電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

パリ留学時代のリービッヒ

2014年06月17日 06時05分26秒 | 歴史技術科学
リービッヒは、ヘッセン大公ルートヴィヒI世から奨学金を受け、1822年にパリ大学に入学します。当時のパリ大学には、気体反応の法則の発見者で熱気球で大気の組成は上空も下界も変わらないことを示したジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック(*1)等、多くの科学者がおり、元素記号を定め原子量を精密に測定したスウェーデンのベルツェリウスとともに、物理学・化学研究の先端に位置する教育と研究を行っていました。肖像画は、ゲイ=リュサックです。



当時のドイツでは、学生実験は認められず、リービッヒが反発したように、自然哲学という名目で実験事実を都合よく解釈する講義が幅を利かせていました。ところがパリ大学では、講義の中でよく準備された実験を演示するやり方を主体に、観察と仮説、実験による検証と数学的手法も駆使した理論化といった科学的な方法論が中心になっており、リービッヒは自分のうぬぼれに気づかされると同時に、ようやく求めていた環境に近づけたと驚喜したことでしょう。

ただし、先生の実験室(研究室)に入れるかどうかはまた別問題で、リービッヒが幸運にもゲイ=リュサックの研究室に入れたのは、ドイツの貴族の生まれで有力政治家を兄に持つ地理学者・博物学者アレクサンダー・フンボルトの紹介があったためでした。これは、1823年の7月に、リービッヒが科学アカデミーで雷酸の性質に関する論文を発表した際に、フンボルトもリービッヒの実力を正当に評価し、ゲイ=リュサックに紹介の労をとったためでした。

リービッヒは、ゲイ=リュサックの直接指導を受ける中で、様々な科学的知識や法則の背後には、過去の研究業績の積み重ねがあることを痛感し、発見や研究の基礎となる教育の在り方、とりわけ真実を追求するフランス流のやり方に感銘を受けます。1778年生まれのゲイ=リュサックと1803年生まれのリービッヒとは、25歳も年齢が離れた親子のような関係でしたが、「困難な実験に成功したときには、ともに手を取って実験台のまわりをワルツを踊りながら喜び合ったという」(*2)師弟関係は、期間は短くとも、貴重なものだったでしょう。リービッヒ自身が、後に

兵器庫の中にあったゲー=リュサックの実験室こそ、私のその後の仕事の基礎を与え、私の生涯の針路を決定した

と語っている(*2)ように、リービッヒは、科学研究の方法のうえでも教育と師弟の在り方の上でも、ようやく自分の方向性を見出していくのです。
1824年4月に、リービッヒはパリを離れてドイツに戻り、5月にはギーセン大学の助教授の職を得ますが、これにはヘッセン大公に宛てたフンボルトの推薦状とともに、ゲイ=リュサックの推薦状が大きくものを言ったようです。



こうしてみると、リービッヒは本当に先生に恵まれていると感じます。才能と実力があるだけではなく、たぶん人間的な魅力のある青年だったのでしょう。肖像画でも、直情的で喧嘩っ早い熱血青年の面影を残しているものが多くみられます。

(*1):ジョゼフ・ルイ・ゲイ=リュサック~Wikipediaの解説
(*2):吉羽和夫「有機化学を拓いた化学者(その2)ユストゥス・フォン・リービッヒ」、『科学の実験』共立出版、p.707,1976年8月号


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