YMOの「散解」前のシングル、1983年の
「君に、胸キュン」という歌は当時、さんざん流行りまくって、
僕は別段、気にも留めなかったのだが当時は普通に、
テクノのYMOがいきなり歌謡曲・・・・というのもなかなか一興、と
思っていた。
で、あれは高橋幸宏の作詞作曲だ、と勝手に思い込んでいた。
何となく、「お洒落なオジサン感」が、ユキヒロっぽかったのだ。
あの歌詞。
何だか中途半端に生々しい、リアルな感じがして、これは、この歌は、
モデルになった女の人が実在するのではないか??いや、するに違いない・・・・・・
♪「気があるの?」って怖いくらい読まれてる ♪ っていうところとか。
きっと東京に、この女の人が実在してるのだ、と、また勝手に決めつけていた。
でも
後で知ったのだがこの歌の作詞は松本隆だった。むむむ。まんまと騙されていた。
松本隆の詞は・・・・僕は実はけっこう嫌いなものが多くて、
リアリティがない、勝手な、
オジサンが頭の中だけで作り上げた歌詞が多い、と感じていた。
吉田拓郎の「外は白い雪の夜」とか。寺尾聡の「ルビーの指輪」も、そうだったよな。
でも最近、それはそれでありだな、と思うようになった。
「物語」とか「小説」って、きっとそんなものなのかもしれないから・・・・だ。
松本隆作詞の中で、例外的に大好きだったのが
原田真二の「タイムトラベル」という曲だ
アレンジも、曲も、歌詞も、歌唱も含めて完璧、最高。今でも好きだ。素晴らしい。
でもあれなんか完全に、ほとんど「妄想」のような物語の世界だった。
「はっぴいえんど」の歌詞も、松田聖子の歌詞も全部、松本隆だよね?
どちらも「虚構的」という点で、確かに共通している。
「虚構的」な歌詞は確かに素敵だが、
「露悪的」・・・というか、「私小説的」な歌詞も、やはり素敵である。
忌野清志郎の歌詞はそれなりに私小説的だ・・・そうでないものもあるが。
(例えば「ボスしけてるぜ」は全然違う。)
歌詞ではないのだが、太宰治の小説は全部、露悪的な私小説である、と僕は思う。
世間の評価も概ね、そうだ。
中島らもの作品も全部、そうなのだろうと思う。エッセイも含めて。
「虚構」と「私小説」、
もしも、どちらかしか選べない・・・という状況なら僕は
恐らく、「露悪的な私小説」の方を取るだろう。
「事実は小説よりも奇なり」だから。
さて、本当はこの文章は
歌詞の「モデル実在問題」について書くつもりだったのだが、
他のことで長くなり過ぎた。
またいずれ、そのことは書こう・・・・と思う。