電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

リービッヒはカストナーによって道を開かれた

2014年06月15日 06時02分51秒 | 歴史技術科学
1820年の秋、リービッヒは、そのころ父親が懇意にしていた、当時のドイツ最大の化学者と言われたカール・ウィルヘルム・ゴットロープ・カストナー(1783~1857)のいるボン大学に入学します。そこで、自分に不足している外国語や数学などを学び始めますが、1821年にカストナーがエルランゲン大学に移ると、リービッヒもエルランゲン大学に転学します。やはり薬剤師等の徒弟修業の経歴を経て教授となっていたカストナーがボンからエルランゲンに移ることとなった事情はよくわかりませんが、どうやら政治的な事情もあったらしいです。

エルランゲン大学でのカストナーの講義は、残念ながら実験を重視するリービッヒを満足させるものではなかったようですが、このエルランゲン大学時代に、リービッヒはお気に入りの雷酸銀に関する処女論文を、カストナーの紹介で薬学雑誌に投稿(*1)するなど、化学の学習と研究を続けていたようです。

1822年に、リービッヒは急に郷里のダルムシュタットに帰ります。これには、いささか不穏な事情があったようで、リービッヒはこの年のはじめ頃に、非合法の学生団体に関係し住民と衝突をしたことがあり、逮捕される危険から逃れるためだったと言われています。当時のドイツは、小さな王国や公国に分かれた封建体制のもとにありましたので、思想の自由やドイツ統一などを論じることはかなりの「危険思想」であったようです。実際には、郷里に戻ったからと言って危険が去るわけではないわけで、リービッヒはついに逮捕されてしまいます。今風に言えば、学生運動に関わり暴行を働いた容疑ということになるのでしょうか。

幸いなことに、リービッヒは釈放されたばかりでなく、エルランゲン大学から博士号を取得して、パリ大学に留学できることになります。これには、恩師カストナーからヘッセン大公ルートヴィヒI世に宛てて、「この優秀な青年をパリに留学させたのちに化学教師として採用するならば、貴国の発展に寄与するだろう」という推薦状が提出されており(*2)、これを閣僚のシュライエルマッヘルが取り上げた(*3)ためらしい。弟子を心配する師カストナーの温情を、リービッヒは痛感したことでしょう。

考えてみれば、ひたすら化学に没頭し、新しい知識と技術を求めることに性急であったリービッヒにとって、事件を起こし警察に追われる身になった学生を心配する師カストナーの在り方は、人間性ということを考えさせるもので、後年のリービッヒとその弟子たちの師弟関係に大きな影響を与えたものと思われます。

(*1):吉羽和夫「有機化学を拓いた化学者(その1)ユストゥス・フォン・リービッヒ」、『科学の実験』共立出版、p.603,1976年7月号
(*2):吉羽和夫「有機化学を拓いた化学者(その2)ユストゥス・フォン・リービッヒ」、『科学の実験』共立出版、p.706,1976年8月号
(*3):島尾永康「リービッヒの薬学・化学教室」,『和光純薬時報』Vol.66,No.4(1998)
(*4):Karl Wilhelm Gottlob Kastner ~ Wikipedia(English)
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ヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ第3番」を聴く

2014年06月14日 06時03分36秒 | -協奏曲
ようやく週末になりました。ぐずついたお天気ながら、おおむね曇り空を維持しており、サクランボのほうも、週が明けて半ば頃から、佐藤錦の収穫作業が本格化する予定です。まだ本物の甘さには達していませんが、少しずつ赤く色づいてきております。通勤の音楽のほうは、ディタースドルフ等のヴィオラ協奏曲ととっかえひっかえしながら、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ第3番」を聴いておりました。

この曲は、ピアノ独奏と管弦楽のための作品で、CDに添付のリーフレットによれば、戦前の1938年に書かれ、戦後1947年の2月19日に、ニューヨークで作曲者自身の指揮で初演されたそうです。

第1楽章:前奏曲(ポンテイオ)、アダージョ。前奏曲らしく、ドラマティックな幕開けです。「ポンテイオ」とはギターの試し奏きのことだそうな。
第2楽章:幻想曲(脱線)、アレグロ・モデラート。ピアノが華やかに活躍し、盛り上がりもありますが、静寂もあります。「脱線」とあるのが、どうも意味不明です。
第3楽章:アリア(モデーニヤ)、ラルゴ~グランディオーソ~クワジ・アレグロ~ラルゴ。アリアにしては、ずいぶん生命力・活力のあるアリアです。
第4楽章:トッカータ(ピカプ)、アレグロ。シンフォニックなトッカータです。「ピカプ」とは、ブラジルでキツツキのことだそうですが、トッカータでキツツキを連想したのでしょうか、あるいはその逆か(^o^)/

全体としてピアノ協奏曲ふうの印象が強いのですが、どちらかというと、ピアノソロが華麗なテクニックを聴かせながらオーケストラと堂々とわたりあうという、ヴィルトゥオーゾ型の協奏曲ではなくて、ピアノがオーケストラの一つのパートとして機能するような、協奏交響曲ふうの作品です。オーケストラの色彩感やリズムの活力などが魅力的な音楽になっています。

例えば梅雨の晴れ間の早朝に、あるいは雨雲の西に夕焼けが見える帰宅時に、この音楽を鳴らしながらハンドルを握るのは、なかなかよろしいですなあ(^o^)/

演奏は、ホルヘ・フェデリコ・オソリオ(Pf)、エンリケ・バティス指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団で、1985年の8月に収録されたデジタル録音です。独奏者については、まったく初耳ですリーフレットにも記載がありません。メキシコ生まれのピアニストで、ケンプに師事したこともあるとのことです。中南米の音楽の他に、ブラームスやリスト、ドビュッシー等の録音もあるようです。

参考までに、演奏データを示します。

■バティス指揮ロイヤルフィル盤
I=6'28" II=6'01" III=7'40" IV=5'31" total=25'40"


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リービッヒの生い立ちと少年時代

2014年06月13日 06時03分58秒 | 歴史技術科学
ドイツの化学者で、ユストゥス・フォン・リービッヒ(*1)という人がいます。彼は、1803年の5月12日に、ドイツのヘッセン・ダルムシュタット大公国の首都ダルムシュタットの薬種原料商人の次男として生まれました。父親は医薬品や染料の製造にあたり、母親が販売面を受け持つという生活で、中産階級に属する家族であったようです。リービッヒ少年は、父親の仕事を手伝いながら化学への興味を育てていきます。このときは、宮廷文庫の蔵書を市民に貸し出すという制度があり、司書官に可愛がられて、化学辞典全32巻など、手当たり次第に読みふけり、知識を蓄えていったという幸運も大きいでしょう。リービッヒは、何度も実験を繰り返し、詳細に知り尽くすまで反復するという点でファラデーを高く評価し、着想を思弁でなく感覚で認めるという自分の流儀を育んでいきます。

ところが、ラテン語や古典などに重きを置く教育が中心のギムナジウムに、リービッヒはなじむことができません。お気に入りの物質である雷酸銀を爆発させる騒ぎを起こしただけでなく、語学がまるでダメ、語学を生かして学ぶ学科もダメとあって、劣等生のレッテルを貼られて、教室で叱責されてしまいます。

「そんな心がけでは、大人になったら何になるつもりか!」

すると、リービッヒは

「化学者になるつもりです」

と答えたそうです。その時、教室中に嘲笑がわき起こったといいますから、語学や哲学、古典などの思弁的学問が重視され、産業革命を支える技術や科学が蔑視されていた当時の社会的評価が想像できます。

卒業を迎えることなくギムナジウムを離れたリービッヒは、薬剤師として身を立てさせようという親の願いにより、近くの村の薬屋に徒弟奉公にやらされます。そこで、薬品の知識は身に付けたものの、屋根裏に与えられた自分の部屋で、やっぱり雷酸銀の爆発事件を起こし、親方からクビを宣告されてしまいます。仕方なく、1818年(15歳)から17歳まで二年間ほど父親の仕事の手伝いをしながら化学の勉強を続けますが、ようやく父親の許しを得て、父親の知り合いだったという縁でボン大学のカストナーのもとに入学し、学友との交流の中で、ギムナジウムでの不勉強に気づきます。リービッヒは、そこから外国語や数学などを真剣に学び始めます。

このあたりも、大学に入学し学んだ経験を持っているリービッヒが大学における科学教育に革命をもたらし、ほとんど学校教育を受けていないために、ファラデーが学校教育にあまり期待しないという違いの遠因でしょうか。

(*1):リービッヒ~Wikipediaの解説

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DVDで映画「長州ファイブ」を観る

2014年06月12日 06時03分23秒 | 映画TVドラマ
幕末から明治にかけての技術や科学の移転に興味を持っている関係で、長州藩の五人の若者が英国に密航留学した史実に基づいて制作された映画「長州ファイブ」(*1)を観ました。妻にレンタルで借りてきてもらったもので、返却期限が来る前に観終わらなければと、真剣に観ました。

あらすじとしては、山尾庸三、志道聞多、伊藤俊輔は、高杉晋作が幕府の無能を示そうと計画したイギリス公使館焼き討ちに際しても、「こんなことで幕府を困らせて何になるのか」と、どうも納得できません。攘夷論についても、「異国人を斬っても諸国の介入を招くだけではないのか」と懐疑的です。聞多と俊輔は、信州松代の佐久間象山を訪ね、敵国に密航留学して学問や技術を修得し、生きた機械となって帰って来いと言われて、初めて目を開かれます。比較的身分の高い志道聞多が、藩主の毛利敬親に会って密航留学を願い出、黙認という形の了解を得ます。志道の家を出て井上を名乗る聞多と伊藤俊輔は、航海経験のある山尾庸三に計画を打ち明けて同行を願うと、山尾が語学力のある野村弥吉を加え、さらに遠藤謹助も押しかけて仲間に加わりますが、問題は資金です。藩主からの手許金では到底足りず、鉄砲を購入する藩の資金の中から五千両を借りるという形で、横浜のジャーディン&マセソン商会のつてで英国に渡ることになります。

乗り込んだ船では、少々誤解があったらしく、船客としてではなく船員見習いとして扱われますが、懸命に英語を学ぼうとする姿勢を、船長は評価します。ようやくたどり着いたロンドンでは、5人ともロンドン大学(UCL)のウィリアムソン教授の家に下宿し、夫妻の、とくに夫人の理解ある計らいで、衣服や生活習慣などを調え、なじんでいきます。例の、現代に残る肖像写真を撮影する際に、夫人がポーズを指示していく場面などは、ユーモラスであり、なおかつ心あたたまる場面でした。

ウィリアムソン教授のいるUCLで化学を学び、ロンドン各地を見学して英国社会を知るにつけても、日本が攘夷を叫ぶことの無意味さを痛感します。それと同時に、繁栄する英国社会の影、労働者階級の貧困と不幸を知るようになります。渡英して半年後のある日、新聞で長州藩が米蘭仏の艦隊に攻撃を加えたこと、薩摩藩が英国艦隊に砲戦を行った報復のために欧米諸国が日本本土への上陸作戦を立てた模様、という記事を見つけます。井上聞多と伊藤俊輔の二人は、急きょ帰国して攘夷の藩論を転換するよう説得しますが不調に終わり、停戦と和平工作に活躍します。残った三人のうち遠藤謹介は結核に倒れて帰国、山尾と野村の二人が留学を継続します。たまたま酒場の縁で知り合うこととなった薩摩藩の密航留学生たちと出会い、聞多と俊輔の消息を知るとともに、薩摩や長州などといった藩を超えた視野をもって未来を展望することで、彼らの理解と資金援助を得ます。
山尾は造船技術の習得のためにグラスゴーに移り、はじめは東洋人であることを馬鹿にされますが、次第に熱心さと優秀さとを認められていきます。映画では、聾唖の娘エミリーとの悲恋を通じて、後の工部卿・山尾庸三子爵が、東大工学部の前身である工部大学校の設立建白書とほぼ同時期に、訓盲院の設立建白を行うなど、障碍者教育に尽力した理由を描いていますが、これはおそらく映画的創作でしょう。



いい映画でした。山尾庸三を主人公としたことで、エミリーとの悲恋などのエピソードを創作することができ、物語にふくらみができた点は良かったと思います。留学先のウィリアムソン教授の出番と役割が、「なぜ生きるかではなく、どのように生きるかが大切だ」という言葉を贈るだけになっていますが、これはいささか少なすぎるでしょう。ウィリアムソン教授の人となりがなければ、いくらマセソン商会からの推薦と高額な下宿料の提示があったとはいえ、東洋のぶっそうなサムライの若者を五人(実際は三人)も下宿させるなど、許可するはずがありません。夫人がチャーミングなだけに、なおさらそう思います。丁髷を切る断髪の儀式の場面をもう少し短くしてもいいから、ウィリアムソン博士の信念や思想が、もう少し描かれても良かったのでは、と思います。まあ、私の個人的興味の部分が大きいのですが。

吉田松陰の主観的観念論によって触発された若者のエネルギーが、ウィリアムソン博士を象徴とする西欧的思想と産業技術に触れ、科学的思考の訓練を経て変容していく過程ととらえるべきかと思います。

国家が滅亡したあとに、海軍が何の役に立つのか、という伊藤俊介・井上聞多は政治家になります。しかし、滅亡を防いだ国家が、民と兵を酷使し死なせるだけであったら、それでよいのか、という論も成り立ちます。山尾庸三とエミリーの悲恋は、人々の幸福を願うものとして描かれます。

(*1):映画「長州ファイブ」公式サイト


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アタシは夏が苦手

2014年06月11日 06時04分31秒 | アホ猫やんちゃ猫
やーねぇ、まーた夏が来ちゃったわ。
アタシは夏が苦手なのよね~。
だって、この毛皮でしょ、
ほんと、いやになるわ。



えっ、なあに?
アタシがご主人のブログにまた出てるって?
やーねぇ。
最近、なんだか小難しい記事ばっかり書いてるから、
ご主人の脳みそにカビが生えるんじゃないかと心配してたのよ。
脳みそに生えるカビだから、きっとコウジカビね!



あ~、ご主人みたいにアホなことを言ってると、アタシまでアホになりそうだわ。
奥さんはふなっしーに夢中だし、サクランボなんて食べられないし、
ガリガリ爪とぎする元気も出てこないわ!

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中岡哲郎『近代技術の日本的展開~蘭癖大名から豊田喜一郎まで』を読む

2014年06月10日 06時02分34秒 | -ノンフィクション
朝日選書で、中岡哲郎著『近代技術の日本的展開~蘭癖大名から豊田喜一郎まで』を読みました。本書の帯には、「日本はなぜ戦争に負けたか、廃墟からの高度成長はなぜ可能であったか------技術史の角度から考える」とありますが、これはあまり上等な要約ではないようです。むしろ、本書の裏表紙に記された内容紹介:

東から西へ、世界でものと人の移動に伴い繰り返された文明の移転は、18世紀、イギリスで産業革命に結実し、機械で商品を生産販売する時代を生んだ。同じころ鎖国下の日本では、西からの珍品貴宝を求める蘭癖大名らが技能者を巻き込み、反射望遠鏡、時計、大砲などが製品化されるほどに各地でネットワークを築いていた。開国後、殖産興業のスローガンの下、日本の技術者や在来職人は、外来技術と在来技術をうまく組み合わせて、製糸業、紡績業、軽工業、機械工業、製鉄、鉄道などの分野で独自の発展を生む。この間日本は、日清、日露、第一次世界大戦を経験し、勝つたびに領土拡張するも、最後の第二次世界大戦に大敗しすべてを失う。しかし10年後には高度経済成長が始まる。それはなぜか?技術の角度から考える。

という文章が、最もよくその内容を要約していると感じました。

歴史と技術に関心を持つ理系人間として、たいへん興味深く読みました。断片的ではありますが、本書を読み、あらためて認識したことをいくつか挙げてみると、
(1) 高炉製鉄の技術が鋳鉄砲と砲弾とを可能にし、スペイン・ポルトガルの無敵艦隊を粉砕した
(2) 造船業と製鉄のための木炭を供給するには森林が不足したために、石炭に着目することとなり、石炭を乾留して生じるコークスを用いる製法が試みられた
(3) コークスによる製鉄法では、硫黄や燐分を除去するために、高温操業をしなければならず、それには強力な炉内送風を必要としたが、水車動力では限界があった
(4) 水車よりも強力な動力として蒸気機関が出現して初めて、コークスによる銑鉄が木炭による銑鉄を品質面で上回ることができた。
などがあります。鉄と石炭。イギリス産業革命のポイントの一つとして、これまでこの組み合わせを自明のものとして考えてきましたが、はじめてその理由をはっきりと認識することができました。
本書は、同氏の前著『近代技術の日本的形成』(朝日選書)に続く著書であるらしい。さっそく『形成』の方を探してみましょう。
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デーヴィーは1人のファラデーを育て、ファラデーはクリスマス講演をした

2014年06月09日 06時04分16秒 | 歴史技術科学
いろいろないきさつはあっても、最終的にデーヴィーは、自分の発見の中で最大のものはマイケル・ファラデーを発見したことだと語ったそうです。ファラデーがデーヴィーからの手紙を終生大切に保管していたこととあわせて、人生の晩年には心なごむエピソードです。

また、ファラデーについては、科学者としての業績とともに、その人間性の点でも興味深いものがあります。壮年期には委託研究でかなりの額の収入がありましたが、ある時期からは委託研究も断って自分の研究テーマを中心とするようになり、特許を取って金儲けに走ることをしませんでした。研究成果については、成功も失敗も包み隠さず発表し、公開します。毒ガスの兵器としての可能性について問われたときに、技術的には可能だろうが、自分は絶対にしない、と断ったそうな。技術的に可能でも、していいことと悪いことがある。おそらく宗教的な信条が理由でしょうか、現代の私たちにも共感できるところです。

さて、当時の徒弟制度の慣習にしたがい、デーヴィーは一人の弟子を育て、その弟子が師を超える大科学者となったことになりますが、このようなケースは珍しいとしても、徒弟制度のような中で、生涯に一人か二人の弟子を育てることが普通でした。でも、ファラデー自身は弟子を育てることをせず、むしろ自分の若い頃の経験からでしょうか、一般向けの科学講演会に力を注ぎます。とくに子どもたちを対象にしたクリスマス講演会で話すことを最晩年まで楽しみにしていたようで、その講演録が古典的名著『ロウソクの科学』として残されています。しかしながら、大学ではラテン語や古典などが中心で、物理化学や技術などは教育の対象とならなかった時代に、当時の子供たちが科学を志したとしても、それを受け止める受け皿はあまりにも少なかったと言えましょう。

象徴的に言えば、たった一人の弟子を育てる時代から、多数を育てる時代へ。産業革命の進行を背景に、増大する技術者・科学者の需要に応えるにはどうすればよいのか。その答えを探すには、イギリスを離れて、19世紀のドイツを見る必要があります。

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今年は早生種のサクランボ「紅さやか」をタイムリーに収穫できた

2014年06月08日 06時05分57秒 | 週末農業・定年農業
サクランボは、自花受粉では実らず、必ず異なる品種の花粉を受粉しないと実りません。そのために、我が家のサクランボは、主力の「佐藤錦」の樹の間に、花粉を提供するための品種として、数種類を混植しています。多いのは、開花時期が似ている晩生種のナポレオンですが、その他に開花時期がずれることを予想して、早生種の「紅さやか」なども植えています。現在、この「紅さやか」が真っ赤に色づき、収穫期となりました。近年は、人件費をかけて収穫するまでもなかろうと、放置することが続いていましたが、今年は収穫適期にちょうど土日が重なりましたので、妻と二人で収穫作業に出ました。






土曜日の午前中は、幸いに曇りのお天気で、暑からず寒からず、ほどよく風もあり、まことによい収穫日和です。少し離れた園地に軽トラックで脚立やらコンテナやらを運び、よっこいしょと脚立をかけ、ラジオを聴きながら収穫しました。ほぼ1時間半で平コンテナ3枚半ほどの収量となりましたので、雨が降ってきた午後にはパック詰めの出荷準備作業にあたりました。



「紅さやか」は、生食用としては「佐藤錦」に負けますが、小粒で真っ赤に色づき、酸味が勝っているところから、お菓子などの用途には適しています。さて、どんな人が購入して、どんなふうに利用するんだろうかと想像しながら、パック詰めの作業をしたところです。夫婦で元気に農作業ができるのは、健康だからこそできることで、まことにありがたいことです。本当に健康に感謝したいと思います。

ちなみに、主力品種の「佐藤錦」は、現在はまだこんな状態です。赤くなって美味しくなるまでには、まだ二週間ほどかかりそうです。



今日も、「紅さやか」の収穫作業の予定ですが、さてお天気のほうはどうなるでしょうか。

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ファラデーとデーヴィーの間のトラブル~その背景と階級的偏見

2014年06月07日 06時01分13秒 | 歴史技術科学
王立協会のフェローであり、名講演で社会的な知名度の高い王立研究所教授で、ファラデーよりも13歳年上の尊敬する師匠であるハンフリー・デーヴィーは、1812年にナイトの称号を受けるとともに、上流階級出身の裕福な未亡人と結婚していました。

1813年3月1日、ファラデーは王立研究所の助手に正式に採用されます。この時点では、ファラデーはまだ実験の助手に過ぎず、独自の研究業績をあげていたわけではありませんでした。長いあいだ願っていた科学研究の世界に足を踏み入れ、思い切り好きな実験ができるぞと喜んでいたときに、デーヴィーはナポレオン・ボナパルトからメダルを贈られることとなり、これを受ける目的で、1813年10月にヨーロッパ旅行に出かけることになります。当時、英国とフランスは戦争状態にあったために、夫人の召使いは敵対国への同行を断ります。ファラデー自身は、助手としてデーヴィーに従うこととしますが、デーヴィーは新たな召使いが見つかるまで、一時的に夫人の仕事も請け負うことを受諾させます。

ナポレオン・ボナパルトの旅券の効力もあって、パリへの旅はなんとか前進しますが、英語のわかる夫人の召使いはなかなか見つかりません。にもかかわらず、レディとして気位の高い夫人の要求は多種多様で、命令は居丈高だったようです。

デーヴィーに表敬訪問する西欧諸国の科学者たちとの晩餐に、社交好きな夫人が同席して愛想を振りまいても、ファラデーは召使部屋で召使たちと一緒の食事を強いられるばかりです。科学者たちは、デーヴィーの従僕が実は豊富な科学知識と科学実験の経験を持っていることをいぶかしみ、晩餐への同席を要請しますが、夫人の不同意のために実現しません。はやく夫人の召使いを雇ってほしいと訴えても、デーヴィーは曖昧に言葉を濁すだけだったようです。科学の研究のためにデーヴィーに献身的に協力することについては熱心でも、上流階級の階級意識と偏見にとらわれた夫人の態度には、さすがのファラデーも我慢がならなかったものとみえます。

ラテン語や古典の知識に基づく教養が紳士の条件とされた時代、上流階級の人たちは、新興中産階級の教養の無さを指摘し、技術や産業に熱心な俗物性をさげすんでいました。デーヴィー夫人が、ナイトの称号を持つ有名人としての夫を誇ることはあっても、次々に新発見を成し遂げる偉大な科学者として夫を尊敬したとは思えません。デーヴィーの妻が夫の助手に過ぎない下層階級出身のファラデーを従僕扱いにしたことは、その流れにおいて理解すべきことでしょう。当然のことながら、ファラデーを科学者の一員として認めることはあり得ませんでした。ましてや外国人とくに東洋人への偏見と蔑視は、彼女だけでなく当時の西欧の社会的な共通性だったと思われます。

ナポレオン・ボナパルトの運も傾き、1815年に、デーヴィーは急きょ帰国します。ファラデーにとってこの旅は、不愉快なことも多かったことでしょうが、視野を広げ、各国の科学者との交流が生まれることとなった、得難い有益な経験となったことでしょう。

帰国した1815年に、デーヴィーはファラデーの協力のもとに、炭鉱で使う安全灯を発明します。産業革命が進む英国で、鉄と石炭は最も重要な資源でした。当時は、炭鉱で爆発事故が頻発し、炭塵が舞う坑内で用いることができる、安全な照明が求められていたからです。

そして、これまでの多くの科学上・技術上の業績により、1819年、デーヴィーは平民出身としては最高の爵位である準男爵となり、1820年には王立協会の会長に就任します。デーヴィーはすでに王立研究所は辞して名誉教授のような立場になっており、ファラデーは後任の教授との関係も良好で、自力で研究を続けておりました。ところがその結果が、デーヴィーとの間でトラブルを招くこととなります。

1821年に、ファラデーは単独で磁気と電流の相互作用を実験的に証明しますが、デーヴィーはこれをウォラストンの研究を盗んだと考えます。おそらく、かつての助手が自分の研究成果をしのぐ画期的な業績を上げたことに対する嫉妬だったのでしょう。そのために、ファラデーを王立協会の会員に推す提案があったときも、会員全員の賛成の中でただ一人、会長のデーヴィーだけが反対票を投じるというしまつでした。

しかし、ファラデーは塩素の液化に成功(1823)し、気体は液体の物質の状態が変化したものに過ぎないとする考え方を導きます。さらに、当時ロンドンに普及しつつあったガス配管の詰まりが液化留分によるものであることを突き止めてベンゼンを発見(1825)し、後の有機化学における芳香族化合物の分野を開きます。デーヴィーの死去(1829)の後も、電磁誘導の発見(1831)、高校化学の教科書で有名な電気分解の法則の発見(1833)、さらには反磁性の発見(1845)、磁場が光に影響するというファラデー効果の発見など、この時代にノーベル賞があったならば一人で何度も何度も受賞していたであろうと思われる業績を、次々にあげ続けます。まことに壮観です。

では、晩年のファラデーは恩師デーヴィーをどう思っていたのか。ファラデーの伝記を執筆した著者が、次のような内容の証言を残しています。ファラデーは、恩師デーヴィーが自分を王立研究所の助手にと誘ってくれた手紙をずっと大切に持っていたそうで、伝記を執筆する際に、返却を条件に貸してくれたとのことです。いろいろな軋轢はありながら、恩人として感謝の気持ちを持ち続けたのではないでしょうか。

(*1):スーチン著(田村二郎訳)『ファラデーの生涯』(東京図書)
(*2):J.ハミルトン著(佐波正一訳)『電気事始め~マイケル・ファラデーの生涯』(教文館)

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文具店でボールペンの替芯等を調達する

2014年06月06日 06時03分44秒 | 手帳文具書斎
ボールペンのスタイルフィット(StyleFit)で使っている、ブルーブラックの0.5mmリフィルのインクが無くなりましたので、行きつけの文具店に立ち寄り、購入してきました。




(1) パワータンク・スマート 黒 0.7mm シルバー軸 1本
(2) パワータンク PowerTank 黒 標準リフィル(SNP-7,SNP-10) 各1本
(3) パワータンク PowerTank 黒 金属リフィル 0.7mm 1本
(4) スタイルフィット StyleFit ブルーブラック 0.5mm 2本

もっぱら万年筆を主体に使っておりますが、ボールペンを使う場面もけっこう多く、とくに立ったまま上向き筆記も可能なパワータンクはたいへん強力な筆記具です。
ところが、文具店での扱いはなんとも弱体で、パワータンク・スマートはシルバー軸が二本だけ、パワータンク・スタンダードは赤と黒の0.5mmと1.0mmの二種類のみ、数本ずつ残っているという状態です。普通の油性インクで、値段も割高とあって、なかなか売れにくいのかもしれません。加圧式という特徴があってもそうであれば、勿体ない話です。



スタイルフィットのブルーブラックは、書き味という点では一歩ゆずりますが、色合いが好ましく、近年になってから愛用しています。替え芯を購入するのは初めてで、落ち着いた色合いを武器に、定番の一つとして定着しつつあります。

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師のデーヴィーもまた徒弟修行を経て化学者となっていた

2014年06月05日 06時04分33秒 | 歴史技術科学
師のハンフリー・デーヴィー(*1)もまた、実はファラデーと同様に、徒弟修行を経て現在の地位にあるのでした。ただし、ファラデーよりはだいぶ恵まれていて、外科医をしていた、デーヴィーの母方の義父の計らいで、私立学校に通わせてもらっていますし、馬具工をしていたダンキンから科学の初歩を習っています。実父が亡くなると、病院の薬局に年季奉公に入り、ここで化学を学び、自宅の屋根裏部屋に実験室をこしらえ、ここで化学実験を行っていたようです。

そして、たまたま王立協会のフェローだったデービス・ギルバートに認められ、その縁で病院の付属医学校の化学講師エドワーズ博士の実験室に出入りできるようになります。さらに、ギルバートの推薦により、ブリストルの気体研究所で働くこととなります。デーヴィーは、様々な気体について研究をします。例えば自分が発見した笑気ガスを、麻酔ガスとしての利用は想定できなかったものの、好んでデモンストレーション実験に使っていたようです。

デーヴィーの優れた研究は、王立研究所のバンクスの注意をひき、公式にデーヴィーを王立研究所の化学講演助手兼実験主任となります。やがてデーヴィーもまた科学講演を引き受けるようになりますが、このときに彼のもう一つの才能である詩人としての資質が発揮され、多くの聴衆を集めるようになります。特に女性には人気があったようで、1802年には正講演者に、1803年には23歳の若さで王立協会フェローに選出されます。

王立研究所で、デーヴィーは多くのボルタ電池を作り、これを利用してなじみの化合物を電気分解するという手法で、多くの新元素を発見していきます。具体的には、苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)や苛性カリ(水酸化カリウム)を溶融塩電解してナトリウムやカリウムを、石灰と酸化水銀の混合物を電気分解することでカルシウムを発見します。さらに、同じく電気分解によってマグネシウム、ホウ素、バリウムを発見しますし、後には塩素が化合物ではなく単体であることを示すとともに、塩酸を電気分解しても酸素が発生しないことから、「酸は酸素を含む」というラヴォアジェ以来の概念を覆し、「酸は水素を含む」ことを示します。一人で六種類の元素を発見したのはデーヴィーだけだそうで、このあたりの活躍はまさに特筆に値します。

しかし、注目されるのは、デーヴィーもまた徒弟修行を経て化学者となっていた、という事実です。当時は、大学で物理学や化学を学び、科学者となるという道はありませんでした。産業革命が進む英国は明らかな階級社会であって、大学は哲学や古典を研究するところであり、物理や化学などは下賎な技術分野として扱われ、新興中産階級が興味を示すことはあっても、貴族や上流階級の紳士が学ぶものではなかったようです。

(*1):ハンフリー・デービー~Wikipediaの解説
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ヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ第2番」を聴く

2014年06月04日 06時03分41秒 | -オーケストラ
連日、暑い日が続きます。春から初夏を省略していきなり盛夏になったような真夏日で、30℃を超す気温には、日中に外出するにもかなりの気合が必要です。

でも、朝晩はほんとうに涼しく、15℃前後ですので、寝苦しさは皆無です。こんな季節には、早朝出勤も気持ちが良い。通勤の音楽として取り出した3枚組CDは、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」です。今回は、第2番を。

この曲、まるで「酒場のバッハ」みたいな始まりで、サキソフォンが活躍する音楽だ、という印象(*1)を持っていますが、たしかに「バッハ・イン・ナイトクラブ」みたいな雰囲気はあります(^o^)/

第1楽章:「前奏曲」。これは、「カバドシオの歌」という標題がついていますが、カバドシオというのは「樺敏夫」君ではなくて、酒場の粋な無頼者のことだそうな。さしずめ、「ならず者の歌」といったところでしょうか。サキソフォンを用いた旋律が、まさに「酒場のバッハ」の雰囲気を濃厚に伝えるものになっています。もっとも、曲想は途中で軽快なリズムに変化し、ならず者は酒場を去り、奥地に向かう列車に乗ったというふうにもとらえられます。
第2楽章:「アリア」。「われらが大地の歌」という標題がついています。出だしがカッコいい。サキソフォンの活躍がここでも顕著ですし、途中のチェロの旋律もたいへん印象的です。
第3楽章:「踊り」。「奥地の思い出」という標題がついています。土俗的な要素がいっぱい詰まった、いかにもブラジルの音楽!という感じの音楽です。
第4楽章:「トッカータ」。標題は「カイピラの小さな汽車」。まさしく小さな汽車を描いた音楽です。ただし、C62とかD51の三重連といった迫力ある姿ではなく、ブラジルの奥地を走る、小型だが力強いSLという想定でしょう。曲想も、比較的明るく伸びやかな印象があり、不健康な酒場よりも、ずっと生命の躍動感を感じます。これは、おそらく私がサクランボ果樹園で週末農業の労働の日々を送っているために共感するという個人的な理由によるものではなくて、多くの人が感じるであろう響きの明るさと、規則的なリズムの推進力によるものでしょう。

演奏は、エンリケ・バティス指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団で、1985年の8月9日と10日に、St James's, Clerkenwell green で収録されたデジタル録音です。TOCE-16135-37 という型番で、EMIの廉価3枚組CDの一枚目です。

参考までに、演奏データを示します。
■バティス盤
I=5'31" II=4'32" III=4'50" IV=4'19" total=19'12"

(*1):ヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ第1番」を聴く~「電網郊外散歩道」2014年2月
(*2):ヴィラ・ロボス「ブラジル風バッハ第4番」を聴く~「電網郊外散歩道」2009年11月
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初代パワータンクボールペンの最期

2014年06月03日 06時05分14秒 | 手帳文具書斎
ふだん、スーツの内ポケットにしのばせているボールペン、パワータンクPowerTankスマートのアルミ軸のインクが切れました。例によって、まるで充電池のように突然ストンと書けなくなります。あいにく、金属リフィルの在庫は切らしておりましたので、応急処置として、クリップが壊れて第一線を退いていた初代パワータンクから替え芯を取り出し、スマート・アルミ軸のほうに交換しました。

さて、残った初代パワータンクの軸はどうするか? 軸を分解して芯を入れ替えるのも難儀するほど固くなっており、結局は捨てるしかないのでしょう。ここはアルミ軸スマートに後事を託し、記念として写真を掲げて、潔く身を引かせることといたしましょう。

というわけで、初代パワータンクは去って行きました。使用期間は、2005年9月から(*)ですので、8年と8ヶ月でした。

(*):午後から外出、成果は?~「電網郊外散歩道」2005年9月
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ファラデーの前半生~製本職人の徒弟修行を終えてから王立研究所の実験助手へ

2014年06月02日 06時05分31秒 | 歴史技術科学
マイケル・ファラデー(*1)は、1791年にイギリスに生まれました。4人兄弟の3番目で、家が貧しかったために、ロンドンの製本職人リボー氏のもとで、始めは小僧として配達から、後には製本の徒弟として、住み込みで年季奉公をするようになります。そこで製本の腕を磨いていきますが、ほとんど正規の学校教育を受けていないにもかかわらず、持ち前の聡明さと、両親から受け継いだキリスト教サンデマン派の厳しい宗教的戒律に根ざす実直さとを、親方はじめ得意客たちに愛されて成長します。

当時、本は印刷されると仮綴じで売られるだけで、購入した客は必要に応じて製本に出し、革装の愛蔵本にして書斎に収めるのが習慣でした。したがって、製本屋のお客は安定した収入のある中産階級以上の人々であり、幸いにもファラデーは、ディケンズがその作品の中で描いたような、産業革命が進行し労働者階級が悲惨な状態に置かれていた社会の底辺の悪習に染まらず、成長することができたことになります。

ところで、製本職人の徒弟としてのファラデーの変わった点は、製本の依頼を受けた本の「中身」に興味を持つことでした。例えば、大項目主義を特徴とする『ブリタニカ大百科事典』の「電気」の項に興味を持ち、学んだ知識をノートにまとめながら、少ない小遣いをやりくりして、書かれた実験ができる器具を集めたり自作したりしながら屋根裏の実験室を作ります。こんなふうに、自分で実験をして一つ一つ確かめながら、様々な自然現象についての知識と経験を蓄えていきます。また、タタム氏という人が市民向けに科学の連続講義をするという貼紙を見つけ、これを熱心に聴講して、その記録をノートにまとめます。

このファラデーのノートは、現在も保存されているそうですが、たまたまある画家からデッサンの技法を教わる機会があり、これを応用した図解を添えた見事なもので、親方や得意客たちの注目を集めることとなります。その中の一人であるダンス氏が、おそらく若い職人を励ます気持ちからでしょうが、王立研究所の教授ハンフリー・デーヴィーの科学講演の切符をプレゼントします。

ここで、王立研究所とは言っても、国や国王から予算が出るわけではなく、研究費は自前で稼がなければならない仕組みでした。したがって、当時の社会の流行を踏まえたテーマで連続講義を行い、そのチケットを売り出すことで収益をあげたり、あるいは委託研究を引き受けたりして、研究費や運営費をまかなわなければならないのでした。

デーヴィーの連続講演を聴いたファラデーは、このときも詳細な講義録を作り、精密な図解と索引も付けて、お手の物の製本をして見事に完成させます。それまでは、製本の仕事のかたわら趣味として科学実験に携わっていたのでしたが、この時をきっかけに、一生の仕事として、どんな形でも良いから、科学研究の一角に加わることを強く希望するようになります。製本職人としての年季奉公を終えて独り立ちすることになり、リボー氏の店を出て、職人として新たに勤め始めたロッセ氏の店の流儀には、どうも馴染めないものを感じ、やはり自分は科学研究に一生を捧げたいと願うのです。その願いを手紙にしたため、例の講義録ノートとともにデイヴィーに送ったところ、デイヴィーはファラデーに会ってくれました。そして、製本職人の収入と比べて科学の仕事ははるかに待遇が悪いことを説明し、今の仕事を続けるように勧めますが、ファラデーは生活のためではなく、一生の仕事として、製本職人ではなくて科学の仕事を選びたいと訴え、面会はそこで終わったのでした。この場面は、中~高校生の頃だったでしょうか、少年期の私の記憶に、強い印象を残しています。

さて、その後しばらくして、たまたまデーヴィーが実験により目を負傷したために、代筆をする臨時雇の仕事があり、数日間、ファラデーが代役をつとめます。その仕事ぶりや人柄などを観察したのでしょうか、ある日、デイヴィーの使いの馬車がやって来て、まだ気持ちが変わらないのであれば、辞職する実験助手の後任として雇いたいと伝えます。ファラデーは、この日のことを終生忘れることがなかったようです。

ファラデーは、こうして王立研究所の実験助手として正式採用され、製本職人よりもずっと低い給料で、実験器具を洗浄し片付け、実験器具や材料を準備し、師のデイヴィーの講義実験を助けるなどの仕事に従事することとなります。これが、19世紀最大の科学者の一人、マイケル・ファラデーのスタートでした。


(*1):マイケル・ファラデー(1791~1867)に関するWikipediaの記載
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【期間限定6/1~6/10】ブログを介した産直の可能性について

2014年06月01日 06時08分05秒 | 週末農業・定年農業
6月になると、いよいよサクランボのシーズンに入ります。今年も、なんとか果樹園のもろもろの管理作業をすすめることができ、佐藤錦を主体に、収穫の準備に入りました。

我が家では、収穫したサクランボは、一部を親戚知人に送る以外は、ほぼ農協に出荷しております。私のPC経歴を知る人からは、インターネット販売はしないのかと聞かれることがありましたが、個人でのトラブル対応のわずらわしさを考えると、とてもネット販売をしようという元気はありませんでした。

ところで、当ブログに以前からコメントをいただくブロガーの方々で、特に遠方の方などは、山形のサクランボに接する機会は少ないのかもしれません。であれば、ブログの仕組みを使って、ネット上で生産者の姿の見える産直はできないだろうかと考えてみました。

(1) 有料のgooブログ・アドバンスでは、アフィリエイトや商利用が認められていますが、悪意の「なりすまし」を防ぐためには、お互いに何度もコメントしあって承知しているブログ主に限定すればよい。
(2) 押し売りにならないためには、当方のブログにコメントで申し込んでもらうのが良かろう。goo ブログには非公開コメントというのはなかったと思うので、この期間はコメントを承認制とする。
(3) 申込を受けたら、相手のブログに「申込を受けましたが間違いありませんか」という確認と、こちらのメールアドレスを(非公開)コメントで書き込む。
(4) メールで注文を受け付け、サクランボの美味しい時期(6月下旬)になったら宅配便で発送する。
(5) サクランボの到着を確認したら、送金してもらう。
(6) 入金を確認したら、メールで連絡し、領収書に代える。

こんなふうなやり方ならば、不特定多数を対象とするために起こる様々なトラブルの心配も少なく、産直を試みることはできるかもしれません。もちろん、代金後払い方式ですので、小規模で実験的にしかできないレベルだと思いますし、宅配の発送者から当方の個人情報もわかってしまいますので、「住所・氏名・電話番号・職業・経歴」等、知り得た個人情報は公開しないという条件で注文を受け付けることとなります。さて、ブログを介した産直の試みは、どんなものでしょうか。

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