午前中から昼にかけて箕面の勝尾寺を参詣後、千里中央に戻る。昼食後に訪ねるのは近畿三十六不動の第8番である不動寺である。千里中央から豊中行きのバスに乗るのだが、系統がいくつかあり、どのバスかなと案内板を見ると、「豊中不動尊」というバス停が目に入った。確か不動寺の案内では最寄りは「宮山」というバス停ではなかったかと思うが、豊中の不動さんだからそういうバス停の名前になったのか、あるいはそこから歩いて行けるのかなと思い、ちょうど停まっていたバスに乗り込む。
駅前の団地群を抜けて住宅街に入ると、「豊中不動尊」のバス停に着いた。目の前に寺の門があるが、ん?どうもホームページ等で見たのとは様子が違う。この時、「豊中不動尊」と「不動寺」が別物であることにようやく気づいた。今振り返ればここで降りて豊中不動尊にもお参りすればよかったかと思うが、その時は「バスを間違えた」という気持ちだけでそのまま座り直し、そのまま住宅街を抜けて豊中駅まで乗った。ちなみにこの豊中不動尊は確かに「豊中のお不動さん」の愛称で親しまれている真言宗単立の寺で、戦後、豊中の駅前に鎮座していたのだが、駅前の市街地整備にともない1963年に現在の島熊山の地に移転したものだという。
片や、目的地である不動寺は、平安時代に弘法大師によって開かれたとされる。修行中、兎我野の地で七色の光を放つ石を見つけ、五輪の宝塔に仕上げ、不動明王の梵字を刻んで祀ったのが始まりという。その後、嵯峨天皇や後鳥羽天皇の勅願寺となり、豊臣秀吉や徳川家の庇護も受けていた。ここで出る兎我野というのは大阪キタの繁華街・・・というか、太融寺と同様のラブホテル街もあるところ。元々は寺町だったということのようだ。不動寺はその地に長く鎮座していたのだが、太平洋戦争での大阪空襲で堂宇がすべて焼失してしまった。戦後に再興されたのだが、寺の周辺がそういう歓楽街になったことで行事もやりにくくなったそうで、1966年に現在の地に移転した。近畿三十六不動霊場が発足したのが1979年のことなので、移転先で札所に選定されたわけだが、それまでの長い歴史が評価された形なのだろう。
豊中駅でバスを乗り換えて、今度は宮山に到着。道路沿いに不動寺への案内の看板もある。完全に住宅地の中、緩やかな上り坂を5分ほど行くと、不動寺の石柱の前に出た。山門もなく開かれた感じで、そのまま境内に入る。
身代わり不動の石像があり、その両側に階段がある。右手の階段を行くと護摩堂がある。こちらは戦後兎我野に再建された護摩堂を移築したものである。
他にも、白鹿神を祀る祠や、弘法大師堂もある。摂津国八十八所の札所にもなっている。その横のスペースは紫橙護摩道場で、毎年11月3日に大護摩供と火渡りの行事が行われるという。
そして本堂に着く。コンクリート造りで、中では法要を行うくらいの広いスペースがありそうだが、一般の参詣者は入口に設けられた祭壇でお参りする。正面の青地の壁に不動明王が描かれている。ご本尊はおそらくその奥の部屋にでも祀られていて、法要など特別な時のみ中に入れるのだろう。
その不動明王の壁画を前にお勤めとして、五大力明王(不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)の真言を唱える。不動明王はともかく、他の4つのカタカナ読みは慣れないので詰まってしまう。
本堂奥の納経所に向かう。こちらはさらに新しい建物である。バインダー式の納経帳に朱印をいただく。その奥にトイレがあるのでお借りしたら、本堂の裏に墓地が広がるのを見る。
その入口に「殉国英霊墓」というのがある。不動寺がまだ兎我野にあった当時、昭和初期からの戦没者の遺骨が外地から帰還した時の一時的な安置所になったことがある。当時の住職は大阪駅や大阪港などに出向いて遺骨を受け取り、不動寺に一時安置した後、遺族が迎えに来たら返還していた。しかし中には迎えのない遺骨もあり、それらは英霊堂に安置して供養していた。大阪の大空襲で寺は消失したが、焼け跡から遺骨を収集し、再び安置所を建てて、大阪大空襲の被災者の遺骨も合わせて納めた。それが現在の英霊墓や英霊堂につながっている。英霊を祀ること(というか、英霊という言葉自体)に対して右翼的なアレルギーを感じる方もいるが、こうした形で命を落とした人たちへの敬意は忘れてはならないと思う。
境内は古刹という感じではないが、祈祷であったりさまざまな行事も行われており、50年も経てば地域に根付いているのかなという印象だった。
さて、ここで次の札所を決めるサイコロである。くじ引きで出たのは、
1.河内長野(明王寺)
2.湖西(葛川明王院)
3.大原(三千院)
4.左京(曼殊院)
5.東山(聖護院、青蓮院、智積院)
6.和歌山(根来寺)
そして出たのは「6」、根来寺である。たくさん札所が残る京都市内より先に和歌山か・・・となれば、この日と同じく西国三十三所2巡目との組み合わせで粉河寺との合わせ技で行くことになるかな。
宮山のバス停に戻る。千里中央に出るか、豊中に出るか迷ったが、後の地下鉄で天王寺まで乗り換えなしで行けることから千里中央に向かうことにする。
バス停の前に理容室があり、大阪理容組合の衛生管理の啓発ポスターが貼られていたのが目に入ったのが、そのモデルがなんとバファローズの若きセットアッパー・山本投手だった。「プロの衛生管理でシャットアウト」「2018オリックスヘアー」(そんなヘア-があるのかな)とあり、こういう形で若い選手が取り上げられるのはうれしいことである。
これで近畿三十六不動めぐりもちょうど半分の18ヶ所を回った。残り半分、どのような展開になるか楽しみである・・・。
駅前の団地群を抜けて住宅街に入ると、「豊中不動尊」のバス停に着いた。目の前に寺の門があるが、ん?どうもホームページ等で見たのとは様子が違う。この時、「豊中不動尊」と「不動寺」が別物であることにようやく気づいた。今振り返ればここで降りて豊中不動尊にもお参りすればよかったかと思うが、その時は「バスを間違えた」という気持ちだけでそのまま座り直し、そのまま住宅街を抜けて豊中駅まで乗った。ちなみにこの豊中不動尊は確かに「豊中のお不動さん」の愛称で親しまれている真言宗単立の寺で、戦後、豊中の駅前に鎮座していたのだが、駅前の市街地整備にともない1963年に現在の島熊山の地に移転したものだという。
片や、目的地である不動寺は、平安時代に弘法大師によって開かれたとされる。修行中、兎我野の地で七色の光を放つ石を見つけ、五輪の宝塔に仕上げ、不動明王の梵字を刻んで祀ったのが始まりという。その後、嵯峨天皇や後鳥羽天皇の勅願寺となり、豊臣秀吉や徳川家の庇護も受けていた。ここで出る兎我野というのは大阪キタの繁華街・・・というか、太融寺と同様のラブホテル街もあるところ。元々は寺町だったということのようだ。不動寺はその地に長く鎮座していたのだが、太平洋戦争での大阪空襲で堂宇がすべて焼失してしまった。戦後に再興されたのだが、寺の周辺がそういう歓楽街になったことで行事もやりにくくなったそうで、1966年に現在の地に移転した。近畿三十六不動霊場が発足したのが1979年のことなので、移転先で札所に選定されたわけだが、それまでの長い歴史が評価された形なのだろう。
豊中駅でバスを乗り換えて、今度は宮山に到着。道路沿いに不動寺への案内の看板もある。完全に住宅地の中、緩やかな上り坂を5分ほど行くと、不動寺の石柱の前に出た。山門もなく開かれた感じで、そのまま境内に入る。
身代わり不動の石像があり、その両側に階段がある。右手の階段を行くと護摩堂がある。こちらは戦後兎我野に再建された護摩堂を移築したものである。
他にも、白鹿神を祀る祠や、弘法大師堂もある。摂津国八十八所の札所にもなっている。その横のスペースは紫橙護摩道場で、毎年11月3日に大護摩供と火渡りの行事が行われるという。
そして本堂に着く。コンクリート造りで、中では法要を行うくらいの広いスペースがありそうだが、一般の参詣者は入口に設けられた祭壇でお参りする。正面の青地の壁に不動明王が描かれている。ご本尊はおそらくその奥の部屋にでも祀られていて、法要など特別な時のみ中に入れるのだろう。
その不動明王の壁画を前にお勤めとして、五大力明王(不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)の真言を唱える。不動明王はともかく、他の4つのカタカナ読みは慣れないので詰まってしまう。
本堂奥の納経所に向かう。こちらはさらに新しい建物である。バインダー式の納経帳に朱印をいただく。その奥にトイレがあるのでお借りしたら、本堂の裏に墓地が広がるのを見る。
その入口に「殉国英霊墓」というのがある。不動寺がまだ兎我野にあった当時、昭和初期からの戦没者の遺骨が外地から帰還した時の一時的な安置所になったことがある。当時の住職は大阪駅や大阪港などに出向いて遺骨を受け取り、不動寺に一時安置した後、遺族が迎えに来たら返還していた。しかし中には迎えのない遺骨もあり、それらは英霊堂に安置して供養していた。大阪の大空襲で寺は消失したが、焼け跡から遺骨を収集し、再び安置所を建てて、大阪大空襲の被災者の遺骨も合わせて納めた。それが現在の英霊墓や英霊堂につながっている。英霊を祀ること(というか、英霊という言葉自体)に対して右翼的なアレルギーを感じる方もいるが、こうした形で命を落とした人たちへの敬意は忘れてはならないと思う。
境内は古刹という感じではないが、祈祷であったりさまざまな行事も行われており、50年も経てば地域に根付いているのかなという印象だった。
さて、ここで次の札所を決めるサイコロである。くじ引きで出たのは、
1.河内長野(明王寺)
2.湖西(葛川明王院)
3.大原(三千院)
4.左京(曼殊院)
5.東山(聖護院、青蓮院、智積院)
6.和歌山(根来寺)
そして出たのは「6」、根来寺である。たくさん札所が残る京都市内より先に和歌山か・・・となれば、この日と同じく西国三十三所2巡目との組み合わせで粉河寺との合わせ技で行くことになるかな。
宮山のバス停に戻る。千里中央に出るか、豊中に出るか迷ったが、後の地下鉄で天王寺まで乗り換えなしで行けることから千里中央に向かうことにする。
バス停の前に理容室があり、大阪理容組合の衛生管理の啓発ポスターが貼られていたのが目に入ったのが、そのモデルがなんとバファローズの若きセットアッパー・山本投手だった。「プロの衛生管理でシャットアウト」「2018オリックスヘアー」(そんなヘア-があるのかな)とあり、こういう形で若い選手が取り上げられるのはうれしいことである。
これで近畿三十六不動めぐりもちょうど半分の18ヶ所を回った。残り半分、どのような展開になるか楽しみである・・・。