ライヴに向けて。

2024-09-08 19:05:47 | Weblog

バンドを続けることは、僕にとってもはや、

生き甲斐・・・というか、生きる目標である。

もちろんそれが、

楽しいことばかりだったらいいのだけれど、けっこう・・そんなことはない。

いやもちろん、楽しいことの方が多い。

でも

修行、みたいに感じることもある。

誰一人、見向きもしてくれないこともある。

しかしそれでも、痛いのが好き・・・ではない、

ツラいのも乗り越えるのが快感なのだ’(まだ言ってる)。

 

何が試練なのか、と言えばやはりそれは自分自身の自意識である。

能力的な限界、とかね。

トラウマ、とか、

潜在意識的な自己制約とか。

 

そういうのを、いちいち、超えて行くのだ。

乗り越えた時の快感は口では言えないくらいだ。

生きててよかった、って思える時も、ある。

 

そしてやはり、仲間の存在のありがたさが年々身に染みる。

一緒に演奏してくれる仲間、

ライヴハウスで「お客さん」として我々の音楽を受け入れてくれる仲間。

対バンしてくれる仲間、

ライヴハウス側として、我々を呼んでくれる仲間。

 

身体の動く限り、

そして

心の動く限り、

我々は音楽を続けたい。

 

演るのは

「自作」だ。「オリジナル楽曲」だ。

我々にとってはほとんど、それがすべて・・・でさえ、あるのだ。

 

 

 

次のライヴは9月14日、

大阪・難波の地下の素敵なライヴハウス「難波mele」。

この日の出演は4バンド

黒色青年

BULLET  HOLE  

我々、ROCA’66

自転車SO業舎

 

上記は出演順。

 

難波で、ライヴハウスで会おう。


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友達へ。「受け入れること」について。

2024-09-05 19:57:45 | Weblog

我々にできるのは ただ「受け入れること」だ、

歌ってるのはスザンヌ・ヴェガで、

僕が19歳だった頃に出た(1985年?)

彼女の1STアルバム「スザンヌ・ヴェガ」が昔から大好きなのだけれど

(大ヒットした「LUKA」を含む、2NDアルバム「孤独」より以前)、

その中の「FREEZE  TAG」の歌詞

WE  CAN  ONLY  SAY  YES  NOW   TO  THE  SKY  、TO  THE  STREET、TO  THE NIGHT.

稚拙ながら訳せば

「私たちはただ「イエス」と言うしかない  空に、通りに、夜に」

これは遠回しには

「誰もが 運命(みたいなもの)を受け入れるしか、 ない」と言ってる気もする。

大きな諦念と、無力感と、それを踏まえたうえでの「生きる」という意思

を、僕は感じる。

19歳の僕はこのLPレコードの(まだCDは普及していなかった)この曲を

ストーヴもない部屋の薄ら寒さの中で何度も何度も聴いていた。

 

・・・・・・・・・・・運命論?

ではない、という気がする。

僕は運命論者ではない。

 

ただ、大きな流れに翻弄されながら誰もが生きるしかないのだなぁ、と思った。

 

19歳の頃にそう思ったし、

50歳台も後半になった今でもそう思う。

 

 

何も変わってないし、でも そうかと思えば・・・何もかもが変わってしまった。

 

 

 

 

 

致命的な(こともあり得る)病気が発覚した友達よ、

だから絶望するのはやめよう。

 

 

 

 

我々はみんな、大きな「流れ」の中にいる。

 

 


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自分自身に関する考察

2024-09-04 19:58:31 | Weblog

どう足掻いたところで私は私でしかない・・・・のだが、

そのことはとにかく受け入れないと、

この先、生きて行く気力も湧かないし、行き詰ってしまう。

 

良いことも悪いことも全部ひっくるめて

私は私でしかないし、これは私の人生でしかないのだ。

 

とか言いながら

それ以外のことも我々は、とにかく「受け入れ」ながら生きている。

 

朝から豪雨だろうが受け入れるし、

下らない工事渋滞も、しょうもない事故渋滞も、

挨拶もしない同僚の存在も、

いつまで経っても痛い我が身の膝関節も、

愛する人を失うことも、

汚いごみだらけの道路も、

確実に進行中の地球温暖化も、

不条理に高い税金(ガソリンに関しては二重取りさえされている)も、

政治の腐敗も、

意味も正義もない戦争、虐殺、人権蹂躙も。

 

 

そんなのオッケーしたことはない。全然、認めてなどいない。

でも僕の意見など、誰も聞きに来ない。

 

 

 

とは言え

 

「いいこと」も、我々は大歓迎で受け入れる。

 

「いいこと」のほとんどは「愛」で出来ている。

微笑み、

優しさ、

柔らかさ、

気遣い、

歌、

連絡、

接触、

会話、

想うこと。

 

「いいこと」だけで世界が成り立っていたら、どんなにいいだろうね?

でも

「いいこと」と「やなこと」は

光と影なので

どちらかが欠けたらもう片方も存在し得ない

のだ。

 

私は私として、

陽の当るところに立っている。

それはそれでシアワセなのだが

そうすると必然的に影が出来るし、

それで気付く、

ああ、私は私という物体なのだ。

 

 

願わくば「非物質化」したいのだが、そうもいかない。

 

 

 

 

 

ああ。

 

 

コメント (2)
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本日の、私の、言いたいこと。

2024-09-02 21:11:30 | Weblog

私はただの、ギタリスト上がりのシンガー・ソングライター(・兼ギタリスト)である。

 

時々間違われるが、ロックンローラー・・・とか、ではない。

そんなイキがったものではない。

喰えないバンドマン、と言われるのは心外だが、あながち外れてもいない。

煮ても焼いても喰えないオッサン、とは言ってほしくない。

よく焼けば、食べられないでもないからだ。

 

バンドマンは不良、という時代が昔、あった。

それはそれで、悪くもなかった。

だから(というか何と言うか)、

僕の友達には不良すれすれ・・・・というような人が結構、いる。

どっぷり、本物の不良!みたいな人はいないかもしれない。

そういうタイプの人とは、一緒に音楽やれない気もする。

不良ぶってる、くらいがいいのだ。

 

私は?といえば、革命を日々、夢見ている。

出来るなら無血革命を。

出来ないなら・・・・・・・・・・・・・・・・・???????

 

音楽で社会革命は起こせないかもしれないが、

人の心に訴えかけることは出来る。

・・・とか言って、実はなかなか、共感してもらえることさえ難しいのだが、

闇雲に、とにかく

演れなくなるまで、演ってみよう、と思っている。

 

それにつけても、音楽は素敵だ。

音楽を軸に生きていると、

日常のすべてが吸収の場であるし、学習の場であるし、

それどころか、一瞬一瞬が ロード・ムーヴィーの一場面である。

君と僕が出会ったとたんに、カチッと、「とあるスイッチ」が入り、

世界は別次元に突入する。

それはパラレルワールド、と言っても間違いではない。

世界には、無限の選択肢と可能性があるのだ。

僕には僕の修羅場があったし、君には君の修羅場があったのだ。

今でもある。

 

こんなこと言いながら僕は決して、達観しているわけではない。

まだまだ迷っているし、

何が正しいのかわからないし、

人生の意味さえ、いまだに わからないのだ。

 

ジョンレノンも生前最後のインタヴューでそんな風なことを言っていた。

人生の意味が僕にはいまだにわからない、と。

その記事を、僕は1998年にNYに向かう飛行機の中で読んだ。

NYでは、ダコタ・ハウスには行かなかった。思いつかなかったのだその時。

行ったのはエンパイア・ステートビルだった(センスが古い)。

 

・・・・・・・・・・・・・・・人生の意味。

そういうのは、今では「中二病」と呼ばれてしまう。

僕は中二・・・いや、中一のころからずっと「中二病」で、

そこから回復する気配すら、ない。

日がな一日、「人生の意味」について考えているのだ五十面下げて。

でもそういうのは僕の勝手だ。

笑いたきゃ、笑えばいいけど。

でもどうせ陰口いうんならさ、目の前に来ていえばいいじゃん。

キレやしないからさ。批判は、ありがたいし。

だから来なさいね、そういう人も。

9月14日のさ、大阪・難波のライヴハウス「mele」に。

あ、「メレ」と読むのだ。

意味?・・・意味は、知らない。

 

 

人生の意味?も、まだ、模索中。

 

 

 

 

画像は、今日の向日葵だ。

今日の日記は、本当は

向日葵について何か書こうとしたのだが、何か全然違うことを書いている。

まあいいだろう。

 

 

 

 

花は、

小さくてショボいけど、幾つも咲いてるのがわかるだろうか?????


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9月14日は難波meleに、ROCA’66出演デス!

2024-09-01 20:11:49 | Weblog

なんだかドサクサ紛れ・・・みたいに一気に9月になりました。

例年なら、「・・・・9月になった」という感慨があるものなのですが、

あの超ゆっくり進んで行った台風10号のせいで、

「しれっと」という感じで9月が訪れた。それはまあ、それでいいとしよう。

いつもいつも思うのだけれど、台風上陸って、怪獣襲来みたいなのな。

今回のって、上陸したとたん、九州の高い山に阻まれて急激に弱ったらしくて、

九州を通過した頃にはもはや台風ですらない、熱帯低気圧と化していたそうだ。

そんなこともあるのね。60年近く生きてて、そんなの初めて聞いたよ。

まぁ、昭和の頃とかは気象衛星とかもなくて(あったのか?)、

こんなに逐一、台風の勢力の変化がわからなかったのかもしれない。

戦時中に至っては天気予報すら軍事秘密だったそうだ。

そういうのって、心が狭くて嫌だわ。

さて、9月はライヴ、2本立て。

まずは9月14日 土曜日、

久しぶりの出演となる大阪は「難波mele」。

立地も、ハコ自体も、ハコの人も、出てるバンドも、すごくいいライヴハウス。

JR難波駅近くの、地下一階。

大阪・難波・と来たらもう、カオスの中心地だ。

音も、もちろん、いい。

それぞれのライヴハウスの「味」があるけど、

難波meleでの我々ROCA’66はまた、一味違う。

絶対見に来て欲しい。

本当に、いい曲(歌)が演れてる、という実感が我々にはあって、

ひとりでも多くの人に目撃・実感・体験して欲しいのだマジで。

9月14日の難波mele、タイトルは「WOODY BULLY」。

OPEN18:00 START 18:30

前売り2300円 当日2800円

出演は

黒色青年

BULLET  HOLE  

ROCA’66

自転車SO業舎

の4バンド。

上記は、出演順だ。

我々の出番はオンタイムなら夜の8時から。

 

 

 

そして9月の2発目は28日、

大阪は梅田のハードレイン。

こちらの細かい告知は、14日の難波meleが終わってからにすることにする。

 

夏はまだまだ終わらないし、

我々の「試練」も、終わる気配を見せない。

いろんな事がボロボロになって、朽ち果てて行くように見える世界だが、

それだけではない。

今さら・・・というか、こんなところまで来て、「始まってる」ことだって、

ある。

僕と君の関係は、また始まる。

我々は、ライヴハウスにおいて、「出会う」ことが出来る、と

僕は信じてます。

俺達にしても・・・・・・今からが本領発揮、なのだ冗談ではなく。

生まれた時、赤んぼの僕を、占い師に親が見せたらしくて

それによると「この子は晩年型だよ」とのことで

(ああ、ジプシーの女占い師だったのだろうか??)、

きっと、今からが「晩年」なのだ。つまり、今から始まるのだ。

もう今から「世に出る」ことはない・・・かもしれないけど、

陽の当たらない 地下にだってこれだけのロックがあるのだ、ということを

僕は、ほんの少しでも、世間に知らしめたい。

 

ライヴに来てください。


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無線連絡

2024-08-29 20:41:55 | Weblog

ピーッ。

回線が開いた。

君への手紙を、口頭で伝えます。

 

前略

八月は僕らから余りにも多くの物を奪ったまま、

まんまと逃げおおせようとしています。

夏休みの終わりはいつもいつもそうだった・・・よね?

台風が来ては去り、来ては去り、

荒れ果てていくのは我々の心だけではないことに気付く。

一瞬の光はすべてまやかしだし、

これこそは!と思えた栄光でさえ、消え失せてしまえば実体は定かではない。

でもそれでいいのかもしれません。

っていうか

それでしかなかったのかも。

僕が何かに生まれ変わるとしたらきっと、花壇に潜む藪蚊でしょう。

ボウフラが月に憧れ憧れて憧れて羽化して羽が生えて、

藪蚊になることに成功した。

でも、それはただ それだけのことでしかない。

僕はいちいち絶望するのに飽き飽きしてしまって、

それだからといって希望的観測は出来ないのです。

なにしろ十六夜の夜に君は平然と分水嶺を超えてしまった。

それはどんな意味を持つのでしょう?

僕にはわからない。

あと十年経ったらわかるようになる気もするし、

千年経ったって無理だろう、という気もする。

これはまたレクイエムだ。

懲りもせず、と君は言うかもしれない。

あ、言わないかもしれない。

でもレクイエムなんて、幾つあったっていいのだ。

いいことばかりは、ありゃしない・・・ってのは真実だが、

ものごとの良し悪しなんて、僕の主観でしかない。

だから僕は何もかも全部、笑い飛ばすことに決めたのだ。

しかも鼻で笑う。

そんな風にして何もかもが、吹き飛んでくれたらどんなにか良いのに。

逆に僕が風に吹き飛ばされないように、

だれか「支え棒」を立ててくれはしないだろうか。

明日、あさって、しあさっては台風に、僕は 無防備に晒される。

吹き飛ばされて、消え失せてしまったらお慰み。

辛うじて・・・生き残ったら祝杯を挙げよう。

だから君も、

無傷で生き延びてくれ。

 

連絡終わり。

回線を切る。

 

ピーッ。


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友達よ、我々は・・・・生き延びよう。

2024-08-27 20:27:54 | Weblog

「生」というのは本当に不思議。

 

我々の身体は「自動運転」で、

敢えて 生きようとしなくても、身体が勝手に生きていく・・・という側面がある。

例えば

呼吸なんか完全に自動だと思わないか???

あ、心臓の動きとかもね。全然意識しないのに動いてるもの。自動だ。

血流は絶え間なく全身を行き渡る。

もっとミクロなレヴェルで考えると

腸で微生物がそれぞれ勝手に働いてくれてるからこその消化・吸収である。

そして、白血球とか赤血球とかは外からの黴菌・雑菌を駆除してくれてる。

頼んでもないし、報酬もないのに、勝手にやってくれてる。

 

その自動運転(全自動、と言っても過言ではないだろう)の身体に乗っかって、

我々はただ、生きるだけだ。

ただ生きるだけ・・・って言っても、それは そんなに簡単ではなく、

 

とにかく生きづらいし、

世知辛いし、

面倒ごとは多いし、

外に出れば敵ばっかりだし、

みんながみんな僕の陰口を言ってるし、

台風は来るし、

コロナにかかったりするし、

働けど働けど暮らしは楽にならないし、

やりたいことさえ、必ずしもうまくいくとは限らない・・・っていうか、うまくいかないし、

愛する人との関係も簡単にこじれるし、

大事な大事な大事な人は静かに逝ってしまうし、

壊れやすいものは壊れてしまうし、

大事なもの(者)、(物)、(物事)、を大事にしようとすればするほど粗暴に傷つけてしまうし、

政治家は腐敗の限り、悪事やりたい放題だし、

戦疫は拡大する一方だし、

道路に出れば大渋滞だし、道路にごみは散乱するし、

致命的な病魔さえ、我々の身には 降りかかって来る。

 

生きてたってロクなことはない・・・・・と思ってしまったとしても仕様がない。

 

 

 

 

 

 

 

でも友達よ、

明後日か・・しあさってに、大きな台風が来るんだ。

だから僕は、

いい感じで育って、蕾をつけてくれたり、咲いたりしてくれている

花壇の向日葵たちの為に、

支え棒を立てて、麻ひもで茎をそれに結び付けて、

彼等が台風が来ても、生き延びられるように対策したんだ。

 

台風が来る前に帰って来れて良かった。僕は昨晩、広島の高速道路パーキングで夜明かししたのだ。

 

これ(花壇の世話)やってる時が、大変だけど一番楽しい。

「手のかかる子ほど可愛い」って感覚がわかる気が ちょっとだけ、する。

「生きてる」って感じが、濃厚にするのよ。

これやってる時と、バンドやってる時がいちばん「生きてる」って気がする。

スタジオで曲作りのときと、ライヴで演ってる時。

死ぬほど・・・・・、楽しい。

大事なことの全ては逆説的で、相反的なのだ。

 

そしてそれは「自動」の延長ではない。

自発的に、自発的に、自分で考えて、動くのだ・・・・それでしかない。

 

 

だから我々は、

台風の中で生き延びようぜ。

 

 

 

 

そうするしか、そこにしか、突破口はない・・・・・のかもしれない。

 

 

 

 

 

もう一度言うけど、

 

友達よ、我々は生き延びよう。

 

 

 

 

 

画像は、今日の、花壇。

全体は見渡せないが、実は30本近く「支え棒」が立っている。

 


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ギターも遺品。

2024-08-25 17:34:48 | Weblog

 

言うまでもないことだが、

僕が死んだら僕の所有ギターたちも遺品、だ。

 

金銭的に価値のあるもの(高価で売却出来るもの)・・・は、ないかな。

唯一のオールド、というかセミ・オールドになるのだが、ギブソンの

1977年製レスポール・スペシャルは友人の「きりひと」氏から

買ったものだが、いかんせん、僕が演奏中に暴れてコケて、ネックにヒビが(いつか直す)。

 

話はそれるが、手塚の「ブラック・ジャック」に登場していた「きりひと」氏は

安楽死専門の医者だった。かっこよかった。

(間違えた・・・「ドクター・キリコ」氏だった安楽死専門医は。)

 

ギターの話に戻る。

ちょっと以前に、ギター雑誌を見ていたら何と、

マッドギャング/サウスサイドシャッフルで活躍した 故「碇健太郎」氏の

ギブソン・ファイアーバードの写真が載っていて驚いた。確か1975年製。

今は、若手の新進気鋭のギタリストが使用してるみたいで、

遺族から、遺品として贈られたのであろう、と推測する。

僕は碇さんには死ぬほどお世話になったので、あのギターも懐かしかった。

 

僕が今メインで使っているフェンダー・メキシコの「サイクロンⅡ」は、

生産本数が割合に少なく、希少・・・・な面もあったのだが

近年、フェンダーが廉価版のスクワイアーでも同じのを生産したらしく、

いかん、希少性などもう、ない。近所のイオンの楽器屋で安価で吊ってあった。がっくり。

 

スキマノザラシの 故 「イトイガワ」氏が弾いていたギブソン・ファイアーバード

は、今は同じスキマノザラシの「アンボイ」氏が弾いている。

 

誰かの遺品のギターを、今は誰かが弾いている、という話、

他にもたくさんあった気がするのだが、思い出せない。

 

ああ、うろ覚えだが、故 「ボ・ディドリー」氏のギターを

ZZトップの「ビリー・ギボンズ」氏が一時、使ってたんではなかったか。

 

 

しかし考えてみたら、オールド専門のギターショップに並んでいる

そうそうたるヴィンテージギターたちって

そのほとんどが

誰かの遺品・・・・なんだろうね。

 

 

 

そりゃそうか。

 

 

 


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蔵書が遺品になる。

2024-08-25 11:20:06 | Weblog

だいぶ以前のニュースだったのだけれど、

マリリン・モンローの遺品の中から かのスコット・フィツジェラルドの

名著「グレート・ギャッツビー」の初版本が出て来て、

サザビー(か何か)のオークションで高額で落札された、という話があった。

 

よく知られている事なのだが、マリリン・モンローは

彼女の一般的なイメージ「一世紀前のセックスシンボル」とは裏腹に、

実は熱心な読書家であったらしい。

 

だから僕は彼女に好感を持っているのだが、そう言いながら・・・・

主演映画は一本も観たことがない。

大体が映画って・・・僕にとっては縁遠いのだ。

 

で、マリリン。

その、初版本を彼女が手に入れた経緯を、いろいろと想像してみると楽しい。

「グレート・ギャッツビー」の発売日が1925年4月10日。

マリリンの誕生日が1926年6月1日。

産まれる前の本だから、普通にマリリンが新刊本屋に発売日に買いに行った

・・・・・のではない。

マリリンにとっては、親世代のベストセラーだ。

 

ところで

僕(1966年産まれ)にとってのストーンズは、完全に親世代である。

ミックとキースと うちの母親は同い年なのだ。

 

マリリンに話を戻すが、だから、親が発売時に買ってて(ベストセラーだから有り得なくはない)、

自然に家にあった・・・のを持っていた、のかもしれない。

 

それか、古本屋で希少本を、高額で買って、手に入れたのかもしれない。

思い入れがあれば、それくらいするだろう。

それに、今現在より、まだ手に入れやすかったのではないだろうか。

 

もしかしたら、

私生活での友人であった文豪・トルーマン・カポーティからプレゼントされたのかもしれない。

「ティファニーで朝食を」が映画化された際、主演女優にマリリン・モンローを・・・と、

著者であるカポーティは猛プッシュしたらしい。

 

 

どれをとっても、いい話だ・・・と思う。

 

 

 

 

 

僕の持っている本たちの中には、そんな希少なものはない・・・と思う。

僕が死んだらブックオフの出張査定とかで、一山いくら、の二束三文で売られるのだろう。

 

 

でもそういえば

 

村上春樹の初期のものは、今では初版本に結構な値がついているものもあるらしい。

僕は1982年(1983年?)ごろからの、古いファンなので、

お?と思ったのだが、

発売されて間もなく(発売日は1985年6月15日)、

19歳の誕生日のプレゼントして頂いて手に入れた(誕生日は9月4日)

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」

は 、後年・・・・・

誰かに貸してしまって、その貸した人は行方知れず。

あれは初版本だった可能性が高い。

 

発売日に(1987年9月4日!何と僕の21歳の誕生日))、

自分で新刊本屋で買った「ノルウェイの森」は、

あれも初版本だったと思うのだけれど(買ったのが発売日だからねぇ)・・・・・・・

読んだ当時、結末(というか「直子」の扱い)に納得がいかず、

その時病院で長期の入院中(その後そのまま亡くなる)であった祖母の姉に貸した

(話題のベストセラーみたいだから興味あるかも、と思った)のだ・・・が、

「つまんないから途中で読むのやめたわよ」と怒られその後知らない間に破棄された。

ので、両方手元にない。

 

 

 

 

 

哀しい。

 

 

 

 

いや、もし今も所持してて、高額で売れる、としても

意地で、絶対売らないけどさ・・・・・・・・。

 

 

 

 

出来れば 僕の死後にサザビー・・・・・・いや、ヤフオクに出品して欲しいな。

マリリン・モンローみたいに。

 

 

あ、でももう、手元にないんだった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(暗転)


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もしそこが袋小路であったとしても、我々は前に進もうではないか。

2024-08-22 22:02:50 | Weblog

この先、何歳まで生きるのかわからないけど

僕はもう、自分が

「次のギター」を買うつもりがない、ということに こないだ気付いた。

今のメインギターは僕にとって一種、究極で

これ以上は望むべくもないのだ。

どうやら僕は もうこの後、ギターを買う気はない。

でもそれって、少し寂しい気もする。

物欲は何と言うか・・・・生きるエネルギーでもあるから。

物欲がだいぶ、失せて久しい。

昔なら、あれもこれも欲しかった。

実際、闇雲に何本も、手に入れたりもした。

でもある時気付く。

手に入れたのなら存分に使わないと、そのギターに対して失礼なのだ。

使いもしないで・・・・でも、眺めてるのもいいんだよね。

手に入れた、気に入ってるギターの形に見とれながらお酒を飲んだりする、今でも。

そういう使い方は、失礼ではない、と僕は思う。

でもケースに入れて、倉庫にしまっておくのなら失礼だ。

よもや・・・・投機目的でギターを買う?それは失礼だ。

ステージで雑に扱うのは失礼ではない。

ステージではほとんど使わなかったが、レコーディングで多く使った・・・というのも失礼ではない。

レコーディングされた音は永遠に残るのだ。

マメに拭いたり、ホコリを掃除したり・・・・しないけど、それも失礼ではない。

僕は尊敬しているのだ自分の所有ギターを。

あ、友達の持ってるギターも尊敬している。

今、ひとつひとつ挙げないけどさ。

あのひとのあれとか、あのひとのあれとかね。

ところで

もしも僕がある日、バンドをやることを諦めてしまったら、

ウチにある・・・というか「居る」ギターたちはきっと悲しむだろう。

いや、それだけだけが楽器の存在意義ではないのだけれど。

でもやはり、

僕にとってはバンドあってのギターであり、様々なチープな洋服たちである。

このブログだってもしかしたら

僕がバンドを諦めて、ライヴをやらなくなったら

全然違う存在になるのかもしれない。

っていうか存在し得なくなることだって有り得る。

ちょっと論理は飛躍するけど、

だから僕は 生きるべきだ、と思う。

生きようとして足掻くべきなのだ。

諦めている場合ではない。

しがみつくみたいに、傍からそんな風に見えたとしても、

我々は生きようではないか。

 

もしも 今居るここが、袋小路だったとしても ね。

 

希望的観測かもしれないけど、きっと、何処かに・・・・・抜け道があるぜ。

 

 

そう信じたい。

 

 


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