まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

和歌山2番「青岸渡寺」~神仏霊場巡拝の道・97(那智の滝を拝む)

2024年03月23日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場めぐりの熊野三山詣では熊野那智大社の参詣を終え、隣接する青岸渡寺に入る。隣接といっても、元々は那智の滝を中心とした自然信仰の場として開かれ、神仏習合の考えが広まった平安時代からは那智大社と一体化していたところである。青岸渡寺にも山門があり正しくはそちらから参詣するところだが、毎度こうして那智大社の通用門のようなところから境内に入る。まあ、元々一体化しているのならこうした通用門もなかったはずだが・・。

青岸渡寺の本堂は元々熊野権現における如意輪堂として、安土桃山時代、豊臣秀吉の手により再建されたものである。

明治時代の神仏分離、廃仏毀釈の際、熊野本宮大社、熊野速玉大社にある仏堂はすべて取り壊されたが、熊野那智大社の如意輪堂は、西国三十三所の1番札所であったこともあり、仏像は他に移されたものの、建物だけは残されたという。神仏分離が明けた後、青岸渡寺として復興した。如意輪堂は青岸渡寺の本堂となった。

本堂に上がり、お勤めとする。熊野三山の名所の一つということもあり、この寺はいつも参詣者で賑わっている。

青岸渡寺で思い出すのは、やはり西国三十三所を回り始めた当初の日帰りバスツアー。某旅行会社の企画だが、シリーズの初回ということでツアー料金は安く設定されているが、大阪から延々とバスに揺られ、昼食は車内での弁当、一応、那智の滝には立ち寄ったが那智大社・青岸渡寺の滞在時間もわずかでまたバスに揺られ・・・。

本堂の外陣でお勤めとして、朱印をいただく。西国三十三所の先達用納経軸の青岸渡寺の欄は、西国観音曼荼羅で八角形の札がすべて揃った特典の1巡分も含めてすべて埋まった。私の実家地元にある第5番・葛井寺に次ぐもので、ここまで来ると、この先達用納経軸もコンプリートしたいものだと改めて思う。

本堂の横には三重塔と那智の滝を望むスポットがある。このまま那智の滝まで歩き、滝前のバス停から紀伊勝浦駅に戻ることにする。

さて、帰宅してから記事を書くにあたり青岸渡寺に関する記事をネットで見ていると、神仏分離の際に取り壊された行者堂が、およそ150年ぶりとなる2023年10月に再建、落慶法要が行われたとある。行者堂? それがあるとはまったく気づかなかった。かつては現在の那智大社の境内にあったのが、青岸渡寺の境内に移す形で再建されたという。改めて調べると、本堂から三重塔方面への道の途中の左手にあるようだ。本堂から三重塔へは滝を気にしながら、また途中トイレに立ち寄るなどしており、案内板もあったのかもしれないが、何の気なしに通り過ぎたようだ。

三重塔方面に向かっているとウィーキングツアーらしき人たちとすれ違う。ガイドとともに、普段は立入禁止となっている那智原始林と、その中にある那智の滝の二ノ滝、三ノ滝をめぐるコースだという。

古道の石段を下りて那智の滝、那智大社の別宮にあたる飛瀧神社に向かう。熊野というか、南紀を代表するスポットといえる。滝壺までの落差133メートル、その流れの様は何度見ても新鮮である。熊野三山、熊野古道には昔の信仰文化が現在にも残されるとして世界遺産に認定されているが、那智の滝は、熊野古道の佇まいがどうとか、神社の建物がどうとかいうのを超えて、訪れる人たちを魅了する存在といえる。

それにしても、滝を見ると「この滝を斬れ!」というフレーズが頭によぎってしまう。

参入料を納め、滝を近くに見る舞台に向かう。途中、滝壺の水が流れる龍の口から湧き出る水をいただくことができる。盃とともに、ちょうど空いたペットボトルにも汲んでこの先の道中でありがたくいたたく。

少し近いところで滝を拝む。こうして眺めることができるのは那智の一ノ滝で、この奥に普段立入禁止の二ノ滝、三ノ滝をはじめとした「那智四十八滝」が広がる。四十八というのは必ずしも滝が48本あるということではなく「たくさんある」というくらいの意味だが、この奥には、かつての修験者たちの修行の場であり、花山法皇もここで修行して西国三十三所の再興につなげた歴史がある。

バス停に戻る。ちょうどバスを待つ国内外の旅行者が長い列をなし、やって来たバスは満員となった。

これで今回の目的地であった熊野三山めぐりは終了。この後は長躯、「くろしお」から「のぞみ」を乗り継いで広島までひた走ることに・・・。

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