まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第9回九州西国霊場めぐり~第22番「観世音寺」(有明海を見渡す古刹)

2022年03月27日 | 九州西国霊場

肥前鹿島から1時間近くバスに乗り、終点の竹崎港に到着する。竹崎の港は小ぢんまりしたところだが、周辺には竹崎カニを扱う旅館が何軒か建つ。竹崎カニはワタリガニのブランドで、有明海の干満の差でできる干潟に棲むプランクトンや小動物をエサとしており、風味がよいのだという。

波止場をぶらつく。対岸に薄っすらと見えるのは島原半島、雲仙である。ここまで来たかという感じである。九州西国霊場の札所は島原半島にはないが、何らかの形で訪ねてみたいところだ。

さて観世音寺に向かう。地図を見るとバス停からまっすぐな道が通っていたが、行ってみると石段である。昔ながらの参道ということだろう。上るにつれて寺の風情となり、昔ながらの石仏や石塔も目にする。山門はないものの、そのまま上りきると観世音寺の本堂に出た。

高台から振り返るとちょうど竹崎の港を見下ろす。この日は穏やかな天候で、風も心地よい。

観世音寺の歴史は古く、奈良時代に行基が本尊千手観音を祀って開いたとされる。後に弘法大師空海が唐からの帰りに立ち寄ったことから真言宗の寺となった。鎌倉時代には伽藍が整い、多くの支院を持つようになった。ただ戦国の兵火で多くが消滅、江戸時代に本堂である観音堂が再建された。

また観世音寺では正月に修正会鬼祭が行われ、童子舞というのもあるそうだ。過去の修正会の様子がYouTubeにもアップされていたので見てみる。中世の面影をを留める行事として国の重要無形民俗文化財にも指定されている。

境内には鎌倉時代建立の石造三重塔が残っている。

朱印をいただき、これで今回の第一の目的は達成である。佐賀県は唐津にもう1ヶ所札所があるが

バスの時間までまだあるので、少し歩いて竹崎城跡に行ってみる。竹崎城は南北朝時代、南朝方の懐良親王に味方した有馬泰隆により築かれ、足利方の大軍を打ち破ったと言われている。後に戦国時代には島原の有馬氏と肥前の龍造寺氏の勢力争いの場となり、最後は龍造寺氏のものになった。島原の乱の後に取り壊され、現在は石垣などがわずかに残るばかりだが、城の大きさとしては名護屋城、唐津城、佐嘉(佐賀)城に匹敵するものだったという。竹崎島の位置、地形からしてちょっとした要塞のようである。

現在はこの先に竹崎城跡展望公園というのがある。天守閣を模した展望台があり、開放されている。周囲には菜の花や桜が植えられていて、菜の花は満開、桜もつぼみができている。

ここからの周囲の景色が素晴らしかった。有明海を挟んで右手には雲仙、正面は大牟田・荒尾、左手は佐賀市。また向きを変えると多良岳を中心とした山並みも広がる。しばらくこの展望台のベンチに寝転がって春の風を受ける。朝は身体がだるかったが、少しずつ楽になったように感じる。

この先には「夜燈鼻燈台跡」がある。竹崎沖は有明海にあって佐賀方面と諫早方面の潮の流れが変わるところで、海難事故も多かったという。そこで諫早領により燈台が設けられ、後に観世音寺もその管理に当たることになった。現在は海上保安庁が建てた灯台により管理されているが、竹崎城跡といい、やはりこの辺りの要衝だったことがうかがえる。

1時間あまりの滞在だったが、ゆっくりした時間が送れたように思う。今回はここで折り返しとして、肥前鹿島に戻ることに・・・。

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