まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第9回四国八十八所めぐり~青龍寺まで山あり海あり

2017年05月15日 | 四国八十八ヶ所
清滝寺の坂道を下り、青龍寺までの13キロの歩きを選択した私。普段の生活ではまずこうした行動は取らないのだが、この時はやはり気分的にハイになっていたこともあったのだと思う。それにしても、「清滝」からさんずいを取ると「青龍」になるとは、何だか妙なものである。

坂を下りきり、畦道をとおって国道56号線のバイパスに着く。この辺り、歩き遍路道のシールは見当たらないのだが、「四国のみち」の道標がある。これに従って行くことにして土佐市高岡の中心部を歩くが、路地が入り組んでいるし、いつしか道標も見失ってしまう。時々スマホの地図機能など見ながら歩くと、市役所やビジネスホテルのある通りに出た。ここでちょうど12時となり、近くのコンビニで休憩とする。この辺りは高岡の昔からの町のようで、細い道ではあるがいかようにも通れそうである。だから「これ」と決まった遍路道がないのかもしれない。

再びそんな町中を通り抜けると川の土手に出る。波介川という。歩いていた時は「なみすけ川」と呼んでいたのだが、改めてこの記事を書くにあたって地図などを見ると「はげ川」と呼ぶのが正しいそうである。これをどうやって「はげ」と呼ぶのか。「はかい」が「はけえ」となって、「はげ」となったのか。まあ、同じ四国には予土線に「半家」と書いて「はげ」と読ませる駅名もあるが。波介川はこの先で仁淀川と合流して土佐湾に注ぎ込む川なのだが、過去には何度も氾濫を起こし、地元に大きな被害を及ぼしたこともあるそうだ。土手沿いにも、私の歩いている胸の高さくらいのところに「昭和50年台風5号の到達水位」の標識があった。土佐市のホームページの資料によると、この時の浸水面積が1590ヘクタール、浸水家屋は3000戸以上だったそうだ。その後は治水事業が進み、同様の大雨でも被害は大幅に軽減されているそうだ。

川沿いに歩いて県道39号線との交差点を右折して、県道沿いに歩く。あとはこの道なりに海岸沿いの宇佐に出て、横浪半島を目指す。県道脇の看板に「宇佐ショッピングセンター 次の信号を右折してすぐ」とあるが、その信号というのが何キロ先にあるのか。清滝寺から結構歩いたように思うが、青龍寺はまだまだ先である。そのうちに少しずつ上り勾配となっていく。

宇佐まで2キロの標識が出た県道沿いに塚地休憩所(遍路道入口)というのがある。トイレ、自動販売機、東屋、湧水(飲用不可)がある。ここまでは県道を歩くのが正しいが、遍路道はこの先塚地峠というのを越えるとある。県道はこの先トンネルがあり、歩行者も通ることができるが、ここは山を越せということらしい。一人の白衣姿の人が上って行くのが見えた。ならば私もそちらに行くかと、しばし休んだのちに坂に挑む。階段もついていて一応は整備されている。

この峠道は往年の生活道路、商業のための道でり、昔は宇佐で獲れた魚や塩を内陸の高岡まで運び、穀物と交換をしていたとか、高岡の人たちが青龍寺で行われる不動祭に行ったとかの歴史がある。もちろん昔の遍路もこの峠を通っている。今はトンネルができたが、塚地峠はハイキングコースとして整備されている。峠まで800m、高低差140mの上りに挑む。阿波の遍路ころがしに比べれば断然短いと言い聞かせるが、ここに来てやはり暑さを感じる。この日の高知は最高気温も25度近くになったとのことで、この時季にしては暑い日であったのは確かだが、リュックにいれている水やお茶が早いペースでなくなっていく。そして峠の頂上に着く。ハイキングコースはこの先尾根沿いに続いているが、私はすぐに下る遍路道を選ぶ。こちらは下りるまで1200mと長くなっている。

下りに向けて歩き出したところに展望スペースが作られていた。ちょうど宇佐の町を見下ろす位置にある。目指す青龍寺は、前方の入江の向こう側のこんもりした半島の中である。まだ4キロかかるところだ。それでも目的地が視界に入ってきたところで、気持ちは少し楽になる。ここで先ほどとは別の歩きの人が私を追い越していく。自分の視界にないだけで、清滝寺から青龍寺まで歩こうかという人もそれなりにいるものだ。その下りだが、先の上りと比べて道が自然のままの所も多く、石もゴツゴツしている。ここは金剛杖を使って慎重に歩を進める。地元の人らしいのが手ぶらでひょいひょいと上がってくる。ちょっとした散歩道、運動の道なのだろう。

塚地峠を越えて坂を下りきったところで14時を回っており、宇佐の町中に差し掛かる。道端に「安政地震津波の碑」がある。江戸末期の安政元年に発生した地震による津波の犠牲者の追悼と今後の教訓として安政5年に建てられたもので、その後の南海地震ではその時の教訓が活かされた形で死者わずか1名で済んだという。先ほど、台風による河川の氾濫被害のことに触れたが、高知といえば地震による津波の危険性とは隣り合わせである。そのあたりの対策もいろいろと取られているが、やはり大切なのは人々の意識なのかなと思う。これまで津波に遭った歴史を持つ三陸の海岸でも、6年前の東日本大震災の時には、津波の規模が違うとはいえ、逃げ遅れや誤った行動で多くの人が命を失ったわけであるし・・・。

県道23号線に突き当たるとそこは宇佐湾に沿った道である。後方に漁港が見え、近くにはヨットハーバーやマリンスポーツの店がある。先ほどまで通った山とは対照的な海の風景である。ここまでの道のり、長くはあるが田園風景、川、山、そして海と変化に富んでいる。そして前方にかかるのが横浪半島との間を結ぶ宇佐大橋である。昭和48年というから、ちょうど私が生まれた年に架けられた橋で、それまでは、前日渡った種崎~長浜の渡し船と同じく、「竜の渡し」という渡し船で渡っていた。また当初は宇佐大橋も有料だったそうだが、今は無料として横浪半島へのメインルートとして気軽に使われている。

橋のたもとには明徳義塾の看板が見える。先ほど清滝寺で、選抜高校野球初出場初優勝の伊野商業の記念碑を見たが、現在の高知の高校野球といえば明徳義塾である。本部は同じ横浪半島の中央部にある堂ノ浦キャンパスだが、こちらにも竜キャンパスというのがある。そしてこれから訪ねる青龍寺も、明徳義塾出身のとある人物とも関係あるそうだが・・・(寺の名前を見れば、大体の方はお分かりではないかと思う)。

ただその前に宇佐大橋である。橋一つで対岸まで行けるのはありがたいにしても、距離は長いし、また橋の欄干も私の腰より少し低く見えるくらいのところで、下を覗き込むと結構高さを感じる。こうした高いところがあまり好きではない私にとっては結構ヒヤヒヤものである。両側に海を見渡せていい景色のはずだが、ここは早く通り過ぎたいと願う。やはりこの橋はクルマを通すのが主な目的の橋なのかなと思いつつ、気づけば口に「南無大師遍照金剛」と唱えながら歩いていた。

少し冷や汗をかきながら橋を渡り終えると、昔の遍路道が山の方向に案内されている。ただ私はそのまま道路を海沿いに進んだ。この道じたいが最近できたものであることはわかっているが、もう一度山越えをしようとまでは思わなかった。それよりも、潮風を受けながら歩く数少ない機会ということでそのまま歩く。いつしか椰子の木のある砂浜に出る。休憩スペースになっているが、大勢のグループが宴会をやっていて賑やかである。ここから下って「黄金大師」の大きな看板がある竜温泉・三陽荘の駐車場の一角に、帰りに乗る竜のバス停がある。

青龍寺にはここからもう一歩きで着く。こちらも参道に四国八十八所の各本尊像が並ぶ。それを途中まで数えるところで、山門に到着した。途中休んだりしながらだったが、結局は清滝寺から4時間かけてようやくたどり着いた。どこか傷めたわけではないが、そろそろ歩くのに燃料が切れてきたところでの終点である・・・と思ったのだが・・・・。
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