電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

師のデーヴィーもまた徒弟修行を経て化学者となっていた

2014年06月05日 06時04分33秒 | 歴史技術科学
師のハンフリー・デーヴィー(*1)もまた、実はファラデーと同様に、徒弟修行を経て現在の地位にあるのでした。ただし、ファラデーよりはだいぶ恵まれていて、外科医をしていた、デーヴィーの母方の義父の計らいで、私立学校に通わせてもらっていますし、馬具工をしていたダンキンから科学の初歩を習っています。実父が亡くなると、病院の薬局に年季奉公に入り、ここで化学を学び、自宅の屋根裏部屋に実験室をこしらえ、ここで化学実験を行っていたようです。

そして、たまたま王立協会のフェローだったデービス・ギルバートに認められ、その縁で病院の付属医学校の化学講師エドワーズ博士の実験室に出入りできるようになります。さらに、ギルバートの推薦により、ブリストルの気体研究所で働くこととなります。デーヴィーは、様々な気体について研究をします。例えば自分が発見した笑気ガスを、麻酔ガスとしての利用は想定できなかったものの、好んでデモンストレーション実験に使っていたようです。

デーヴィーの優れた研究は、王立研究所のバンクスの注意をひき、公式にデーヴィーを王立研究所の化学講演助手兼実験主任となります。やがてデーヴィーもまた科学講演を引き受けるようになりますが、このときに彼のもう一つの才能である詩人としての資質が発揮され、多くの聴衆を集めるようになります。特に女性には人気があったようで、1802年には正講演者に、1803年には23歳の若さで王立協会フェローに選出されます。

王立研究所で、デーヴィーは多くのボルタ電池を作り、これを利用してなじみの化合物を電気分解するという手法で、多くの新元素を発見していきます。具体的には、苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)や苛性カリ(水酸化カリウム)を溶融塩電解してナトリウムやカリウムを、石灰と酸化水銀の混合物を電気分解することでカルシウムを発見します。さらに、同じく電気分解によってマグネシウム、ホウ素、バリウムを発見しますし、後には塩素が化合物ではなく単体であることを示すとともに、塩酸を電気分解しても酸素が発生しないことから、「酸は酸素を含む」というラヴォアジェ以来の概念を覆し、「酸は水素を含む」ことを示します。一人で六種類の元素を発見したのはデーヴィーだけだそうで、このあたりの活躍はまさに特筆に値します。

しかし、注目されるのは、デーヴィーもまた徒弟修行を経て化学者となっていた、という事実です。当時は、大学で物理学や化学を学び、科学者となるという道はありませんでした。産業革命が進む英国は明らかな階級社会であって、大学は哲学や古典を研究するところであり、物理や化学などは下賎な技術分野として扱われ、新興中産階級が興味を示すことはあっても、貴族や上流階級の紳士が学ぶものではなかったようです。

(*1):ハンフリー・デービー~Wikipediaの解説
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