電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

リービッヒ、ギーセン大学に新しい化学研究教育システムを開始する

2014年06月19日 06時02分07秒 | 歴史技術科学
1824年の4月、リービッヒはパリ留学を終えて故郷ヘッセンに戻ります。そして、5月にはギーセン大学の助教授として、人口5,500人ほどの小都市ギーセンに赴きます。

ギーセン大学は、哲学・医学・法学・神学の四学部からなり、おそらくは医学部に所属する形でのスタートであったろうと思われます。しかし、化学の先任教授は、21歳と若い助教授リービッヒと実験室を共用することに同意しません。せっかく張り切って赴任しても、実験室がないリービッヒは翼のない鳥です。助け船を出してくれたのは、やはり閣僚のシュライエルマッヘルだったようで、大学が口出しできない兵舎の守衛室を実験室として使えるようになります。同年11月、最初の受講生として12名の薬学学生を迎え、リービッヒの化学教室はスタートします。

実験室として当てられた棟は、間口が約5.5m、奥行きが約7m、面積が約38平米といいますから、日本風に言えば約11.5坪、23畳分の広さの小規模なものでした。翌1825年の12月、先任教授の逝去によって、リービッヒはギーセン大学でただ一人の化学教授に昇任します。そして、実験室に天秤室、試薬類の倉庫、洗浄室、助手室などを加えてしだいに実験室を拡充していき、化学・薬学研究所を発足(*3)させます。
ここは1年間の課程で薬剤師に必要な学科を教授するもので、その内容は、

前期:数学、一般植物学、鉱物学、試薬学、化学分析理論のほかに、リービッヒが担当する実験化学、薬剤商品学、医薬鑑識法
後期:数学、実験物理、化学分析実習

というものだったそうです。このようなやり方は、取りも直さず、それまでリービッヒが追求してきた「化学的技術には理論の裏付けがあり、逆に化学の基礎学習は実験によって達成される」というヴィジョンの具体化でした。

そして、一年間に受け入れる学生数を20人に定め、講義の中で実験を演示しながら、耳で聴き眼で見ることができる教育を推し進めます。現代にあっても、黒板とチョークだけで講義される化学が無味乾燥で理解しがたいものであるのに、実験を通じて自分の眼で確かめながら学ぶ場合には、興味を引かれ、理解度も高まることが多いものです。ましてや当時の多様な学生にとっては、こうした教育方法はまさに斬新かつ革命的なものであり、印象深く理解にも有益なものであったろうと思われます。

(*1):島尾永康「リービッヒの化学・薬学教室」、「和光純薬時報」Vol.66,No.4(1998)
(*2):吉羽和夫「有機化学を拓いた化学者(その2)ユストゥス・フォン・リービッヒ」、『科学の実験』共立出版、p.706,1976年8月号
(*3):写真は増築後のもので、現在はリービッヒ博物館。隣に日産マーチが駐車しているのが、後の日本との関わりを暗示しているようで、おもしろい。

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