電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

ファラデーの前半生~製本職人の徒弟修行を終えてから王立研究所の実験助手へ

2014年06月02日 06時05分31秒 | 歴史技術科学
マイケル・ファラデー(*1)は、1791年にイギリスに生まれました。4人兄弟の3番目で、家が貧しかったために、ロンドンの製本職人リボー氏のもとで、始めは小僧として配達から、後には製本の徒弟として、住み込みで年季奉公をするようになります。そこで製本の腕を磨いていきますが、ほとんど正規の学校教育を受けていないにもかかわらず、持ち前の聡明さと、両親から受け継いだキリスト教サンデマン派の厳しい宗教的戒律に根ざす実直さとを、親方はじめ得意客たちに愛されて成長します。

当時、本は印刷されると仮綴じで売られるだけで、購入した客は必要に応じて製本に出し、革装の愛蔵本にして書斎に収めるのが習慣でした。したがって、製本屋のお客は安定した収入のある中産階級以上の人々であり、幸いにもファラデーは、ディケンズがその作品の中で描いたような、産業革命が進行し労働者階級が悲惨な状態に置かれていた社会の底辺の悪習に染まらず、成長することができたことになります。

ところで、製本職人の徒弟としてのファラデーの変わった点は、製本の依頼を受けた本の「中身」に興味を持つことでした。例えば、大項目主義を特徴とする『ブリタニカ大百科事典』の「電気」の項に興味を持ち、学んだ知識をノートにまとめながら、少ない小遣いをやりくりして、書かれた実験ができる器具を集めたり自作したりしながら屋根裏の実験室を作ります。こんなふうに、自分で実験をして一つ一つ確かめながら、様々な自然現象についての知識と経験を蓄えていきます。また、タタム氏という人が市民向けに科学の連続講義をするという貼紙を見つけ、これを熱心に聴講して、その記録をノートにまとめます。

このファラデーのノートは、現在も保存されているそうですが、たまたまある画家からデッサンの技法を教わる機会があり、これを応用した図解を添えた見事なもので、親方や得意客たちの注目を集めることとなります。その中の一人であるダンス氏が、おそらく若い職人を励ます気持ちからでしょうが、王立研究所の教授ハンフリー・デーヴィーの科学講演の切符をプレゼントします。

ここで、王立研究所とは言っても、国や国王から予算が出るわけではなく、研究費は自前で稼がなければならない仕組みでした。したがって、当時の社会の流行を踏まえたテーマで連続講義を行い、そのチケットを売り出すことで収益をあげたり、あるいは委託研究を引き受けたりして、研究費や運営費をまかなわなければならないのでした。

デーヴィーの連続講演を聴いたファラデーは、このときも詳細な講義録を作り、精密な図解と索引も付けて、お手の物の製本をして見事に完成させます。それまでは、製本の仕事のかたわら趣味として科学実験に携わっていたのでしたが、この時をきっかけに、一生の仕事として、どんな形でも良いから、科学研究の一角に加わることを強く希望するようになります。製本職人としての年季奉公を終えて独り立ちすることになり、リボー氏の店を出て、職人として新たに勤め始めたロッセ氏の店の流儀には、どうも馴染めないものを感じ、やはり自分は科学研究に一生を捧げたいと願うのです。その願いを手紙にしたため、例の講義録ノートとともにデイヴィーに送ったところ、デイヴィーはファラデーに会ってくれました。そして、製本職人の収入と比べて科学の仕事ははるかに待遇が悪いことを説明し、今の仕事を続けるように勧めますが、ファラデーは生活のためではなく、一生の仕事として、製本職人ではなくて科学の仕事を選びたいと訴え、面会はそこで終わったのでした。この場面は、中~高校生の頃だったでしょうか、少年期の私の記憶に、強い印象を残しています。

さて、その後しばらくして、たまたまデーヴィーが実験により目を負傷したために、代筆をする臨時雇の仕事があり、数日間、ファラデーが代役をつとめます。その仕事ぶりや人柄などを観察したのでしょうか、ある日、デイヴィーの使いの馬車がやって来て、まだ気持ちが変わらないのであれば、辞職する実験助手の後任として雇いたいと伝えます。ファラデーは、この日のことを終生忘れることがなかったようです。

ファラデーは、こうして王立研究所の実験助手として正式採用され、製本職人よりもずっと低い給料で、実験器具を洗浄し片付け、実験器具や材料を準備し、師のデイヴィーの講義実験を助けるなどの仕事に従事することとなります。これが、19世紀最大の科学者の一人、マイケル・ファラデーのスタートでした。


(*1):マイケル・ファラデー(1791~1867)に関するWikipediaの記載
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