山響こと山形交響楽団の八年越しの大プロジェクト「モーツァルト交響曲全曲演奏会:アマデウスへの旅」も、ついに最終回となりました。年三回ずつ実施しての第24回、バレンタイン・デーと重なった土曜日、妻と山形テルサホールに出かけました。
客席はほぼ満員で、最前列正面にわずかに空席があるかな、というくらいです。恒例の飯森範親さんのプレ・コンサート・トークは、蔵王にスキーに行ったときに「飯森クン?」と話しかけてきた女性が、偶然にも幼稚園の同級生だった話から。そうですね~、同級生にしてみれば、やっぱり「飯森クン」ですよね~(^o^)/
それと、このモーツァルト交響曲全曲演奏会は全部録音しているそうで、あと二回、平成27年度にリクエストの演奏会を開いてさらに追加収録も行い、全部でCD11枚として発売予定だそうです。これから編集作業に入るそうですが、これは楽しみです。
さて、前半はモーツァルトの最初の交響曲第1番変ホ長調K.16 からです。
楽器編成と配置は、ステージ左から第1ヴァイオリン(8)、チェロ(5)とファゴット(1)、ヴィオラ(6)、第2ヴァイオリン(8)の対向配置で、中央奥にホルン(2)とオーボエ(2)、ホルンの左にチェンバロというものです。急ー緩ー急の三楽章構成でチェンバロが通奏低音で入るというのが、いかにもバロック時代~前古典派の過渡期の性格を残しているようです。これまでも古楽器のレプリカを用いてきた二本のホルンが、いい音で和音を奏でます。もしかしたら種類が違う楽器を用いたのでしょうか?
続いて、交響曲第47番、ニ長調K.97です。当然のことながら、第42番以降は、あとで発見された少年時代の作品であって、「ジュピター」交響曲の後に作曲されたわけではないそうです。もちろん、私は初めて聴く曲でして、モーツァルトが初めてトランペットとティンパニを用いた少年時代の作品をナマの演奏会で聴くというレアな体験は、ここ山形ならではのことでしょう。
楽器編成は、8-8-6-5-3 の弦楽セクション(対向配置)が基本で、チェロの後ろにFgが加わります。正面のOb(2)とHrn(2)に対して、右側にTp(2)とティンパニ、左側にチェンバロという配置で、チェンバロが通奏低音で加わるあたりから少年時代の初期作品であることからわかりますが、トランペットとティンパニが入るところからみて、少し派手目な、祝祭的な性格を狙ったものでしょうか。
第1楽章:アレグロ。ティンパニが入る冒頭から、なんとなくオペラの序曲ふう。第2楽章:アンダンテ。弦楽合奏に加わるファゴットは、チェロの低音とリズム感を補強するねらいかと思います。第3楽章:メヌエット~トリオ。歯切れよいリズムでトランペットもティンパニも加わると、堂々たる音楽になります。転じてチェンバロとともに軽快な音楽が奏でられ、再び堂々たる音楽となる三部形式みたいな構成でしょうか。なんとなくハフナー交響曲みたいな感じです。第4楽章:プレスト。輝かしい音楽で、祝典性を感じさせます。
そして15分の休憩の後、本日の目玉である「レクイエム」ニ短調K.626 です。合唱団アマデウス・コアに山形大学及び岩手大学の学生・卒業生有志が加わり、女声が53名を数え、男声が合唱指揮にあたられている渡辺修身先生を加えて38名、合計で90名を超える合唱団が、三段のひな壇に勢ぞろいした光景はまことに壮観です。
その正面に、本日の四人の独唱者、ソプラノの小林沙羅さん、アルトの富岡明子さん、テノールの安保克則さん、バスの与那城敬さんが並びます。
そしてオーケストラは、同様に8-8-6-5-3の弦楽セクション(対向配置)に加え、木管楽器がクラリネット(2)とファゴット(2)、金管楽器がトランペット(2)とトロンボーン(3:うち1はBassTb)、そしてティンパニとオルガンという編成です。
ゆっくりめのテンポで始まった音楽は、ヴィヴラートを抑えた弦の響きが直截に響きます。うーむ、「レクイエム」のような音楽には、ふだんは澄んだ響きを聴かせる一方で、時にはざらりとした味わいを聴かせる、これまで培ってきた古楽奏法がまことに効果的であると感じました。
私の力では、この音楽を細かく文章にすることはできませんし、また適切でもないだろうと思いますので、率直な感想だけを記したいと思います。
まず、合唱が圧倒的! 素晴らしい合唱の力です。鮮明な子音の発声が、鋭く胸に迫ります。オーケストラの各奏者の表情も実に真剣そのもので、前からは聴衆の集中を感じながら、後ろからの圧倒的な合唱に応えるように演奏しているように見えました。
独唱の皆さんの歌唱も、ほんとに素晴らしいものでした。ソプラノが歌い出すところは思わず引き込まれましたし、トロンボーンに続くバスの独唱や、オルガンの音を背景にしながらの四重唱など、ほんとに素晴らしかった。
「涙の日」で Lacrimosa dies illa, と歌い出すところは、映画などで陥りがちな、過剰に劇的な悲劇性を強調するのではなく、合唱もオーケストラも、きわめて高密度の、繊細な祈りの表現となっているように感じました。
そして、奉献唱からのジュスマイヤーの手になる音楽は、基本的に祈りと讃美と感謝と祝福の音楽なわけですが、圧倒的な合唱と渾身の演奏によって、じゅうぶんに悲劇からの救い=カタルシスを感じさせてくれるものでした。
私はジュスマイヤーの仕事について、かつてこのように書きました(*1)。
立派な親や師匠を持った子や弟子が、親や師匠の意義を追体験する営みがあって初めて、その意義が伝承されるものと思います。子や弟子が、親や師匠ほど偉くない・うまくないという理由から、彼らによる伝承を否定してしまうのは、たしかに無残な話。たとえ不完全ではあっても、後輩が共有した感情や経験を伝承することは、意味のあることだと考えます。
今回、「レクイエム」の素晴らしい演奏に接し、もしこれが「涙の日」でプツンと途切れるような曲であったならば、ドラマ的には良いかもしれないけれど、感銘はずっと違ったものになったであろうと思われてなりません。モーツァルトの弟子ジュスマイヤーの仕事があったから、こうして現代に通じる音楽として受け継がれているのだろうと思います。
○
聴衆の拍手は長く長く続き、八年間続いた「アマデウスへの旅」の成果をともにかみしめることとなりました。飯森範親さんが常任指揮者に就任してはじめて取り上げた、バルトークの「オーケストラのための協奏曲」を感激して聴いたのは、たしか2004年だったでしょうか。あの頃から山響はたしかに変わり始めました。飯森さんが音楽監督になり、八年間でモーツァルトの交響曲を全曲演奏するというプロジェクトを打ち上げたとき、正直言って、これほどの成果は予期しておりませんでした。合唱指導の佐々木正利先生のご努力も大きかったことと思います。まことにわが不明を恥じるばかりです。でも、24回全部とはいきませんでしたが、これまで聴くことができた回は、もれなくこのブログの記事に積み重ねております。ささやかな自己満足にひたっているところです(^o^)/
ところで、日本国内で、当時の楽器や奏法などを取り入れながらモーツァルトの交響曲全曲録音をしたという例はないでしょうから、今回の録音はたいへん意義あるものとなりましょう。若い時代、グラモフォンのベームのLP全集を購入することはできませんでしたし、CD時代になってからも、アーノンクールやコープマンなどのCDも縁遠く過ごしました。それが今度は飯森・山響の11枚組のCDが出るとのことで、妻も「それならほしい」そうです。「アマデウスへの旅」に通いつめた夫婦そろって(*2)、期待して待つことにいたしましょう!
(*1):
海老沢敏著『モーツァルトを聴く』を読む~「電網郊外散歩道」2009年3月
(*2):毎日のお弁当作りへの感謝をこめて、毎年「アマデウスへの旅」の会員券をプレゼントし、一緒にでかけておりました(^o^)/