電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩。時々は実際に散歩を楽しみます。

ヴァレンタイン・デイヴィス『34丁目の奇跡』を読む

2020年01月25日 06時03分36秒 | -外国文学
いささか時期外れではありますが、あすなろ書房刊の単行本でヴァレンタイン・デイヴィス著『34丁目の奇跡』を読みました。過去に映画「34丁目の奇跡」のオリジナル・モノクロ版とその後のカラー・リメイク版の両方を観ていますので、映画の後にノヴェライズ本を読んだ形です。

メイプルウッド老人ホームに住むクリス・クリングルは、立派な白ひげと優しくあたたかい笑顔が素晴らしい老人ですが、「わたしはサンタクロースです」と名乗るものだから、精神病に由来する妄想を疑われ、ホームを出されてしまいます。セントラル・パークの周辺でクリスマス・パレードが行われていますが、メイシー百貨店が雇ったサンタクロース役の男は酒を隠し飲みしながらという有様で、見かねたクリスがサンタ役を交代したことから大評判になります。彼をスカウトしたキャリア・ウーマンでシングル・マザーのドリス・ウォーカーは、一人娘のスーザンに「サンタクロースはいない」とドライな教育をしていますが、クリスを疑い、解雇してしまいます。

ところが、メイシー百貨店の社長は、ドリスにすぐ復職させるように命じ、百貨店は大繁盛しますが、人事関係者の講演会で「サンタクロース神話の嘘をあばく」とする題の講師アルバート・ソーヤー氏は、講演会を笑いの場にされてしまった腹いせに、クリスを精神病院に強制入院させる手配をしてしまいます。幸い、これに対する異議が出たために審理が行われることになり、クリス・クリングル氏がサンタクロースか否か、サンタクロースの実在を問う裁判が始まるのです(^o^)/

このあとのあらすじは省略しますが、この裁判で「実在しないことの証明」は難しい。「仮に実在したとするとこんな矛盾を生じるが故に、実在することは否定される」という論法(背理法)しかないでしょう。では、「実在することの証明」はできるのか? サンタクロース裁判の愉快な経過と共に、弁護士フレッドとドリス、スーザンがハッピーエンドに終わる結末は、いかにもクリスマスらしい、心温まるしゃれた物語です。



残念ながら、孫たちもサンタクロースの実在を問う年齢は過ぎてしまいましたが、後味の良い大人の童話として読む分にはいっこうに構わないでしょう。なかなかおもしろく読みました。また、読み終えた日付と書名等を、バイブルサイズの Aqua Drops に記録しました。再読が多いものの、今年はすでに15冊を超えております。

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コルム・トビーン『ノーラ・ウェブスター』を読む

2019年08月21日 06時04分13秒 | -外国文学
新潮社クレストブックスのシリーズで、アイルランドの作家コルム・トビーン著(栩木伸明訳)『ノーラ・ウェブスター』を読みました。2017年11月に刊行された単行本ですので、まだ二年も経たない、私にとってはごく新しい翻訳本です。

実は、数カ月前に一度手に取っており、読み始めてはみたものの、最初の方、夫が亡くなり未亡人となった主人公ノーラが周囲の人と交わす会話や人間関係の観察がまだるっこしく、途中で嫌になって投げ出したのでした。ところが、なぜか続きが気になります。とくに、裏表紙の中ほどにある紹介文:

夫に死なれたとき、ノーラは四十代半ばで、子供は四人。母の生涯を小説として構成するにあたって作者が焦点を当てたもの。それは主人公の、一人で担いとおす強さだった。父と夫の死に当たっても、末息子が学校で不当な扱いを受けたときの抗議も、ノーラは独力でやりとげた。さらに大きな自由を見出したのは、音楽だった。音楽嫌いの夫の生前には知る機会のなかった、レコードをひとりで自由に聴く喜び。さらに人前で歌い、才能を発揮する自由が開ける。渇いた土に水が沁み込むように、その喜びが切実さをもって描かれている。  (横山貞子)

などが頭に入っていたせいか、これは読み通したいと思ってしまいます。少なくとも、レコードや音楽、歌の場面が出てくるまで、なんとか我慢しよう。そんな心づもりでの再挑戦です。



いやいや、そんな心づもりは不要でした。寡婦年金の交付が決まるまで家計はピンチですので、夏を過ごした海辺の家を売り、昔、若い頃に働いたことがある会社の事務所に勤め始めます。創業者一族の無茶苦茶も、古参社員の嫌がらせも、彼女を降参させることはできません。ふつうの主婦に、どこにそんな強さや一方的な頑固さがあったのかと驚きますが、おそらくはもともと持っていた資質が、主婦の時代には隠れていただけなのでしょう。様々な人たちの縁で、組合活動に参加したり声楽のレッスンを受け始めたり、グラモフォン友の会に参加したりします。とくに、若い女性チェリスト(たぶん、ジャクリーヌ・デュプレ)ともう二人のイケメン(たぶん、ピアノはダニエル・バレンボイム、ヴァイオリンがピンカス・ズーカーマン)らによる、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲第7番「大公」(*1)のレコードに惹かれる場面などは、レコード好きには共感できるところでしょう。

1968年〜72年のアイルランド紛争の前後ですから、あきらかに我が青春時代。二人の息子ドナルとコナーはほぼ同世代でしょう。教師となる長女や、学生として政治活動に参加する次女を心配する親心はよく理解できます。同時に、夫を失った主婦が働いてお金を稼いでいたとき、遡って増額された寡婦年金を得て小型のステレオを購入したり、レコードを10枚買ったりするドキドキや幸福感は、読む方も同じ気持ちになります。読み通して良かった、久々の良書でした。

蛇足。息子が書いた母の生涯ですが、お母さんの名前が偶然にもノーラ。著者はイプセンの『人形の家』を意識しているのかな? あっちは家を出るだけで、具体的にどうやって自立して暮らしていくのかは描かれなかったけれど。

(*1):これかな? YouTube より。
Beethoven, Piano Trio No 7 Op 97 ArchdukeDaniel Barenboim, Zukerman, Du Pre


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プーシキン『大尉の娘』の新訳が出ていた

2019年05月18日 06時02分58秒 | -外国文学
以前、プーシキン著『大尉の娘』の新訳・新刊が出ないものかという記事(*1)を書きました。手持ちの新潮文庫(中村白葉約)は、1970年代の始め頃に購入したもので、用紙がすっかり黄ばんでしまっているだけでなく、文字のポイントが小さすぎて、老眼世代には辛いものがあります。長年愛読している本ではありますが、そろそろいい加減に新しい本で読みたいものです。できれば文字の大きな新装版または読みやすい新訳ならばなお有り難い。




そんなことを願っていたら、光文社の古典新訳文庫の棚に、坂庭淳史訳の『大尉の娘』を見つけました。本文の文字のポイントも大きめで、読みやすそうです。これはありがたい。さっそく購入して来ました。

"ロシア文学の父"プーシキンの代表作!
歴史的事件に巻き込まれる青年貴族の愛と冒険

という帯の文字が、ワクワク感を盛り上げます。楽しみです。

(*1):プーシキン『大尉の娘』の新訳・新刊はないものか〜「電網郊外散歩道」2013年2月

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カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を読む

2018年01月16日 06時02分07秒 | -外国文学
早川書房のハヤカワepi文庫で、カズオ・イシグロ著『わたしを離さないで』を読みました。はじめのうちは、思春期の子供の世界を描いた物語になるのかな、と思いましたが、途中でこれは重いテーマの話なのだと感じました。要するに、臓器提供のために育てられている子どもたちの話です。

「わたしを離さないで」はカセットテープに収録された曲の題名(*1)です。ジュディ・ブリッジウォーターの「夜に聞く歌」というLPレコード(1956年)で発売されましたが、主人公が持っていたのはカセットテープ版という設定で、「スローで、ミッドナイトで、アメリカン」(p.110)な曲を、「ネバーレットミーゴー…オー、ベイビー、ベイビー…わたしを離さないで…」のリフレインが何度も繰り返されるところに惹かれた少女が、寮のポータブルカセットプレーヤーでこっそり踊りながら聴いているところを、「マダム」(理事長のような女性)に知られてしまいます。ベイビーが恋人ではなく赤ちゃんであると思っている年頃に、そのカセットテープが紛失し、ついに見つかりません。



ウォークマンが普及している時代、1990年代末のイギリスが舞台です。たぶん、臓器移植のために育てられている子どもたちが、「わたしを離さないで」と踊る場面を目撃した理事長?が、先生たちに密かにテープを処分するように命じたのでしょう。第1部:「ヘールシャム」は、子どもたちをよりよい環境で教育し育てようとする善意の施設で、臓器の「提供」が始まるまで疑問を持たず受け入れることができるように注意深く教育されることになります。第2部:「コテージ」は、学校と寮を出た後に、少しの期間暮らすことになるコテージでの生活です。ここでのテーマは「猶予は存在するのか」。自分たちの運命を受け入れようとしながら深いところでは受け入れることができない、葛藤が描かれます。第3部:「介護人として」は、臓器の提供者を支える立場にある介護人と、学校の仲間であり恋人でもあった青年との切ない関係が描かれます。最後までカタルシスのような解決は訪れません。

物語も最後に近づいた頃、トミーが暗闇の中で大荒れに荒れて暴れる場面があります。運命に対して、喚き、悪態をつき、暴れる。自分が誰かのコピーで、臓器を提供するために生まれ、育てられ、何度か臓器を提供した後に死ななければならず、「提供者」が心を持っていることすら考えるものは少ないという事態。たしかに、暴れたくなります。ヘールシャムの教育の中では、おそらく図書室にもデュマの『モンテ・クリスト伯』などは注意深く取り除かれていたのでしょう。でも、彼らは提供者としての役割を果たし、介護人は彼らに寄り添っていくのです。



クローン羊「ドリー」が登場した際のインパクトはきわめて大きいものがありました。臓器移植をすれば助かると知った人々が、その臓器を「生産」することを望むとき、その手段としてクローン技術を採用したら、どのような未来が起こりうるのかを心理的な緻密さで描いた物語でしょう。生産されるクローン人間に、良い環境と教育を与えようと努力する一部の人々の善意は、ある意味で残酷なものです。でも、それさえも、今よりも優秀な人間のクローンを作り出そうとする営みを危険視するようになった社会の変化によって潰えます。ひじょうにリアリティのある悪夢のような状況を、実に緻密に描き出していると思います。

ただし、臓器を自分の細胞で体内で再生することができたら、たぶんわざわざクローン人間を生産するというような必要はないのではなかろうか。作家の想像力の方向とは別に、再生医学としてそんな方向性もあろうかと思います。

それと同時に、臓器を次々に取り替えて長く生きられるようになったとして、さて自分はそんなに生きたいだろうかとも考えてしまいます。若くして病に倒れた人ならば話は別ですが、いつまでも分裂増殖し続ける生殖細胞ではあるまいし、生きるのにくたびれてしまうような気がしてなりません。ほどよく終わりのある個体の人生だから良いのではなかろうか。

(*1):YouTube に、この曲がありました。
わたしを離さないで / Never Let Me Go  ジュディ・ブリッジウォーター

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カズオ・イシグロ『日の名残り』を読む

2017年10月28日 06時03分27秒 | -外国文学
早川書房のハヤカワepi文庫の中の1冊で、カズオ・イシグロの『日の名残り』を読みました。ノーベル文学賞受賞を機に、子どもから借りて手にしたものですが、ギュンター・グラスとかガルシア・マルケスなどと同様に、なかなか手にしようとは思わないだけに、老母の病院付き添いの待ち時間が良い機会となりました。



ストーリーは、イギリスの名家の執事が主人公で、主人を敬愛し、自分の仕事を完璧にすることに情熱を燃やし、その他の私事~恋愛や父親の老いと病死など~よりも仕事を優先する様子が回想される形で進みます。前の主人が亡くなり、屋敷が売却され、新たな主人となったのはアメリカ人でしたが、ちょっとしたミスから人手不足を痛感し、休暇をもらって昔の女中頭からの手紙を頼りに仕事への復帰を打診に行く、という成り行きです。

このドライブの途中に、様々な回想が挿入され、イギリスの古き良き時代の執事の誇りやエピソードが語られますが、尊敬していた主人が紳士としての信念を利用され、ナチス・ドイツの英国における窓口としての役割を持たされてしまっていたことが明かになっていきます。しかも、仕事への復帰を当てにしていた女中頭が、かつて主人公を愛したけれど、鈍感で仕事一途な彼を諦め、今は平凡な幸福~ときどき波風はあるけれど基本的には大切な家庭~を築いていることを知ります。

結局は、人手不足の解消と共に仕事の相棒を求めた旅行は目的を果たせず、もう少し日の名残りを楽しむように暮らしてみようか、というような感慨に浸ります。



年をとれば、時の不可逆性を痛感するこうした後悔の1ダースやそこらは誰しもが持っていることでしょう。時を逆転させることはできないだけに、こうした感慨に共感するところが大きいのではないかと思います。そこが、普遍性を持った所以かもしれません。

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ヒルトン『心の旅路』を再読し、映画での工夫に気づく

2017年06月30日 06時02分50秒 | -外国文学
ヒルトンの『心の旅路』(昭和52年刊、角川文庫、原題"Random Harvest")が書棚から出てきましたので、久しぶりに再読しています。購入して40年が過ぎた本で、用紙はすっかり茶色に変色してしまいましたが、絶版になって久しく、古書店でもめったに見かけませんので、実は貴重なのかも。読んでいるうちに、内容にひきこまれます。



今回、特に注目したのは、第二部の終わりに、キティが置き手紙を残して出発してしまい、以後は合うこともないままに病死してしまう、というところです。原作では、こんなふうに表現されています。

それで彼は錠剤を買い、スミス広場にもどる途中に数錠服用した。そのおかげで彼は重苦しい、すっきりしない眠りにおち入り、そして正午近くになって目をさますと、ベッドのかたわらに鉛筆で書かれたキティの置き手紙があった。それは、朝早くに届けられたもので、ふたりの婚約を事実上解消、ラクソーにいる義母と落ち合うため、すぐさま出発する、としたためられていた。

この場面が、映画(*1)では賛美歌を選ぶ場面となります。放心したように音楽を聞きながら失われた記憶をたどろうとしているチャールズの心の中に、自分の居場所はないと感じたキティが、泣きながら飛び出していくという場面に変更されています。

原作では、謎めいた行動の背景を様々な想像をめぐらせながら味わうようになっているのに対し、映画ではよりわかりやすく、でも説明的にならないようにエピソードが作られていると感じます。中高年の映画ファンならば、美しい妻ポーラ(グリア・ガースン)の無償の愛に、主人公チャールズ・レイニア(ロナルド・コールマン)がいつ気づくのかに注目するところでしょうが、若い人ならば、たぶん突飛な行動をするキティ(スーザン・ピータース)の心情に「わかるワ〜」と共感するのかもしれません。

もうひとつ。原作でのラストシーンはこうです。五つの州を眺められる頂のすぐ下に小さな湖があり、一人の男が寝転んでいる。そして彼女はスロープを駆け下りていく。

彼は彼女を認めるが早いか立ち上がった。と、彼女はその数ヤード手前で立ち止まった。そしてしばらくのあいだふたりはおたがいをじっと、静かに、無言で見つめ合っていた。やがて彼が何かをささやいたが、わたしには聞こえなかった。しかし私は一瞬のうちに、ふたりのあいだのへだたりが埋められ、あてどない歳月がおわりを告げ、過去と未来が融合し合ったことを知った。彼女にもそれがわかっていた。なぜなら、叫びながら彼の腕の中へとびこんでいったからだ。「おお、スミシー! スミシー! おそすぎやしないわ!」

これに対して、映画の方はもっとわかりやすいものです。失われた過去への入り口となるはずの鍵がかちりと適合する小さな家でのクライマックス。樹木の枝ぶりさえも昔のままというのは確かにヘンですが、たぶん1942年の映画という時代背景を考えるとき、「小さな家に帰る」という行為は、戦場にあった多くの兵士と銃後の妻たちの最大の願望だったからではなかろうか。今の時代には陳腐なメロドラマに見えるけれど、「家に帰る」ことが最大の願いだった時代があったことを、しばしば忘れがちになるからなのかもしれません。

(*1):廉価DVDで購入して観ていますが、今はネットでも観られるのかもしれません。

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『モンテ・クリスト伯』クイズ

2015年12月15日 06時04分53秒 | -外国文学
当ブログには、全部で14回という連載回数を誇る(^o^)『モンテ・クリスト伯』関連の記事(*)があり、ありがたいことに、これまでずっと多くの方がお読みいただいているようです。宝塚の『モンテ・クリスト伯』関連の公演も影響しているのでしょうか、これほど人気のある『モンテ・クリスト伯』なのであれば、

クイズ大会をやってみたらおもしろいのでは?

というアホな発想が生まれてきました。

もちろん、子ども向けダイジェスト版や漫画を読んだだけでわかるような、ごく入門的な内容ではなく、クイズに答えるために再読してもう一度その面白さにひたるきっかけになるような、そんな内容であればおもしろかろう。

というわけで、クイズです。

  1. 主人公エドモン・ダンテスの婚約者メルセデスは、カタロニア村生まれで貧しい生活をしているという想定ですが、暮らしが豊かでないことを示すものは?
  2. ファリャ神父が書き物に使っていた自作インクは、ある液体にあるものをとかして使っていましたが、それは何?
  3. グズラの音色を響かせるギリシャ美人エデの父アリ・パシャは、フランス軍士官フェルナンの裏切りによって壮絶な最期をとげますが、致命傷になったのは何?
  4. ヴィルフォールと先妻との間に生まれた娘ヴァランティーヌは、フランツ・デピネー男爵との間に縁談がすすんでいましたが、彼女の祖父ノワルティエ氏の証言により破談となります。フランツ・デピネー男爵にとって、ノワルティエ老人はどんな存在だったでしょうか。
  5. ルイジ・ヴァンパに捕らえられたダングラールが、十万フランの食事を惜しみ、餓えの苦しみを味わっているとき、かつて餓えて死んだダンテスの父親が住んでいたメーラン小路の家には、いったい誰が住んでいたでしょうか。


う~む、もしかしたら、このくらいなら再読の要なしという方もおられるのかもしれませんが、もしもクイズがきっかけで再読を楽しんだという方がおられたら、それこそ「モンテ・クリスト伯」ファンのブロガー冥利につきる話です。コメント、トラックバック、いずれでもけっこうですので、『モンテ・クリスト伯』ファンの方、どうぞ気軽に気長に痕跡を残していってください(^o^)/

(*):デュマ『モンテ・クリスト伯』を読む~(1), (2), (3), (4), (5), (6), (7), (8), (9), (10), (11), (12), (13), (14)

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ヒルトン『失われた地平線』を読む

2014年12月09日 06時03分50秒 | -外国文学
ヒルトンと言えば、『心の旅路』の作者であり、大戦間期の不安な時代を舞台に、教養ある知識人や中産階級以上の人たちの姿を描く作家、という印象を持っています。2011年の河出文庫で、ヒルトン著・池央耿訳『失われた地平線』(原題:LOST HORIZON)は、第一次世界大戦の悲惨を経験し、次の戦争の到来を予感しながら、地球最後の楽園を夢見て構想されたであろう、文明論的な広がりを持つ冒険小説です。

プロローグは、パブリック・スクールの同窓生で独り身のイギリス人が三人、ベルリンで再会したところで、共通の知人の話題が出ます。バスクルの革命に際し、避難する民間人の輸送に当たっていた飛行機が乗っ取られ、カシミールの山岳地帯に消えた事件があり、行方不明者の中に友人コンウェイの名前があった、という一件です。「グローリー」コンウェイとあだ名された英国領事ヒュウ・コンウェイとはどんな人物か。

ケンブリッジの競艇では代表選手で、雄弁会では指折りの論客、あれやこれやで賞を獲り、ピアノは玄人はだし、多芸多才で将来の首相候補と目されている。戦争ではフランスの塹壕戦で負傷して殊勲賞を受け、オックスフォードに戻ってしばらく指導教官をつとめ、1921年には東洋に行って語学に達者になった。イギリス領事。新人にも親切で強い印象を残す。学校時代、校長は「グローリアス、燦然たる」と評し、卒業式にはギリシア語で答辞を述べ、学園祭の芝居では一級品の役を演じ、水際立った男ぶりで精神と肉体が拮抗して漲る活力など、エリザベス朝の文人を思わせる (筆者要約)

というのですから、これはすごい! まさしくスーパーマンというべきでしょう(^o^)/

第1章は、まさにこのハイジャック後の機内の様子です。第2章では、インドだかパキスタンだかから北へ向かった飛行機が、カラコルムを越えて孤絶の山岳地帯に着陸しますが、操縦士は死亡してしまいます。第3章では、コンウェイを含む乗客4人が、シャングリ・ラの僧院に救出され滞在することとなります。四人の滞在者は、それぞれに事情があり、歓迎する者も不満を持つ者もいますが、第4章では謎の僧院でのゆったりした生活が描かれます。第5章以降では、シャングリ・ラの僧院の文化的水準の高さが描かれ、図書室が充実し、羅珍という少女?の演奏するピアノの曲がモーツァルトやショパンであるように、名だたる作曲家のすべての曲を取り揃えているそうな。しかも、洗練された陶磁器や蒔絵細工などの古美術に囲まれ、静謐と精緻と細美の中に生活するのです。(ふーむ、このあたりは、いかにも階級社会・英国の知識人らしく、楽園におけるゴミ処理やし尿処理の方法等については言及しないのですね。)

第7章と第8章では、シャングリ・ラのラマ僧院の歴史と秘密が明かされます。そして、次の大戦で世界の強者が相戦い、滅ぼし合った後に、柔和な者が地を受け継ぐというイメージが語られます。なんだか、どこかのカルトに利用されそうな(^o^;)>poripori
第9章からは、コンウェイが1人でどう判断し、行動するのかが焦点になって来ますが、せっかくの物語を楽しむことができるように、あらすじはここまでといたしましょう。



本書を読み、おぼろげながら遠い記憶がよみがえります。中学生の頃に子ども向けに訳された本を読んだのだったか、それとも映画か何かの記憶が残っているのか、はっきりしませんが、たしかコンウェイが羅珍にひそかに思いを寄せており、羅珍は実はコンウェイとマリンソンと二股をかけていて、コンウェイとマリンソンが協力して岸壁を乗り越えるが、羅珍はマリンソンのほうを選んで行ってしまう、というふうに単純化されていたと思いますが、はて?
私も、後に発見されたコンウェイと同様、記憶喪失症にかかっているのかもしれません。原因は熱病ではありませんが(^o^;)>poripori

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マーギー・プロイス『ジョン万次郎~海を渡ったサムライ魂』を読む

2013年11月18日 06時01分04秒 | -外国文学
過日、妻とともに近隣の図書館に出かけ、何冊かの本を借りてきました。その中の一冊、集英社刊の単行本で、マーギー・プロイス著(金原瑞人訳)『ジョン万次郎~海を渡ったサムライ魂』がたいへん興味深いものでした。
ジョン万次郎といえば、漁船に乗り組んで難破漂流し鳥島に漂着、そこで米国の捕鯨船に救出され、親切な船長のおかげで米国に渡り、色々と見聞を広めて帰国して、幕末の外交政策に影響を与えた人、という程度の認識です。これも、星亮一著『ジョン万次郎』(PHP文庫)などによるもので、どちらかといえば日本側資料に基づいた記述です。
これに対して、本書の場合は、米国の児童文学者で劇作家である著者が、米国に残された資料をもとに書きあげたもので、2011年にニューベリー賞オナー(*)を受賞した作品とのことです。たしかに、若い万次郎が米国滞在中に学校教育を受けたことは承知しておりましたが、少年ジョン・マンが少女キャサリンにあてた英詩:

寒い夜、
きみにかごのプレゼント。
目を覚まして、マッチをすって!
走り去るぼくを見て。
でも、おいかけてきちゃだめだよ。

というのが実際の史実にもとづいたものであり、キャサリンがそれを大切に保存していたことなどは、初めて知りました。
太平洋を漂流して米国にやってきた鎖国の国の少年が自分に思いを寄せ、しかも自分も憎からず思っている気持ちを意識した少女の心も、そしておそらくそれを許さないであろうアメリカ社会や親たちのことも、ジョン万次郎の少年時代の行動を通して描かれます。
おそらく児童文学の範疇に入る作品とは思いますが、そんな区分を越えて、少年の勇気がストレートに読む者の胸を打ちます。良書です。たぶん、今年の私的ベストテンに入るものでしょう。

(*):ニューベリー賞とは、1922年に開始された世界最古の児童文学賞で、アメリカ合衆国における最も優れた児童文学の著者に与えられるとのこと。1923年にはヒュー・ロフティングが『ドリトル先生航海記』で受賞しているようです。ニューベリー賞オナーとは、その年に書かれたものではない作品に対して遡及的に与えられることもある名誉賞のことだそうで、2010年に発表された本書が2011年に受賞したわけですので、これに該当というわけです。

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新訳でハインライン『夏への扉』を読む

2013年04月04日 06時04分16秒 | -外国文学
某図書館で、ハインラインの『夏への扉』を見つけました。私が最初に読んだのは福島正実訳のハヤカワ文庫でしたが、今回手にしたのは、小尾芙佐さんによる新訳で、2009年に早川書房から刊行された新書サイズの本です。中高年世代としては、活字も比較的大きく、読みやすいのがありがたい。あまりにも有名なSFだけに、あらすじは簡単にとどめますが、再読、再々読でも面白さは減じることがありません。

主人公ダン(ダニエル・ブーン・デイヴィス)が発明した家庭用お掃除ロボットが大ヒットし、会社は景気がいい。でも、親友マイルズと、愛する(と思っていた)女性ベル・ダーキンの二人の裏切りにより、ダンはほぼすべての権利を失ってしまいます。失意のうちに、冷凍睡眠によって30年後の世界に旅立つ契約をしますが、あの二人がなぜこんな仕打ちをしたのか、その理由を知りたいし、出発前に抗議をしておきたい。というわけで出かけたところで判明した真実は苦く、盟友というべきオス猫ピートは逃げ出し、心を通わせた可愛い少女リッキーと別れて、不本意な形で冷凍睡眠に入ります。

どうやら、30年後は核戦争後の世界のようですが、アメリカとロサンジェルスは生き残っているようです。ダンは未来の世界でどのように生きていくのか、ピートやリッキーのその後はどうなるのか、ワクワク・ドキドキ、というお話です。



1970年ごろに流行った「未来学」なるものでは、地球温暖化もリーマン・ショックも予測はできなかったけれども、お掃除ロボットは「ルンバ」という名前で商品化されました。でも、どうみても本書に登場する「おそうじガール」のほうが進んでいるように思えます。
2000年からもう四半世紀が過ぎましたが、スカートの丈が多少変わったくらいで、衣服もベルトも基本的にまだ1970年代のままです。とてもハインラインが空想したようには進んでいません。技術を見る目はあっても、ベル・ダーキンのような悪女を見る目はないダンは、技術者の典型として描かれているようですが、リッキーのような可愛い少女は技術者に憧れたりするのでしょうか?いささか疑問は残りますが、この名作の価値をそこねるようなものではありません。猫が登場し活躍するという点でもポイントは高いのですが、それはさておいて、文句なしのおもしろさです。

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デュマ『モンテ・クリスト伯』における人物相関図を描いてみる

2013年03月15日 06時04分37秒 | -外国文学
佐藤賢一さんが解説をつとめた、NHK-Eテレ「100分de名著」で『モンテ・クリスト伯』を取り上げたのを機会に、登場する人物相関図を作ってみました。すでに何度も読んでいますので、およそのところはささっと出来上がりましたが、実際に図解してみて、その入り組んだ関係に、あらためて目をみはりました。
佐藤賢一さんが注目する、エドモン・ダンテスVSヴィルフォールの複雑な対立や、作家の安部譲司さんが指摘する、「メルセデスの気持ちは書かれていない」ことなど、今回の放送で再確認させられたことも少なくありませんでした。

ところで、メルセデスが従兄弟のフェルナンと結婚してしまうことについて、現代人の感覚で批判はできないのでは、と思います。当時、メルセデスは貧しく不幸な境遇にあり、ダンテスの父親の世話をしながら二年間も待ち続けたことは、最大限に評価して良いのではと思います。
もちろん、ダンテスがアルベールを殺そうとした理由に、自分を裏切り、こともあろうに仇の一人のフェルナンとの間に子供までもうけていることへの怒りがあったことは否定できないでしょう。ですが、少なくともメルセデスは、主要な復讐の相手ではなかったはずです。
むしろ、フェルナンへの復讐ではメルセデスとアルベールの幸福を奪い、ヴィルフォールへの復讐ではエロイーズとエドゥワールなど多くの人の命を奪う結果となりました。復讐にともなう犠牲を、神ならぬ身が引き受けられるのか?復讐の後の生と希望を見出すことができるのか?そういう内面の葛藤が、モンテ・クリスト伯の胸中に生まれるところに、後半のドラマの深まりがあるようです。
実質は四分の三ほどしか観ることはできませんでしたが、NHK-Eテレ「100分de名著」、なかなかおもしろく、楽しむことができました。

この放送の影響でしょうか、当「電網郊外散歩道」を、「モンテ・クリスト伯 結末」などの語で検索する方が激増しました。今はようやく落ち着きましたが、これだけの反響のある名作が、岩波文庫だのみというのは、なんとも残念です。例えば集英社の世界名作全集の松下訳など、なんとか文庫化してもらえないものかと願っています。

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プーシキン『大尉の娘』の新訳・新刊はないものか

2013年02月20日 06時03分44秒 | -外国文学
プーシキン著『大尉の娘』は、長年の愛読書の一つ(*1)です。子どもの頃に、「少年少女世界名作全集」か何かで読んで以来、何度も読んだ物語で、学生時代に購入した文庫本は、すっかり黄ばんでしまっています。





活字のポイントも、今となっては小さくて読みにくく、できれば活字を大きくした新装版をと願っているのですが、売れ筋ではないらしく、新装版の話はとんと聞きません。なんとかならないものでしょうか、新潮文庫担当者さん!あるいは、光文社古典新訳文庫の担当者さん!

(*1):私の好きな物語~海外編~「電網郊外散歩道」2008年2月
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ジャクリーン・ケリー『ダーウィンと出会った夏』を読む

2012年07月26日 06時03分28秒 | -外国文学
ほるぷ出版から2011年に刊行され、今年は高校の読書感想文の課題図書に選定されているという本、『ダーウィンと出会った夏』を読みました。ジャクリーン・ケリー著、斎藤倫子(みちこ)訳、ソフトカバー、412頁の本です。

なんといっても、ぱらぱらとめくったときに目にとまった場面、もうすぐ12歳の少女が町の図書館に行き、ダーウィンの『種の起源』を借りようとして断られる場面で、本好きな元科学少年としては、どうして読まずにいられようか!という勢いです。邦題はだいぶ映画のタイトル風になっていますが、原題は "Evolution of Calpurnia Tate" (キャルパーニア・テイトの進化)というもので、ニュアンスはだいぶ違います。

1899年の夏、アメリカ南部、テキサス州コールドウェル郡フェントレスに住む、七人きょうだいの真ん中でたった一人の娘であるキャルパーニア・テイトが、兄からもらった赤い革表紙のポケットサイズ・ノートを、自然観察ノートとして使い始めます。特徴の異なる二種類のバッタについて質問をするために、祖父の実験室に行きます。ところが、綿花工場の創設者であり、息子に事業を譲って引退した後には、自然科学の研究に没頭する祖父は、孫娘に自分で解決するように言い、「わかったら、答えをいいに来なさい」と命じただけでした。なにか参考になることが書いてあるのではと、兄ハリーが食料を買うために町に出かけた荷馬車に同乗し、祖父と牧師さんとの間で話題になっていた、ダーウィンの『種の起源』を図書館で借りようとしたのでしたが、図書館員は母親の許可が必要だと、取りつく島もありません。1899年の米国では、進化論は宗教的な論争の的であり、信心深い良妻賢母を育てる教育にとっては有害図書だと考えられていたようです。

結局、キャルパーニアは、自分の観察から、エメラルド色の小型のバッタは枯れた黄色い芝生の上では野鳥に見つけられ捕食されるけれど、黄色い大きなバッタは動きが鈍いのに保護色となり鳥たちから隠れるのに好都合だからだと知ります。この発見を祖父に報告し、つづけて図書館でみじめな思いをしたことを語ります。すると祖父は、孫娘を書斎に連れて行き、ダンテの『地獄篇』や、『熱気球の科学』『哺乳類の繁殖の研究』『裸婦の描写についての論文』などの本の間から、深緑色のモロッコ革の『種の起源』を取り出し、貸してくれたのです。こうして、孫娘と祖父との交流が始まります。



この後の、第2章から第27章までの内容は、母親の期待する家庭婦人ではなく、科学者になりたいという少女が、祖父とともに植物の新種を発見し、スミソニアン博物館で新種登録されるまでの、日常生活とその中で葛藤する思いを描き、秀逸です。元科学少年だった私には、性別を越えて、よく理解できる展開であり、共感できる心情です。

かつて日本には、「虫愛づる姫君」がいましたが、キャルパーニア・ヴァージニア・テイトは、19世紀から20世紀に移行しようとする頃のアメリカ南部で、自覚的に成長しようとしている「虫愛づる姫君」であると言えましょう。たぶん、現代ではもっと多くの少女達が、「理系女子」として夢を育てているのでしょうが、本書に素朴な共感が集まるのかどうか、興味深いところです。そういえば、大学生の頃に読んだ『種の起源』は、岩波文庫でした。あれはたしかに興味深かった。今なら、どのように感じるのでしょうか。

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百年文庫「響」を読む

2012年04月17日 06時03分06秒 | -外国文学
ポプラ社のシリーズ「百年文庫」から、第13巻『響』を読みました。ヴァーグナー「ベートーヴェンまいり」、ホフマン「クレスペル顧問官」、ダウスン「エゴイストの回想」の三編が収められています。この冊子を手に取ったのは、もちろんヴァーグナーの「ベートーヴェンまいり」がお目当てで、ワーグナーとベートーヴェンという取り合わせが興味深いものです。中部ドイツで生まれ、まだ貧しく無名の作曲家だった青年ヴァーグナーが、お金のためにガロップ(ギャロップ?)やポプリなどの軽い音楽を書いて旅費を工面し、メッカを目指す巡礼のように、徒歩でヴィーンを目指します。途中で知り合った、金持ちで俗物のイギリス人に妨害されながら、ベートーヴェンに面会し、筆談に成功するエピソードを回想する形になっていて、なかなか面白い読み物です。

もちろん、あの悪漢ヴァーグナー(^o^;)が、脚色なしに正直に一部始終を描いているとはとても思えませんので、その点は割り引いて読んでいましたが、巻末の解説を読んでいたら、案の定、ヴァーグナーは生前のベートーヴェンとは一度も会っておらず、実際にはベートーヴェンの死後にウィーンを訪れているのだとか。やっぱりね!

ヴァーグナーがベートーヴェンのある面を崇拝し、研究したのは確かなことでしょうが、その後の歩みの方向性はだいぶ違いました。人々の感情の内奥に直接に訴えかけるような音楽を志向したという点では共通性もありますが、今の私はヴァーグナーの巨大な楽劇よりも、ベートーヴェンのピアノソナタや室内楽などに、より魅力を感じてしまいます(^o^;)>poripori

ホフマン「クレスペル顧問官」、ダウスン「エゴイストの回想」も印象的な佳編ですが、ヴァーグナーとベートーヴェンという巨人の前には、やや色あせてしまった感があります。
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百年文庫「巡」でノヴァーリスやゴーチエを読む

2012年04月03日 06時05分22秒 | -外国文学
ポプラ社から百年文庫というシリーズが出ていることを、図書館で知りました。ためしに借りてきたのが、「巡」という一文字のタイトルがついたもので、内容はノヴァーリス「アトランティス物語」、ベッケル「枯葉」、ゴーチエ「ポンペイ夜話」の三作からなります。文庫とはいいながら、サイズは新書判で、文字も大きくゆったりとしています。老眼世代にはうれしいものですが、さてどうか。

「ドイツ・ロマン主義の精華とうたわれる」と紹介文中にある「青い花」の作者ノヴァーリスの作品を読むのは初めてです。国王に溺愛された王女が、鄙びた家屋敷にひっそりと住む翁の息子と偶然にも恋に落ち、長い不在の後に、赤子と若者を連れて国王の元に戻る話。時代がかった美文の連続で、やや辟易するところがありますが、最後の一文で舞台が失われたアトランティスであることがわかる、という仕掛けです。ベッケルの「枯葉」は、ごく短いけれど擬人的で印象的な作品。ゴーチエの「ポンペイ夜話」は、ポンペイの遺跡を訪れた青年が溶岩に残された胸の持ち主である女性の亡霊に恋をする話です。中国の伝奇小説「聊斎志異」のヨーロッパ版のような作品と言えば良いのでしょうか。

編集が異色で、ごく軽く読めてしまうのが良いとも言えるし、またもう少し長い物を読んでみたくもなる、そんな短篇集です。

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