前回語った歌劇<メフィストフェレ>から、最後のレをしりとりして今回は、フィンランドの作曲家レーヴィ・マデトヤの作品を一つ取り上げてみたい。彼の代表作と言ってもよいであろう、歌劇<ポホヤの人々>である。これは知名度こそ低いものの、大変に充実した傑作歌劇である。(※この作品のタイトルは、<オストロボトゥニアの人々(Ostrobothunians)>と表記されることもあるが、それは同じ対象をノルウェー側から呼ぶ言い方とのことで、フィンランドの側からはポホヤという呼称になるらしい。当ブログでは、作曲家マデトヤに敬意を表して、フィンランド側からの表記を採用。)
国内盤のCDには、「フィンランド国民歌劇」みたいな言葉が添えられているが、この国民歌劇という言葉はなかなかに奥の深い用語である。そのあたりも意識して、今回はオペラの筋書きを追う形は取らずに、「当作品が、どんな風にツボを抑えて書かれているか」という点に目を向けてみたいと思う。
1.民謡を素材としたライトモチーフの活用
第1幕でアンッティが登場する時に歌う「白樺の梢をたわめたのは風」という歌の旋律は、歌劇の中では「囚人の歌」と呼ばれる重要な動機として、随所で活用される。この印象的な旋律は、第1幕の序奏としても重々しく奏され、聴く者に良い作品の始まりを予感させる。同様にアンッティの婚約者マイヤが歌う「その晩は暗く」も、一種のライトモチーフとして使われている。この種の民謡素材の活用というのは、国民意識に訴える有効な手法の一つと言えるものだ。
2.英雄的な主人公と、彼を慕う女性の愛
主人公のユッシはテノールではなくバリトンで、しかも後述する悪役のバリトンよりもさらに太くロブストな声で歌われる。これはちょっと珍しいパターンだ。そして彼を慕う女性リーサとの愛の場面も、しっかり用意されている。第2幕の中だが、二人が追いかけっこをした後に見つめあう場面は、ちょっと気恥ずかしくなるくらい“お約束”どおりにやってくれる。それと、名うての悪漢と男同士の決闘をするシーンなどもあって、主人公の逞しさとかカッコよさみたいなものも効果的に描かれている。
3.悲劇の根源となるバリトンの悪役
この作品では、ポホヤの地を治める郡判事がそれに当たる。<トスカ>のスカルピアや、<ジョコンダ>のバルナバほどの強烈さはないが、この人の存在がドラマの大事な原動力である。彼がなぜ悪者かと言えば、根はまっすぐだが気性の荒いポホヤの人々を治めるために、法令を自分流に勝手に解釈して濫用したり、口答えする者を牛馬の如くムチ打ったりするという、いわゆる暴政を敷いたことがその原因である。
4.おどけたキャラによるスケルツォ
ただ悲劇だけが進行するよりは、やはりどこかにエンタメ要素もあった方が、オペラ作品としてはさらに充実する。この作品の場合、おとぼけキャラのカーッポと酔っ払いのサルットゥの、第1幕でのヘロヘロ騒ぎがそれに当たる。ただし、それを野放図な乱痴気騒ぎにせず、曲全体の造型を逸脱しない範囲でまとめているのがマデトヤ流の身だしなみ、といったところだろうか。
5.主人公の死
主人公ユッシはとにかく、逞しい。自分にかけられた手錠の鎖を怒りのエネルギーをもって力ずくで引きちぎり、郡判事に銃弾を撃ち込まれながらも突進し、その胸にナイフを突き刺して殺す。その後、愛するリーサの前で床にくず折れて絶命する。亡骸を彼女が涙にくれながら優しく抱きかかえて、幕となる。やはり、英雄的な主人公が最後に死んでこそドラマになる。ユッシが郡判事と刺し違えるラスト・シーンは、ドタドタと盛り上がって結構な迫力がある。
上記5点のうち、2、3、4については、ごく一般的なオペラ書法のポイントと見なしてよいと思う。しかし1と5については、往々にして政治的なニュアンスを伴う国民歌劇の書法として、より重要な意味合いを持つもののように見える。ここでは詳しく語る余裕がないが、国民歌劇なるものは、《政治的に不安定な国が、対外的には自国の文化を認知させ、国内的には国民の同胞意識を高めるために、政治的な意味合いを持って書かれるオペラ》という面を持つものだ。(※岡田暁生著・『オペラの運命』・中公新書~132ページの文章を一部引用)
その定義からすれば、このオペラの中でフィンランド民謡の素材が活用されていることは、国民歌劇に求められる一番の基本要素が満たされていることをまず意味する。また、この作品が書かれた状況などの詳しい背景はわからないので確信を持ったことは言えないが、主人公ユッシが最期に言い残す「俺たちは、自由なんだ」というセリフに、ある種の政治的メッセージ性を読み取ることも可能であるように思われる。と言うのは、彼は別に国家的英雄でも何でもない市井(しせい)の人なのだが、その行動と言動を通して、国民意識を高揚させるような存在になり得ているからである。
(PS)マデトヤの交響曲について
ついでと言ってはなんだが、マデトヤの3つの交響曲についても今回少しだけ触れておきたい。尤も、私はいわゆる北欧音楽マニアではないので、ごく表面的なことしか書けない。そのあたりは、ご容赦いただきたいと思う。
3曲を見渡した大雑把な印象から先に言えば、<第1番>(1916年)と<第2番>(1918年)には親近性があり、<第3番>(1926年)のみちょっと毛色が変わったものになっているという感じだ。第1、2番とも、第1楽章の設計がよく似ている。まず<第1番>の第1楽章では、活気ある開始部のテーマと、ラフマニノフ風の抒情的旋律が交互に出てくる。<第2番>の第1楽章でも、木管と弦による牧歌的なメロディと、力強いテーマとがやはり交互に出てくる。そして、いずれにも共通するのが、力強い部分でも抑制が効いてかなり控えめに鳴っているということである。(※録音のとり方も、関係しているかも知れないが。)
<第1番>の第2楽章は、第1楽章で聴かれたラフマニノフ風の旋律を土台にしたレント・ミステリオーゾだが、最後のコーダが深く物思いに沈むような音楽で素晴らしい。私個人的には、<第1番>ではこの部分が一番好きである。最後の第3楽章では師匠シベリウスを思わせる響きが聞かれる。特に、弦のさざめきと木管の響き。
<第2番>では、第1楽章冒頭にいきなり出てくる牧歌的なテーマがなかなかに魅力的だが、第2楽章の冒頭と結尾部で聞かれる「オウルンサロの羊飼いの笛」がさらに印象的だ。オウルンサロというのは、マデトヤがこの曲の作曲をしていた場所の名前だそうである。この第2楽章も、終わりにさしかかるとやはり何となくシベリウス的な音が顔を出してくる。
そんな感じで、<第1番>と<第2番>はかなり近い座標にいるのだが、<第3番>は近代フランス音楽の影響が現れているとのことで、かなり賑やか。と言っても、あくまで節度あるマデトヤ音楽の範囲内での賑やかさという印象である。<第3番>に於いては、彼の師匠であったシベリウスの響きはもうほとんど聞かれなくなっている。
国内盤のCDには、「フィンランド国民歌劇」みたいな言葉が添えられているが、この国民歌劇という言葉はなかなかに奥の深い用語である。そのあたりも意識して、今回はオペラの筋書きを追う形は取らずに、「当作品が、どんな風にツボを抑えて書かれているか」という点に目を向けてみたいと思う。
1.民謡を素材としたライトモチーフの活用
第1幕でアンッティが登場する時に歌う「白樺の梢をたわめたのは風」という歌の旋律は、歌劇の中では「囚人の歌」と呼ばれる重要な動機として、随所で活用される。この印象的な旋律は、第1幕の序奏としても重々しく奏され、聴く者に良い作品の始まりを予感させる。同様にアンッティの婚約者マイヤが歌う「その晩は暗く」も、一種のライトモチーフとして使われている。この種の民謡素材の活用というのは、国民意識に訴える有効な手法の一つと言えるものだ。
2.英雄的な主人公と、彼を慕う女性の愛
主人公のユッシはテノールではなくバリトンで、しかも後述する悪役のバリトンよりもさらに太くロブストな声で歌われる。これはちょっと珍しいパターンだ。そして彼を慕う女性リーサとの愛の場面も、しっかり用意されている。第2幕の中だが、二人が追いかけっこをした後に見つめあう場面は、ちょっと気恥ずかしくなるくらい“お約束”どおりにやってくれる。それと、名うての悪漢と男同士の決闘をするシーンなどもあって、主人公の逞しさとかカッコよさみたいなものも効果的に描かれている。
3.悲劇の根源となるバリトンの悪役
この作品では、ポホヤの地を治める郡判事がそれに当たる。<トスカ>のスカルピアや、<ジョコンダ>のバルナバほどの強烈さはないが、この人の存在がドラマの大事な原動力である。彼がなぜ悪者かと言えば、根はまっすぐだが気性の荒いポホヤの人々を治めるために、法令を自分流に勝手に解釈して濫用したり、口答えする者を牛馬の如くムチ打ったりするという、いわゆる暴政を敷いたことがその原因である。
4.おどけたキャラによるスケルツォ
ただ悲劇だけが進行するよりは、やはりどこかにエンタメ要素もあった方が、オペラ作品としてはさらに充実する。この作品の場合、おとぼけキャラのカーッポと酔っ払いのサルットゥの、第1幕でのヘロヘロ騒ぎがそれに当たる。ただし、それを野放図な乱痴気騒ぎにせず、曲全体の造型を逸脱しない範囲でまとめているのがマデトヤ流の身だしなみ、といったところだろうか。
5.主人公の死
主人公ユッシはとにかく、逞しい。自分にかけられた手錠の鎖を怒りのエネルギーをもって力ずくで引きちぎり、郡判事に銃弾を撃ち込まれながらも突進し、その胸にナイフを突き刺して殺す。その後、愛するリーサの前で床にくず折れて絶命する。亡骸を彼女が涙にくれながら優しく抱きかかえて、幕となる。やはり、英雄的な主人公が最後に死んでこそドラマになる。ユッシが郡判事と刺し違えるラスト・シーンは、ドタドタと盛り上がって結構な迫力がある。
上記5点のうち、2、3、4については、ごく一般的なオペラ書法のポイントと見なしてよいと思う。しかし1と5については、往々にして政治的なニュアンスを伴う国民歌劇の書法として、より重要な意味合いを持つもののように見える。ここでは詳しく語る余裕がないが、国民歌劇なるものは、《政治的に不安定な国が、対外的には自国の文化を認知させ、国内的には国民の同胞意識を高めるために、政治的な意味合いを持って書かれるオペラ》という面を持つものだ。(※岡田暁生著・『オペラの運命』・中公新書~132ページの文章を一部引用)
その定義からすれば、このオペラの中でフィンランド民謡の素材が活用されていることは、国民歌劇に求められる一番の基本要素が満たされていることをまず意味する。また、この作品が書かれた状況などの詳しい背景はわからないので確信を持ったことは言えないが、主人公ユッシが最期に言い残す「俺たちは、自由なんだ」というセリフに、ある種の政治的メッセージ性を読み取ることも可能であるように思われる。と言うのは、彼は別に国家的英雄でも何でもない市井(しせい)の人なのだが、その行動と言動を通して、国民意識を高揚させるような存在になり得ているからである。
(PS)マデトヤの交響曲について
ついでと言ってはなんだが、マデトヤの3つの交響曲についても今回少しだけ触れておきたい。尤も、私はいわゆる北欧音楽マニアではないので、ごく表面的なことしか書けない。そのあたりは、ご容赦いただきたいと思う。
3曲を見渡した大雑把な印象から先に言えば、<第1番>(1916年)と<第2番>(1918年)には親近性があり、<第3番>(1926年)のみちょっと毛色が変わったものになっているという感じだ。第1、2番とも、第1楽章の設計がよく似ている。まず<第1番>の第1楽章では、活気ある開始部のテーマと、ラフマニノフ風の抒情的旋律が交互に出てくる。<第2番>の第1楽章でも、木管と弦による牧歌的なメロディと、力強いテーマとがやはり交互に出てくる。そして、いずれにも共通するのが、力強い部分でも抑制が効いてかなり控えめに鳴っているということである。(※録音のとり方も、関係しているかも知れないが。)
<第1番>の第2楽章は、第1楽章で聴かれたラフマニノフ風の旋律を土台にしたレント・ミステリオーゾだが、最後のコーダが深く物思いに沈むような音楽で素晴らしい。私個人的には、<第1番>ではこの部分が一番好きである。最後の第3楽章では師匠シベリウスを思わせる響きが聞かれる。特に、弦のさざめきと木管の響き。
<第2番>では、第1楽章冒頭にいきなり出てくる牧歌的なテーマがなかなかに魅力的だが、第2楽章の冒頭と結尾部で聞かれる「オウルンサロの羊飼いの笛」がさらに印象的だ。オウルンサロというのは、マデトヤがこの曲の作曲をしていた場所の名前だそうである。この第2楽章も、終わりにさしかかるとやはり何となくシベリウス的な音が顔を出してくる。
そんな感じで、<第1番>と<第2番>はかなり近い座標にいるのだが、<第3番>は近代フランス音楽の影響が現れているとのことで、かなり賑やか。と言っても、あくまで節度あるマデトヤ音楽の範囲内での賑やかさという印象である。<第3番>に於いては、彼の師匠であったシベリウスの響きはもうほとんど聞かれなくなっている。