電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

「蝉しぐれ」の終わり方

2007年08月31日 06時24分30秒 | -藤沢周平
地元紙「山形新聞」夕刊には、木曜日に藤沢周平の没後10年を記念する特集記事が掲載されています。この内容がたいへん充実していることは、以前書いた(*)とおりです。今週は、作家の池上冬樹氏が黒土監督の映画「蝉しぐれ」を取り上げ、ひとつだけ、「原作と異なる場面がクライマックスにある」ことを指摘しています。

原作では、最終章「蝉しぐれ」において、藩主と死別した40代のお福さまが、今は郡奉行となり牧助左衛門を名乗る文四郎に手紙を送り、二人は二十数年ぶりに再会します。そして、例の「あのひとの白い胸など見なければよかった」という場面になりますが、黒土監督の映画「蝉しぐれ」ではこのシーンを描くことを避け、原作にない、駕籠の格子から目で最後の別れをする場面としています。池上冬樹氏はこの選択を支持し、藤沢周平が原作でなぜ生々しい男女の抱擁と接吻の場面を描いたのか、「海鳴り」の愛の形や「逢びき」等の洋画(恋愛映画)の結末の影響などとして、その要因を推測しています。

ここからは私の考えです。実は、黒土三男監督は、映画「蝉しぐれ」を制作する前にも、NHKの金曜時代劇「蝉しぐれ」の脚本を書いています。このときは、お福様と助左衛門の対面に続く濡れ場を、かなり象徴的ではありますが、しっかりと描いていました。しかし、視聴者の反応は二分されたようです。黒土監督はこのことを頭に入れて、ラストの別れの場面を構想したのではないか。

原作は文芸作品ですので、読者が一人で場面を想像し、ひそやかに楽しむことができます。したがって、どんなに色っぽい場面であろうと、かまいません。ところが、テレビや映画は、リアルで生々しい。そこでは、原作と同じように再現することが、必ずしも原作の味わいを生かすことにはならない場合が出てくるからではないでしょうか。原作から初恋の要素を切り出して見せた黒土監督の映像作品「蝉しぐれ」は、原作に流れる、美しい人妻たる矢田淑江の色香や、中年になって再会したお福様への「愛憐の情」など、物語の厚みを構成する多様な要素をそぎ落とすことで、成り立っているように思います。

(*):藤沢周平の転機~蒲生芳郎氏の追憶より
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映画化された藤沢周平作品

2007年08月30日 06時16分18秒 | -藤沢周平
先日、日曜ロードショウで放映された、黒土三男監督の映画「蝉しぐれ」の録画を見ました。先年、公開日の初日に見に行き、いくつかの記事にしておりますが、あらためて映像の美しさを再認識しました。

もちろん、原作のストーリーはだいぶはしょられており、物語性を重視するならば、たぶん「えぇー、そんなぁー」という感想を持つことでしょう。ただ、NHKの金曜時代劇で放送された「蝉しぐれ」は、45分×7回シリーズ、計5時間以上を費しても、ストーリーの重要な部分を割愛せざるを得なかった。ですから、ストーリーをある程度忠実に再現するには、韓国ドラマなみの1時間×8回連続とか、45分×10回連続くらいの時間枠が必要なのだと思います。

自宅のテレビの画面では、劇場のスクリーンの迫力は出ませんが、それでも映像の美しさは格別です。少年達のセリフの棒読みも、それほど抵抗はありません。むしろ気になったのは、文四郎が父の遺体を運ぶシーン。梶棒があんなに上下しては、遺体がずりおちてしまうのではないかと、ちょっと気になりました。また、ふだんテレビを見ない者には、途中挿入されるCMが、いかにも唐突に感じました。

ところで、近年、藤沢周平作品の映画化が続いています。山田洋次監督の三部作、「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」「武士の一分」に続き、今度は篠原哲雄監督が「山桜」を制作中とのことです。これも、たいへん楽しみです。

「たそがれ清兵衛」で、周囲に嫌われるほど不潔にしていたら、少女が父親を嫌うだろうにとか、なぜ山田監督は、「隠し剣鬼の爪」ばかりでなく、事態の解決を北海道(蝦夷地)に求めるのか、とか、いろいろと突っ込みどころは多いのですが、映画がきっかけとなり、多くの人が藤沢周平作品に親しむのならば、それもよしとすべきでしょう。
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レハール「メリー・ウィドウ」を聴く(2)

2007年08月29日 05時31分36秒 | -オペラ・声楽
ロベルト・シュトルツ指揮ベルリン交響楽団の演奏で、オペレッタ「メリー・ウィドウ」のCDの続きを聴いています。

第3幕は、ハンナの家の中。ダニロの真情を知ったハンナは、なんとかダニロの心を動かそうとしますが、ダニロはプライドにこだわり、愛する気持ちを伝えられません。聴衆はやきもき、舞台は膠着状態。こういうときに、狂言回しは三枚目役と決まっています。妻ヴァランシェンヌとパリの伊達男カミーユとの仲を疑ったゼータ公使は、妻を離縁しハンナに求婚すると宣言します。ところが・・・・。この解決は、一種のとんちですね。西洋版「一休さん」でしょうか。

第3幕の二重唱、「唇は黙し、ヴァイオリンは囁く」では、思いきりロマンティックに、歌い上げます。だからこそ、ハンナが一文無しになるとわかったとき、すぐにダニロは彼女に愛を告げることができたのでしょう。そして、終曲の合唱の解放感!

指揮のロベルト・シュトルツは、「忘れな草/別れのワルツ~世界のワルツ集」というCDを残しています。これまでも通勤の音楽として記事(*)を書いていますが、なんとも粋な音楽を聴かせてくれる作曲家であり、まさに20世紀のワルツ王です。

そういえば、バーブラ・ストライザンド主演のミュージカル「ハロー・ドーリー」も、立場は違いますが、未亡人ものでした。傑作オペレッタと傑作ミュージカル。楽しさは共通ですね。列車が走るあのダンスシーンは素晴らしかった。ひさしぶりに、LDで「ハロー・ドーリー」が見たい。

(*):「今日の通勤の音楽は」~電網郊外散歩道より
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レハール「メリー・ウィドウ」を聴く(1)

2007年08月28日 05時58分33秒 | -オペラ・声楽
オペレッタの楽しさは、ずっと前から知っていたわけではありません。むしろ、レーザーディスクでオペラに親しむようになってから4~5年たった頃、NHK-FMの放送でたまたま聴いた二期会公演「メリー・ウィドウ」が楽しかったためだ、と記憶しています。

バブル景気まっただ中の1989年、2月13日と14日の2日間の放送は、佐藤しのぶさんがハンナを演じた日本語公演でした。ポンテヴェドロ国の大臣だか男爵だかが、某国から「ピーナッツ」をもらったというようなくすぐりに、聴衆がどっと笑う場面などもあり、愉快なセリフとコケットリーがいっぱいつまった音楽、オペレッタとは楽しいものだと実感したものでした。二本のカセットテープにエアチェックした録音、今もときどき聴いています。

ですが、今回はCDで。ロベルト・シュトルツ指揮ベルリン交響楽団の演奏、1966年11月、ベルリンでの録音(DENON COCQ-83175/6)です。日本語公演で粗筋はほぼ頭に入っています。そのため、ドイツ語の会話も、なんとなく「あの場面だな」と推測できてしまいます。

第1幕、舞台はパリ、ポンテヴェドロ国公使館。1国の全財産を支配するような大金持グラヴァリが死去し、その財産を受け継ぐ未亡人ハンナがパリの伊達男と再婚するようなことになれば、国が破産するといいます。公使館の書記官ダニロは、かつてハンナと愛し合った仲。しかし、過去にとらわれ、財産目当てと言われることを嫌い、愛していると言えません。ハンナも同じです。やきもきの間柄をさらに複雑にする、ゼータ男爵とその妻ヴァランシェンヌという仕掛けもたっぷり。

第2幕、ハンナの家の庭園。ポンテヴェドロ風の夜会が開かれます。公使夫人ヴァランシェンヌにしつこく言い寄るキザなパリジャンのカミーユをとっちめようと待っていた公使が、なんともおかしい。お芝居なのに、またも裏切ったとハンナをなじるダニロの怒りに、ハンナはダニロの真情を知るのです。

ヴィデオディスクと違い、CDは映像がなく音だけです。ですが、音楽の力は大きいものがあります。昔あるところにヴィリアという森の妖精がおりました、と歌う「ヴィリアの歌」には、思わず「待ってました!」とかけ声をかけたくなります(^o^)/

配役は、

ゼータ男爵 ベンノ・クッシェ(Bas)
ヴァランシェンヌ ドロアテ・クリスト(Sop)
ダニロ・ダニロヴィッチ伯爵 ルドルフ・ショック(Ten)
ハンナ・グラヴァリ マルギト・シュラム(Sop)
カミーユ・ド・ロション シェリー・J・ジェニングス(Ten)
ニェグシ フェリー・グルーパー(Ten)
カスカーダ子爵 クラウディオ・ニコライ(Bar)
ラウール・ド・サン・ブリオシュ ジュリウス・カトナ(Ten)

合唱指揮はヴァルター・ハーゲン・グロル、ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団によるもの。たいへんに楽しい演奏です。
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取材(?)に適したボールペンとブログ記事

2007年08月27日 06時36分51秒 | 手帳文具書斎
演奏会のプレトークを記録したり、講演の要点を書き留めたりするには、ひっかかりなくすらすら書ける筆記具を用いることが前提です。B6判やA6判などの小さなノートを広げ、ひざの上で単語をなぐり書きしていきます。罫線をはみだしたり、前の行にかかったりするのは全くおかまいなし。とにかくすらすら書ける筆記具が望ましい。

こんな用途に、私が愛用しているのは、三菱鉛筆の Jetstream です。書き味がすらすらスムーズで、ほとんど抵抗を感じません。もしかすると、速記の速さに追従できるのではないでしょうか。鉛筆のように紙をこするような音がしませんので、演奏会のステージ上の楽器配置などを図解するにも便利です。

単語の羅列とステージ上の楽器配置の図解をもとに、パソコンに向かいます。メモに残る単語をつなぎ、文章にしていきます。不明な点は、WEBで調べて追加することもあります。演奏会の記事など、こんなふうにして書いています。

写真は、愛用のボールペンのクローズアップ。中央に見える黒のパワータンクは、上向きで書いてもインクが途切れないというすぐれもの。これも、愛用しています。娘が髮をまとめるのに使う太めの布ゴムバンドをくれましたので、束ねて何本か持ち歩いています。
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山形交響楽団第183回定期演奏会を聴く~「浄夜」と「田園」

2007年08月26日 07時18分46秒 | -オーケストラ
8月25日の土曜日、山形県民会館で、山形交響楽団第183回定期演奏会を聴きました。指揮は、2000年から数えて五回目の登場という、首席客演指揮者の阪哲朗(ばん・てつろう)さん。プレ・コンサート・トークでは、常に新しいものを求める山響の姿勢に共感を示し、特に飯森範親さん就任後、方向性が定まったように感じる、とのお話でした。
今回のプログラムは2曲だけで、シェーンベルクの「浄夜」とベートーヴェンの交響曲第6番「田園」という渋いものです。阪さんの話では、「田園」交響曲を若い指揮者はやりたがらないのだそうです。第5番や第7番のような力強さだけではいかない。ある意味で内向的な喜びと感謝を表さなければいけないからでしょうか、とのこと。シェーンベルクは、文章で言えば「・・・です。」と言い切らない、どこまでも続くような無調の音楽や、十二音技法を作った人です。この「浄夜」という曲は、調性音楽にピリオドを打った、と位置づけられる曲ではないか。耳あたりは良いし、きれいな音楽です、とのこと。
ベートーヴェンの「田園」と言うけれど、もともとの標題は「パストラーレ」、「牧歌」であって田んぼじゃありません。ウィーンの風ということで、小鳥の声もあり、スカッとさわやかな田園になれば、とのことでした。

第一部、弦楽セクションの登場。みなさん、黒のドレスにタキシード姿です。指揮台をはさんで第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが並び、その奥に左側がチェロ、右側がヴィオラが配置されています。コントラバスはいつもの反対側、左手奥に並びました。
シェーンベルクの「浄夜」は、オリジナルの弦楽六重奏ではなく、後に作曲者自身が改作した弦楽合奏版です。なんともいえない求心的な演奏。最後の余韻が静かに消えて行くのを待って、最初にためらいがちな拍手、そして指揮者の手が完全に下がるのを待っていたかのように大きな拍手。う~ん、生の演奏で「浄夜」を聴けるとは思わなかった。それだけでも充分満足ですが、演奏も弦楽セクションの意気ごみを感じました。

休憩の後、ベートーヴェンの「田園」です。配置はやはりコントラバスが左に位置するのはシェーンベルクと同じですが、今度は正面奥に木管、金管、右にティンパニが入って、いつもの山響フル出演。
第1楽章、田舎へ着いたときの愉快な気分。県民会館の椅子の固さも忘れ、心地よい気分に浸ります。
第2楽章、小川のほとりの場面。ほんとに標題音楽らしい楽章。木管楽器で小鳥の声を模したところなど、聴いていて楽しいし、演奏者を見ていても楽しい。
第3楽章、村人たちの楽しい踊り。スケルツォ楽章。
第4楽章、雷と嵐。演奏中にティンパニ奏者が張りを確かめ、音程を調整している様子がよく見えて、嵐の場面が視覚的にもよくわかります。
第5楽章、牧歌-嵐の後の喜びと神への感謝の気持ち。たしかに、力強いベートーヴェンは音楽の力から表現しやすいのでしょうが、喜びと感謝の音楽は、若さにまかせた音楽作りからは難しいのかもしれません。

拍手が続き、今回はアンコールが出ました。「ピチカート・ポルカ」です。「田園」で文字通り「嵐のように」活躍したティンパニ奏者が、今度は小さなグロッケン(というのかな?)で小味の利いた演奏を披露、聴衆も大喜びで、皆さん満足して帰宅の途につかれたことでしょう。副題どおり「ウィーンの風」を感じた、いい演奏会でした。

今回は、帰省中の息子と出かけましたが、充分に満足した様子、帰宅して私のCDコレクションから、ブーレーズ/NYPの「浄夜」とスウィトナーの「田園」を取り出して聴いていた模様です。山響ファンがまた一人増えました(^o^)/
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モーツァルトのオーボエ協奏曲を聴く

2007年08月25日 06時58分47秒 | -協奏曲
Brilliantの「Romantic Oboe Concertos」に収録された、モーツァルトのオーボエ協奏曲を聴いております。

Wikipedia 他の資料によれば、この曲は1777年頃の作だそうで、21歳のモーツァルトがザルツブルグの大司教のもとから飛び立ち、就職運動のためにミュンヘンやアウグスブルグ、あるいはマンハイムに旅をする時期のものだとのこと。特に、マンハイムの宮廷楽団が、編成の上でも技倆の上でも立派なものだったようです。この曲も、当時マンハイムの宮廷楽団に滞在していたフェルレンディスというオーボエ奏者のために書かれたものらしい。

編成は、独奏オーボエとオーケストラということになりますが、オーケストラといってもフル編成ではなく、オーボエ2本とホルン2本、あとは通常の第1・第2ヴァイオリンとチェロとコントラバスというものです。金管楽器はもちろん、フルートもクラリネットもありません。なるほど、それでこういうひなびた響きになるわけですね。

第1楽章、アレグロ・アペルト。オーケストラの序奏のあと、登場するオーボエのロングトーンがたいへんに印象的で、そのあとの駆け回るようなオーボエソロとの対比も見事です。
第2楽章、アンダンテ・マ・ノン・トロッポ。21歳の若者の、夢見るような優雅な緩徐楽章です。後年の深さはまだありませんが、無邪気な若い娘さんを眺めるような楽しさがあります。
第3楽章、ロンド:アレグレット。最初からオーボエソロが縦横に活躍します。軽やかなオーボエ・テクニックを披露する楽章ですね。若いモーツァルトらしい、軽快なロンドです。

演奏は、Bart Schneeman(Ob), Lev Markiz(cond.), Amsterdam Nieuw Sinfoniettaとクレジットされています。バート・シュネーマンと読むのでしょうか、達者なオーボエ奏者のようですが、どんな経歴の人なのか、残念ながら情報を持ちません。いずれにしろ、Brilliantのニ枚組(99525)は、けっこう楽しめました。

昨日は、終日会議とデスクワークで、一日の歩数は3000歩にも満たず。これではならじと、夕食後に妻と散歩に出ました。田んぼを吹き渡る夜の風が涼しく、稲穂も実って頭を垂れており、40分ほどの気持ちの良い散歩でした。合計で、約8000歩。写真は一ヶ月ほど前の旧松山町付近の水田。ラジコンヘリで空中散布をしておりました。

さて、今日は県民会館で山響定期の予定。シェーンベルク「浄夜」とベートーヴェンの「田園」交響曲です。

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飯嶋和一『雷電本紀』を読んでいます

2007年08月24日 05時25分32秒 | 読書
小学館文庫で、飯嶋和一著『雷電本紀』を読んでいます。作者は山形県出身の同世代、たいへん親しみを感じます。題材は江戸期の一揆・打ちこわしを背景としながら、相撲の世界から取ったもの。特に、取組の描写は映画のスローモーションを見るような文章で、思わず溜息が出るほどです。
ただいま、蒼龍編の最後、図抜けた体格と聡明さを持つ太郎吉をこのまま手元で育てたならば、必ず争いごとや百姓一揆で世と衝突し不幸になるだろうと、半右衛門がただ一人の息子を手放す決意をする場面。不覚にも涙腺がゆるみました。
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いつ記事にできるかなぁ

2007年08月23日 06時43分00秒 | クラシック音楽
ふだんからよく聴いているのに、日常的すぎてブログの記事にしにくい曲、というのがあります。とりたてて書くことが思い付きません。取り上げる角度が決まると、いつでも書けそうに思うのですが、さて、いつ記事にできるかなぁ、という音楽のリストです。

モーツァルト 交響曲第40番、41番
シューベルト ピアノ五重奏曲「鱒」
J.S.バッハ 幻想曲とフーガ
ベートーヴェン ピアノソナタ第14番「月光」

う~ん、並べて見ると、超有名曲ばかりだなぁ。有名曲は意識して書こうとすると難しい、ということか。

今朝は、爆睡11時間!よく寝ました、と自分をほめて・・・そんなもん、ほめてどうする(^o^)/
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ほとんど疲労困憊で帰宅

2007年08月22日 19時31分24秒 | Weblog
1泊2日の出張を終えて、ほとんど疲労困憊で帰宅しました。帰路、あまりの眠さに耐えられず、車を寄せてほんの少し仮眠。気温が24度と涼しく、助かりました。不思議なもので、以後、運転はスムーズでした。

車中で聴いた音楽は、先日例の某中古書店で見つけたロイヤル・フィルハーモニック・シリーズのベートーヴェン「フィデリオ」序曲と交響曲第三番「英雄」、@250也。ギュンター・ヘルビッヒ指揮。ほとんどエンドレスに、反復して聴いておりました。

さて、もう寝ます。今日は、読書も音楽もお休みです。
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ネコに言ってもわからない話

2007年08月21日 06時30分14秒 | Weblog
30歳前に帰ってこいという父親との約束を果たし、故郷にUターンして、もう四半世紀を超えました。十代の頃は、都会の文化的な高さに憧れ、田舎が住みやすいとは思いませんでした。でも、故郷には、大人になって住んでみてわかる田舎の良さが、たしかにあります。

(1)土地が広く、どこに行っても無料の駐車場があることが暗黙の前提。車で出かけるのにはしごく便利。
(2)空気と食べ物が美味しい。野菜、果物、漬物、山菜、そば、ラーメン、肉、お米と日本酒、庄内の魚介類。ワインは思わぬ収穫だった。
(3)音楽文化の充実した水準。山響(山形交響楽団)、最近は山形弦楽四重奏団等の室内楽も。
(4)映画。独立系映画館「フォーラム」の独自性。商業主義と無縁のいい映画もけっこう来る。
(5)散歩の楽しさ、混雑しないことのぜいたくさ。
(6)温泉。どの市町村に行っても温泉がある。いつも車に入浴セット一式を積んでいる人が珍しくない!
(7)田舎の慣習の合理性の発見。一見不合理に見える田舎の慣習も、相互扶助と治安という意味があることに気づく。

おっと、もう一つありました。「自由にネコが飼える」!
写真は、重ねた毛布の上にしいたネコよけ新聞紙の上に寝そべるわが家のアホ猫。おまえは、ほとんど交通事故の心配のない「ど田舎」に生まれて、ほんとに良かったね。

さて、今日と明日は出張です。ネコとも遊べません(^o^;)>poripori
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映画「魔笛」の上映予定は

2007年08月20日 06時10分55秒 | 映画TVドラマ
昨日は、孫二人の子守り。体力が必要です。腕に抱いていると、いやー、ずっしりと重いです。

さて、映画化されたモーツァルトの歌劇「魔笛」は、これまでベルイマン監督の作品を一度だけ見たことがあります。銀座のヤマハ・ホールで、1970年代末のことだったと思いますが、記憶がもうさだかではありません。ただ、ホームビデオやビデオディスクなどでオペラを楽しめる以前の話。初めて見たモーツァルトの歌劇にあたり、場面や内容はよく覚えています。夜の女王の登場までは、子供向け映画みたいだと思いましたが、夜の女王の登場からはドラマティックな要素が強くなりました。ザラストロのもとで無言の修行をする場面は、なんだかいまひとつというのが率直な感想。今風に言えば、18世紀のSFファンタジー・オペラだったのでしょう。

で、近頃になって再び「魔笛」の映画化の話を知りました。東京ではすでに先行上映されているとか。冬に見た「敬愛なるベートーヴェン」も、こちらのブログ(*)での紹介がきっかけでしたが、このたび、またもや「魔笛」の映画化の話。さっそく当地の独立系映画館「フォーラム」のWEBサイトをチェックすると、山形フォーラムで、9月1日(土)より公開予定とのこと。これは楽しみです。

(*):魔笛 ~「lair」より
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マーラーの交響曲第7番「夜の歌」を聴く

2007年08月19日 07時37分33秒 | -オーケストラ
暑い暑いと言っていても、例年の通り、お盆を過ぎたら急に涼しくなりました。朝晩は24度とか26度とか、エアコンなしでも快適な気温です。大きなオーケストラ作品を聴こうという気力も生じます。マーラーの交響曲第7番「夜の歌」をとりだしました。CD1枚に収まる便利さ、ラファエル・クーベリック指揮、バイエルン放送交響楽団の演奏です。

1960年代に、バーンスタインが精力的にマーラーの交響曲を録音し発表していた頃、和田則彦さんあたりが、この交響曲に出てくるギターだかマンドリンだかの音を聴くのが楽しくて、と紹介していました。それが印象的で、どんな曲なのか一度聴いてみたいと思っていたところ、初めて聴いたのが、たぶんこのクーベリック盤LP(G MGX-9929-30)だったと思います。その後、CDを見つけて購入、携帯CDプレイヤーでも楽しめるようになりました。通勤のお供に、夏の夜の散歩に、しばらく好んで聴いております。

わりに速目のテンポで、ときどき金管をやや蓮っ葉に鳴らし、あまり深刻にならずに、前作に比べて楽天的で健康なこの曲の楽しさを聴かせてくれます。曲全体のバランスも統一性があり、一部だけが突出したりしていませんから、終楽章の明るさも違和感はありません。1970年11月にミュンヘンで収録されたアナログ録音で、安心して聴くことができる演奏だと思います。
第1楽章、ゆっくりと(アダージョ)~アレグロ・リゾルト、マ・ノン・トロッポ。
第2楽章、アレグロ・モデラート。「夜の曲」。
第3楽章、スケルツォ、(影のように、流暢に、ただし速くなく)。
第4楽章、「夜の曲」、アンダンテ・アモローソ(愛をこめて)。
第5楽章、ロンド・フィナーレ(アレグロ・オルディナリオ)。

気がついたこと。タイトルは "Lied der Nacht" となっていますが、第2・第4楽章の副題は "Nachtmusik" になっています。英語で言えば、"Song of the Night" と "Night Music" の違い。「大地の歌 "Das Lied von der Erde"」の例もあるので、この大きな交響曲を「歌"Lied"」と称するのはまあいいとしても、ちょっと気になります。

エリアフ・インバル盤(DENON 60CO-1553-4)は、全体としてゆっくりとした遅いテンポで、堂々たる大交響曲という感じで演奏しています。特に第1楽章の粘りは秀逸です。ただし77分を超えてCD2枚になってしまったために、全曲の流れを通して聴くのには不便です。このあたりの収録時間と演奏時間の矛盾は、しかたがありません。
1986年5月、DENONとヘッセン放送協会との共同制作による、たいへん優れたデジタル録音です。部屋のステレオ装置で音量を上げてもうるさくならず、携帯CDプレイヤーでイヤホンで聴いても歪的な音はありません。

■クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
I=19'42" II=14'46" III=9'24" IV=12'01" V=16'40" total=72'33"
■エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団
I=22'36" II=14'40" III=10'21" IV=13'13" V=16'49" total=77'39"
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新しいイヤホンを購入する

2007年08月18日 09時10分27秒 | Weblog
息子が帰省して、青春18切符の残りを使おうと、友人宅をめぐる旅行を計画しているようです。使っていないカメラはないかと聞かれたのですが、さすがに一眼レフをあげる太っ腹はありませんで、量販店でコンパクトなデジカメを買ってあげました。ついでに、ちょうど見つけた首かけタイプのイヤホンも購入。

今、愛用している携帯型のCDプレイヤーには、イヤホンが付属しておりましたが、長いケーブルが絡まり、取り出したときに、聴き始める前に絡まりをほどくという儀式が必要でした。LPをクリーナで拭く儀式と変わりないほどの時間がかかり、便利なCDを聴くのにはそぐわないと感じます。また、ケーブルの重みで、イヤホンがぽろりと落ちて来るのも困ったものです。

購入したのは、パナソニックのRP-HNJ300という、「ステレオインサイドホン」という名称の製品です。3,980円。特徴は
(1) 首かけ型。ネックレスのように後ろで留めるのではなく、クローバーの花輪のように頭からかぶって首にかける方式です。左右のイヤホンは、輪の途中から耳までの長さの細いケーブルが出ています。首にかける輪が太さがあるので、ケーブルがからまりにくいのもありがたいです。
(2) 昔のイヤホンのように外耳道まで挿入する、密閉型インサイドホンです。途中で落っこちる可能性は低いようです。

で、肝心の音は?
けっこう落ち着いた音で、クラシック音楽も充分に楽しめます。マーラーの交響曲第7番「夜の歌」の第4楽章、ギターやマンドリンの音が、繊細に聴き取れます。もちろん、お腹に響く重低音は無理ですが、夏の夜の散歩にはありがたいものです(^_^)/
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黒田恭一『はじめてのクラシック』を読む

2007年08月17日 05時02分00秒 | 読書
講談社現代新書で、黒田恭一著『はじめてのクラシック』を読みました。初版刊行は昭和62年、当時、著者は音楽評論家としてちょっと変わった立ち位置で活動していたように思います。当時の音楽評論家というと、吉田秀和氏が大御所として高みを守り、中島健蔵氏や遠山和行氏、大木正興氏などの諸氏が現役で活動していた頃です。当時、黒田氏は、少々てらいのある文体で、周囲がカラヤン指揮ベルリンフィルの演奏をほめないときでも、その演奏の美しさを率直にほめる、数少ない評論家でした。執筆の場も広く、雑誌「暮しの手帖」など一般の雑誌にも寄稿しておりました。

そんな著者が、当時、クラシック音楽の入門書をどんなふうに著していたのだろうかと興味を持ち、購入したのがこの本です。

主な構成は、次のようになっています。

1. クラシック音楽とのつきあいはむずかしくない、または、無愛想な男と友だちになる方法~すてきな音楽に出会ったら、書き留めておこう。愛称のない曲は、作品番号をメモする。
2. シンフォニーはフルコースのディナー、または、つまみぎきのすすめ~気に入った楽章を何度もつまみぎきしていくうちに、他の楽章にも興味を持つようになります。
3. ソナタ形式を耳で読む、または知ることの功と罪~尋ねる耳で。小学生がモーツァルトのホルン協奏曲第1番で主題を探す「音探しゲーム」。素手で聴き取る、時には知識が邪魔をすることもある。
4. コンサートできく音楽と再生装置できく音楽、または、一緒もいいが孤独もいい~不運に泣くコンサートも、CDの感動を分かち合えない孤独も、両方ありうる
5. オペラは「みる」ものか「きく」ものか、または肥満したカルメンを許せる理由~LP全曲盤できいてオペラの楽しみを知り、ビデオディスクでオペラをみる愉しみを知る
6. クラシック音楽も生きている、または、きかれる音楽の栄枯盛衰~バロック音楽のブームはLPとともに、大管弦楽はステレオレコードとともに。レコードやCDで音楽の好みも変わる。古楽演奏など、クラシック音楽も時代の空気を感じている。
7. 旅は道づれ、または、好きな音楽家をガイドにみたてて~音楽ノートを作ろう。好きな音楽家を道づれに、音楽の世界を旅する。
8. 損をしないディスク選び、または、名曲・名演の「名」にまどわされない賢明なききてへの道~好きな作品の好きな演奏のレコードやCDは買わない、ちょっと辛抱すれば、好きな曲は増える。
9. 「聞く」か「聴く」か、または、音楽の微妙さについて~きき流される音楽は悲しい、聴はくわしくききとること。音楽を「聴き」たい。

正しい指摘だなぁ、と思うこと。
(1) すてきな音楽だなぁ、と思ったら、曲名や作品番号を書き留めておく。
(2) 好きな演奏家をガイドに見立てて
(3) きき流さず、じっくり聴き取ろう

違うなぁ、と思うこと。
(1) 「ヘンな」クラシック音楽マニアを、そんなに意識する必要があるのだろうか。今の時代、ピアノや吹奏楽や合唱など、自分で演奏したりする積極的な世代が多くなり、「ヘンな」クラシック音楽マニアは相対的に減少して、あまり目立たなくなっているのでは。もっと普通にクラシック音楽に接している人が増えているのではなかろうか。
(2) 好きな曲をじっくり聴くからこそ、好きな演奏ができるのでは。むしろ、いろいろ購入して、好きな曲、好きな演奏を増やしていくべきだろう。

写真は、寺参りに行ったときに見つけたオニユリです。最近は、園芸品種の立派なユリが多くなり、自然のままのオニユリをあまり見かけなくなったように思います。
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