嫌がるようになる、と考えられていたからです。

中学校の就学率が顕著に増加していくのは、明治20年代になってからです。この背景には、中学校令とともに徴兵令も改正され、中学以上の学歴を得ることが徴兵上の優遇措置につながることが知られるようになったためと考えられます。戊辰戦争や西南戦争などの激しい内戦の記憶も鮮やかな時代に、子の徴兵期間が三年から一年に短縮されるという一年志願制度の特権は、資産家や地主など富裕な平民層の親にとって価値あるものであり、子弟の中学校進学熱が高まって行ったのでしょう。その結果、当初は生徒に占める士族の子弟の比率が多かった(*1)のが、しだいに平民の子弟が多くなり、士族の割合は低下して行ったようです。

明治24年、尋常中学校設備規則(*2)が制定され、普通教室の他に、特別教室として、

  • 物理化学・博物・図画の特別教室
  • 図書室・器械室・薬品室・標本室

などの基準が示されます。このあたりは、大学など高等教育において、実験室・実習室を中核としたリービッヒ流の教育が移植され、その有効性が認識・実証されていたこと、時の政府もまた、その意義を重視していたことが背景にあると考えられます。



日本の近代史や教育史においても、学校制度や教科科目とその時間数、教師養成などについては詳しく研究され、論じられているようですが、実験室やその設備、器具などについては、どうやら盲点となっているようで、なかなか資料が入手できません。山形県内では、高校や大学の創立百周年などの記念誌に、前身となる旧制中学校や師範学校の平面図が記されるケースがあり、参考になります。

例えば、1県1中学校の時代に特別教室を有する形で中学校が整備されていたようで、旧制山形中学校(現山形東高)では、明治26年に改築された新校舎について、

「理学博物ノ機器標本、各別ニ室ヲ設ケテ之ヲ蔵ス」

とあり(*3)、尋常中学校設備規則に基づき、特別教室として理化教室と博物教室とがあり、それとは別に、理科機器室、標本室などがあったと考えられます。校舎は幾度かの火災で消失しますが、明治32年に再建された校舎の敷地建物全図が残されており、理科教室と博物教室、物理化学器械室、標本室が明記されています。

また、同時期(明治34年)の山形師範学校の増改築平面図にも、理科棟の記載があり、実験室の存在を確認することができます。実際には、増改築以前にも実験室があったようで、明治20年代には、この山形に旧制山形中学校と旧山形師範学校の二箇所に理科実験室が存在していたようです(*4)。

いっぽう、明治30年頃には、中学校進学率の上昇と、日清戦争や産業の発展を受けて中学校令が改正され、1県1中学校の制限が緩和されることとなります。また、小学校令で小学校教育が義務化されたほか、実業学校令や高等女学校令などが制定されます。この頃に開校した学校では、同時期に複数の中学校の建設を進めなければならないことから、まず普通教室の建設が急務とされ、特別教室は後回しになる例が少なくなかったようです。ネット上で学校沿革を見ると、いくつかの学校でこのような記述が散見されます。例えば、

  • 愛知県・岡崎高校(明治29年開校)「明治42年 理科 博物教室竣工」
  • 埼玉県・熊谷高校(明治29年創立)「大正5年~ 博物教室(物理化学実験室・講義室、第一次大戦により重視、生徒自ら実験できるようになった)」
  • 宮城県・古川高校(明治30年開校)「明治36年 理科教室、博物教室完成」

などの記述があります。これらの学校の沿革の中に、なぜ理科実験室の記述があるのか、その理由を考えると、おそらくは設置者の財政事情ではなかったかと推測されます。



写真は明治33年に旧制山形中学校の分校として創立された新庄中学(現山形県・新庄北高)及びその平面図で、やはり理科教室は斜線が引かれ、増築部分とされています。(同校百年史より)



(*1):明治初期の学生たちの大半は士族の子弟だった~「電網郊外散歩道」2014年11月
(*2):中学校設備整備規則(明治24年)
(*3):長岡安太郎『明治期中学教育史 山形中学校を中心に』
(*4):石垣立郎「化学実験室ことはじめ」~山形県立博物館研究報告第29号、(平成22年度)、2011年2月刊

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明治初期の硫酸製造と大阪造幣局

2015年06月29日 06時02分26秒 | 歴史技術科学
山形師範学校の付属小学校における天覧実験(*1)は無事に終えたものの、明治初期の初等教育において、リービッヒ流の「実験を通じて学ぶ化学」が行われていたわけではありません。各地に建てられた小学校には、一斉教授用の教場(教室)はあっても、生徒用の理科実験室などはもちろんありませんでした。教場における主たる道具立ては、黒板とチョークと掛図、生徒は石版と石墨、紙と筆と墨、といったところでしょう。


(明治9年、鶴岡に建てられた朝暘学校~当時全国最大

ところで、明治15年当時の島津製作所のカタログ(複製)が手許にありますが、種々の物理化学の実験器具のほかに、例えば化学実験セットが二種掲載され、おそらくは薬品の種類や機器の組み合わせの違いで、お値段が違っています。30円と50円とあり、仮に当時の1円=2万円とすれば、現代風に言えば1組60万円と100万円のセットということになります。こうしたセットを購入できたのはおそらくは裕福な学校であり、学校にとっては例えば天覧実験の際に供するような使い方の、貴重な財産であったろうと思われます。







では、明治初期に、化学実験用の薬品はどうしていたのか? あるいは、大量に必要な、産業用の薬品は? おそらく、はじめは高価な輸入品を用い、後にそれら真似て(模範として)、国内で製造できるかどうか様々な形で試みられたのでしょう。その例として、長州ファイブの一人・遠藤謹助(*2)が勤務した大阪造幣局(*3)における硫酸製造を取り上げます。

明治政府は、近代的な貨幣制度を確立するために、大阪の地に造幣寮(後に造幣局)を建設します。明治4(1871)年のことでした。日本政府が英国の東洋銀行と結んだ条約をもとに、グラバーを通じて香港にあった造幣局の設備や主だった人員も移転したような形であり、監督権も日本側にはなく、元陸軍少佐で元香港造幣局長の地位にあったキンドルを中心に、外国人の指導のもとに事業が進められました。井上馨や遠藤謹助など、英国に密航留学した経験を持つ日本人幹部とはしっくりいかなかったようで、後に(明治7年)キンドル排斥運動が起こったりしていますが、明治初年の当時、実際の設備を運用するには、短期間の留学経験では実務的に役に立つことは無理だったでしょうし、ロンドン大学のウィリアムソン教授の姿勢とは違って、香港での経験からアジア人を蔑視する傾向を持つキンドルらに対する反発も強かったことでしょう。


(大阪造幣局外観・『造幣局のあゆみ 改訂版』より)(*3)

大阪造幣局は、洋式設備による貨幣製造工場であるだけでなく、素材となる金属の分析や精錬、製造加工など自給自足が可能な総合的工場でもありました。勤務体系や複式簿記の採用、日曜休日、1日7時間労働制など、英国風に合理的に整備され、断髪で洋服の着用など、現代に通じるスタイルを取り入れた工場でした。

とくに「金銀の分離精製や貨幣の洗浄に用いる硫酸は、明治5年に開設された硫酸製造所において、英国人技師フィンチの指導のもとに製造を開始」(*3)されたと記録されています。
明治6(1873)年の構内図に、「四百ポンド硫酸室」および「硫酸室(鉛室、硫黄窯場、精製煮詰窯場)」の存在が確認されます。


(造幣局構内図:『造幣局のあゆみ 改訂版』より)(*3)

塩川久男氏によれば(*4)、明治5年には「日産400ポンドの生産量で、不足分は輸入しなければならなかったので、先進技術により多量生産を行うため、同年4月フィンチを雇」いいれ、明治6(1873)年には新工場も建設されて、「造幣局でつくった硫酸が一般に販売され」るようになったこと、明治8(1875)にはガウランドがこの硫酸を分析し、「今般再溜の分は純粋なり」のお墨付きも得て上海に輸出されるようになったとのことです。

明治5年の開設から明治18年の民間会社への貸渡までの間に、硫酸の生産実績は 17,446,000 ポンド余り(*4)となっており、同時に硫酸製造は一国の化学工業の水準の指標である(*5)との言葉のとおり、硝酸、塩酸、アンモニア、リン酸アンモニウム、硫酸アンモニウム、硫酸亜鉛、硫酸鉄などの化学薬品も製造し、ソーダ工業もここから興されます。大阪造幣局は、当時の日本の化学工業の中心であったと言えましょう。


(*1):明治天皇の東北巡幸と山形師範学校における化学の天覧実験の記録~「電網郊外散歩道」2015年6月
(*2):長州藩の密航留学生は何を学んだか~「電網郊外散歩道」2014年8月
(*3):『造幣局のあゆみ 改訂版』平成22年 (PDF)
(*4):塩川久男「科学と社会~日本における近代化学の成立」、『科学と実験』p.66,Vol.29,No.12
(*5):「硫酸」~Wikipediaの解説

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明治天皇の東北巡幸と山形師範学校における化学の天覧実験の記録

2015年06月06日 06時04分15秒 | 歴史技術科学
明治初期の翻訳教科書『小学化学書』は出版されましたが、明治初期の日本で、大学以外の学校ではどのような教育が行われていたのか。これを推測するうえで、明治14年の山形師範学校の天覧実験の記録が、興味深いものです。

明治14年、明治天皇は、二度目の東北巡幸を行います。これは、戊辰戦争の後に自由民権運動が盛んになっていた地域を巡撫することも目的の一つであったろうと思われますが、山形県でも三島通庸・初代県令の各種土木工事の成果を歩くほかに、山形師範学校を視察することとなります。

天皇陛下をお迎えすることになった山形師範学校では、化学実験を演示し、日ごろの教育の成果を示そうとなったのでしょう。付属小学校の生徒二名が、講堂において「火の燃ゆる理~物の燃焼について」と「空気膨張の力」というテーマで演示実験を行ったとのことです。前者は、ロスコウ著『小学化学書』上巻に掲載された実験の一つで、ガラス鍾内で黄リンを燃やし、空気中の酸素が消費されるために、大気圧に押されてガラス鍾内の水位が上昇することを示すものです。


(ロスコウ『小学化学書』上巻より)

この実験を担当した付属小学校1級生(現在の中2)の佐々木忠蔵君が、この時のエピソードを作文に記し、記録にとどめています(*1)。

すなわち、黄リンをいささか多くし過ぎたために、点火したら熱のためにガラス鍾が割れてしまい、黄リンが燃えた際の白いケムリが明治天皇のほうに流れていきます。お付きの人があわてて窓を開けに走り、佐々木君はこのとき「放校を覚悟」したそうです。けれども、次の実験では失敗しないぞと、かえって度胸がすわり、めでたく天覧実験を終えて、お褒めの言葉をたまわったそうです。


(高橋由一:「山形市街図」)



明治14年~15年に高橋由一が描いた「山形市街図」では、中央遠景に見える初代・木造の山形県庁の右に小さく見える時計塔を持つ建物が、このエピソードの舞台となった旧・山形師範学校で、現在のJA山形ビルにあたる場所のようです。当時、化学実験はデモンストレーション効果の高い「見せ物」でもあったようで、理科実験室ではなかったところに、明治初年の啓蒙期の科学教育の特徴がよくあらわれています。

(*1):小形利吉『山形県の理科教育史(上)明治・大正編』p.51-52、山形県理科研究同好会、1978
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明治初期の化学教科書の著者と翻訳者

2015年05月30日 06時06分52秒 | 歴史技術科学
明治初期に発行され、初等中等教育において広く用いられた教科書として、ロスコウ著『小学化学書』があります。この本の実物は、山形県内では県立博物館の教育資料館(*1)で見ることができますが、1872(明治5)年に発行された原著"Chemistry"(Science Primers-第2巻)を、市川盛三郎が翻訳し、1874(明治7)年に文部省が発行したものです。原著の発行にはイギリス側の事情が興味深いものがあり、日本での翻訳の素早さと発行までの期間の短さは驚くばかりです。

まず、原著の発行の事情です。1866年から11年間続いた南北戦争によって、米国南部からの綿花の輸入が急減し途絶えます。これによって、産業革命の柱の一つであった英国ランカシャー地方の工場の操業が止まります。これに対し、労働者に同情したT.H.ハックスリー(Huxley)やチンダル(Tyndall)などが、労働者の資質向上による再就職を狙い、通俗講演会を開きます。また、マクミランの要請によって、1870年にロスコウ、ハックスリー、スチュアート(B.Stewart)が編集者となり、Science Primersという叢書が編集・刊行されます。大沢眞澄(*2)によれば、この刊行の趣旨は、

  1. 学校において年少者の第一段階での教科書として使えるもの、
  2. 実験はきわめて容易な生徒自身が行えるもの
  3. 実験を基礎に学習を進めるもの
  4. 各科の学習順序が入門→化学→物理学のように教育的配慮がなされているもの
  5. 廉価であるもの(定価は1ペニー)

とするとのことです。
このうち、第2巻「Chemistry」は、内容が優れていたために広く普及し、ドイツ、アイスランド、ポーランド、イタリア、トルコ、インド、日本などで翻訳が行われたのだそうです。

この「Chemistry」の翻訳は、1873年版の原著が刊行された翌年の1874(明治7)年10月に、文部省から刊行されます。原著刊行から日本語版の刊行までの期間の短さに驚かされますが、さらにこの序文の内容が、まったく現代に通じるような、たいへん興味深いものです。現代表記に直せば、

原序
この書は化学の原理を説き、童蒙をしてその大意を知らしむるものなり。ただし、その主意たるや、いたずらに事物の理を論じ、生徒をしてこれを暗記せしめんと欲するにあらず。その要する所は生徒を誘導し直に造化に接して自らその妙理を悟らしむるにあり。これがために許多の試験(注:実験のこと)を設け、各事、もっぱら実地についてその真理を証するを旨とす。ゆえに教師たる者、丁寧にこの諸試験(実験)をなして生徒に指示せずば有るべからず。このごとくすれば生徒自ら事物を見てその理を考えるに慣習して大いに利益ありとす。また、時に問を設け生徒をしてこれに答えしめ、その学力進歩の多少を試みることもっとも緊要とする所なり。
                1873年 ロスコウ識るす。

というものです。ファラデーが示し、リービッヒがシステマティックに開始した教育システムの中心にある、理論と実験を通じて化学を学ぶという方法が、ここでも貫かれていることがわかります。

著者のロスコウ(Sir Henry Enfield Roscoe,1833-1915,*3)は、1833年にロンドンに生まれ、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンでウィリアムソン教授らに学んだ後、大学卒業後にドイツのハイデルベルグ大学の、リービッヒの盟友であったブンゼンを訪ね、1855年に助手となり、老ブンゼンを助けて働きます。都市ガスが普及するロンドンで購入してきた一本立てのガスバーナーをブンゼンと共に改良し、今日化学実験室に普及するブンゼンバーナーに改良したほか、この無職の炎を利用してセシウムとルビジウムという新元素を発見、また光が化学反応を促進することを追及し、光化学の変化量は吸収した光のエネルギーに比例するというブンゼン・ロスコウの法則を発見して、光化学の分野の開拓者となります。


(左から、キルヒホッフ、ブンゼン、ロスコウ)


(晩年のロスコウの執務姿)

ロスコウとブンゼンの師弟関係は親密で、学生が実験を通じて化学を学ぶという思想とスタイルをそのままに受け継いだようです。このロスコウのところに留学していたのが杉浦重剛(*4)で、彼は途中で挫折しましたが、帰国後に本書の翻訳を監修します。そして、直接に翻訳に携わったのが、市川盛三郎でした。

市川盛三郎は、1852(嘉永5)年8月に、幕府の洋学者の子として江戸に生まれます。幼時より才能をかわれ、川本幸民(*5)がいた幕府開成所に入り、1866(慶応2)年に幕府の留学生としてロンドンに向かいますが、1968年に幕府が崩壊したことにより帰国、補助的な立場で教職に就きます。1870年11月より、大阪理学所においてお雇い外国人教師リッテルを助け、各種の著作の翻訳編集にあたります。1873(明治6)年に東京に移り、この頃に『小学化学書』を翻訳したようです。21歳のことでした。
1875(明治8)年養子となって平岡姓を名乗り、1877(明治10)年にはマンチェスターのオーウェンズ・カレッジに私費留学、病を得て1879(明治12)年に帰国し、1881(明治14)年には東京大学理学部教授となりますが、翌1882年に病没、31歳の若さでした。

(*1):山形県立博物館の教育資料館
(*2):大沢眞澄「明治初期の初等化学」(『科学と実験』1978年10月号)
(*3):ヘンリー・エンフィールド・ロスコー~Wikipediaの解説
(*4):明治初期の留学生の行先~「電網郊外散歩道」2015年2月
(*5):北康利『蘭学者川本幸民』を読む~「電網郊外散歩道」2008年9月

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帝国大学の整備と教育の目的の変化

2015年05月21日 06時04分53秒 | 歴史技術科学
明治初期には、お雇い外国人教師を中心に様々な学校で行われていた高等教育でしたが、国費留学生が帰朝し、教授に就任するなどして、徐々に日本人教員に置き換えられていき、高給で雇われた外国人教師たちも、少しずつ帰国していきます。
工部大学校の都検(実質的校長)として活躍したダイアーも、明治15(1882)年に帰国し、英国で『大日本』という本を発表します。東洋の島国に移植した西欧の技術とそれを支える思想が、どのような実りをもたらしつつあるか、また将来の日本の技術的自立を予言するものでした。しかし、この本は、明治の日本では発禁となります。これは、おそらく底流を流れる社会進化論的な思想が、当時国家主義的方向に大きく再編成されつつあった日本にとって、有害とみなされたのでしょう。

(森有礼)

明治19(1886)年、学校令が公布されます。これは、(1)帝国大学令、(2)師範学校令、(3)小学校令、(4)中学校令、(5)諸学校通則の五つの法令からなり、教育に対する国家の支配を決定的にするものでした。この中の帝国大学令により、工部大学校や駒場農学校など官立学校が開成学校と統合されて帝国大学となります。これを、かなり強権的に推し進めたのが、幕末期に英国に密航留学していた旧薩摩藩士で、グループが分裂し、アメリカに渡って宗教的コミュニティに幻滅し、国家主義的な考え方を育んだという経歴を持つ人物、森有礼でした。もちろん、その背後には、プロシアのビスマルクと面談し、その影響を濃厚に受けて英国からドイツへと方向転換をするようになった伊藤博文がおり、やがて明治22(1889)年に大日本帝国憲法の成立へと進むこととなります。
森有礼は、帝国大学の目的を、国家に奉仕する人材の育成と定めます。これは、ダイアーらお雇い外国人教師たちの中にあった、技術と産業を通じて社会を変革するという情熱や、教育の目的を社会の進歩と人々の幸福に置くというようなタイプの考え方を、基本的に相容れないものとみなしたのでしょう。ダイアーの離日に際して、名誉は贈るが著作は発禁にするという処置は、森有礼あたりの影響が色濃く出ているのではないかと推測しています。



この頃、足尾鉱山の鉱毒事件が世間を騒がすようになります。明治10(1877)年に操業を開始した足尾鉱山からは、多量の鉱毒が流出しており、明治20(1890)年の大洪水によって、一気に問題が顕在化します。かつては穀倉地帯だった渡良瀬川流域を中心に、鉱毒に汚染された状況を見て、沿岸の青年有志が田畑の土や川の水を採取し、明治24(1891)年、東京帝国大学の丹波敬三教授と農科大学の古在由直助教授に持ち込み、分析を依頼します。

(古在由直)

とくに、この事件に関わりの深い古在由直氏は、明治19(1886)年に駒場の農学校を卒業し、明治22年に農科大学、明治23(1890)年に東京帝国大学農科大学助教授に就任したばかりの少壮学者でした。分析の結果、明らかに銅が含まれていることが判明します。この事件が大きな社会問題となるや、古在助教授は明治28(1895)年にドイツのライプニッツ大学に留学を命じられ、日本を離れることとなります。この背景にあるのも、国家に奉仕するという帝国大学の使命であり、意志であったと言うことができるでしょう。しかしながら、古在助教授は帰国後にもその節を曲げず、徹底した調査活動を行います。明治35(1902)年、鉱毒調査委員を命じられた古在は、渡良瀬川流域を地図上でグリッド化し、その区画毎に銅の濃度をプロットすることによって、自然銅ではなく鉱山に由来するものであることを明かにします。この手法は、まさに駒場農学校で学んだ実践的なフィールドワークの手法の適用であり、鉱山側の責任を誰の目にも明かにするものでした。

足尾鉱毒事件は、明治の鉱山技術を産業として適用した結果の事件であるとともに、化学分析によってその実態が明らかになったわけですが、日清・日露戦争を背景に、富国強兵政策をなおも推進する政府は、鉱山側をかばいます。足尾鉱毒事件は、田中正造という人物によって議会で取り上げられ、大きな社会問題となりますが、鉱毒の回収や無毒化など技術的な解決は不可能で、結果的には谷中村一村の強制移転という形になってしまいます。にもかかわらず、局地的に起こった不幸な事件として受け止められ、国民全体が意思表示することはありませんでした。このあたり、なにやら福島原発事故により周辺町村が集団移転させられた一連の事態を連想してしまいます。渡良瀬川流域の住民は、自ら収集した記録集の発刊を発禁処分とされましたが、現代では発禁処分という対応はできない、という点に違いがあるでしょうが。

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