電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

幕末期の英国とロンドンの化学界

2014年06月26日 06時04分17秒 | 歴史技術科学
日本で言えば幕末期にあたる19世紀後半には、英国は覇権国家となっており、「パックス・ブリタニカ」と呼ばれるような帝国最盛期の繁栄を謳歌していましたが、それ以前の19世紀前半には、労働者という階層が都市に集中し、様々な問題が生まれていました。劣悪な都市生活環境は、例えばディケンズの小説『オリヴァー・ツイスト』やエンゲルスの著書『イギリスにおける労働者階級の状態』などに描かれているとおりです。

これに対して、環境汚染を抑制し、食品や売薬や飲料水などの純度を規制するような法的措置が制定されますが、実際に規制を有効なものとするためには、化学分析を主とする検定業務を担う一群の人々が必要となります。ところが階級社会イギリスにおいては、ドイツのギーセンにおけるリービッヒの研究室のように、大学がその育成の役割を担うことはありませんでした。むしろ、薬局協会などの職能団体が、徒弟制のような形で技術者の育成を行っていたのが実状のようです。

1826年に、哲学者ベンサムが高等教育の大衆化を唱え、ロンドン・ユニヴァーシティを設立します。当時、オックスフォード大学やケンブリッジ大学は、イギリス国教会の信徒で貴族出身の男性のみを受け入れていましたが、ロンドン大学ははじめて女性を受け入れ、宗教・政治的思想・人種による入学差別を撤廃した、自由主義・平等主義の大学として成長します。ロンドン大学は、後に多くのカレッジを吸収しつつ成長しますので、もともとの大学をユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)と称するようになります。おもしろいエピソードとしては、無宗教という性質上、大学のある通りをもじって「ガワー街の無神論者たち」と揶揄されることもあったそうで、チャールズ・ダーウィンも、「生物進化論」を発表したのはこの大学だったそうです。また、幕末期に英国公使の通訳として活躍したアーネスト・サトウも、この大学の卒業生です。次の写真は、ダーウィン。



さて、UCL は、設立当初から医学部の中に化学教育を置きましたが、薬局協会の制約を受けるなど、教育面でも必ずしも効果をあげたとは言えなかったようです。1841年には、薬学協会とほぼ同時にロンドン化学会が設立され、外国人化学者の第一号としてリービッヒを会員に迎えています。1845年には、リービッヒの助言を得てロンドンに王立化学カレッジを開設し、短期間ホフマンが指導に当たりますが、こちらもあまりうまくいかず、財政的に行き詰まり、1853年には王立鉱山専門学校に吸収されてしまいます。

したがって、ギーセンにおけるリービッヒの流儀をイギリスに伝え、後々まで影響を与えた人物として挙げられるのは、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのウィリアム・ウィリアムソン教授ということになりましょう。

(*):柏木肇「西欧の化学~19世紀化学の思想その4~イギリスにおける化学の職業と科学運動」,『科学の実験』572-579,Vol.29,No.7,1978,共立出版

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