電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩。時々は実際に散歩を楽しみます。

吉村昭『白い遠景』を読む

2015年06月03日 06時04分05秒 | -吉村昭
講談社文庫で、吉村昭著『白い遠景』を読みました。1979(昭和54)年の2月に刊行された単行本の文庫化で、著者としては二冊目の随筆集になるのだそうです。構成は、次のようになっています。

1. 戦争と〈私〉
2. 取材ノートから
3. 社会と〈私〉
4.小説と〈私〉

いずれも印象的な随筆が並びますが、この中で特に印象的なものを思い起こせば、知られざる戦功を語る老人の悲哀とそれを持て余す家族を描いた「元海軍大佐P氏のこと」や、通夜に駆けつけるべきか否かを考える「駆けつけてはならぬ人」、温厚な恩師の人柄がしのばれる「駄作だが」などでしょうか。

調査魔だった氏の自信が言わせるのでしょうが、読者が何かで読んだ知識をもとに、作品の一部に疑問を投げかけたことについて、苦言を呈している文章もありました。このあたりは、当方も「知ったかぶり」をやりかねない面があり、ズキッと来るところがあるような(^o^;)>poripori
自戒して、用心、用心(^o^)/

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吉村昭『真昼の花火』を読む

2015年01月17日 06時02分27秒 | -吉村昭
吉村昭著『真昼の花火』を読みました。著者は2006年に亡くなっていますが、本書は河出書房新社から2010年に刊行されたもので、当然のことながら、単行本にされていなかった四つの作品を集めたもののようです。( )内は初出年です。

  1. 牛乳瓶 (1998)
  2. 弔鐘 (1967)
  3. 真昼の花火 (1962)
  4. 四十年ぶりの卒業証書 (1985)

「牛乳瓶」は、時の流れを感じさせる、ややエッセイ風の作品。
表題作『真昼の花火』は、いささか違和感を感じてしまう作品です。布団屋の息子が、自分を育ててくれた親の生業を「嫌う」だけならまだしも、それを「攻撃する」ことを主な仕事とし、しかも何食わぬ顔で家に戻り、沈黙を続ける。そんな人にはふさわしい結末と言えるかもしれません。課長だけが悪者ではないだろう。課長にいいように利用されたと言いますが、それだけではなさそう。少なくとも、「自分の親の生業を突き崩すようなことはできません」の一言を、最初に言えなかったものか。小心者の欲が招いた結果=小さな欲から大きな損失。かなり苦い味で、ふだん読んでいる吉村昭作品の、淡々とした中に毅然としたものがある味わいとは、だいぶ読後感が異なります。
「四十年ぶりの卒業証書」も、私的な随筆風の作品です。

作家が単行本を出す際には、それなりに選択が働いているのだろうと思います。もしかすると、作家の生前にまだ単行本化されていなかった作品というよりは、作家自身が単行本化を断念していた作品なのかもしれません。もしそうだとすると、それはそれでうなづける面があります。

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吉村昭『闇を裂く道』を読む

2014年08月19日 06時04分15秒 | -吉村昭
文春文庫で、吉村昭著『闇を裂く道』を読みました。この作品は、それまで御殿場ルートを通って急勾配の山越えに苦労していた東海道線のために、丹那盆地の下を通り、三島と熱海をつなぐ丹那トンネルを建設した記録に基づく物語です。

大正7年3月上旬、一人の新聞記者が、新たに建設される鉄道の取材のために、熱海に向かおうとする場面から、本書は始まります。後藤新平鉄道院総裁は、東海道線の輸送力を増強する新しいトンネルの建設が可能かどうかを、鉄道管理局に調査させます。現地を調査した担当技師は、トンネルの必要性と、技術的に可能であることを復命報告します。これに基づいて予算が見積もられ、具体的に工事が始まります。三島口の工事を請け負ったのは、鹿島組でした。

工事は様々な障害を乗り越え、あるいは回避しながら進められます。現代であれば事前のボーリング調査で周辺の地質状況を確かめながら進むところを、露頭をもとに推定した地質図で判断するわけですから、思いがけない困難が起こってきます。最大の困難は地下水でした。

もともと、丹那盆地の地底には、大きな地下水の層があり、周囲の湖沼や河川等の水環境も、これを前提に成り立っていました。ところが、トンネル工事はこの地下水の層を貫通する形で進んだものですから、トンネル内に河川が流れ込むようなもので、地下水の奔流の中での難工事となります。さらに、効率的に排水できる工事を行い、効果をあげた反面、地下水の水位が下がり、河川の水が切れ、湖沼の水位が激減するなどによって、農業と住民の生活の根幹が破壊されてしまいます。

トンネル内の排水や落盤事故の防止などは、なんとか技術的に対策が可能ですが、丹那盆地の水環境の根底が変化したことによる村落の基盤の破壊は、技術的な対策は不可能です。むしろ旗を立てて迫る農村の人々の怒りと危機感は、週末農家の私にもよくわかります。これは、土木技術の問題ではなく、大きな政治問題となってしまいます。

トンネルを開通させるために努力する鉄道院と鹿島組、住民の怒りの矢面に立ち、補償と代替水路の確保に取り組む地元県庁マン、互いに錯綜する動きが、時系列を追って描かれ、やがて我が国初の大規模複線トンネルが開通の時を迎えます。



国家の輸送力や都会の人々の利便性などの都合で、一地域の存立と生活の基盤が脅かされる姿は、現在の福島県浜通り地域の現状と重なります。とりわけ、メルトダウンした原子炉を冷却するための汚染水が、地下水の流入によって膨大な量になってしまう現状は、丹那トンネル工事における地下水湧出とのたたかいを彷彿とさせる状況でしょう。トンネル開通のような華やかなゴールがフクシマでは全く見えず、今後何十年にわたって困難な作業を続けなければならないという状況だけに、なんとも複雑な読後感でした。

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吉村昭『日本医家伝』を読む

2013年09月12日 06時01分04秒 | -吉村昭
講談社文庫で、吉村昭著『日本医家伝』を読みました。ずいぶん久しぶりの再読で、調べてみたら初読は2002年の12月とありますから、ほぼ11年ぶりの再読となります。



幕末から明治期にかけての、著者の医家ものの発端となった雑誌連載が、1973年に講談社から文庫化され、2002年に新装版として大きめの活字で再刊されたもののようです。本書で取り上げられている人物は、もしかすると年代順なのでしょうか、以下のとおりです。

山脇東洋
前野良沢
伊藤玄朴
土生玄碩
楠本いね
中川五郎治
笠原良策
松本良順
相良知安
荻野ぎん
高木兼寛
秦佐八郎

いずれも、人物と業績を簡潔に紹介するものですが、小説の題材として取り上げるに相応しいドラマがあります。前野良沢と『解体新書』の翻訳の話は『冬の鷹』に、楠本いねについては大作『ふぉん・しいほるとの娘』に、松本良順については『暁の旅人』(*1)として、高木兼寛は『白い航跡』(*2,3)に、それぞれ結実しております。その意味で、本書はこれらの出発点となった記念すべき作品と言えます。中には、独立した作品として取り上げられてはいないけれど、『ふぉん・しいほるとの娘』や『長英逃亡』などの作品の中に生かされているものもあり、全体として幕末~明治の時代を生きた医家のつながりを、大きな山脈のように感じさせてくれます。

本書は、現在は絶版か品切れのようで、現行本としては出ていないようです。Amazonでは中古本としてのみ表示されます。日本の医家の流れを簡潔に一覧することができる好著だけに、まことに残念なことです。

(*1):吉村昭『暁の旅人』を読む~「電網郊外散歩道」2009年11月
(*2):吉村昭『白い航跡』上巻を読む~「電網郊外散歩道」2009年8月
(*3):吉村昭『白い航跡』下巻を読む~「電網郊外散歩道」2009年8月

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吉村昭『空白の戦記』を読む

2012年09月15日 06時02分23秒 | -吉村昭
新潮文庫で、吉村昭著『空白の戦記』を読みました。単行本の方は、昭和45年の9月に刊行されたとありますので、実に42年前になります。当時はまだ高校生でしたので、もちろん刊行のことは記憶にありません。ですが、文庫本となった本書を手にして、ドキュメンタリーのような描き方に、驚きと共感を覚えます。

第1話:「艦首切断」。昭和10年に、台風に遭遇した演習艦隊のうち、駆逐艦「夕霧」と「初雪」が、巨大な三角波により艦首を切断され、多数の犠牲者を出した事故を取り上げたものです。迫真の描写です。
第2話:「顛覆」。低気圧の接近する荒天下で、水雷艇「友鶴」が顛覆するという事故が発生します。船内に取り残された生存者の救出と、設計上の欠陥の解明が描かれます。
第3話:「敵前逃亡」。沖縄戦が舞台です。米軍に捕えられた若い召集兵が、投降を呼びかけるためと偽り、再び戦うために日本軍陣地に戻りますが、「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓をたてに、敵前逃亡の罪で処刑されてしまう話です。割りきれなさが残ります。
第4話:「最後の特攻機」。ポツダム宣言を受諾する天皇の終戦玉音放送を聞いた後に、なお自ら最後の特攻に出撃する宇垣纏中将を描きます。特攻作戦を指揮してきた責任感からとしても、志願した11機の若者を死へ導く最後は納得できません。
第5話:「太陽を見たい」。こちらも沖縄戦の話です。伊江島の女子斬込隊の生存者である大城シゲさんの壮絶・凄惨な体験。「太陽を見たい」という素朴な感情が、極限の飢餓生活からの転機になりました。
第6話:「軍艦と少年」。単調な生活から脱出したいと願った少年の行為は、高度の軍事機密に触れたものでした。戦後、少年の消息を追う形で描かれるのは、戦争によって幸福な少年時代をふいにしてしまう不幸の姿でしょうか。



吉村昭作品は、いずれも徹底した取材の裏付けに基づいています。登場人物の心理描写は作家としての推理でしょうが、事実関係は裏付けを持って書いていると言われています。沖縄戦の様相など、こんなことが実際にあったのだなと、暗澹とした気持ちになってしまいますが、私たちの親の世代の出来事として、たしかにこうしたことが起こっていたのでしょう。

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吉村昭『生麦事件(下)』を読む

2012年06月01日 06時03分33秒 | -吉村昭
新潮文庫の吉村昭著『生麦事件』下巻の始まりでは、イギリス艦隊が鹿児島湾に来るのを迎え撃つ薩摩藩の対応が描かれます。英国側の最高責任者である公使ニールと薩摩側の交渉は行き詰まり、事態はイギリス艦隊側が、薩摩藩所有の蒸気艦三隻を拿捕・曳航したことから、戦闘状態に入ります。たまたま嵐が来ていたために、艦隊側の砲撃も照準が定めにくく、武力の差にもかかわらず、互いに大きな被害を受け、イギリス側の圧倒的勝利というわけにはいきませんでした。

しかし、城下を焼かれ、大きな損害を出した薩摩藩では、島津久光が英国との和平を図り、圧倒的な武力の差を思い知った薩摩藩たちは、攘夷の無謀を体で実感し、藩論は急速に開国へとまとまっていきます。このあたりの描き方は、島津久光が名君へと成長していったことを示しており、説得力があります。

薩摩藩とイギリス公使館側との和平交渉は、オランダ語を介しての二段階通訳となりましたが、重野厚之丞とニール代理公使とのやりとりはなかなか緊迫したもので、読み応えがあります。とくに、軍艦購入を仲介してほしいとの条件は、たぶんニールもイギリス側の他の人も驚いたことでしょう。なんとなく、将棋で、取った駒を持ち駒として使えたり、「歩」が敵陣に入ると「金将」に変わったりする融通性に通じるところかなと思いますが、実に効果的に作用しました。徹底的に叩きのめすよりは、商売相手として組んだ方が良い、という判断を引き出したのですから。これによって、薩英同盟が成ったと見ることもできるでしょう。

いっぽう長州はどうなっていたか。薩摩藩は、長崎丸が長州側の砲撃を嫌って逃げ出したものの、機関過熱で火災となり、多くの人材を失います。当然のことながら、薩長はいがみあうことになりますが、ここに休暇を終えて再来日した公使オールコックが登場、代理公使ニールと交代します。オールコックは、英仏蘭米の四ヶ国と横浜村で会議を開催し、長州藩に対して実力行使を行うことを決定します。ここに、密出国して英国へ留学中に列強が長州藩に実力行使を決定したことを知って急遽帰国した伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)の二人が登場、長州藩に攘夷の無意味を説得しようとするのですが、まったく効果がありません。結局、長州藩は四ヶ国連合艦隊にボロ負けするのですが、逆に薩摩藩に次いで攘夷の無意味さが骨身にしみた藩となります。こうなると、薩摩と長州は同じ土俵に立ったわけですね。な~るほど!

南北戦争の終結によってダブついていた銃砲が東アジアに流れてきて、これを薩摩名義で長州にも提供するという形で薩長同盟が成立します。このあたりは、武器商人が暗躍する世界であって、あまり胸をはって威張れるようなものではないような(^o^;)?poripori
西郷隆盛が言ったという、「明治維新は南北戦争のおかげでござる」という言葉の意味の一つは、たしかにこのあたりの事情を指すのでしょう。

吉村昭の歴史ものは、例外なく興味深い物語であるように思いますが、本書は題名の地味さにもかかわらず、歴史の大きな転換点となった時代を見事に描いています。抜群に面白いです。

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吉村昭『生麦事件(上)』を読む

2012年05月26日 06時01分52秒 | -吉村昭
生麦事件という出来事は、たしか日本史で習いました。薩摩の殿様の行列と、事情にうとい外国人の衝突事件で、幕末にはよくある事件の一つ、という程度の認識でした。最初は、史実を丹念に掘り起こして物語とする練達の書き手である吉村昭氏が、この事件をどのように描いているのか、という興味で読み始めたのですが、どうしてどうして、事件の歴史的意義はそんなものではありませんでした。今回、再読となる『生麦事件』(上巻、新潮文庫)について、あらすじをたどることは割愛し、感じたことをそのまま列挙することといたします。

(1) 犠牲となったリチャードソンは、実は帰国するばかりになっていたのだそうな。異国でハイキング気分で馬による遠乗りを計画した友人に誘われ、薩摩示現流で二度も斬られ、内臓を露出させながら逃げる途中に落命するという不運。なんとも皮肉な結果です。
(2) イギリスの代理公司ニールと領事ヴァイスの対応は対照的です。当座の感情では、商人たちや領事の感情の爆発は理解できますが、東海道を封鎖せよとか島津久光を処刑せよとかいう要求は無茶です。ニールの対応は、犯人追及と賠償要求で、軍事力を背景に戦争も辞さない強硬なものです。右に左に行動する領事の姿は、慎重なニールよりも信頼できるものに映ったことでしょうが、事態を前に進めたのは、結局はニールの外交交渉だった、ということでしょう。
(3) 薩摩藩側の対応もひどいものです。不逞浪人によるもので薩摩藩は無関係と言い繕い、次は岡野何某という架空の藩士をでっちあげ行方不明と言い逃れようとするなど、およそ責任ある対応とは言い難い。それに比べて、攘夷と事件とを切り離し、賠償金でまず事件の決着を図った幕府の老中格の小笠原長行の論理的で冷静な対応が光ります。
(4) 攘夷を決行した長州藩の現実は、当然のことながら、散々な敗戦でした。現地で戦争の無謀を説いた中島名左衛門の堂々たる論陣は見事ですが、これを面白くなく思い、テロで殺害した藩士たちは、おろかな暴発としか言いようがないでしょう。後に、英米蘭仏の手痛い反撃を受けたとき、中島名左衛門の暗殺を後悔し悔しがっても遅い、ということでしょう。

この上巻では、生麦村で起こったローカルな事件が、長州赤間関での戦闘を経て、いよいよ薩英戦争へと突入する歴史的な事件となる経緯が、実に説得力ある描き方となっています。思わず引き込まれる抜群の面白さです。

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吉村昭『光る壁画』を読む

2012年03月06日 06時01分38秒 | -吉村昭
この物語は、オリンパス光学による世界初の胃カメラ開発の過程をかなり忠実に追いながら、主人公とその妻の生活や感情については創作によって小説に仕立て上げたものだそうです。技術的な開発史をたどれば「プロジェクトX」になってしまいますが、女将の死去で旅館経営をまかされた若女将と、世界で初めての胃カメラの開発に熱中する技術者の夫との、別居生活によるすれ違いや葛藤などを織り込むことで、人間味ドラマとしての起承転結を構成しています。

主人公・曽根菊男は、戦時中はプロペラの回転に同期して射ち出せる機関銃の同調装置を開発していましたが、オリオン・カメラの技術者として働いています。そこへ、東大医学部附属病院分院の副手で外科医の宇治達郎医師から、胃の内部を撮影するカメラの開発協力を依頼されます。オリオンカメラの研究所の主任研究員であり、位相差顕微鏡の開発に当たっていた杉浦睦夫とともに、世界に例のない、胃袋の内部を撮影する光源つき小型カメラと、食道内に挿入できるフレキシブルな管と、空気を送り込んだりフィルムを巻き上げたり撮影角度を変更したりできる制御装置の開発に成功しますが、かんじんの胃の内部のどこを撮影しているのかがわからないと、診断や治療に役立てることはできません。この難問の解決は、偶然に電球が切れて暗くなった室内で、胃カメラを挿入した腹部の一部がピカッと明るくなったのを見たことがきっかけでした。このあたり、事実を丹念に取材し、ドキュメンタリーの手法で作品を構成する、吉村昭氏の得意とするところでしょう。

一方、週末になってもなかなか帰ってこない夫に、女でもできたのかと疑う妻の不安と葛藤や、欲求不満から思わず離婚を決意したような手紙を書いてしまい、驚いて夜通し歩いて戻って来た夫にすまないと思いながらも喜んでしまう妻の心情など、単身赴任経験者にはよくわかるエピソードもリアルです。

この作品は、以前、図書館から借りた単行本で読んでいます。テキストファイル備忘録から検索してみると、

$ grep "光る壁画" memo*.txt
memo-utf.txt:2002/05/14 『光る壁画』読了 吉村昭著『光る壁画』(新潮社)を読了した。東大の医学研究者とオリンパスの技術者による世界初のガストロカメラ(胃カメラ)の開発物語である。作者はドキュメンタリーを意図したものではないとし、企業名も主人公の名前も変えてあるが、開発の経緯はほぼ忠実に再現されているという。特殊な技術を持った町工場のつながりで、世界初の発明が誕生するさまは、技術というものを再認識させてくれる。

とありました。

たしかこの頃は、私も単身赴任中だったはず。そんな点からも、主人公と妻との微妙な関係に、共感できた面があったのかもしれません。
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吉村昭『逃亡』を読む

2011年11月19日 06時05分35秒 | -吉村昭
吉村昭著『逃亡』を読みました。文春文庫(新装版)です。

本作品の主人公、望月幸司郎は、福島の農村の次男坊で、霞ヶ浦の海軍航空隊で整備兵として地味な生活を送っています。ある日、兄の紹介で慰問に来た女性の招きで、川崎の自宅を訪問、楽しい時間を過ごしますが、帰りの上野駅では、土浦を通過する常磐線の終列車がすでに発車した後でした。翌朝の始発まで待っていては、過酷な制裁を受けなければなりません。水兵服を着て狼狽する彼を見て、ソフト帽をかぶった四十歳くらいの男が声をかけてきます。男の貨物トラックに乗せてくれるというのです。上野から土浦まで、手賀沼のふちを迂回するように走りながら、航空隊の見学はできるのかとたずねられ、幸司郎は「できる」と答えます。無事に隊に戻れた昭和18年の晩秋、ある日曜日の午後に、トラックに乗せてくれた男が面会に来ます。そして、航空隊を見学させてくれたお礼に、翌週の日曜に、ご馳走すると言います。知り合いもない幸司郎は、山田と名乗る男に親近感と信頼を覚え、男の知人が経営する繊維会社が製造し海軍に売り込む参考とするため、数日だけ落下傘を借用したいという頼みを、つい承諾してしまいます。

持ち出した落下傘を、約束どおり返してもらったものの、元の場所に戻す機会をうかがっているうちに、落下傘一個の不足が発覚、捜索が始まってしまいます。一つのボタンの掛け違いが別の不都合を生むように、落下傘の不足を埋め合わせるために、男に指示されたのは、九七式艦上攻撃機を燃やしてしまうというものでした。



名を変え、姿を変え、苦しい逃亡生活が始まります。しかし、生活はしていかなければなりません。逃げ込む場所は、軍属という名の、実態はタコ部屋というところで、残酷な監督が逃亡者に制裁を加える、過酷な労働の日々でした。しかし、それでも軍法会議と銃殺刑におびえる軍隊生活よりはましだったのでしょうか。敗戦の玉音放送を聞き、占領軍に保護を願い出ます。そして、さらに五年間、諜報工作員として占領軍に使われます。

プロローグの奇妙な電話は、戦後も心休まることのなかった望月幸司郎の日々をより効果的に表すべく工夫された、作家による小説的な想定なのだろうと思います。古くは高野長英や、昭和の脱獄囚など、逃亡記を得意とする作家の、この分野の代表作と言ってよいでしょう。

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吉村昭『回り灯籠』を読む

2011年07月22日 06時05分47秒 | -吉村昭
図書館から借りてきた本の二冊め、吉村昭著『回り灯籠』を読みました。随筆なんだか自作の小説の執筆レポートなんだかわからなくなるような、著者独特の随筆集です。内容的には、「回り灯籠」と「新潟旅日記」の二部に分かれており、それぞれ実に味わいのあるもので、うまいものだなあと感心します。

たとえば「未完の作品」という一編。立原正秋氏が新聞に連載小説を書いていたのだけれど、突然にガンが発見されて入院したとのことで、丹羽文雄氏の紹介で、続きの仕事を依頼されるのです。いわば、作家の指名代打のようなものですが、それがなんと十日ほどしか余裕がないとのこと。一度は断るのですが、一晩再考してほしいと頼まれます。
そこへ、紹介した丹羽文雄氏から電話が入ります。

氏は、ある作家が緊急入院し、わずか五日間しか余裕がなかったが、引き受けたと前置きして、
「作家は生身の人間で、だれでもそのように病気にとりつかれて筆をおかざるを得ないものなのだ。君でもそうだよ。立原君に心安らかに治療を受けてもらうため引き受けてやったらどうか」
と、しんみりした口調で言った。(p.19)

著者は、その一言で執筆を決意します。同世代の仲間に、後顧の憂いなく治療を受けてもらうべきだ、という判断だったとのこと。入院している立原氏からは、引き受けてくれたことを感謝している旨が伝えられますが、やがて逝去します。祭壇の氏の遺影を見つめながら、著者は、小説を未完で終えざるを得なかった無念を思います。そして、

いつかは私も、未完の作品をぽつんと残してこの世を去るにちがいない。

末尾のこの一行に、思わず頷いてしまうのです。
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吉村昭『暁の旅人』を読む

2009年11月16日 06時49分37秒 | -吉村昭
講談社文庫で、吉村昭著『暁の旅人』を読みました。順天堂病院の創始者・佐藤泰然の次男で、幕府奥医師の松本良甫の養嗣子となった松本良順の生涯を描いた、評伝風の作品です。作者の医家ものは定評がありますが、本書もまた、幕末の動乱を背景にした、重厚な物語です。

松本良順は、長崎の海軍伝習所にオランダから派遣された医師ポンペについて医学を学ぶことを、ようやく許されます。それは、オランダ語の医学書を解釈し知識を吸収するという、従来の蘭方医とは異なり、物理・化学、解剖学、病理学、薬学、内科、外科、眼科などを実地で学ばせる、体系的かつ実証的なものでした。

松本良順は、オランダ語会話を学ぶかたわら、熱心に医学を修得します。さらに、長崎において病院兼医学校を設立し、ポンペのもとで多くの蘭方医を育てます。やがて良順は江戸に戻り、幕府医学所の頭取として、医療と後進の育成に努めます。

しかし、時代の大きな変化は、大政奉還、明治維新と、それをよしとしない奥羽列藩同盟との戦争の方向に流れていきます。徳川幕府への忠節を願った良順は、家族を逃し、江戸から会津に逃れ、そこで戊辰戦争の傷病者の治療にあたります。銃砲による負傷に対する漢方医の誤った治療を正し、弾丸の摘出と消毒を教え、多くの命を救います。会津藩主・松平容保は、幕府医学所の頭取を勤めた良順の才能を惜しみ、会津落城の前に脱出を勧めます。米沢を経て庄内に至る経路は、東北南部をほぼ縦横断するものです。



庄内に到着し、湯田川温泉でリューマチを治療した良順は、榎本武揚ら旧幕府高官から誘いを受け、仙台に向かいます。そこで、幕府の軍艦とともに函館に同行を求められますが、尋ねてきた土方歳三のすすめで、ひそかに江戸に戻ることにします。横浜に潜伏するところを捕えられ、ほぼ一年半の禁固生活を送りますが、ようやく釈放され、家族のもとに帰ることができます。多くの資金提供を受けて、東京に洋式病院を建設するのですが、この一連の流れに登場する人物は、松平容保、近藤勇・土方歳三らの新選組や、榎本武揚、山縣有朋、陸奥宗光など多彩で、幕末の物語としても第一級の読みものです。

後年、陸軍の軍医部の前身に奉職しますが、脚気病には手が出ない場面も描かれ、これは後の高木兼寛を描く『白い航跡』(*1,2)に連なるところでしょう。また、榎本武揚に誘われる場面から、フランス医学を修めた外科医・高松凌雲(*3)と混同しそうになりますが、こちらは『夜明けの雷鳴』のほうです。

(*1):吉村昭『白い航跡』上巻を読む~「電網郊外散歩道」より
(*2):吉村昭『白い航跡』下巻を読む~「電網郊外散歩道」より
(*3):吉村昭『夜明けの雷鳴~医師 高松凌雲』を読む~「電網郊外散歩道」より
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吉村昭『歴史を記録する』を読む

2009年10月23日 06時24分54秒 | -吉村昭
図書館から借りてきた本で、吉村昭『歴史を記録する』を読みました。河出書房新社から刊行された単行本で、作家が12人の著名人と対談をした記録をまとめたものです。内容は、

作家の運命~吉村文学の今と昔  (大河内昭爾)
歴史に向きあう  (永原慶二)
杉田玄白  (三國一朗)
高野長英~謎の逃亡経路  (佐藤昌介)
歴史の旋回点~桜田門外の変  (小西四郎)
徳川幕府は偉かった  (半藤一利)
先が見えないときは歴史を見るのがいい  (松本健一)
敗者から見た明治維新  (田中彰)
歴史と医学への旅  (羽田春兎)
大正の腐敗を一挙に吹き出す~『関東大震災』をめぐって  (尾崎秀樹)
十一本の鉛筆『陸奥』爆沈のナゾ  (大宅壮一)
あの戦争とこの半世紀の日本人  (城山三郎)

既読作品が多いだけに、語られている内容もたいへん興味深いものがあります。最近、幕末史の関連で、徳川幕府有能説をよく読んでいるだけに、内容もよく理解できます。黒船来航の情報伝達の速度など、当時の交通手段等を考えれば抜群の速さで、ほんとに驚異的です。
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吉村昭『白い航跡』下巻を読む

2009年08月11日 06時12分34秒 | -吉村昭
吉村昭著『白い航跡』(講談社文庫)下巻は、英国留学を終えた高木兼寛が帰国するところから始まります。

第7章、明治13年11月、5年ぶりに帰国した兼寛は、家族が身を寄せている妻の実家に戻ります。義父に続いて、故郷の母と、東京では娘を亡くし、不幸が続いた年月でしたが、英国での留学生活は、学位とフェローシップ免状を授与され、優れた業績をあげた充実した日々でもありました。彼は、海軍省医務局に帰国報告を済ませ、日本での仕事に着手します。海軍病院付属の軍医学校とは別に、イギリス流の医学を教える民間の機関、成医会講習所を作り、不遇のウィリスの講演会を開催するなどに取り組みながら、英国ではなぜ脚気病患者がいなかったのだろうと考えるのでした。
そこで兼寛が採用した手法が興味深いものです。まず、実態としての発生状況を統計から調査し、明治11年には海軍兵員の約3分の1が脚気患者であること、発病と季節との関係や配属部署との関連もないこと、などを知ります。そして、注目したのは、軍艦の行動記録と発病状況でした。とくに、航海中は続々と発症する脚気患者が、外国の港に寄港中は発生が止むことに注目し、停泊時には、上陸した際の洋食が発病を抑えたのではないか。ひるがえって脚気病は、和食に原因があるのではないか。この時点では、まだ和洋食の比較のレベルであって、やはり因果関係が米に焦点化されてはおりません。脚気専門の漢方医・遠田澄庵の「脚気ハ其原(因)、米ニ在リ」という説は、やはり卓見です。
京城事変により、海軍は脚気病によりほとんど戦闘行動不能状態にあることが明らかとなり、対策が急がれますが、本質に目を向けず、周辺事象にのみ原因を求めようとするのは、今も昔も変わらないというべきでしょうか。
第8章、海軍の脚気病の蔓延は著しく、戦闘行動など不可能な状況にあることを憂え、海軍省医務局長に昇格した高木兼寛は諸方に自説を訴えますが、海軍兵食制度の根幹にかかわるために、例によって「予算が。」
財政当局は首を縦に振りません。しかし、明治天皇に奏上する機会を得て、ついに遠洋航海に出航する予定の軍艦「筑波」において、脚気病予防試験が実施されることになります。筑波の試験航海の間、極度の緊張のため、ほとんどノイローゼ状態になっていたときに届いた「筑波」からの一通の電報に、彼は救われます。

「ビョウシャ 一ニンモナシ アンシンアレ」

そしてそれは、海軍内から脚気病が一掃される端緒となったのでした。
また、この頃の兼寛は、看護婦教育所の設立に熱意を持って奔走しており、わが国初の看護教育のスタートと言えそうです。
第9章、米麦を混食するという改善により、海軍の脚気病患者は急減し、ついに死者はゼロになります。海軍全体が喜びにわき、兼寛は看護婦教習所の発足とともに満足感に浸りますが、東京大学医学部と陸軍軍医本部は、高木説は学理に基づかぬ妄説で、たまたま脚気病患者数の周期的変動で死者が減少したに過ぎないと攻撃します。ただし、同じ陸軍でも現場では違っていました。いくつかの部隊では、刑務所に脚気病の発生を見ないことをヒントに麦飯を支給し予防効果を上げていたのでしたが、陸軍中枢は麦飯推進者に対し報復人事を行います。この中心にあったのが、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳(ただのり)であり、これに学問的な装いで支えていたのが、ドイツ留学中の森林太郎(鴎外)でした。高木兼寛が英文で発表した論文が外国で高い評価を受けていても、ドイツ医学至上主義に凝り固まる国内ではいっこうに評価されない。兼寛は孤立感を抱きます。
第10章、兼寛の最大の論敵、森林太郎がドイツから帰国します。そして、その文章の力を持って、弱点を徹底的に攻撃されます。たしかに、まだビタミンが発見される以前ですから、麦飯が良いと実証的に明らかにしたものの、その因果関係が論理的に明らかにはなっていません。森林太郎はそこを突いてくるわけです。昭和になって水俣病の水銀説を攻撃した御用学者と同じ論理です。兼寛は海軍を辞任しますが、時代は日清戦争に突入、結果は犠牲者の数により、明らかとなりました。
■海軍では、脚気病による死者がわずかに1名であったのに対し、
■陸軍では、戦死者977名に対し病死者20,159名、脚気による死亡者3,944名
という状況でした。現場から上がる麦飯採用の稟議を無視して米食至上主義を貫いた陸軍兵站軍医部長は、そのころ鴎外というペンネームで文名が上がっていた、森林太郎でした。
第11章、海軍を退いた兼寛が、東京慈恵病院でおだやかな生活を送る頃、日露戦争が始まり、戦病者数はさらに悲惨な状況を呈します。日露戦争で出動した陸軍では、
■戦死者数約47,000名に対し、傷病者数は352,700名、うち脚気病患者は211,600名に達し、脚気による死者は27,800名
に及んだといいます。このとき、石黒軍医部長はすでに引退しており、後任の軍医部長には森林太郎が昇任しておりました。世論は、海軍の脚気病撲滅成功と比較して陸軍の惨状を問題視し、その責任を問います。高木兼寛に対し、誤れる説により世を惑わす学者と攻撃した森林太郎の責任は、脚気病死した陸軍兵士の家族から見れば、まさに万死に値するものでありましょう。
第12章、残念ながら、高木兼寛の晩年は、みそぎに凝るなどいささか神がかりで、だんだんおかしくなってきます。このあたりは、残念というよりはむしろお気の毒。晩節を汚さず生涯を全うするのは、なかなか難しいようです。

陛下の忠良なる軍隊に粗悪なる麦飯を食わせるとは何事か、と主張する陸軍中枢の論理に対して、明治天皇自身が脚気に悩み、愛娘を脚気病で失っており、麦飯を採用していたという皮肉。文豪・森鴎外の現実の姿は、なんともひどいものです。ドイツに女性を置き去りにした道義的責任などよりも、大量の戦病死者を続出させた張本人として、現代ならば厳しく法的責任を問われるところでしょう。高木兼寛の業績は、鈴木梅太郎のオリザニンの発見、そして世界中で各種ビタミンの発見へと導きます。
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吉村昭『白い航跡』上巻を読む

2009年08月04日 05時37分26秒 | -吉村昭
就寝前に少しずつ読んできた吉村昭著『白い航跡』上巻(講談社文庫)を読了しました。たぶん、五度目か六度目くらいの再読です。何度読んでも面白く、その都度発見があり、飽きることがありません。

第1章、鳥羽伏見の戦いによって開始された幕末の内戦は、戊辰戦争として拡大され、新政府軍は奥羽全域を支配下に置くために、追討戦を展開します。本書の主人公・高木兼寛は、薩摩藩小銃九番隊付の医者として従軍していた、20歳の青年でした。平潟に上陸し、会津若松での激しい戦闘を経験し、戦のむごさを身をもって体験すると同時に、銃創に対し漢方医の無力を痛感します。
第2章、戦が終わり、薩摩での師・石神良策を訪ね、英人医師ウィリスらの西洋医学の優越を痛感した兼寛は、父母の住む故郷に帰ります。
第3章、兼寛は、医師になりたいという希望を叶えてくれた大工の両親に孝養を尽くそうとするのですが、向学の念やみがたく、鹿児島に新設された開成所において英語を学びます。一方、中央では、英国医学ではなくドイツ医学を中心とすることが決定され、戊辰戦争で功績のあったウィリスの待遇が問題となります。そのような事情から、鹿児島に水準の高い医学校の開設が図られるのです。
第4章、開成所で英語の学習に明け暮れていた兼寛は、師・石神良策がウィリスを中心として鹿児島医学校兼病院を開くことを聞き、入学を希望します。幸いにも、従軍歴と英語力を認められ、入学を許可されて、ウィリスの下で頭角を現します。やがて、東京に出ていた石神から、海軍に来いとの誘いを受け、ウィリスにも相談の上、海軍に出仕することになります。それは、故郷と父母への別れでもありました。このあたり、しみじみとした情感にあふれた部分です。
第5章、海軍病院は、実証的なイギリス医学を範とし、東京帝大及び陸軍は、学理を中心とするドイツ医学を信奉しています。兼寛は海軍病院に勤務するかたわら、師の石神から英学者・瀬脇寿人の娘・富を紹介され、結婚します。生活は平穏で、一女幸を得たころ、兼寛は海軍における脚気病問題に注目するのでした。
第6章、海軍病院に軍医学校が併設され、英国人ウィリアム・アンダーソンが着任、ウィリスの下で英語と医学を修めていた兼寛はアンダーソンと親交を結び、その信頼を集めます。故郷の父親の死に驚き帰郷しますが、母は故郷に留まり暮らし続けることを希望します。これは正解ですね。老木を移植しても枯れるばかり。やはり根づいた土地が一番なのでしょう。やがて、石神の勧めとアンダーソンの推薦により、兼寛は英国に留学することになります。行く先は、アンダーソンの母校、セント・トーマス病院付属医学校です。義父の瀬脇寿人も喜び、妻も理解を示しますが、石神良策が倒れ、死去します。海を渡り、ロンドンに到着した兼寛は、生活を切り詰めながら勉学に励み、優秀な成績をおさめます。彼は、目にしたセント・トーマス病院の優れた仕組み、貧困者への医療費無料化や、看護婦養成などの価値を高く評価しますが、日本からの報せは薩摩での西南戦争の経緯であり、故郷の母の死去の報でした。さらに大久保利通の暗殺、義父の瀬脇寿人の死去と続きます。英国におけるフェローシップ免状の授与の栄光を土産に、兼寛は帰国のため船上の人となるのでした。

この物語は、著者が綿密な取材をもとに書き上げたものであり、医学修行における努力と栄光の半面の、家庭的な不幸が、作り事でないリアルな陰影を生み出しています。重厚な物語です。
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吉村昭『私の文学漂流』に見る作家夫婦のあり方

2009年04月28日 06時16分47秒 | -吉村昭
以前、吉村昭氏の未発表原稿が発見されたことを契機に、「小説新潮」誌が特集を組んだことがあり、そのときに、氏の書斎の写真に触れて、夫人の津村節子氏との関係を推測したことがありました(*)。本書『私の文学漂流』(ちくま文庫)で、吉村昭氏による夫婦作家誕生の秘話を読み、これに対する解答を知るとともに、たいへん清々しい感銘を受けました。

結核療養歴のある若い大学生の青年が、短大を出て女流作家を目指す若い女性と同人雑誌で知り合い、やがて正式に結婚を申し込みます。先輩夫婦作家の離婚を例に、小説を一生書きつづけていくために結婚はしないつもりだと断られますが、氏は妻が生涯の仕事と考えているものをはばむつもりはないと答え、やがて二人は結婚します。若い二人の貧乏暮らしはあぶなっかしく、病気をしなかったのが不思議なほどです。

職業作家として暮らしを立てるのは難しく、しばらく奮闘した後に、夫は生活のために再び会社勤めに戻り、作品の発表数は激減します。そんなとき、妻の津村節子さんが芥川賞を受賞。妻は夫に、「会社を辞めたら」と言います。夫が生活のために会社の仕事に追われ、このまま小説が書けなくなってしまうことを恐れての言葉でした。氏もそのことを痛感しており、やがて会社勤めを辞める決意をします。このあたり、単に夫婦の関係というよりも、なんとなく同志を気遣うような気配もあります。

それにしても、夫人の受賞をきっかけに取材に訪れた婦人雑誌の記者のインタビューには恐れ入ります。

「芥川賞候補に四回なられて落選し、奥さんが受賞されて、どんなお気持ちですか」

ここまでは仕方がないかも。しかし、

「離婚するのではないか、という噂がもっぱらです。離婚なさるのではないですか」

というのは、婦人雑誌のインタビューとしては核心なのだろうとは思いつつ、雑誌記者というのは腹立たしく因果な商売だなぁと思ってしまいます。これに対する氏の対応は率直で明快ですが、記者は納得していないようです。たぶん、「芸術(文学)と夫婦生活は両立しない」と考えていたからでしょう。

昔の人は、とくに明治~大正期に生を受けた世代の人たちは、芸術を生活よりも上に置き、芸術のためならば生活を犠牲にすることも厭わず、という覚悟を是とする人が少なくなかったような印象を持っています。しかし、吉村昭氏や藤沢周平氏の作品などに見られるのは、日々の生活こそが大切なのであり、芸術はその中で営まれるものの一つだ、という感じ方です。肺結核との闘病生活や、戦争と敗戦期の苦しい生活、あるいは家庭的な不幸や不遇などの共通点もありますが、「芸術(文学)のために離婚も辞さず」という人たちとは異なる価値観を感じます。

夫婦で一緒に生活している。そして夫婦ともに作家であって、生活上の工夫はするが、どちらかが一方的に犠牲になるのではない。そういう作家夫婦のあり方が、この雑誌記者には、おそらく理解できなかったのでしょう。



(*):小説新潮が吉村昭特集~「電網郊外散歩道」2007年4月の記事
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