電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩。時々は実際に散歩を楽しみます。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を読む

2018年01月16日 06時02分07秒 | -外国文学
早川書房のハヤカワepi文庫で、カズオ・イシグロ著『わたしを離さないで』を読みました。はじめのうちは、思春期の子供の世界を描いた物語になるのかな、と思いましたが、途中でこれは重いテーマの話なのだと感じました。要するに、臓器提供のために育てられている子どもたちの話です。

「わたしを離さないで」はカセットテープに収録された曲の題名(*1)です。ジュディ・ブリッジウォーターの「夜に聞く歌」というLPレコード(1956年)で発売されましたが、主人公が持っていたのはカセットテープ版という設定で、「スローで、ミッドナイトで、アメリカン」(p.110)な曲を、「ネバーレットミーゴー…オー、ベイビー、ベイビー…わたしを離さないで…」のリフレインが何度も繰り返されるところに惹かれた少女が、寮のポータブルカセットプレーヤーでこっそり踊りながら聴いているところを、「マダム」(理事長のような女性)に知られてしまいます。ベイビーが恋人ではなく赤ちゃんであると思っている年頃に、そのカセットテープが紛失し、ついに見つかりません。



ウォークマンが普及している時代、1990年代末のイギリスが舞台です。たぶん、臓器移植のために育てられている子どもたちが、「わたしを離さないで」と踊る場面を目撃した理事長?が、先生たちに密かにテープを処分するように命じたのでしょう。第1部:「ヘールシャム」は、子どもたちをよりよい環境で教育し育てようとする善意の施設で、臓器の「提供」が始まるまで疑問を持たず受け入れることができるように注意深く教育されることになります。第2部:「コテージ」は、学校と寮を出た後に、少しの期間暮らすことになるコテージでの生活です。ここでのテーマは「猶予は存在するのか」。自分たちの運命を受け入れようとしながら深いところでは受け入れることができない、葛藤が描かれます。第3部:「介護人として」は、臓器の提供者を支える立場にある介護人と、学校の仲間であり恋人でもあった青年との切ない関係が描かれます。最後までカタルシスのような解決は訪れません。

物語も最後に近づいた頃、トミーが暗闇の中で大荒れに荒れて暴れる場面があります。運命に対して、喚き、悪態をつき、暴れる。自分が誰かのコピーで、臓器を提供するために生まれ、育てられ、何度か臓器を提供した後に死ななければならず、「提供者」が心を持っていることすら考えるものは少ないという事態。たしかに、暴れたくなります。ヘールシャムの教育の中では、おそらく図書室にもデュマの『モンテ・クリスト伯』などは注意深く取り除かれていたのでしょう。でも、彼らは提供者としての役割を果たし、介護人は彼らに寄り添っていくのです。



クローン羊「ドリー」が登場した際のインパクトはきわめて大きいものがありました。臓器移植をすれば助かると知った人々が、その臓器を「生産」することを望むとき、その手段としてクローン技術を採用したら、どのような未来が起こりうるのかを心理的な緻密さで描いた物語でしょう。生産されるクローン人間に、良い環境と教育を与えようと努力する一部の人々の善意は、ある意味で残酷なものです。でも、それさえも、今よりも優秀な人間のクローンを作り出そうとする営みを危険視するようになった社会の変化によって潰えます。ひじょうにリアリティのある悪夢のような状況を、実に緻密に描き出していると思います。

ただし、臓器を自分の細胞で体内で再生することができたら、たぶんわざわざクローン人間を生産するというような必要はないのではなかろうか。作家の想像力の方向とは別に、再生医学としてそんな方向性もあろうかと思います。

それと同時に、臓器を次々に取り替えて長く生きられるようになったとして、さて自分はそんなに生きたいだろうかとも考えてしまいます。若くして病に倒れた人ならば話は別ですが、いつまでも分裂増殖し続ける生殖細胞ではあるまいし、生きるのにくたびれてしまうような気がしてなりません。ほどよく終わりのある個体の人生だから良いのではなかろうか。

(*1):YouTube に、この曲がありました。
わたしを離さないで / Never Let Me Go  ジュディ・ブリッジウォーター

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カズオ・イシグロ『日の名残り』を読む

2017年10月28日 06時03分27秒 | -外国文学
早川書房のハヤカワepi文庫の中の1冊で、カズオ・イシグロの『日の名残り』を読みました。ノーベル文学賞受賞を機に、子どもから借りて手にしたものですが、ギュンター・グラスとかガルシア・マルケスなどと同様に、なかなか手にしようとは思わないだけに、老母の病院付き添いの待ち時間が良い機会となりました。



ストーリーは、イギリスの名家の執事が主人公で、主人を敬愛し、自分の仕事を完璧にすることに情熱を燃やし、その他の私事~恋愛や父親の老いと病死など~よりも仕事を優先する様子が回想される形で進みます。前の主人が亡くなり、屋敷が売却され、新たな主人となったのはアメリカ人でしたが、ちょっとしたミスから人手不足を痛感し、休暇をもらって昔の女中頭からの手紙を頼りに仕事への復帰を打診に行く、という成り行きです。

このドライブの途中に、様々な回想が挿入され、イギリスの古き良き時代の執事の誇りやエピソードが語られますが、尊敬していた主人が紳士としての信念を利用され、ナチス・ドイツの英国における窓口としての役割を持たされてしまっていたことが明かになっていきます。しかも、仕事への復帰を当てにしていた女中頭が、かつて主人公を愛したけれど、鈍感で仕事一途な彼を諦め、今は平凡な幸福~ときどき波風はあるけれど基本的には大切な家庭~を築いていることを知ります。

結局は、人手不足の解消と共に仕事の相棒を求めた旅行は目的を果たせず、もう少し日の名残りを楽しむように暮らしてみようか、というような感慨に浸ります。



年をとれば、時の不可逆性を痛感するこうした後悔の1ダースやそこらは誰しもが持っていることでしょう。時を逆転させることはできないだけに、こうした感慨に共感するところが大きいのではないかと思います。そこが、普遍性を持った所以かもしれません。

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ヒルトン『心の旅路』を再読し、映画での工夫に気づく

2017年06月30日 06時02分50秒 | -外国文学
ヒルトンの『心の旅路』(昭和52年刊、角川文庫、原題"Random Harvest")が書棚から出てきましたので、久しぶりに再読しています。購入して40年が過ぎた本で、用紙はすっかり茶色に変色してしまいましたが、絶版になって久しく、古書店でもめったに見かけませんので、実は貴重なのかも。読んでいるうちに、内容にひきこまれます。



今回、特に注目したのは、第二部の終わりに、キティが置き手紙を残して出発してしまい、以後は合うこともないままに病死してしまう、というところです。原作では、こんなふうに表現されています。

それで彼は錠剤を買い、スミス広場にもどる途中に数錠服用した。そのおかげで彼は重苦しい、すっきりしない眠りにおち入り、そして正午近くになって目をさますと、ベッドのかたわらに鉛筆で書かれたキティの置き手紙があった。それは、朝早くに届けられたもので、ふたりの婚約を事実上解消、ラクソーにいる義母と落ち合うため、すぐさま出発する、としたためられていた。

この場面が、映画(*1)では賛美歌を選ぶ場面となります。放心したように音楽を聞きながら失われた記憶をたどろうとしているチャールズの心の中に、自分の居場所はないと感じたキティが、泣きながら飛び出していくという場面に変更されています。

原作では、謎めいた行動の背景を様々な想像をめぐらせながら味わうようになっているのに対し、映画ではよりわかりやすく、でも説明的にならないようにエピソードが作られていると感じます。中高年の映画ファンならば、美しい妻ポーラ(グリア・ガースン)の無償の愛に、主人公チャールズ・レイニア(ロナルド・コールマン)がいつ気づくのかに注目するところでしょうが、若い人ならば、たぶん突飛な行動をするキティ(スーザン・ピータース)の心情に「わかるワ〜」と共感するのかもしれません。

もうひとつ。原作でのラストシーンはこうです。五つの州を眺められる頂のすぐ下に小さな湖があり、一人の男が寝転んでいる。そして彼女はスロープを駆け下りていく。

彼は彼女を認めるが早いか立ち上がった。と、彼女はその数ヤード手前で立ち止まった。そしてしばらくのあいだふたりはおたがいをじっと、静かに、無言で見つめ合っていた。やがて彼が何かをささやいたが、わたしには聞こえなかった。しかし私は一瞬のうちに、ふたりのあいだのへだたりが埋められ、あてどない歳月がおわりを告げ、過去と未来が融合し合ったことを知った。彼女にもそれがわかっていた。なぜなら、叫びながら彼の腕の中へとびこんでいったからだ。「おお、スミシー! スミシー! おそすぎやしないわ!」

これに対して、映画の方はもっとわかりやすいものです。失われた過去への入り口となるはずの鍵がかちりと適合する小さな家でのクライマックス。樹木の枝ぶりさえも昔のままというのは確かにヘンですが、たぶん1942年の映画という時代背景を考えるとき、「小さな家に帰る」という行為は、戦場にあった多くの兵士と銃後の妻たちの最大の願望だったからではなかろうか。今の時代には陳腐なメロドラマに見えるけれど、「家に帰る」ことが最大の願いだった時代があったことを、しばしば忘れがちになるからなのかもしれません。

(*1):廉価DVDで購入して観ていますが、今はネットでも観られるのかもしれません。

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『モンテ・クリスト伯』クイズ

2015年12月15日 06時04分53秒 | -外国文学
当ブログには、全部で14回という連載回数を誇る(^o^)『モンテ・クリスト伯』関連の記事(*)があり、ありがたいことに、これまでずっと多くの方がお読みいただいているようです。宝塚の『モンテ・クリスト伯』関連の公演も影響しているのでしょうか、これほど人気のある『モンテ・クリスト伯』なのであれば、

クイズ大会をやってみたらおもしろいのでは?

というアホな発想が生まれてきました。

もちろん、子ども向けダイジェスト版や漫画を読んだだけでわかるような、ごく入門的な内容ではなく、クイズに答えるために再読してもう一度その面白さにひたるきっかけになるような、そんな内容であればおもしろかろう。

というわけで、クイズです。

  1. 主人公エドモン・ダンテスの婚約者メルセデスは、カタロニア村生まれで貧しい生活をしているという想定ですが、暮らしが豊かでないことを示すものは?
  2. ファリャ神父が書き物に使っていた自作インクは、ある液体にあるものをとかして使っていましたが、それは何?
  3. グズラの音色を響かせるギリシャ美人エデの父アリ・パシャは、フランス軍士官フェルナンの裏切りによって壮絶な最期をとげますが、致命傷になったのは何?
  4. ヴィルフォールと先妻との間に生まれた娘ヴァランティーヌは、フランツ・デピネー男爵との間に縁談がすすんでいましたが、彼女の祖父ノワルティエ氏の証言により破談となります。フランツ・デピネー男爵にとって、ノワルティエ老人はどんな存在だったでしょうか。
  5. ルイジ・ヴァンパに捕らえられたダングラールが、十万フランの食事を惜しみ、餓えの苦しみを味わっているとき、かつて餓えて死んだダンテスの父親が住んでいたメーラン小路の家には、いったい誰が住んでいたでしょうか。


う~む、もしかしたら、このくらいなら再読の要なしという方もおられるのかもしれませんが、もしもクイズがきっかけで再読を楽しんだという方がおられたら、それこそ「モンテ・クリスト伯」ファンのブロガー冥利につきる話です。コメント、トラックバック、いずれでもけっこうですので、『モンテ・クリスト伯』ファンの方、どうぞ気軽に気長に痕跡を残していってください(^o^)/

(*):デュマ『モンテ・クリスト伯』を読む~(1), (2), (3), (4), (5), (6), (7), (8), (9), (10), (11), (12), (13), (14)

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ヒルトン『失われた地平線』を読む

2014年12月09日 06時03分50秒 | -外国文学
ヒルトンと言えば、『心の旅路』の作者であり、大戦間期の不安な時代を舞台に、教養ある知識人や中産階級以上の人たちの姿を描く作家、という印象を持っています。2011年の河出文庫で、ヒルトン著・池央耿訳『失われた地平線』(原題:LOST HORIZON)は、第一次世界大戦の悲惨を経験し、次の戦争の到来を予感しながら、地球最後の楽園を夢見て構想されたであろう、文明論的な広がりを持つ冒険小説です。

プロローグは、パブリック・スクールの同窓生で独り身のイギリス人が三人、ベルリンで再会したところで、共通の知人の話題が出ます。バスクルの革命に際し、避難する民間人の輸送に当たっていた飛行機が乗っ取られ、カシミールの山岳地帯に消えた事件があり、行方不明者の中に友人コンウェイの名前があった、という一件です。「グローリー」コンウェイとあだ名された英国領事ヒュウ・コンウェイとはどんな人物か。

ケンブリッジの競艇では代表選手で、雄弁会では指折りの論客、あれやこれやで賞を獲り、ピアノは玄人はだし、多芸多才で将来の首相候補と目されている。戦争ではフランスの塹壕戦で負傷して殊勲賞を受け、オックスフォードに戻ってしばらく指導教官をつとめ、1921年には東洋に行って語学に達者になった。イギリス領事。新人にも親切で強い印象を残す。学校時代、校長は「グローリアス、燦然たる」と評し、卒業式にはギリシア語で答辞を述べ、学園祭の芝居では一級品の役を演じ、水際立った男ぶりで精神と肉体が拮抗して漲る活力など、エリザベス朝の文人を思わせる (筆者要約)

というのですから、これはすごい! まさしくスーパーマンというべきでしょう(^o^)/

第1章は、まさにこのハイジャック後の機内の様子です。第2章では、インドだかパキスタンだかから北へ向かった飛行機が、カラコルムを越えて孤絶の山岳地帯に着陸しますが、操縦士は死亡してしまいます。第3章では、コンウェイを含む乗客4人が、シャングリ・ラの僧院に救出され滞在することとなります。四人の滞在者は、それぞれに事情があり、歓迎する者も不満を持つ者もいますが、第4章では謎の僧院でのゆったりした生活が描かれます。第5章以降では、シャングリ・ラの僧院の文化的水準の高さが描かれ、図書室が充実し、羅珍という少女?の演奏するピアノの曲がモーツァルトやショパンであるように、名だたる作曲家のすべての曲を取り揃えているそうな。しかも、洗練された陶磁器や蒔絵細工などの古美術に囲まれ、静謐と精緻と細美の中に生活するのです。(ふーむ、このあたりは、いかにも階級社会・英国の知識人らしく、楽園におけるゴミ処理やし尿処理の方法等については言及しないのですね。)

第7章と第8章では、シャングリ・ラのラマ僧院の歴史と秘密が明かされます。そして、次の大戦で世界の強者が相戦い、滅ぼし合った後に、柔和な者が地を受け継ぐというイメージが語られます。なんだか、どこかのカルトに利用されそうな(^o^;)>poripori
第9章からは、コンウェイが1人でどう判断し、行動するのかが焦点になって来ますが、せっかくの物語を楽しむことができるように、あらすじはここまでといたしましょう。



本書を読み、おぼろげながら遠い記憶がよみがえります。中学生の頃に子ども向けに訳された本を読んだのだったか、それとも映画か何かの記憶が残っているのか、はっきりしませんが、たしかコンウェイが羅珍にひそかに思いを寄せており、羅珍は実はコンウェイとマリンソンと二股をかけていて、コンウェイとマリンソンが協力して岸壁を乗り越えるが、羅珍はマリンソンのほうを選んで行ってしまう、というふうに単純化されていたと思いますが、はて?
私も、後に発見されたコンウェイと同様、記憶喪失症にかかっているのかもしれません。原因は熱病ではありませんが(^o^;)>poripori

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マーギー・プロイス『ジョン万次郎~海を渡ったサムライ魂』を読む

2013年11月18日 06時01分04秒 | -外国文学
過日、妻とともに近隣の図書館に出かけ、何冊かの本を借りてきました。その中の一冊、集英社刊の単行本で、マーギー・プロイス著(金原瑞人訳)『ジョン万次郎~海を渡ったサムライ魂』がたいへん興味深いものでした。
ジョン万次郎といえば、漁船に乗り組んで難破漂流し鳥島に漂着、そこで米国の捕鯨船に救出され、親切な船長のおかげで米国に渡り、色々と見聞を広めて帰国して、幕末の外交政策に影響を与えた人、という程度の認識です。これも、星亮一著『ジョン万次郎』(PHP文庫)などによるもので、どちらかといえば日本側資料に基づいた記述です。
これに対して、本書の場合は、米国の児童文学者で劇作家である著者が、米国に残された資料をもとに書きあげたもので、2011年にニューベリー賞オナー(*)を受賞した作品とのことです。たしかに、若い万次郎が米国滞在中に学校教育を受けたことは承知しておりましたが、少年ジョン・マンが少女キャサリンにあてた英詩:

寒い夜、
きみにかごのプレゼント。
目を覚まして、マッチをすって!
走り去るぼくを見て。
でも、おいかけてきちゃだめだよ。

というのが実際の史実にもとづいたものであり、キャサリンがそれを大切に保存していたことなどは、初めて知りました。
太平洋を漂流して米国にやってきた鎖国の国の少年が自分に思いを寄せ、しかも自分も憎からず思っている気持ちを意識した少女の心も、そしておそらくそれを許さないであろうアメリカ社会や親たちのことも、ジョン万次郎の少年時代の行動を通して描かれます。
おそらく児童文学の範疇に入る作品とは思いますが、そんな区分を越えて、少年の勇気がストレートに読む者の胸を打ちます。良書です。たぶん、今年の私的ベストテンに入るものでしょう。

(*):ニューベリー賞とは、1922年に開始された世界最古の児童文学賞で、アメリカ合衆国における最も優れた児童文学の著者に与えられるとのこと。1923年にはヒュー・ロフティングが『ドリトル先生航海記』で受賞しているようです。ニューベリー賞オナーとは、その年に書かれたものではない作品に対して遡及的に与えられることもある名誉賞のことだそうで、2010年に発表された本書が2011年に受賞したわけですので、これに該当というわけです。

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新訳でハインライン『夏への扉』を読む

2013年04月04日 06時04分16秒 | -外国文学
某図書館で、ハインラインの『夏への扉』を見つけました。私が最初に読んだのは福島正実訳のハヤカワ文庫でしたが、今回手にしたのは、小尾芙佐さんによる新訳で、2009年に早川書房から刊行された新書サイズの本です。中高年世代としては、活字も比較的大きく、読みやすいのがありがたい。あまりにも有名なSFだけに、あらすじは簡単にとどめますが、再読、再々読でも面白さは減じることがありません。

主人公ダン(ダニエル・ブーン・デイヴィス)が発明した家庭用お掃除ロボットが大ヒットし、会社は景気がいい。でも、親友マイルズと、愛する(と思っていた)女性ベル・ダーキンの二人の裏切りにより、ダンはほぼすべての権利を失ってしまいます。失意のうちに、冷凍睡眠によって30年後の世界に旅立つ契約をしますが、あの二人がなぜこんな仕打ちをしたのか、その理由を知りたいし、出発前に抗議をしておきたい。というわけで出かけたところで判明した真実は苦く、盟友というべきオス猫ピートは逃げ出し、心を通わせた可愛い少女リッキーと別れて、不本意な形で冷凍睡眠に入ります。

どうやら、30年後は核戦争後の世界のようですが、アメリカとロサンジェルスは生き残っているようです。ダンは未来の世界でどのように生きていくのか、ピートやリッキーのその後はどうなるのか、ワクワク・ドキドキ、というお話です。



1970年ごろに流行った「未来学」なるものでは、地球温暖化もリーマン・ショックも予測はできなかったけれども、お掃除ロボットは「ルンバ」という名前で商品化されました。でも、どうみても本書に登場する「おそうじガール」のほうが進んでいるように思えます。
2000年からもう四半世紀が過ぎましたが、スカートの丈が多少変わったくらいで、衣服もベルトも基本的にまだ1970年代のままです。とてもハインラインが空想したようには進んでいません。技術を見る目はあっても、ベル・ダーキンのような悪女を見る目はないダンは、技術者の典型として描かれているようですが、リッキーのような可愛い少女は技術者に憧れたりするのでしょうか?いささか疑問は残りますが、この名作の価値をそこねるようなものではありません。猫が登場し活躍するという点でもポイントは高いのですが、それはさておいて、文句なしのおもしろさです。

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デュマ『モンテ・クリスト伯』における人物相関図を描いてみる

2013年03月15日 06時04分37秒 | -外国文学
佐藤賢一さんが解説をつとめた、NHK-Eテレ「100分de名著」で『モンテ・クリスト伯』を取り上げたのを機会に、登場する人物相関図を作ってみました。すでに何度も読んでいますので、およそのところはささっと出来上がりましたが、実際に図解してみて、その入り組んだ関係に、あらためて目をみはりました。
佐藤賢一さんが注目する、エドモン・ダンテスVSヴィルフォールの複雑な対立や、作家の安部譲司さんが指摘する、「メルセデスの気持ちは書かれていない」ことなど、今回の放送で再確認させられたことも少なくありませんでした。

ところで、メルセデスが従兄弟のフェルナンと結婚してしまうことについて、現代人の感覚で批判はできないのでは、と思います。当時、メルセデスは貧しく不幸な境遇にあり、ダンテスの父親の世話をしながら二年間も待ち続けたことは、最大限に評価して良いのではと思います。
もちろん、ダンテスがアルベールを殺そうとした理由に、自分を裏切り、こともあろうに仇の一人のフェルナンとの間に子供までもうけていることへの怒りがあったことは否定できないでしょう。ですが、少なくともメルセデスは、主要な復讐の相手ではなかったはずです。
むしろ、フェルナンへの復讐ではメルセデスとアルベールの幸福を奪い、ヴィルフォールへの復讐ではエロイーズとエドゥワールなど多くの人の命を奪う結果となりました。復讐にともなう犠牲を、神ならぬ身が引き受けられるのか?復讐の後の生と希望を見出すことができるのか?そういう内面の葛藤が、モンテ・クリスト伯の胸中に生まれるところに、後半のドラマの深まりがあるようです。
実質は四分の三ほどしか観ることはできませんでしたが、NHK-Eテレ「100分de名著」、なかなかおもしろく、楽しむことができました。

この放送の影響でしょうか、当「電網郊外散歩道」を、「モンテ・クリスト伯 結末」などの語で検索する方が激増しました。今はようやく落ち着きましたが、これだけの反響のある名作が、岩波文庫だのみというのは、なんとも残念です。例えば集英社の世界名作全集の松下訳など、なんとか文庫化してもらえないものかと願っています。

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プーシキン『大尉の娘』の新訳・新刊はないものか

2013年02月20日 06時03分44秒 | -外国文学
プーシキン著『大尉の娘』は、長年の愛読書の一つ(*1)です。子どもの頃に、「少年少女世界名作全集」か何かで読んで以来、何度も読んだ物語で、学生時代に購入した文庫本は、すっかり黄ばんでしまっています。





活字のポイントも、今となっては小さくて読みにくく、できれば活字を大きくした新装版をと願っているのですが、売れ筋ではないらしく、新装版の話はとんと聞きません。なんとかならないものでしょうか、新潮文庫担当者さん!あるいは、光文社古典新訳文庫の担当者さん!

(*1):私の好きな物語~海外編~「電網郊外散歩道」2008年2月
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ジャクリーン・ケリー『ダーウィンと出会った夏』を読む

2012年07月26日 06時03分28秒 | -外国文学
ほるぷ出版から2011年に刊行され、今年は高校の読書感想文の課題図書に選定されているという本、『ダーウィンと出会った夏』を読みました。ジャクリーン・ケリー著、斎藤倫子(みちこ)訳、ソフトカバー、412頁の本です。

なんといっても、ぱらぱらとめくったときに目にとまった場面、もうすぐ12歳の少女が町の図書館に行き、ダーウィンの『種の起源』を借りようとして断られる場面で、本好きな元科学少年としては、どうして読まずにいられようか!という勢いです。邦題はだいぶ映画のタイトル風になっていますが、原題は "Evolution of Calpurnia Tate" (キャルパーニア・テイトの進化)というもので、ニュアンスはだいぶ違います。

1899年の夏、アメリカ南部、テキサス州コールドウェル郡フェントレスに住む、七人きょうだいの真ん中でたった一人の娘であるキャルパーニア・テイトが、兄からもらった赤い革表紙のポケットサイズ・ノートを、自然観察ノートとして使い始めます。特徴の異なる二種類のバッタについて質問をするために、祖父の実験室に行きます。ところが、綿花工場の創設者であり、息子に事業を譲って引退した後には、自然科学の研究に没頭する祖父は、孫娘に自分で解決するように言い、「わかったら、答えをいいに来なさい」と命じただけでした。なにか参考になることが書いてあるのではと、兄ハリーが食料を買うために町に出かけた荷馬車に同乗し、祖父と牧師さんとの間で話題になっていた、ダーウィンの『種の起源』を図書館で借りようとしたのでしたが、図書館員は母親の許可が必要だと、取りつく島もありません。1899年の米国では、進化論は宗教的な論争の的であり、信心深い良妻賢母を育てる教育にとっては有害図書だと考えられていたようです。

結局、キャルパーニアは、自分の観察から、エメラルド色の小型のバッタは枯れた黄色い芝生の上では野鳥に見つけられ捕食されるけれど、黄色い大きなバッタは動きが鈍いのに保護色となり鳥たちから隠れるのに好都合だからだと知ります。この発見を祖父に報告し、つづけて図書館でみじめな思いをしたことを語ります。すると祖父は、孫娘を書斎に連れて行き、ダンテの『地獄篇』や、『熱気球の科学』『哺乳類の繁殖の研究』『裸婦の描写についての論文』などの本の間から、深緑色のモロッコ革の『種の起源』を取り出し、貸してくれたのです。こうして、孫娘と祖父との交流が始まります。



この後の、第2章から第27章までの内容は、母親の期待する家庭婦人ではなく、科学者になりたいという少女が、祖父とともに植物の新種を発見し、スミソニアン博物館で新種登録されるまでの、日常生活とその中で葛藤する思いを描き、秀逸です。元科学少年だった私には、性別を越えて、よく理解できる展開であり、共感できる心情です。

かつて日本には、「虫愛づる姫君」がいましたが、キャルパーニア・ヴァージニア・テイトは、19世紀から20世紀に移行しようとする頃のアメリカ南部で、自覚的に成長しようとしている「虫愛づる姫君」であると言えましょう。たぶん、現代ではもっと多くの少女達が、「理系女子」として夢を育てているのでしょうが、本書に素朴な共感が集まるのかどうか、興味深いところです。そういえば、大学生の頃に読んだ『種の起源』は、岩波文庫でした。あれはたしかに興味深かった。今なら、どのように感じるのでしょうか。

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百年文庫「響」を読む

2012年04月17日 06時03分06秒 | -外国文学
ポプラ社のシリーズ「百年文庫」から、第13巻『響』を読みました。ヴァーグナー「ベートーヴェンまいり」、ホフマン「クレスペル顧問官」、ダウスン「エゴイストの回想」の三編が収められています。この冊子を手に取ったのは、もちろんヴァーグナーの「ベートーヴェンまいり」がお目当てで、ワーグナーとベートーヴェンという取り合わせが興味深いものです。中部ドイツで生まれ、まだ貧しく無名の作曲家だった青年ヴァーグナーが、お金のためにガロップ(ギャロップ?)やポプリなどの軽い音楽を書いて旅費を工面し、メッカを目指す巡礼のように、徒歩でヴィーンを目指します。途中で知り合った、金持ちで俗物のイギリス人に妨害されながら、ベートーヴェンに面会し、筆談に成功するエピソードを回想する形になっていて、なかなか面白い読み物です。

もちろん、あの悪漢ヴァーグナー(^o^;)が、脚色なしに正直に一部始終を描いているとはとても思えませんので、その点は割り引いて読んでいましたが、巻末の解説を読んでいたら、案の定、ヴァーグナーは生前のベートーヴェンとは一度も会っておらず、実際にはベートーヴェンの死後にウィーンを訪れているのだとか。やっぱりね!

ヴァーグナーがベートーヴェンのある面を崇拝し、研究したのは確かなことでしょうが、その後の歩みの方向性はだいぶ違いました。人々の感情の内奥に直接に訴えかけるような音楽を志向したという点では共通性もありますが、今の私はヴァーグナーの巨大な楽劇よりも、ベートーヴェンのピアノソナタや室内楽などに、より魅力を感じてしまいます(^o^;)>poripori

ホフマン「クレスペル顧問官」、ダウスン「エゴイストの回想」も印象的な佳編ですが、ヴァーグナーとベートーヴェンという巨人の前には、やや色あせてしまった感があります。
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百年文庫「巡」でノヴァーリスやゴーチエを読む

2012年04月03日 06時05分22秒 | -外国文学
ポプラ社から百年文庫というシリーズが出ていることを、図書館で知りました。ためしに借りてきたのが、「巡」という一文字のタイトルがついたもので、内容はノヴァーリス「アトランティス物語」、ベッケル「枯葉」、ゴーチエ「ポンペイ夜話」の三作からなります。文庫とはいいながら、サイズは新書判で、文字も大きくゆったりとしています。老眼世代にはうれしいものですが、さてどうか。

「ドイツ・ロマン主義の精華とうたわれる」と紹介文中にある「青い花」の作者ノヴァーリスの作品を読むのは初めてです。国王に溺愛された王女が、鄙びた家屋敷にひっそりと住む翁の息子と偶然にも恋に落ち、長い不在の後に、赤子と若者を連れて国王の元に戻る話。時代がかった美文の連続で、やや辟易するところがありますが、最後の一文で舞台が失われたアトランティスであることがわかる、という仕掛けです。ベッケルの「枯葉」は、ごく短いけれど擬人的で印象的な作品。ゴーチエの「ポンペイ夜話」は、ポンペイの遺跡を訪れた青年が溶岩に残された胸の持ち主である女性の亡霊に恋をする話です。中国の伝奇小説「聊斎志異」のヨーロッパ版のような作品と言えば良いのでしょうか。

編集が異色で、ごく軽く読めてしまうのが良いとも言えるし、またもう少し長い物を読んでみたくもなる、そんな短篇集です。

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ヴィッキー・マイロン『図書館ねこデューイ』を読む

2011年11月15日 06時05分35秒 | -外国文学
1988年1月の寒い朝、米国アイオワ州のスペンサーという小さな町にある公立図書館のブックポストに、小さな子猫が入っていて、今にも凍死しそうな状態で発見されます。新任一年目を過ぎた図書館長であった著者は、子猫をなんとか助けることができましたが、問題は図書館で子猫を飼うことを理事会が認めるかどうかでした。町の条例には、公共施設で猫を飼ってはならないという規則がないことを確認し、猫が図書館利用に資するという論旨で理事会に諮り、許可を取り付けます。このあたりの大胆で緻密な動きは、いかにもアメリカの行動的な女性のタイプだなと感じます。

そういうわけで、町の小さな公立図書館で飼われることになった子猫は、図書の十進分類法の生みの親の名前にちなんで、デューイ・リードモア・ブックスと名づけられ、図書館のアイドルとなっていきます。それは、たとえばこんなふうでした。

ある年配の男性は毎朝同じ時刻にやってきて、同じ大きな居心地のいい椅子にすわって新聞を読んだ。奥さんは最近亡くなり、一人暮らしだときいていた。わたしは彼が猫好きだとは思っていなかったが、デューイが初めてひざに登った瞬間から、満面に笑みを浮かべた。彼は新聞を読むときにもはや一人ではなくなったのだ。「ここで暮らして幸せかい、デューイ?」老人は毎朝たずねては、新しい友人をなでてやった。デューイは目を閉じて、たいてい眠りこんだ。

同時に、図書館ねこデューイと強く結ばれたこの女性館長の人生も、少しずつ明らかにされていきます。それは、次々と不幸に見舞われながらも、それを乗り越えてきた年月でした。そして、後半の18年を支えてきたのが図書館の仕事であり、デューイの存在だったようです。本書中のあちこちに見られる記述、たとえば:

デューイは驚くようなことをするせいで特別だったのではなく、彼自身が驚くべき存在だったから特別だったのだ。彼は一見ごくありふれた人間を連想させた。知り合うまでは、人ごみで目立たない存在。仕事をさぼったり、文句をいったり、分不相応なものを求めたりしない人間。彼らはすばらしいサービスを提供することを信条としている、有能な司書や車のセールスマンやウェイトレスだ。仕事に対して情熱があるので、仕事以上の働きをする人々。彼らは人生でどういうことをなすべきかを知っていて、それをきわめて上手にこなす。(中略)あるいは店員。銀行の窓口係。自動車修理工。母親。世の中は個性的で目立ち、金持ちで利己主義の人間に目を向けがちで、ありふれたことをきわめてちゃんとこなしている人々には気づかないものだ。

このような記述は、著者の人間観察の深さを感じさせます。でも、国際的に有名になった図書館ねこが老いてしまったとき、辛い決断が待っているのでした。



ハヤカワ文庫、ヴィッキー・マイロン著『図書館ねこデューイ~町を幸せにしたトラねこの物語』(羽田詩津子訳)です。思わず引き込まれる、読み応えのある一冊でした。
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イーユン・リー『千年の祈り』を読む

2011年08月28日 06時02分57秒 | -外国文学
新潮社のクレストブックスは、どれも良質な翻訳小説で、物語を読む楽しみを満喫します。例えば『パリ左岸のピアノ工房』『朗読者』『停電の夜に』などです。このブログを始めてからは、たまたま手に取ることがなかったのですが、偶然に図書館で借りたイーユン・リー著『千年の祈り』を、興味深く読みました。短編集ですが、構成は次のようになっています。

第1話「あまりもの」
第2話「黄昏」
第3話「不滅」
第4話「ネブラスカの姫君」
第5話「市場の約束」
第6話「息子」
第7話「縁組」
第8話「死を正しく語るには」
第9話「柿たち」
第10話「千年の祈り」

いずれ劣らぬ鮮烈な印象を与える短篇ばかりです。訳者後書きによれば、著者は北京の核開発研究所の研究者の父と教師の母親の間に生まれ、17歳で天安門事件が起こり、北京大学から軍への強制入隊を経て米国の大学院に進み、免疫学の修士号を取得した後に作家に転じたという経歴だそうです。

母国の、貧しく哀れな人々に注がれる視線は、必ずしも懐かしく温かなものとは限らないようで、否定したいけれど否定し得ない母国の有り様を、米国在住の中国系知識人の視点から描いているような印象すら受けてしまいます。文化大革命ではなく、天安門事件を同時代のこととして語る世代が、すでに中堅の作家になっているのですね。

才能ある著者が従事していた免疫学の研究生活は、おそらくいたって地味で、根気強さを求められるものだったのでしょう。免疫学の研究から第二言語(英語)を用いた創作に転じた作者は、米国での生活が軌道に乗れば、必ずしも免疫学でなくてもよかったのかも。創作を指導した米国人による、作家になるべきだ、という強いすすめが後押ししたことは確かでしょうが。

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メレシコフスキー『ダ・ヴィンチ物語』下巻を読む

2011年08月26日 06時02分08秒 | -外国文学
ロシアの作家メレシコフスキーによる『ダ・ヴィンチ物語』下巻を読みました。

第9章:「分身」。ジョヴァンニ・ベルトラッフィオは、サヴォナローラの火刑を経験し、レオナルド・ダ・ヴィンチのもとに戻りますが、レオナルドは経済的に困窮していました。
第10章「波紋」。アルプスを越えて、フランス軍がロンバルディアに侵入し征服します。レオナルドの作品は破壊を受け、モーロ公はミラノから脱出します。
第11章「いずれ翼は」。断片的ですが、レオナルドの半生が描かれます。そして、レオナルドらはフィレンツェを離れ、ロマーニャに向かいます。
第12章「皇帝か無か」。この章では、マキャヴェッリとチェーザレ・ボルジアという登場人物の造型が印象的です。優雅な悪の化身チェーザレ・ボルジアと、口舌の徒マキャヴェッリ。
第13章「赤い獣」。ローマ教皇の枢機卿の間に飾られた様々な絵画は、実は神と獣とを同列に並び描く、異教的な雰囲気のものでした。そして教皇は亡くなります。
第14章「モナ・リザ」。レオナルドは、ジョコンダ夫人の肖像を熱心に描きます。夫人もまた、レオナルドに協力することに喜びを見出しているようですが、期待は実現せず、夫人は旅先で病死してしまいます。
第15章「宗教裁判」。レオナルドは再びミラノに移ります。ジョヴァンニはカッサンドラと親密になりますが、彼女は異端狩りに遭い、宗教裁判所に捕らえられていました。レオナルドの名声に反発するミケランジェロや、レオナルドを尊敬するラファエッロなど、若い世代が登場します。
第16章「イタリアでの最後の年月」。ローマで、レオナルドはアストロと同様に心を病み亡くなったジョヴァンニを葬ります。身の回りの世話をしてくれるフランチェスコの存在が助けです。
第17章「翼をつけた先駆者の死」。フランス王はモナリザを所望しますが、辛うじて手元に残すことができ、あとは洗礼者ヨハネを完成しようと、最後の時を過ごします。



本書で描かれたレオナルド・ダ・ヴィンチは、早すぎた天才であり、理想を追い、当面の完成として現実に終止符を打てない優柔不断さが特徴的で、なにやら隠者のような抽象的な存在です。待望の本を期待して読了しながら、期待が大きすぎたのか、それとも作家と読者の相性というのか、どうも釈然としない終わり方です。

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