電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩。時々は実際に散歩を楽しみます。

藤沢周平『雪明かり』を読む

2020年03月29日 06時01分15秒 | -藤沢周平
講談社文庫で藤沢周平著『雪明かり』を読みました。2004年の秋に一度読んでいますから、16年ぶりの再読になります。文字のポイントが小さい昔の講談社文庫ですので、敬遠していた面がありますが、ふと表題作が読みたくなり、探し出してきました。

第1話:「恐喝」。竹二郎は、怪我をして痛みに耐えかねているところを助けてくれた娘を恐喝の魔手から逃がすために、本物の悪党と対決するはめになります。発表は昭和48年。
第2話:「入墨」。入墨者の卯助が、娘を痛めつけた悪党を瀬戸物の破片一つで倒したのは、おそらく親子の情からではないでしょう。風邪で伏しているときに世話をしてもらった娘に対する義理を返すもので、これまでの世渡りの闇の深さを思わせます。昭和49年。
第3話:「潮田伝五郎置文」。最後の視点の変化で、男女の関係はがらりと様相を変えます。潮田伝五郎の心情は相対化され、顧みられることはありません。小説として実にうまい。昭和49年。
第4話:「穴熊」。いかさま賭博ですってしまった浅次郎は、女郎屋で昔の恋人と面影の似た武士の妻女を買いますが、その理由が子供の喘息治療の薬代と知り、夫の塚本伊織と組み、一計を案じます。いかさま賭博を暴き、口止め料をせしめて大半を塚本に渡すのですが、伊織の妻は再び身体を売っていました。むしろ自ら積極的に。おそらく背景は儒教的禁欲主義に縛られた武士の夫婦関係にあったのでしょうが、どうも妻がのめりこむ性分だったようで、悲劇のもととなりました。昭和50年。
第5話:「冤罪」。勘定方で不正があり、組頭の非を咎めた相良彦兵衛が死にます。源次郎は真相を突き止め、娘の父親の冤罪は明らかになりますが、実直な兄夫婦の生活を破壊することにつながりかねません。源次郎は農家の養女になる明乃の婿に入り、武士を捨てることにします。昭和50年。
第6話:「暁のひかり」。長く寝込んで歩くのが不自由になり、早朝に歩く練習をしている娘と言葉をかわすようになり、腕のいい賽子賭博の壺振りの市蔵はまっすぐな娘の健気さが気に入っていました。娘があっけなく死んだ時、世間や運命というものにやり場のない怒りや憤りを覚え、絶望し、自暴自棄になったのでしょう。昭和50年。
第7話:「遠方より来る」。「友遠方より来る、また愉しからずや」が前提になっているのですが、曽我平九郎は多少の義理はあるけれど迷惑な客でした。小市民的現実を思わせる微苦笑。昭和51年。
第8話:表題となった「雪明かり」。兄妹とはいえ、菊四郎と由乃に血のつながりはありません。破格の養子縁組で芳賀家に入った菊四郎は、間もなく許嫁と縁組をすることになっています。しかし、義妹が嫁ぎ先で流産し養生もできずに虐待されているところを背負って助け出しますが、養家では以後会わないようにと冷たく言います。江戸に出た由乃は、義兄に行き先を書き残していました。闇の中で雪明かりがうっすらと見えるような佳品です。昭和51年。



作家が『暗殺の年輪』で直木賞を受賞する前後の作品です。ほの暗く、鬱屈や運命に対する憤怒が背景にあると感じるものが多いです。その点では、後年の明るさやユーモアには乏しく、好みは分かれるかもしれません。でも、切なさやリアリティの点では破格の作品ではあります。また、2004年の初読時には気づきませんでしたが、ここまで津波が来たということを示す「波除碑」を「入墨」の作中に取り入れていたことに驚きました。東日本大震災を経験したがゆえの、読者の視点の変化ということでしょうか。

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遠藤展子『藤沢周平・遺された手帳』を読む

2020年01月15日 06時01分42秒 | -藤沢周平
文藝春秋社から2017年11月に刊行された単行本で、遠藤展子著『藤沢周平 遺された手帳』を読みました。作家のエピソードは多くの人に様々な形で書き残され、語られていますが、作家本人がどう感じ考えていたのかはわかりません。その点、作家が遺した四冊の手帳に書かれた内容は、まるで作家本人の肉声を聞くようで、その人となりをよく表しているようです。当方、初めて知ったこともありましたし、あらためて確認できたこともありました。

例えば、娘が幼い頃に歌っていた子守唄がレイ・チャールズの「愛さずにはいられない」であり、その歌詞の意味がいまだに愛している別れた恋人を思う内容であること(p.83〜4)。若くして亡くなった妻を思いながら幼い娘に歌う子守唄としては、実に切ないものがあります(*1)。

また、「直木賞受賞」前の記述には、

一人の人が世に出るときは、その背後にそうでない人を多数置き去りにしていることを思う。(p.141)

とあります。おそらくは、多くの作品が英雄豪傑ではなく無名の下級武士や市井の人々を取り上げている背景には、こういう自戒が深く作用していたのでしょう。

そのような姿勢は、作品を書く際の言葉の選び方にもあらわれており、

選びぬかれた日常語というものがあるのかもしれない。陳腐で、手垢のついた言葉の中に重いものがあるかもしれない。気のきいた表現は不必要かもしれない。人生の重みをになってきた言葉があるかもしれない。そういう言葉で一篇の小説を書いてみたい気がする。(p.191)

というような記述として手帳の中に遺されています。こうした考え方や姿勢はたいへん好ましく思え、共感するところが大きいです。

そうそう、作家の手帳の中に直接的な記述があったわけではありませんでしたが、運命を憤る暗い情念をぶつけるような作風が少しずつ変わっていき、明るいユーモアの要素が増え、結末にも救いが見えてくる理由として、作品に対する教え子たちの感想が影響しているのではないかという私の推測(*2)は、どうやら当たっていたようです。(p.258)

(*1):YouTube より、レイ・チャールズ「愛さずにはいられない」の歌詞はこんな意味だそうです。
 ■愛さずにはいられない / レイ チャールス / 歌詞


(*2):藤沢周平のユーモア〜「電網郊外散歩道」2007年2月

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地元紙の連載「やまがた再発見」で3週連続「藤沢周平」を特集(3)

2019年09月13日 06時02分51秒 | -藤沢周平
地元紙「山形新聞」の連載「やまがた再発見」に、三週連続して特集が組まれた藤沢周平シリーズ、その第3回です。筆者は鶴岡藤沢周平文学愛好会代表の万年慶一氏。



■9月8日(日)付、「教え子たちが記念碑建立」、「先生を都内でたびたび訪問する際、第一声は決まって古里の農民たちが交わすあいさつ言葉そのものだった」

結核の治療・療養のため上京し、教員生活はわずか二年で終わったけれど、業界新聞に勤めるかたわら小説の執筆を続けます。その結果、1971(昭和46)年にオール讀物新人賞、1973(昭和48)年に直木賞を受賞します。同年10月、湯田川中学校で開かれた講演会で、教え子たちは突然姿を消した恩師と約20年ぶりの再会を果たします。このあたりは、随筆にも描かれているとおり。翌1974(昭和49)年には作家活動に専念することとなりますが、すでに30代も後半、もうすぐ40歳に手が届く年代の教え子たちが申し出た記念碑の建立の考えを、小菅留治先生は固辞します。たしかに、わずか二年の教員生活で教え子たちに記念碑を立ててもらうわけにはいかない、元の同僚たちに申し訳なくまた恥ずかしい、などといった気持ちもあったことでしょう。しかし、教え子たちもすでに大人であり、分別ざかりの年齢になって、それでもと希望するものを断り続けるわけにもいかなかったのでしょうか、萬年慶一氏は先生から「お前に任せる」との言葉をもらい、碑が建立されることになりました。

その後、碑の完成を見ることなく先生の急逝に接し、教え子代表として弔辞を読むこととなるあたりも、同級生や遺族からの氏への信頼感を表すものでしょう。さらに、後年、湯田川中学校の統廃合等にともない、校舎を解体し様々な碑を再編配置することになりますが、萬年氏は自治会長としてその仕事にあたることとなります。かつての教え子として、様々な思いが去来したことでしょうが、とりわけ結びの一文;

先生の記念碑も例外ではなく、朝日の昇る金峯山に向かって据えられた。文学碑にはこう刻まれている。「赴任してはじめて私はいつも日が暮れる丘のむこうにある村をみたのである」(「半生の記」の一節)。その隣の俳句「花合歓や畦を溢るる雨後の水」は、若き日に子どもたちと野山を駆け回った頃を思い浮かべて詠まれた。記念碑が正面に見据える方向には、古里の高坂集落がある。

には、客観的に事実を記しながら、恩師であり心のつながりの中心であった作家が寄せたであろう古里の追慕への共感が感じられるようです。

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地元紙の連載「やまがた再発見」で3週連続「藤沢周平」を特集(2)

2019年09月12日 06時03分23秒 | -藤沢周平
地元紙「山形新聞」の連載「やまがた再発見」に、三週連続して藤沢周平が特集されました。筆者は、鶴岡藤沢周平文学愛好会代表の万年慶一氏。その第2回です。



■9月1日(日)付け、「途切れなかった師弟の縁」、「句、詩がだれのものか知りたい、と。教え子の成長を推し測るのが楽しみだったのだろう。」

1951(昭和26)年の春、三年生の担任になるはずだった学校に、小菅留治先生の姿はありませんでした。昔も今も、中学三年生で担任がいなくなるのはよほどのことでしょう。学校の集団検診で肺結核が発覚、鶴岡市内の病院に入院します。20人の教え子が自転車で病院まで見舞いに行ったそうです。よほど慕われていたのだろうと推測されますが、それだけではありません。同年の初冬、三年生の補習授業が開始される前に、学芸会が開かれます。おそらくはクラスを解体して別々の補習授業クラスを編成する関係で、最後のクラス行事となったはずです。この出し物が、前年の放送劇「しらさぎ」の舞台化に決まります。この放送劇は、担任だった小菅留治先生が脚本を書き、生徒が演じて放送したもので、これをアレンジして舞台劇にすることとなったらしいです。その相談のために、何度も先生の元へ伺ったとのこと。たぶん、「用がないなら行くな」と言われていた生徒たちと大人たちの間に、「劇の相談があるから行く」というようなやりとりがあったことでしょう。中学校卒業は、1952(昭和27年)の3月になります。

1953(昭和28)年、小菅留治先生の病状は一進一退で、復職の見込みは立ちません。医師のすすめで上京し、都内の療養所に入ります。ここで、句誌「海坂」へ投句し、入選を重ねます。このあたりは、師範学校時代の同人誌に詩人的才能の片鱗を見せていた作家の姿が見えるような気がします。一方、卒業生は就職と進学に分かれ別々の道に進み始めるのですが、高校卒業を前にして、おそらくは1954年から55年にかけて、文集「岩清水」を計画・発行し、恩師の元へも送ります。これに対し小菅先生は、「師弟の縁はなかなかに消えないものだ」「句、詩がだれのものか知りたい」と書き、返信します。この「岩清水」は単年度では終わらず、第3集まで発行されたとのことです。

こうしたつながりの深いクラスは、決して「よくあるケース」ではないでしょう。生徒に慕われ信頼された先生と、やはり信頼を集めるまとめ役の生徒と、両方があってのことではなかろうか。こうした経緯から、「先生が有名作家だからまとまった」のでは決してないことがわかります。

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地元紙の連載「やまがた再発見」で3週連続「藤沢周平」を特集(1)

2019年09月11日 06時04分03秒 | -藤沢周平
地元紙「山形新聞」では、日曜日に「やまがた再発見」というシリーズを連載しています。いずれも山形県にゆかりの人を取り上げて、興味深いものですが、8月25日、9月1日、9月8日の三回は、藤沢周平の特集でした。執筆者は、鶴岡藤沢周平文学愛好会代表の萬年慶一氏。むしろ、教師・小菅留治の教え子の一人で、学級委員長のような立場だった人、という方がわかりやすいでしょうか。先の藤沢周平没後二十年特集「藤沢周平と教え子たち」でも取り上げられていましたが、むしろ紙幅を充分に与えられたときに、どんな思い出話が聞けるかに興味がわきます。


■令和元(2019)年8月25日付け、「充実した青年教師の日々」、「気配り、気遣いの人だった。教え子たち、古里をいつも思っていた。」
 記事は、小菅留治先生の生い立ち等に触れた後、山形師範学校を卒業後に湯田川中学校に赴任し、途中転任した担任の後釜として50人位の一年生の担任になった経緯を記します。1949(昭和24)年、由良の海浜学校で自信を付け、熱心に生徒の指導にあたります。英語の時間限定で一人ひとりに英語の名前をつけ、出席をとるあたりは、E.G.ヴァイニング『皇太子の窓』でも共通の、当時のやり方なのでしょう。週1〜2回のホームルームの時間、これも戦後教育の特徴でしょうが、この時間には読書に力を入れ、ヴィクトル・ユーゴーの『ああ無情』を読んでくれたことや、ヴェルレーヌの「落葉」、詩経より「凱風」など詩の朗読などが記憶に残るとのこと。また、戦後まもない時期、農繁期には就学前の弟や妹を学校に連れてくる生徒もおり、先生はよく面倒を見てくれたこと、学級図書を取り入れ、春はジャガイモをゆで、秋は芋煮会を開くなど、気配り、気遣いの人だった、とのこと。多感な中学生の、1951(昭和26)年までのわずか二年間の担任でした。

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文藝春秋編『藤沢周平のこころ』を読む

2018年11月27日 06時03分03秒 | -藤沢周平
文春文庫の10月新刊で、文藝春秋編『藤沢周平のこころ』を読みました。もちろん、藤沢周平の未公開作品を収録したものではありませんで、帯によれば「佐伯泰英、あさのあつこ、江夏豊、北大路欣也らが語る〜私が愛してやまない藤沢作品の魅力」について語ったものを収めたアンソロジー風の「永久保存版」です。内容を大まかにまとめれば、

1 名作を紡ぎ続けた作家の軌跡
   対談、インタビュー、直木賞選評、選考委員座談会など
2 藤沢作品の魅力を徹底紹介
   対談、エッセイ、作家と作品について
3 新たなる映像の世界へ
   映画、ドラマ、対談、役者として

といった構成になっており、多彩な内容で楽しめるものです。

いくつか、どこかで読んだ文章もありましたが、興味深い指摘もたくさんありました。例えば、松岡和子×あさのあつこ×岸本葉子さんの熱愛座談会(^o^)/

岸本 『蟬しぐれ』でいいますと、私はタイトルから気になって、どんなときに蟬が鳴くのかを調べてみたんです(笑)。そうすると、後悔というテーマが出てくるところではよく鳴くんです。

この指摘には、うーむ、なるほど。

また、宮部みゆきさんがミステリーの観点から選んだ三冊、『秘太刀馬の骨』、『闇の歯車』、『ささやく河〜彫師伊之助捕物覚え』というのも納得ですし、児玉清さんが『霧の果て』の神谷玄次郎にゾッコン惚れ込みながら、「小説の面白さ」について、「娯楽性というものを大事にしたい」と書いた作家の一節を紹介して文を終えている点も納得です。

作家・藤沢周平は、教師・小菅留治として教え子たちとの再開を果たした後に、先生の作品の暗さを指摘する元生徒に「もう少し待って欲しい」と答えながら、徐々に「彼らにも読まれる」ことを意識していったのではなかろうか。運命に抗う自分の負の感情のはけ口としての小説から、世の中で懸命に生きている読者に対してそっと差し出せるのは小説の持つ面白さだろうと考えたのかもしれない、と思います。

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山形新聞「藤沢周平没後20年」の鼎談がネットで提供

2018年01月02日 06時02分46秒 | -藤沢周平
地元紙・山形新聞では、藤沢周平没後20年を記念して、様々な企画を実施していました。その中で、文藝春秋社の担当編集者であった鈴木文彦氏、作家の娘でエッセイストの遠藤展子氏、山形新聞社社長で『藤沢周平と庄内』の著書を持つ寒河江浩二氏の三氏による鼎談の要旨が、2017(平成29)年12月25日付の山新に二面見開きで掲載(*1)されました。当日にざっと斜め読みしてページを抜き取り、正月休みを契機にゆっくり読んでみました。これが、なかなかおもしろい。



思わず笑ってしまったのが、遠藤さんがバラした話。

遠藤 私と今の母と父の3人が全部反映されているのが『獄医立花登手控え』シリーズ。私が中学、高校のころ、父は話をよく聞いてくれた。よく話を聞いてくれていいお父さんだと思っていたら、後で本を読むと、私が話した友達のような子が出てきて「これはネタにされた」ということがあった。登のおばは今の母にそっくり。登は誰なんだろう? 東北から江戸に出てくるわけだから、登もお父さんだ、と。観察力がすごいので、家族といえども観察され、ネタにはされている。

第1巻で遊び呆けるおちえは、高校生の頃の娘の展子さんがモデルらしい、という話は何かで読んで承知しておりました。しかし、あの締まり屋のおばさんが作家の奥さんがモデルだったとは、初めて知りました。思わず爆笑、作家にあらためて親近感を持ってしまいます(^o^)/



ところで、紙面に「ホームページで鼎談の音声紹介」という案内が出ており、この鼎談が「山形新聞ニュースオンライン」の特集記事で、音声として聴くことができる(*2)ことを知りました。また、先に記事にした「小菅先生と教え子たち」(上中下)等の記事も公開されている(*3)ことがわかりました。こういう提供の仕方は、山形以外の藤沢ファンにとって得難い貴重な機会でしょう。たぶん、公開には期限があることでしょうが、こうした太っ腹な形での提供に感謝しつつ、皆様にご紹介いたします。

(*1):「藤沢周平の世界」鼎談〜「やまがたニュースオンライン」
(*2):藤沢周平没後20年、生誕90年〜「やまがたニュースオンライン」
(*3):藤沢周平没後20年「小菅先生と教え子たち」(上)(中)(下)

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藤沢周平没後二十年「小菅先生と教え子たち(下)」を読む

2017年12月10日 06時03分08秒 | -藤沢周平
11月29日付け山形新聞に、藤沢周平没後二十年の特集企画の一環として、「小菅先生と教え子たち(下)」が掲載されました。地元鶴岡に残る教え子たちのまとめ役として、学級委員長みたいな役割を果たしたらしい、元JA鶴岡の理事・萬年慶一氏の回です。氏が語る小菅先生の思い出は、ホームルームの時間に読み聞かせをしてくれたこと。とくに印象深いのが『レ・ミゼラブル』で、ジャベール警視の探索の中、マドレーヌ市長が馬車の下敷きとなったフォーシュルバン老人を救い出す場面です。

中学生のまっすぐな心情として、自己の保身を考えるならば見て見ぬふりをするほうが良いのだけれど、目の前で苦しむ老人を救えるのは自分しかいないというジレンマに陥ったマドレーヌ市長の決断が、価値あるものとしてストンと腑に落ちた、ということでしょう。そしてそれが、かつて自分を救ってくれたミリエル司教の教えに忠実であろうとした、愛ある決断だったことも。

若い日のこうした記憶は、意外なほど深いところで影響を残しているものです。老年期に入ると、記憶の底から浮かび上がるエピソードは、穏やかで優しいものでありたいと願うところです。



学級図書や「脳天コツン」の話からは、若い中学校教師として楽しく過ごしていたことが想像されますし、「碑が建つ話」の関連の経緯はエッセーで親しいところですが、湯田川中学校での教師生活と教え子たちを終生懐かしく思っていたことがうかがえます。

おそらく、紙面に登場しない教え子たちの中には、言い尽くせない不幸や苦難の人生を送った人もいたことでしょう。小菅留治先生の家庭的な不幸からの回復と作家としての成功を、彼らもまた我が事のように喜び、励みにし、勇気づけられていたのではなかろうか。そして、先生もまた、教え子たちの「その後」を気にかけ、幸せを念じながら、様々な人生の哀歓を感じつつ、作品の中にあたたかく投影していたのではなかったか、と思います。

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藤沢周平没後二十年「小菅先生と教え子たち(中)」を読む

2017年12月09日 06時04分20秒 | -藤沢周平
11月28日付け山形新聞に、藤沢周平没後二十年の特集の一環として、「小菅先生と教え子たち(中)」が掲載されました。前回と同様に、ノートに切り抜いて貼り付け、読み返しております。今回は、大石梧郎氏の回想です。

「耐えるたびに / 少しずつ / 人生が見えてくる」

これは、師弟が互いの近況を報告していた「泉話会」で、大石氏が最後に書いてもらった色紙だそうです。湯田川中学を卒業し高校に進んだけれど事情により中退して16歳で上京、金属加工・金型設計製作会社に勤務し、29歳で独立、と経歴にありますので、たぶん独立する前後の時期のはずです。人生の辛酸をなめたであろう先生の姿を見ながら、会社を立ち上げた頃のことを、現在は大石工業会長として回想するとき、この色紙にこめられた肯定と励ましに背中を押されるような感じを持ち、懐かしくありがたく思い出されることでしょう。

氏は東京在住であったために、駆け出しの時代に療養所まで出かけて小菅先生を見舞っているようです。背広姿の20歳の若者の傍らで浴衣姿の小菅先生が笑顔を見せている写真は、作家と言うよりはやはり「先生」の笑顔でしょう。療養所を出た「先生」が業界新聞の記者をしていた時代のことも、氏はある程度承知していたのかもしれません。恩師を敬慕し、心の支えとしている元生徒が、大人になっても先生の人柄を尊敬できるというのは、たぶん実に幸せなことでありましょう。氏は、取材を受けた記者から、

「ほとんどの作家は自分の作品が映画化、ドラマ化されると決まると、必ずと言っていいほど主演の俳優と一緒の食事をねだる」

ものだけれど、「小菅先生は一度としてそのようなおねだりはしなかったそうです」とのエピソードを引き出しています。記者を逆取材したようなこの挿話が、実に何というか、藤沢周平らしさを感じさせます。

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藤沢周平没後二十年「小菅先生と教え子たち(上)」を読む

2017年12月08日 06時01分44秒 | -藤沢周平
藤沢周平が没して二十年になります。そういえば、没後十年のときも、様々なイベント等の様子を記事にしていましたので、あれからもう十年になるのかと感無量です。今年も、山形新聞でいろいろな企画をしていますが、最近「おや」と思ったのが「小菅先生と教え子たち」という記事でした。藤沢周平というペンネームで有名作家として知られる前に、東京在住の教え子たちを中心に交流を続けていたことは、作家本人も書いておりますので、ある程度は承知しておりました。でも、今回のように一回に一人ずつ、教え子の視点で、有名作家であるとともに敬愛する恩師でもある人のことを語ってもらうという企画は、たいへん興味深いものです。

11月27日付けの「工藤司朗」氏の回は、病癒えて結婚し娘一人を得たばかりなのにその妻を亡くすという苦難を経て、縁あって再婚するに至る時期の、まだ勤め人と作家という二足のわらじをはいていた頃の話が中心です。静岡在住の同期生の松田君からの電話で、小菅先生が「藤沢周平」というペンネームで「オール讀物」新人賞の候補になっているという話を聞き、早速買い求めてこれを読み、感激して先生の勤め先に電話をするところから交流が始まります。このあたりの経緯は、後に役員となった建築資材販売施工会社員という工藤氏の積極性を表すものでしょう。積極的に前に出ようとはしない恩師を引っ張り出した教え子たちの活力が、ともすれば後ろ向きになりがちな作家の暗い情念に、時折、陽光を照らすようなものであったのかもしれません。でなければ、その後の師弟の交流が長く続くものとはなりにくかったのではないかと思います。

直木賞の受賞の際に、先輩と二人で万年筆を贈ったとありますが、それがあのパーカーの万年筆だったのでしょう。二人が教え子たちを代表し、副担任だった大井晴先生とともに授賞式に招待されたのは、返礼の意味もあったのかもしれません。

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佐藤賢一「『海坂藩』という発明~藤沢周平没後20年(4)」を読む

2017年03月04日 06時03分21秒 | -藤沢周平
地元紙・山形新聞で、藤沢周平没後20年の特集を組み、記事を連載していますが、その中で2/24に掲載された鶴岡市在住の作家・佐藤賢一さんの「『海坂藩』という発明」という論には、思わず「なるほど!」と共感するところが大でした。

たしかに、それまでの時代小説の舞台は基本的に江戸であり、お家騒動を鎮めるために地方へ旅することはあっても、やっぱり江戸にもどってきて、「江戸は気楽でいいなあ」というパターンが多かったように思います。でも、藤沢周平作品、とくに海坂藩ものは、藩内で完結するものが少なくありません。誰かが江戸へ出かけて行ったり、江戸から誰かがやってきたり、ということはあっても、基本的に海坂藩の中の物語であることに変わりはありません。この、時代小説が江戸を離れて地方の小藩の物語として成立することを示した点が、藤沢周平の発明だ、と指摘した佐藤賢一氏の着眼に、なるほど!と感心させられた次第です。



もちろん、これは江戸を舞台とした藤沢作品、例えば『用心棒日月抄』シリーズなどの価値は不変であることを前提にしての話ですが、例えば『蝉しぐれ』を代表とする地方の小藩の物語が、多様な後続の作家たちの作品を生み出す力になったと見ることはたしかに可能であり、間違ってはいないはずです。

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藤沢周平『隠し剣秋風抄』を読む

2016年11月03日 06時02分21秒 | -藤沢周平
文春文庫で、藤沢周平著『隠し剣秋風抄』を読みました。初出は『オール讀物』誌で、私が大学を出て就職し、関東某県で暮らしていた頃に執筆発表されていた作品のようです。単身赴任の頃に読み、このたびは十年ぶりくらいの再読になりました。

第1話:「酒乱剣石割り」。そうそう、酒乱というのは、こういうタイプです(^o^)/
第2話:「汚名剣双燕」。臆病者の汚名を着てしまったが、それは理由あってのこと。かつての剣友と決着をつける時です。
第3話:「女難剣雷切り」。醜男で間が悪い惣六の話です。
第4話:「陽狂剣かげろう」。はじめは狂気を真似ることで乙江との別れをやり過ごすつもりでしたが、佐藤半之丞は乙江の早逝を知るや、お上に一言恨みを言おうと城中で刀を抜きます。
第5話:「偏屈剣蟇ノ舌」。人が右だと言えば左と言うタイプの偏屈者に、暗殺者に頼んでいるのではないと言いながら情報を仕込んだら、結末はどうも思い通りにいくとは限らなかったようです。
第6話:「好色剣流水」。好色漢というのはいるものです。自分はそれほどではないといいながら、常に女性の方に寄っていくタイプ。でも、今回は相手が悪かった。相打ちが精一杯か。
第7話:「暗黒剣千鳥」。家老によって暗殺を命じられた5人のうち4人までが殺され、三崎修助だけが生き残ります。表向きの縁談の華やかさとは裏腹に重苦しい結末ですが、藤沢周平作品らしく、ひたむきな娘が少し明るい希望をつないでいるようです。
第8話:「孤立剣残月」。上意討ちの命を受けて討ち取った男の弟が、帰国したあかつきには小鹿七兵衛と果たし合いを申し込むらしい、という情報が届きます。相手は、梶派一刀流の名手とのこと。果たし合いの後の夫婦の描き方は、なかなかいい場面です。
第9話:「盲目剣谺返し」。こちらは、映画「武士の一分」の原作になった作品です。文春文庫で296頁~331頁まで、わずかに36頁の短編です。映画では、キムタクこと木村拓哉の、有段者らしい剣さばきの見事さに驚きました。原作の方は、簡潔な描写の中に、三村新之丞と加世の夫婦のすれ違いと再会を描きます。確かに、味わい深い、印象的な幕切れです。

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藤沢周平『三屋清左衛門残日録』を再々読する

2016年09月06日 06時02分05秒 | -藤沢周平
WEB サイト「藤沢周平作品データベース」(*1)にあった記事で、『用心棒日月抄』シリーズ第五作として『三屋清左衛門残日録』を読む、というのがありました。執筆年代や作品内容からみて少々無理があるのは承知の上で、つい第五作を想像してしまう読者の一人として、おもしろい発想だと思い、『残日録』をまた読み始め、案の定、ハマってしまった次第です。

三屋清左衛門は、若い頃に無外流の名手として嘱望された時期もありましたが、先代藩主の信頼を得て出世を重ね、用人として勤め上げ、先代藩主の没後に家督を長男の又四郎にゆずって隠居をしています。妻の喜和は死去して独り身ですが、新藩主の信頼が厚く、隠居部屋を新築してもらい、そこに住んでいるという境遇です。

なるほど、このあたりは『日月抄』の青江又八郎の晩年を想定したと見られなくもないかも。しかし、読み進めるうちに、そんな詮索はどこかへ吹っ飛んでしまい、物語の中に引き込まれていきます。

四年ぶりの再読(*2)ですが、特に好ましく感じられるのは、先祖の百回忌がきっかけで、若い頃のひそかな記憶に絡んだ女性の娘を、剣術道場の信頼できる後輩に紹介し世話をする「白い顔」とか、農婦の母子を助けたのがきっかけで藩内の抗争の存在を知ることになる「川の音」、あるいは偶然に立ち聞きした密事を藩の対抗勢力に伝えようとする武士を描く「霧の夜」などです。たとえば、

誰もいない、丘の陰に入って小暗く見える川には、水面を飛ぶ虫をとらえる魚がはね、そしてそこだけ日があたって見える丘の高い斜面のあたりでは、一団になってひぐらしが鳴いていた。夏の終わり、秋に移るところだと清左衛門は思った。丘のどこか見えない場所に、やはり一団になって鳴くひぐらしがいて、ひぐらしは寄せる波音のように交互に鳴きかわしていた。
 「川の音」より、p.159

というような記述に季節感を感じ、やけに共感したりします。

虫の音、蛙の鳴き声、ひぐらしの声など、藤沢周平の音にまつわる感覚は豊かです。都会の喧騒の中にあって、こうした自然の音は、懐かしい海坂藩や武蔵野の療養所生活に通じるものがあったのかもしれません。



逆に、本作品の末尾で、中風を患った竹馬の友が起きて歩く練習を始めたエピソードを取り上げて終わっていますが、随筆の中で、こうした表現をしたことを後悔していると述べているところがあり、不思議に思ったものでした。今になって思うのは、病を得た人はかならずしも良くなるとは限らないわけで、たとえ充分に回復はできなくても人間の尊厳は変わらないし、起きて歩ける、働けることが全ての価値観ではない、ということだったのでしょうか。

(*1):たーさんの部屋2~「藤沢周平作品データベース」
(*2):藤沢周平『三屋清左衛門残日録』を再読する~「電網郊外散歩道」2012年4月

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藤沢周平『又蔵の火』を読む

2016年08月13日 06時06分38秒 | -藤沢周平
文春文庫で、藤沢周平著『又蔵の火』を読みました。昭和47年~48年頃に発表された、作家デビュー後の著者の初期作品集と言ってよいかと思います。昭和46年に『『溟い海』でオール讀物新人賞、翌47年に『暗殺の年輪』で直木賞を受賞していますので、まさに受賞の頃の作品です。本書は、五編の作品から成っています。

第1話:「又蔵の火」。この緊迫感、スピード感は、尋常ではありません。映画であれば、凄惨な争闘場面を含む、きわめてハードボイルドな作品です。事情を客観的に眺めれば、土屋丑蔵にとっては大いに迷惑な話。又蔵は兄の仇と言うけれど、兄の行状はたぶん許される限度を越えているでしょう。作者はなぜ実話に基づくこの歴史的な事件を作品にしたのだろうかと不思議に思いますが、その疑問は本書全体、暗いトーンを持つ作品すべてに当てはまります。

第2話:「帰郷」。「弔いの宇之」という通り名を持つ渡世人の宇之吉は、あるとき老いの寂寥と悲傷を覚え、帰郷します。自分の家だった屋根の下には、おくみという勝ち気な若い娘が住んでおり、彼女はどうも自分の娘らしい。おくみに手を出そうとしている昔の仲間で仇敵の久蔵が、今は親分を追い出し高麗屋を乗っ取って幅をきかせています。宇之吉は、西部劇ならさしずめさすらいの老ガンマンといった役回りでしょう。

第3話:「賽子無宿」。こちらもイカサマ賭博の渡世人の話です。病気で行き倒れる寸前に喜之助を助けてくれたのは、中風の父親を養って屋台を引いていたお勢でした。ようやく回復した喜之助は、ずっと以前、自分が陥れられた真相を知りますが、嫉んだ男は落ちぶれ、鶴惣一家は阿漕なやり方を続けています。喜之助は、やはり西部劇の「さすらいのガンマン」です。

第4話:「割れた月」。御赦免船で三宅島から江戸霊岸島に戻った日の午後、元錺職人の鶴吉は深川六軒堀町の元の家に戻りますが、そこには昔の情婦のお紺はいなくて、隣家の娘お菊が成長し、父親の理助と共に暮らしていました。お菊は、お紺の正体を察しており、むしろ鶴吉に心を寄せていたようです。理助が卒中で倒れると、鶴吉が働いて養うようになりますが、素人商売はなかなかうまくいきません。結局は、破局型のストーリーになってしまいます。

第5話:「恐喝」。これもまた救いのない、賭場の客に対する恐喝の話です。しかも、イカサマ賭博でカモにした若旦那を恐喝し、その許嫁を売ろうというのですから、最低の野郎どもです。ところが、実際にその娘が連れてこられた時、竹二郎は驚きます。竹二郎が怪我で困っていたときに、親切に助けてくれた、あの娘ではないか。恐喝者は守護者に一変し、娘を逃がした後は、仲間内での凄惨な争闘の場面となります。ある意味、典型的な昭和の時代小説と言って良いでしょう。

大きな文字の新装版で読みやすいけれど、作者はなぜヤクザな男を好んで取り上げたのか。それは、たぶん暗い情念の世界、悲劇的結末の舞台設定をするのが容易だからでしょう。運命にあらがうまでに至らず、運命に流され放浪する存在。しかし「一言、言いたいことがある」。それは、運命に対する憤怒、と言ってもよいでしょうか。

初期の藤沢周平の、あの暗いトーンがたまらなく好きだと言った叔父の一人は、新婚早々だった長男を癌で亡くし、しばらくして自身もまた息子の後を追うように癌で亡くなりました。おそらくは、叔父もまた運命に対して「胸の火が、いま火焔を噴き上げている」思いを持っていたのだろうと、今は想像しています。



さて、今日はお盆で寺の役割がありますので、朝食後には寺に向かい、午後からは一族の挨拶まわりをし、また自宅で挨拶を受けます。例年のことですが、長い一日になりそうです。

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ドラマ「作家・藤沢周平・父の一言~ふつうが一番」を観る

2016年07月12日 06時05分56秒 | -藤沢周平
新聞の番組欄を見ることは少ないのですが、たまたま予告紹介記事で目についたドラマ「作家・藤沢周平・父の一言~ふつうが一番」を観ました。
赤ん坊の娘を置いて妻が早逝した後、父・小菅留治が娘の展子チャンを育てる奮闘が「幼稚園の手提げ袋事件」で描かれます。小菅留治役は、映画「山桜」(*1)で寡黙な武士・手塚弥一郎役を演じた東山紀之、同居するしっかり者の母親役に草笛光子。小菅留治氏の求婚のエピソードは、なんだかユーモラスです。妻となる和子さん役は、「良家の子女のたしなみ」で空を飛んだりする(*2)松たか子さん。結婚生活も、子どもとバアちゃんまで一緒なのですから、なかなか一筋縄ではいきません。子役がとても上手なので、学芸会風にはならなくて良かった(^o^)/

その子役が急に大きくなって、しかも急に反抗期になったのにはビックリしましたが、バアちゃんの諭し方が実にうまいのに感心しました。これは、たぶんあのバアちゃんの年代の人が脚本を書いたか、あるいは演出をしているのではなかろうか(^o^)/
酔っ払って山師の親戚を自宅に連れ帰って来たりするあたりはお笑いの要素ですが、酔っ払って若い女房に逃げられたと泣く松チャンを「ふつうが一番」と説教するあたりは、脚本家が考えた人情ドラマの設定でしょう。
奥さんの和子さんが倒れたときは、おそらく「また妻を病気で失うことになるのか」と恐れたためでしょうか、背負って担ぎ込んだ医院で看病を受け、助かります。こういう夫婦の助け合いを描くばかりではウソっぽくなると思ったのでしょうか、その後は直木賞の候補作にノミネートされ、『暗殺の年輪』で受賞するあたりのハラハラドキドキが、夫婦喧嘩の真っ最中に電話が来る設定で描かれます。で、夫婦喧嘩はおしまい。そりゃそうですね~(^o^)/



たしか、作者は『暗殺の年輪』で直木賞を受賞することをあまり喜ばなかった(*3)のではなかったか。それを編集者にたしなめられた経験を、何かのエッセイで書き残していたように記憶していますが、このドラマの中では、単純化のためにいさぎよくカットされています。このあたりの塩梅が、よくできています。現代風に笑いのツボをおさえた、でもしっとりした味のある、いいドラマでした。小道具や家の中の様子等、昭和のテイストが感じられて懐かしく思いました。直木賞の選考結果が黒電話で知らされるまでのやきもき等、これが現代の携帯電話なら、ドラマになりにくいですからね~(^o^)/

調べて見たら、プロデューサーが石井ふく子、脚本は「蝉しぐれ」をドラマ化(*4)し映画化(*5)した黒土三男、演出は清弘誠、制作はTBS。これは、たぶんそのうちに再放送があるのではないかと思います。

(*1):映画「山桜」を観る~「電網郊外散歩道」2008年5月
(*2):お正月に映画「K-20 怪人二十面相・伝」を観る~「電網郊外散歩道」2009年1月
(*3):『暗殺の年輪』と『蝉しぐれ』~両親の造型などから~「電網郊外散歩道」2009年10月
(*4):NHKの金曜時代劇「蝉しぐれ」の脚本はやはりすぐれていた~「電網郊外散歩道」2014年2月
(*5):『蝉しぐれ』、あらためて原作の厚みを思う~「電網郊外散歩道」2005年10月

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